根
私は、それを運命だと思った。
『そなた、生きておるのか?』
突然の事故だった。
大型トラックが青信号を渡っていた自分に突っ込んできた。私の身体は宙に浮き、地面に叩きつけられた。覚えているのは、その強烈な痛みだけ。私の意識は失われ、次に目覚めた時にはこの世界にいた。
すべてが見慣れぬ風景で、山奥の田舎のようなのどかな田園が広がっていたが、さすがの田舎でも空を這うように伸びる電線がない。車もなければ、自分を不思議そうに見つめてくる人々が着ているものも明らかに違う。自分がいつも文献の図で見るような、そんな大昔の服だった。
タイムスリップ、というのだろうかとぼんやりと思う。あまりの信じられぬ出来事に思考がついてゆかず、小説の読み過ぎだ、きっとまだ病院のベッドで見ている夢なのだろうと勝手に思い込もうとした。だが、肌で感じる空気や水の冷たさ、人々のぬくもりが、夢にしてはあまりにも現実味を帯びていて、私は咄嗟に人々から逃れるように道から外れ、山の中へと逃げてしまった。その後ろで人々が何かを叫んでいたような気がするが、もはやその声は私の耳に入ることはなかった。
わけもわからず必死に自分が見知ったものを探そうと森を彷徨う私に、案の定盗賊が目をつけた。先ほどの人々が叫んでいたのはこのことだったのかと気づいても、今さら遅い。身を守るための武器もなく護身術も知らぬただの大学教授が筋骨隆々の盗賊たちに敵うはずもない。なぜ自分がここにいるのか、事故に遭って死んだはずではなかったのか、そんな答えも出ぬ問いが頭の中でぐるぐると回り、剣が翻っても私は避けることすらできなかった。
嗚呼、死ぬのだと思った。もう一度死ねば、このわけもわからぬ場所から解放されるに違いない。私が最後に思ったのはそんなことだった。だが、剣は私に下ろされることはなかった。急に黒い影が横から飛び出てきて、その勢いに呆気に取られながら尻餅をつく。そして私が口を開けて眺めている間に、男は盗賊たちを伸してゆき、子どもと戯れるかのように簡単に縄にかけていった。すべてが終わると男はこちらを振り返り、太陽のような鮮やかさでにかっと笑った。こんな男が正義のヒーローと呼ばれるに違いないと、私は妙に納得してしまった。
偶然にも趙佶に命を救われた私は、それから心配そうに待っていた人々の許に戻った。森に入ったきり戻ってこぬ私を、最近この辺りを根城にしている盗賊に襲われたのではないかと心配して、領主であり、ちょうど見回りにきていた趙佶に私を頼んでくれたらしい。見知らぬ私をそこまで気にかけてくれた人々に、あの時代ではついぞ知ることのなかった人の温かみというものを感じて、私はやっと己の身に起きたことを受け入れられたのだと思う。
その後、親切な人々に助けられ、私はなんとかこの世界で生きてゆくことができた。大した取り柄もない私は、恩返しのつもりで趙佶に歴史を教えるようになり、田舎武人に過ぎなかった趙佶はめきめきと頭角を現していった。知識以外何も持っていなかったはずの私は趙佶の軍師に取り立てられ、かつて取るに足らぬどこにでもいるような教授の一人でしかなかった私は、いつの間にか人々から尊敬を集める人間になっていった。
趙佶が変わったのはその頃からで、常ならば知ることのない人の行く末というものを知ってしまったからなのかもしれぬと、ずっとそう思っていた。
趙佶は人が変わったように笑わなくなった。初めて趙佶を知った時に見た、あの太陽のような笑みは、私が歴史を教え、趙佶がさらに名声を上げてゆくほどに消えていった。なぜと問うこともできず、理由を知ることもないまま趙佶は変わってゆき、それと共に私に対する声も変わっていった。その頃からだったろうか、私が『死の軍師』と呼ばれるようになったのは。
己が望むことと、趙佶が望むこととの隔たりは広がっていった。命令は次第に過激になってゆくが、趙佶は常に怯えたような態度を取るため、私が命令して行わせているのだと人々は誤解した。親切にしてくれていた人々は去り、私の手元に残ったのは望みもせぬ悪評だけだった。もし、この時に違う行動を取っていれば、今とは違う結果になっていたのだろうかと思う。だが、過ぎた過去はどうしようもなく、私は運命という掌の上で転がされていただけであったのだ。
ある時、私は趙佶に命じられて、地方の一部族の制圧に向かっていた。その頃には、『死の軍師』という名から逃れられぬところまでいっていた。元の時代に帰る当てもなく、趙佶の許から離れても一人で生きてゆくすべもない私は日々鬱々とした思いを引き摺っていた。
すぐに終わるだろうと思っていた制圧は、思わぬ抵抗を受け想像以上の被害を被った。高だか一部族の反乱だと思い、少人数しか兵を連れてきていなかったため、私自らも戦陣に降り、剣を手に取った。だが、私は今まで軍師として高みの見物を決め込んでいただけであり、実際の戦闘に加わることは数回しかなかった。そんな私が戦場で満足に戦えるはずもなく、私は矢傷を負い、命からがら近くの川辺に逃げ込んだ。
