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 衣擦れの音が控えめに響く。

 枕元に用意されていた真新しい衣に腕を通し、手早く身に着けてゆく。

 ここに来た頃は、鴉に手伝ってもらいながら四苦八苦してやっと着ていたというのに、今はこれが当たり前であったかのような錯覚すら覚える。まだあれから六年も経っておらぬが、あの頃が懐かしい。

 少しだけ、隣で眠る鴛青を見やる。起きそうな気配がして、そっと手を翳す。

記憶を奪ってしまおうとした。咲と同じように。そうすれば、鴛青は私への想いに苦しまずに生きてゆける。だが、私は違う言葉を唱えていた。

「……もう少しだけ、夢を」

 記憶を奪うのではなく、ただもう少しだけ夢から醒めぬように意識の底に深く落とした。

 なぜそうしたのかはわからない。つい先ほどまでは、記憶を奪うつもりだった。だが、いざ鴛青の顔を見てしまったら、無意識に違う言葉を唱えていた。

「……私も、愚かだな」

 一瞬、忘れられたくないと思った。自分の我侭だとわかっていても。

 溜息をついて、立ち上がる。一度だけ部屋を見渡すと、そのまま鴛青を見ることなく踵を返した。後ろ髪を引かれるような思いでは、私は立ち止まってしまいそうだったから。

 御簾を潜り抜けると、鴉が控えていた。すっと押し戴くようにして上げられた両の手には、蝙蝠が載せられていた。

「紫苑様をお守りするよう、祈りを籠めました。……どうぞ、ご武運を」

 蝙蝠を手に取ると、身体中に精気が漲るような感じがした。ゆるゆると流れ出していた力が自分に戻ってくる。

「……これほどの祝福はない。私が死ねば、そなたはもう自由だ。……今まで、世話になったな」

 最後に微笑んで、頷く。

 颯爽と歩くその背を、鴉は言葉もなくずっと見つめていた。そして、おもむろに膝をつき、頭を垂れる。長き生の中で、最後にして最も敬愛した主の餞に。


 *


 突然庭に姿を現した私に、その人は眉も動かさなかった。

 それぐらいでは、この人の心を揺り動かすことなどできない。苦笑して、頭を垂れる。何を言おうか迷って、そういえば紅玉にこうして会うことも久しくなかったことを思い出す。

「……久方ぶりに存じます、姫」

 その言葉を言われるとは思わなかったのか、長く垂らした髪の先が微かに揺れる。

「……紫苑」

「最期に、こうして姫にお会いしに参りました」

 いつもどおりに笑えたと思ったが、紅玉は顔をしかめた。

「そちはまだ、そのように笑ろうているのか」

 紅玉だけには、小細工も何も通じない。心の奥を簡単に見透かされる。微笑みの下に、上手に隠したはずの感情を知られそうになる。

「……何を、仰いますやら」

「今度は何を捨ててきたのじゃ」

 はっと息を呑む。

「何を捨てて、ここへ来た?」

 射抜くような瞳に、すべて曝け出してしまいそうになる。ずっと前から、この人だけには嘘が通じぬことを知っていた。――ずっと前から。

 袷から取り出した文を掌に乗せ、ふっと息を吹いた。手から離れた文はゆらゆらと風に乗って、紅玉の許に落ちる。

「その文を宋鴻様にお渡しください。私はこれにて、御前失礼させていただきます」

 何もかもが暴かれてしまう前に立ち去ろうと、紅玉に背を向けた。

「待て! そちは妾の問いに答えてはおらぬ。……妾は、前にそちに言うたな? そちが帰る場所は妾が用意して待っておると。その言葉を忘れたか」

 動きかけた足が止まる。

 あの日、紅玉がくれた言葉。それが、何よりも私の力となったことを忘れたことはない。

「……姫、私はあなた様をこのような境遇に追いやった張本人にございますよ。主を裏切り、失脚させ、かつての敵に阿り、……そのような者にはただ死ねとお命じくださいませ。お優しい言葉など頂戴する身分にはございませぬ」

 紅玉の信頼を裏切るような真似をしたのは、自分だ。言い訳をするつもりなど毛頭ない。

「それが、どうしたというのじゃ」

 驚いて振り返る。思いもかけぬその言葉に。

「わかっておらぬようじゃな。妾は、そちが傷ついておらねばそれでよいのじゃ。死に損ないなど、放っておいてもそうそう死なんと言うたであろ」

「されど……私は姫の信頼を裏切ったのですよ……?」

「妾は、そちが裏切ったとは一度も思うたことはない。妾にはわからぬが、それもそちにとって必要なことであったのであろ」

 紅玉の揺らがぬ意志に、圧倒されそうになる。

 紅玉は立ち上がり、小さな下駄に足を通すと、自分のほうに歩いてきた。だが、私は無意識に紅玉から後退っていた。

「姫が、そう思われようとも私がしたことは、事実にございます! 私は、それの赦しを乞うことすら許されぬのです。どうか、私をお恨みください! 恨んで、死ねとお命じください……!」

 優しさなど、無情だ。死ねと叫ばれたほうがどんなにか楽か。

 ぺちっと頬に軽い痛みが走る。驚いて目を見張ると、紅玉は眉を吊り上げ、もう一度私の頬を張った。

「赦しを乞うのなら、生きるのじゃ! 生きて、罪を償うのじゃ。死んで逃げるなど、卑怯者がやることぞ。そちは、そのような安い女ではなかったはずじゃ」

「っ……」

 勢いよく抱きしめられる。すべてを包み込んで、赦されたようなそんな痛みに駆られる。

「……よう、戻ってきた……そちは、妾の家族のようなものじゃ。二度と妾の前から姿を消すでない。今度こそ……決して許さぬぞ」

 懐かしい紅玉の香に、涙腺が緩みそうになる。だが、私は唇を噛みしめ、それを必死で押し留めた。泣けばすべてを躊躇ってしまうことを私は知っていた。

「……はは、うえ……?」

 たどたどしい幼い声が響く。紅玉の腕が解かれると、小さな子が首を傾げ、立ち尽くしていた。

「そうじゃ、紫苑よ。この子があの時の子よ」

 紅玉が手招きをすると、その子は顔を綻ばせ紅玉の腕の中に飛び込んだ。紅玉に抱きかかえられ、私と同じ目の高さになったその子は、不思議そうな表情で私