敵の矢には周到なことに毒が塗られており、全身が麻痺し呼吸をすることすらすぐに苦しくなった。誰もが目の前の敵に手一杯のため、部下たちも自分をすぐに見つけることはできぬだろう。それに見つけたとしても、解毒剤など誰も持っていない。
私は川辺に力なく横たわった。一度死を体験した私にとって、死は恐れるものではない。むしろ、これで逃れられると思った。『死の軍師』という名や変わってしまった趙佶から。瞳を閉じて、最後の息を吐く。もう二度と青い空を見ることはないと思って。
だが、その時だった。あの声が聞こえたのは。
「そなた、生きておるのか?」
鈴が鳴るような美しい声だった。戦場に似合わぬ可憐で天の御遣いのようなどこまでも澄んだ声。
「口も聞けぬか……仕方ない」
美しい声に反して、面倒臭そうにその人は言葉を紡ぐ。
だが、次に自分の身に起きた出来事に、私は言葉を失う思いだった。その人が遠慮なく触れた矢傷から穏やかな熱が広がってゆく。それは全身を包み、夢の中にいるようなそんな幸福感が私を抱く。
「ほれ、これで身体を動かすことができるであろう」
離れた熱が名残惜しくて、思わずその手を掴んでいた。そして、そんな自分に驚く。
先ほどまで指一本すら動かすことができなかった痛みや、矢が貫通した傷も嘘のように消えていた。信じられぬ思いでその人を見れば、私は一瞬にして心を奪われた。
「……あなたは、仙女なのですか……?」
目にも眩しい白い衣で身を包んだその姿は、月に住むという嫦娥そのもの。
抜けるような白い肌、宝石のような輝きを放つ黒い瞳、流れるような豊かな黒髪。そのどれを取っても人間とは思えぬ美しさで、私は今までこれほどまでに美しい女性を見たことなどなかった。
「私が仙女? 何を馬鹿なことを言っておるのだ」
面白いことを聞いたとでも言うように、その人は屈託なく笑った。その笑顔は見た目の神々しさとは違って酷く人間臭く、その違いに私はその人にどうしようもなく惹かれてしまった。
「もう、行かれるのですか……?」
一頻り笑ったその人は、もう用が済んだといわんばかりに立ち上がった。私を振り返り、再び微笑む。
「もう傷は癒えている。なれば、もう用はない。私には行くべきところがあるのでな」
「待ってください! せめて、名を教えてください!」
だが、その人はひらひらと手を振り、そのまま忽然と姿を消してしまった。
取り残された私は、その人の残像を少しでも脳裏から消すことが忍びなくて、そこから動くことができずにいた。後から私を探し回っていた部下が見つけるまで、私は魂が抜けてしまったかのようにずっとそうしていたらしい。その後、部族をなんとか平定し、趙佶の下に帰った後も、私はその人を忘れることができずにいた。
そんな時だった。戦陣に現れた白き衣をまとう女の噂を聞いたのは。
想像を絶するほどの美貌で、不思議な力を操ると聞いたときに、その人だと私は確信した。すぐにでも会いにゆき、できることならその人を迎え入れたいと思ったが、その人はすでに己の在る場所を決めていた。宋鴻を唯一の主と決め、自分とは敵対する運命であると知った。行くべきところがあると言っていたのは、これのことだったと理解するのは容易い。
そして再びの再会を果たしたとき、その人は私のことを微塵も覚えてはいなかった。
ただの気まぐれで、その人にとって私を癒すことなど怪我をした鳥を癒してやるのと同じ、取るに足らぬ出来事だったと思い知らされる。なんと残酷な現実かと絶望するが、運命がもたらしたその残酷は一つだけでは済まなかった。
――その人の運命を、その人が辿るであろう歴史を、私は知っていた。
『白妙の羅刹』という、この時代の揺籃期に人々を奈落の恐怖に突き落とした伝説上の殺人鬼。『羅刹事件』を始めとした大量殺人に加え、数々の悪行の限りを尽くした美しき女陰陽師。それがその人、紫苑であった。あんな天女のように美しい人がそんなことをするはずがないと思いながらも、私の心を揺さぶったのはもう一つの伝承だった。
死に装束の白き衣をまとう美しき鬼神、『白妙の羅刹』の心を唯一射止めたと云われる男の生涯である。
「紹介しよう、この者が鴛青だ」
目の前に現れた精悍な顔つきをした青年を見る。自分よりも若く、力強い美しさを湛えた彼は、想像していたよりも心を抉った。
超人的な武術の腕前に加え、誰ともすぐに打ち解ける朗らかな性格。まるで、太陽のようだと思った。氷に似た冷たさを宿す、あの人の心を溶かしてしまうような。それは鴛青と接すれば接するほどにむざむざと思い知らされ、私は嫉妬に狂った。
紫苑を襲ったあの夜、鴛青の前で紫苑の唇を奪ったのはその嫉妬が限界に達したからだった。狂おしいほどに想いを寄せる相手が、他の男の衣を着ていれば誰だっておかしくなる。だが、その行為はただ虚しさを加速させただけだった。紫苑が鴛青を庇うために、その身を投げ出すのを目の前で見せつけられればなお。
私は初めてこんな感情を知った。どろどろに渦巻き、それでも断ち切れぬ――恋情というものを。
鴛青の鍛えられた腕があの人を抱き、その切れ長の瞳にあの人を映し、色気すら感じる薄い唇で愛を囁くのだろうか。想像するだけで身の毛もよだつが、仙女の心を射止める者として、鴛青は文句なしに相応しい。
私は鴛青が羨ましくて羨ましくて、憎悪に目が眩んだ。なぜあの人の相手が私ではなく、鴛青なのか。運命に導かれた、たったそれだけでなぜあの人に触れることができるのか。私は狂おしいまでの恋情に身を焦がしても、あの人に手が届かぬというのに。
私は、それを無情だと思った。
*
「紫!! 大丈夫か!!」
飛び出してきた鴛青に、強引に腕を引かれて現実に戻る。
「血ではないか……!! どこを刺されたのだ?!」
「違う……私では、ない……」
「では、この血は……」
その時、どさっと何かが崩れ落ちる音がした。呆然と振り返ると、高蓮が糸の切れた人形のようにぐしゃりと潰れて転がっていた。
「高蓮、なにゆえ……私を……」
鴛青の手を離れて、高蓮の傍に膝をつく。乱暴に高蓮の身体を反転させようとしたが、背中から流れる血に息を呑んだ。
「これしきの、傷……なんでも、ありません……あなたを……失うことに、比べたら」
苦しげに言葉を紡ぐ高蓮の口元から、血がとめどなく流れ落ちる。それでも、高蓮は穏やかな微笑みを私に向けていた。
「そなた、なにゆえ私を助けた?! それに……」
『私の、仙女……』
あの瞬間、高蓮は確かにそう告げた。仙女とは……
「『あなたは、仙女なのですか?』」
高蓮が愛おしみながら呟いた言葉に、瞬間的に影がよぎる。
私がこの世界に来たあの日、羅人の手違いで変なところに飛ばされて、ちょうど見つけた川で喉を潤そうと川に近づいたとき――なぜ、私はそんな重要なことを忘れていたのか――
「まさか……そなた、あの時の……」
「やっと……思い出して、くれました、ね……」
心底嬉しそうな笑みを浮かべて、高蓮は私の頬に手を伸ばした。
「あの日から……ずっと、私は……あなたを、勝手に……お慕いして、おりました……ようやく、この……苦しい恋の……終わる時が、来たようです」
伝承を繰り返すように紫苑と鴛青が出会い、愛を交わすのを、高蓮はただ見ていた。自分はそこに入ることすら許されぬ傍観者のように。
すべてをめちゃくちゃに壊してしまえるのなら、そうしてしまいたかった。自分の心を奪っておきながら、記憶にすら留めておらぬ残酷な紫苑の、たった一つの安らぎを奪ってしまえたらいいと。だが、結局最後までそれができなかったのも、やはり恋情ゆえだった。
その恋情に焦がされた今日までの日々より、苦しかったものはない。あの日に置き去りにされたままの心が磨り減ってゆく音だけをただひたすらに聞き続けた、そんな日々だった。
「それでも……不思議と、悔いは……ありません。こうして……最後の最後、に……あなたの心に……私という傷を……負わせること、が……できたのです、から……」
高蓮の手についていた血が、紫苑の頬を赤く染めていた。それすらも高蓮にとっては無上の喜びであった。仙女のように神々しいその肌を自分は蹂躙している。血という私自身の命の結晶で。
「高蓮……!! そなた何、寝言を言っておる!! 言いたいことだけ言って格好つけて死ぬつもりか! 私は絶対許さぬぞ!!」
傷に伸びようとした手を掴んで制止する。
あの温かい熱を知ることができるのなら、もう一度知りたい。だが、一度知ったからこそわかる。あの熱は紫苑の命そのもの。ただでさえ、力を使い過ぎて身も心も疲れ切っている紫苑からこれ以上命を奪うことはできない。それに――
「……まだ……すべては、終わって……いません」
「紫! 伏せろ!」
ばらばらと矢に似た鋭い塊がどこからか降ってくるのを鴛青と鴉で防ぐ。高蓮を膝に抱いたまま顔を上げれば、そこに死んだはずの人物が今まで見たこともない人を馬鹿にした表情で、嘲笑っていた。
*
「……ついに、時は満ちた」
闇ばかりの空間に浮かび上がるは、複雑に絡み合った陣形。世界を縦横無尽に走る光の道だ。
「これが、紫苑が構築してきた術式か……確かに、綻びかけた『誓い』を一気に完全修復するには、最も効果的で手っ取り早い。だが……それはすなわち、私にも好都合であるということ」
小刀で指先に小さな傷を作る。ぷくりと膨れ上がった血の塊を見て唇を歪めると、手を翻し光の道に一滴だけ垂らす。すると、見る間に白光がどす黒い赤へと変貌していった。
「自らは血に染まった身であるというのに、白は似つかわしくない。……くくっ、すでに蝕まれた身体が私の血と交われば、どうなるか……それでも、お前は聖者のように笑っていられるかな」
不気味な高笑いがその場に響く。それはまるで地獄のおぞましい怪物のような残酷さを伴っていた。
ぼうっと空間の隅に影が現れる。強烈な腐臭にも男は眉一つ歪めることなく、それに笑いかけた。
「小梅、お前の出番だ。お前の主を殺した紫苑に血を見せてやれ」
夜叉は腐肉を撒き散らしながら雄叫びを上げ、再び姿を消した。狭い空間に反響したその叫びは不吉としかいいようがなかったが、男の表情は愉悦に占められていた。
「ついに、だ……どれほどこの時を待ったか……今日ですべてが終わる」
気が狂うほどの年月、それだけの時を自分は待った、屈辱に耐えてきた。――すべては、今日この時のために。
「静羅人……やっと、あなたを越す時が来た」
男は手に持っていた小刀を陣形の中央に突き立てた。
いつのことだったか、思い出すことすら厭わしい。
酷く淀んだ空気ばかりが蔓延した世界であった。これがあの人が作り上げた世界なのかと嘲笑ったが、そんなものは気休めにもならなかった。
この世界に生れ落ちた時から、何か忘れているような気がしていた。とてつもなく暗く闇に塗れた、思い出せばさらなる苦しみに引き摺り込まれることがわかっていても、思い出さずにはいられない、そんな何か。悶々とした日々を過ごし、三十を間近に控えた頃、その時は唐突に訪れた。
目の前を歩くのはごく平凡な男だった。穏やかなそうな面差しの人に害するような要素を一切持ち合わさぬような、自分とは正反対の男。だが、その男と目が合った瞬間、これまでのすべての世界が変わった。
そして、思い出す。己がこの世界に再び生を受けた意味を。
*
「やはり、趙佶様か!」
私の目の前で剣を構えていた鴛青が、今までにないほど怒気を孕んで唸った。まるで血に飢えた野生の獣のように、興奮が絶頂に達そうとしている。
「紫苑に指一本でも触れてみろ。容赦は……」
「――鴛青、下がっていろ」
「――鴛青、下がっていろ」
驚いたのは一瞬だった。だが、今あるのは怒りだけだ。
「紫苑、何を言って……」
「下がれ!」
鴛青に対して、こんなにも大声で叫んだことはない。その剣幕に驚きながらも、それでも鴛青が下がろうとしなかったのには、負い目があるのだろう。
「……阿呆か。そなたの秘め事が暴けぬ私だとでも思うたか」
鴛青の顔色が一瞬にして青褪めて、唇を震えさせた。そうまで隠し通そうとしたかった事実なのであろうが、私の前でそれは無意味であることを知らぬ鴛青でもあるまいに。
「紫、苑……すまぬ……私は……」
「別によい。私もそなたを利用していたゆえ、あいこだ。我が君を狙うたのだけは許さぬがな」
「り、利用……?」
戸惑った鴛青とは反対に、高蓮は呆れるように笑った。
「あなたは……本当に、酷い女ですね。愛する、男……まで、使いますか……普通」
「そなたにだけは言われとうないわ、高蓮。そなたこそ、鴛青を泳がせて情報を得ようとしていた癖に」
「ちょっと待て! 利用するに、泳がせるって……高蓮様はともかく、まさか紫苑もすべて知って……?」
「ゆえに、阿呆といっている。私を騙そうなんぞ百年早いわ」
動揺する鴛青は見ていて面白かったが、からかうのはすべてが終わった後だった。高蓮の身体を少し起こしてやりながら、血を止めるために呪符を傷に押し込める。
「なにゆえ気づいた?」
途端に色を失くした声音に、鴛青の顔が一瞬にして引きしまった。今がどんな状況であるのかを思い出したらしい。
「……前々からおかしいとは思っていた。紫苑はいつも高蓮様こそが敵であるように言っていたし、あの夜のように高蓮様も紫苑を襲おうとした……だが、高蓮様の言葉が誠ならば紫苑を殺すことは本意ではないはず。だが趙佶様は、私が紫苑の護衛になる意味は紫苑を殺せと高蓮様から進言受けたためだと言った。――相反する命令。それが、不審の始まりだった」
「私が……違和感を、感じたのは……小梅の、存在です。……本来小梅が、存在する、歴史はない……私ですら知り得ぬ……あなたではないのなら……あれを、操る……もう一人の、人物がいる、ということ……」
――もう一人の、人物。
以前から、高蓮以外の敵の気配に気づいてはいたが、やはりというべきなのか。
相当の注意深さで、今まで片鱗すら見せなかった影。いつからか鴛青のものではないそれが残り香のように残っていることに気づいてからは、気配を悟られぬよう式神で跡を追わせたり、千里眼で追跡したりもしたがいずれも効果はなかった。
目の前に立つ趙佶をもう一度見る。私や羅人、鴉さえにも気づかれず存在し、暗躍し続けたこの男。今までの不可解な出来事はすべてこの男に拠るものだとすれば、その力は驚異的なものに間違いない。
「……白妙の羅刹よ、初めてお目にかかる。何度傷を負い、返り血を浴びてもなお、凛と立ち続けるその姿……誠に美しい」
もったいぶるように口を開いた趙佶は、まるで馬鹿にするように私の全身を検分した。警戒するように鴛青が剣を握り直す。
「鴛青、よく気づいたな。高蓮にはいずれ正体が知れるだろうとは思っていたが、まさかお前にまで見抜かれるとは思っていなかった」
「私を甘く見てもらっては困る……上手に化けていたつもりだろうが、お前の何気ない癖が抜け切れていなかった」
「癖?」
「煙を追って、虚空を見ていた」
「……なるほど、私もまだまだということか」
やれやれと肩を上げた趙佶は、今までのそれとは別人であった。常におどおどと頼りなさげな態度をしていた気弱な男はどこにもない。そこにいるのは、自信に満ち溢れた底の知れぬ男だった。
「騙しおおせると思っていたが……予想が外れたか。まあ、いい……高蓮が羅刹を愛したことに比べればなんでもないことだ」
「ふん……それを、利用して……私に、鴛青を殺させようと……した癖に」
「嫉妬ほど、人を操るに楽な感情はないだろう? だが、結局お前は殺らなかった。それも愛か? まったく――反吐が出る」
「いつまで化けの皮を被っているつもりだ? ……のう、趙佶を食い殺した銀髪の鬼よ」
鴛青が飛びかかってゆかぬように押さえてから、挑発じみた嘲笑を浮かべる。そんなものは無意味だと知っていたが、本性を知るためには少しでも手がかりが欲しい。だが、趙佶の姿容をしたその男は自ら化けの皮を破った。
「……羅刹よ。その美しさに免じて、私の真の姿を見せてやろう」
男が腕を広げた瞬間、どんと地面が揺れた。時空が歪み、立っていることすら困難な重力が全身にかかる。凄まじい力が奔流となって押し寄せ、ちっぽけな存在でしかない人間を呑み込もうとする、それはまるで巨大な大蛇のように。
その流れの中心にいる男に私は我が目を疑った。
「まさか……そんなはずは」
「父上には死んだあの日から、会っておらぬが息災であったか? 嗚呼、そうか。今度こそ完全に死んだのであったな」
男の冠が風に飛び、まとめられていた黒髪が解かれる。風になびいたそれは、毛先から順に銀に色を変え、腰にまで届きそうな長さに伸びていった。黒かった瞳は、灰色に近い色に一瞬にして変化し、その顔つきはどう見ても異国人のように様変わりした。
だが、私にはわかった。あり得るはずもない。だが、その事実は紛れもない。
禁じられた名。その存在すら認められなかった者。忌み嫌われたその者は術者としての名を抹消され、今では知らぬ者のほうが多い。だが、唯一知っている者でさえその名を口にすることはない。
「そなたは――静、李人?!」
なぜ今、この時代に? 存在するはずもない、何百年も前に死に絶えたはずのこの男が、なぜ――
「光栄なことだ。父、羅人の愛弟子羅刹に覚えていただいていたとはね」
羅人とは似ても似つかぬ表情を浮かべ、李人は嘲笑った。
前が大きく開いた衣を腰帯で結び、細かい模様の刺繍が施された裾の長い上掛けをまとったその姿は、まるでどこかの王族を彷彿とさせる。人を威圧する冷酷な瞳が印象的で、精神が弱い者ならば、すぐにでも膝をついてしまいそうな圧倒的な自信を漲らせていた。
「静、李人……? 静……とは、まさか……いや、でもそんなはずは」
変わり果てたその姿を見比べて、鴛青は動転していた。
だが、無理もない。驚いているのは私も同じだ。この国の人間とは違い過ぎるその姿、それは一つの事実を指し示していた。だが、それを認めるということは、今まであり得ぬと決めつけてきた力を認めるということだった。
「……我々、陰陽師は個々に特性を持つのだ。師匠は時を渡る力、私は破壊の力、そしておそらく李人は――転生の力」
「転生の力……?」
「魂がある限り、何度でも再生できる力よ。ゆえに、今の姿も新たに得た肉体。まさか、その力を得ていたとは……」
「偉大な父は、偉大な力を俺に与えてくれたのだ。本人はそう望んではいなかったろうが。この力のおかげで父には気づかれずに、幾度となく転生を繰り返した。この姿になったのも、その転生のおかげよ」
納得して、舌打ちをしたい気分だった。
転生は、一度死んでから再び新たな肉体を得ることで、元の身体を捨て去り、別の人間となる。李人が死んだことを疑いもしなかった羅人は、それゆえに李人の魂を見失い、新たな器となった身体に気づかなかったということか。
「だが、そなたには時を渡る力はないはずだ。……どうやってここへ来た?」
「お前はもう、その答えを知っているはずだろう? 本人が認めようが認めまいが、私はあの静羅人の息子だ。父のその力を受け継ぐには、最高の器」
「まさか……時を渡る力までも、そなたは持っているというのか……!」
「父と同じ、とまではいかぬがな」
その言葉に、膝の上の高蓮が震えながら身体を起こした。珍しくその瞳には、怒りの感情が宿っている。
「では……私が、ここへ来たのは……」
「本来、あの時死ぬ運命だったのだ。逆に私は感謝されるほうだろう? 命を救ってやった上に、羅刹のような美しい女に懸想することもできたのだからな」
「私が一体、どんな想いで……! 今まで生きてきたと……!」
「知らぬな。お前は元よりここへくる運命だった。元の時代でお前は必要とされていなかっただろう? それは生きるべき刻が違ったゆえだ。だからこそ、お前はここに来てすべきことを見つけられた」
「私は、『死の軍師』として……生きたかった、わけではありま、せん! 私は普、通に、ただ……」
「高蓮! もうしゃべるな、傷に障る!」
咳き込んだ高蓮の背をさすってやるが、じわりと染み出る血の量が尋常ではない。今は怒りの感情でなんとか気を保っているのだろうが、それが切れれば高蓮の命が危うい。
「ふん。普通に生きることになんの意がある? 私が姿を借りた趙佶という男も同じようなことを言っていたが、それは所詮屑な人間の言い分に過ぎぬ。やるべきことをせぬ者に生きる価値などない」
「まさかお前……! 趙佶様をどうした!!」
「殺したに決まっているだろう。同じ顔の人間が二人もいたら困る」
「この野郎……!!」
一気に頭に血が上って飛びかかってゆこうとしたが、寸前で衣の裾を掴まれた。振り返った鴛青は、紫苑がまとう殺気に息を呑んだ。これほどまでに怒り狂った紫苑を鴛青は見たことがない。
「……黙れ、そなたの戯言をこれ以上聞きとうない。……師匠がそなたを追放した理由が、ようわかった。生きる価値がないのはそなたのほうだ」
「立っていることすら危ういお前に何ができる? もう、気づいているだろう。お前の術式に細工させてもらった。いつまでその強気な面を見せられるか見物だな」
李人の挑発に、鴛青はさっと顔を青くした。確かに紫苑は先ほどからずっと座ったままだった。高蓮を膝に抱いているからだと思っていたが、紫苑の顔色はいつになく白い。
だが、紫苑は笑っていた。いっそけざやかなまでに。
「なれば、そなたも気づいておるな? 今、そなたは私と鴉、そして朔方の術中にあることを。――鴉、やれ」
鴉が電光石火で飛んでゆく。大きな翼が巻き起こした竜巻のような風が、さながら凶器となって李人の頬を切った。その垂れた血を舐め取ると、李人は唇を歪める。
「ご大層な挨拶だな、天狗」
「あなたのような人間が、羅人様と繋がりがあると考えるだけで虫唾が走るので、いたしかたありませぬでしょう」
鴉は涼しい顔を浮かべながら、複雑な呪で周辺に陣を形成する。地面に浮かび上がった難解な文字が、怪しい黒い光を放った。
「私は羅人の子だぞ? 主の子に刃を向けるのか? 素直に私に跪いたらどうだ」
「わかり切ったことを……私の主は羅人様であり、紫苑様です。それ以外の誰かなど、あなたの言葉を借りれば屑同然。たとえそれが羅人様の子であろうとも、私が従う理由にはなりませぬ」
二つの強大な力が激突し、突如発生した強風に闘技場の残骸諸共空に巻き上げられた。自分目がけて飛んできたそれを避けようと咄嗟に剣で払うが、剣に触れる前に木端微塵に砕け散る。驚いて目の前を凝視すると、乳白色の薄い膜がそこにあった。
「鴛青」
鋭く呼ばれた先を振り返ると、ちょうど紫苑が袷から呪符を取り出すところだった。
「このままでは高蓮が危うい。あの者が放つ邪悪な力に、今の高蓮は堪えられぬ」
「ならば……捨て置き、ください……私は、もう……十分生きました……」
「ならぬ。そなたは生きよ」
紫苑のその言葉に、高蓮は目を見開いた。
「いけま、せん……! ただでさえ……今のあなたは……」
「侮るな。そなたをこのまま死なせることは、私の矜持が許さぬ。ゆえに助ける」
「嫌です! ……私は、あなたの命を……使ってまで、生きたくなど、ない……!」
「高蓮様、無駄ですよ。紫苑は一度言ったら、決して意志を曲げぬ頑固者で有名ですから」
そう言った途端、鴛青は軽い眩暈を覚えた。何事かと思えば、紫苑が自分に手を向け意地悪そうに笑っていた。
「鴛青、無駄口を叩いた罰だ。そなたの生命力を少し使わせてもらうぞ」
「言う前に、すでに貰っているではないか……」
「ふん。私とて万能ではないからな。鴛青なら、多少いただいてもなんら支障はないであろう」
「紫苑は相変わらず冷たいな……」
二人のそんなやり取りを聞いて、高蓮は静かに瞳を閉じた。
――敵わぬ、自分には。
二人はなんの疑いもなくお互いを信頼し合っている。命を預けることに一瞬の躊躇すらせぬほどに。自分にはできぬことだ。紫苑を守ることだけを考え、他のすべてを受け入れず信じることもしなかった自分には。
「高蓮、少しだけ眠らせるぞ。ここでそなたのすべてを治すには、少々私の力が足らぬ。そなたに今から施す術は時間をかけて傷を癒すものだ。ゆえに次にそなたが目を覚ます頃には、すべてが終わっているだろう」
「あなたも……この世に、ないということ、ですね……私も、共に……死んでしまい、たいと……願っても、許しては……くれぬのでしょう?」
紫苑なき世界で、生きてゆくことになんの意味があるのだろう。だからこそ、あの時李人の刃をこの身で受けたというのに。
「嗚呼、許さぬ」
微笑みさえ浮かべて、紫苑は言い切った。紫苑の手が呪符と共に心臓の上に置かれる。すべてが浄化されるような温かな熱がそこから生まれるのを知って、高蓮の瞳から一筋の涙が散った。
これを最期に二度と会えぬ人を想って。
「……困るのだよ。勝手なことをされては」
反射的に顔を上げたときには、すでに遅かった。何かが吹っ飛んできて、その衝撃に結界が大きく撓む。
「鴉!!」
黒い羽を巻き散らし衣は破れ、あちこちから血を流しながら鴉は震える膝を押さえ、なんとか自分の身体を支えていた。これほどまでに相手に後れを取った鴉に私は目を剥いた。
鴉は齢数百を超える大妖だ。羅人や私に比する力を持ち、陰陽道以外のその他呪術には私よりも深く精通している。これまでの戦闘でも、鴉が傷を負ったのは数えるほどしかない。その鴉にこの短時間でこれほどの打撃を与えるとは、李人は一体どれだけの力を秘めているというのか。
「名の知れた天狗ゆえ、少しは期待したが……口ほどにもない」
嘲笑を浮かべた李人は鴉のすぐ傍に降り立ち、爪がめり込むほど強く鴉の首を掴んだ。苦しげな声を上げながらも一切命乞いをせぬ鴉に、私は焦って結界に手をついた。高蓮に対する術式よりもまず鴉を助けねばと本能で身体が動く。
「しお、んさま……もう、しわけ、ござい、ませ……ぬ……」
「鴉……!!」
李人は鴉の身体をまるで塵屑でも投げるかのように壁に叩きつけた。
受身も取れずもろに衝撃を受けた鴉は、血を吐きくぐもった叫びを上げたのを最後にそのまま動かなくなった。もがれた羽が黒い雨のように辺りに降り、飛び散った血は攻撃の残酷さと差し迫った命の危機を明白に物語っていた。――このままでは鴉の命が危うい。
どうするべきか決断しかねた私を耳障りな声が舐める。今の状況が実に愉快だといわんばかりに。
「次は誰の番だ? その色男か? 言っておくが、お前が出てくるまで私は全てを殺し尽くすぞ」
死を招く死神のようなその指が鴛青に向けられると、私の怒りはついに沸点に達した。
ぐったりとした高蓮の身体を、ゆっくりとその場に寝かせ立ち上がる。強く握られた蝙蝠が手の中で軋んで啼いていた。
「……鴛青、少しだけ高蓮を見ていてくれ」
高蓮にかける術はまだ半分ほどしか完成していない。ここで中断することは、意識が混濁し危険な状態の高蓮を残すことに他ならない。常ならばそんな判断を下す私ではないが、今の状況では李人をこのまま放置しておくほうがさらなる災厄を招きかねない。
李人の挑発に乗るつもりはないが、常人以上の剣の腕前を持つ鴛青とて、鴉すら歯が立たなかった李人相手にできることない。たとえ一時の間、李人を抑えられても、次の瞬間に李人は必ずや鴛青にとどめを刺す。時の狭間での異変――高蓮に狙われたあの時がそうだったのだと思い込んでいたが、今さらになってその重大な間違いに気づく。
「そなたなんぞに私の望む未来を壊されてたまるか」
おそらくは今頃、ここへ向かっている宋鴻を想う。
何よりも、羅人もなく私もなく鴉も敵わぬと知った今、李人を今生で確実に消さねば未来はきっと失われる。それは私が今まで奪ってきた人の命に反することだ。為すべきことを為すために、今さらそのすべてをなかったことにできるか。
「紫……何を、する気だ……」
乳白色の膜の前に手を翳し、一人分の出口を作る。焦ったような鴛青を一度だけ振り返ると、いつものように不敵に笑い返した。それを見た鴛青は、泣き笑いのような笑顔でなぜと問うていた。
「紫はなぜ、笑えるのだ……? 今が、最悪の状態であるとわかっているのに」
鴉の生存は不明で、高蓮も生きるか死ぬかの瀬戸際。鴛青は戦闘に加わることすらできず、戦えるのは私一人しかいない。それにも拘らず、敵は全盛の頃の自分に比する力を持つ李人。この状況は、まさに鴛青の言うとおり最悪だ。
それでも私がやるべきことは決まっていた。
凛と顔を上げて、前を向く。
「私は命のある限り、駆け続けよう。――それが、私の生き様よ」
どんな困難が待ち受けていたとしても、最悪だとしかいえぬ状況で誰一人頼る者がなくとも、私はここに在る。ここに在って、叶えたい願いがある。
それだけがあれば、私は戦える。
邪魔な掻取を脱ぎ捨てて、闇が淀む世界へと滑り出す。瞳を閉じて、己の中に湧き上がってくる凄まじい力の奔流を右手の蝙蝠に集中させれば、ぴんと身体にくるものがあった。
「鴉……愚か者が……」
薄く瞼を開くとそこに見えるは、白光の陣。
なぜ、鴉があそこまで後れを取ったのか。その理由をはっきりと悟る。蝙蝠を開き、すっと天に手を翳せば白光がさらに強さを増した。
「――見よ。破壊の陰陽師、紫苑の力を!!」
鴛青には、その瞬間何が起きたのかわからなかった。
耳を劈くような轟音の落雷が暗雲渦巻く天から一直線に李人を貫いた。砂埃がもうもうと舞い、それらが次いで吹き荒れた強風に巻き上げられると李人がいた場所を中心に地面が放射状に削れていた。先刻までは涼しげな表情をしていた李人すらも口元から血を流し、膝をついている。
「すご……」
鴛青はただただ呆気に取られていた。今までも幾度となく紫苑の力を垣間見てきたが、此度のは紫苑の本気が違う。紫苑の手が、いっそ優雅なまでに降ろされるのを凝視していた鴛青は、それに気づくのが一歩遅れた。
「お前、は……!」
「くっ……さすが、だな……破壊の力に秀で、かつ父の魂までも、その身に宿したお前に正攻法で、勝てるはずもなかったな……」
口元の血を拭い、よろけながら立ち上がった李人は、それでも傲岸不遜な笑みを浮かべていた。
「だが……勝機はまだ、逸してはおらぬ」
「高蓮様!!」
鴛青の声に振り返れば、どんと一気に力が戻ってくるのがわかった。唇を噛みしめ顔を上げると、鴛青に預けていたはずの高蓮が、肉が腐り骨すら見えている謎の物体に捕らわれていた。ものすごい腐臭に袖で鼻を覆ったが、その物体が高蓮の首元に当てている剣に見覚えがあった。
「あれは、まさか……夜叉、いや小梅?」
もうほとんど面影もない。鬼のように変化していた形相も歪になっていた四肢も、ぎりぎりのところで形を保っている肉の塊でしかなかった。それでも酷使し続ける李人のあまりの残酷さにわなわなと身体が震えた。
「鬼の力に……耐えられずに、身体が腐り始めているのだよ。だが、それでもこうして……私の役に立ってくれている。……お前にしては、不用心だな。私や高蓮はお前とは生きる時代が違う。結界を破ることなど……あのようなぼろ切れのような者でも片手間でできる」
「李人……!」
「おっと……私に少しでも攻撃をすれば、高蓮の首が飛ぶぞ」
「……私が高蓮を人質に取られたくらいで、攻撃をやめるとでも?」
「そうだな……お前もまた、羅刹か。……だが、私を舐めてもらっては困る」
李人の指が太ももに突き立てる仕草をした。その瞬間、高蓮がくぐもった叫び声を上げた。小梅の剣が仕草と同じように高蓮の太ももを突き刺していた。
「やめろ!」
李人はなおも楽しげに、突き立てた指を回した。それに呼応して小梅の剣が高蓮の太ももを抉る。
「あああああっ……!!」
悲痛な絶叫に、私は遂に蝙蝠を閉じた。くつくつと愉しげに嗤う李人の声に憎らしげに唇を噛む。
「お前程度では、非情になり切れるわけがない。……蝙蝠を捨て、こちらに来い」
紫苑と常に共にあった蝙蝠がついにその手を離れ、虚しく地に転がった。紫苑は言葉を発することもなく、凛と顔を上げたまま李人に近づいてゆく。どす黒い闇の中に、白が徐々に飲み込まれてゆくかのように。
鴛青は幾度となく、結界に切りかかってゆくが結界はびくともしない。頼みの綱である鴉を仰ぎ見ても、意識を失っているのかそれともすでに死んでしまったのか未だにぴくりとも動かない。
(どうすればいい? どうすれば、李人を止められるのだ……!)
当てもなく再び高蓮を捕らえている小梅の結界を切りつける。表面上は、なんの変化もなかった。だが、わずかな振動が内部に伝染し、それまで朦朧とする意識の中に漂っていた高蓮が微かに瞳を開けた。
「大した美しさよ。それで、私をどこまで楽しませてくれるのだ?」
李人の瞳が欲望に歪む。
あと数歩のところまで紫苑が近づいたとき、高蓮の意識が一瞬にして覚醒した。己に向けられた刃をなんの躊躇もなく素手で掴む。小梅が上げた呻き声に鴛青がそちらを向いたときには、まさに高蓮が自ら首を掻き切ろうとしている瞬間だった。
「高蓮様、何を!」
剣を放り投げて、やめさせようと必死に走る。
だが、その隣を駆け抜けていったのは白。血に濡れた戦場に似合わぬその色をまとった美しい女性が涙を散らし、駆け寄ってゆく。迷うことなく、小梅と高蓮の許に。
その後ろ姿は紫苑と似ていた。大切な者を守ろうとするその純粋なまでのひたむきさが。
「小梅!」
叫んだ声に小梅が動きを止める。落ち窪んだ目が驚いて見開き、力の抜けた腕から高蓮が転げ落ちる。地に落ちる間際で慌てて高蓮を抱きとめるが、鴛青は呆然とその女性を見上げていた。
「なぜ……貴女はご崩御された、はずでは……なぜ、権淑妃殿下が……?!」
涙を浮かべながらも、権淑妃はあの頃と同じように強く立っていた。紫苑と似た心に覚悟を秘めた女のしなやかな強さで。
「今はそれどころではありませぬ。あの日、交わした約束を……果たさねば」
権淑妃が袷から取り出したのは、蝙蝠。色は紫苑とは間逆の白。
それはなんだとか、なぜそんなものを権淑妃が持っているのだとか、そんなことは問うている間もなかった。権淑妃は迷うことなく、蝙蝠を天に放り投げた。
そして、世界は一瞬にして光に包まれた。




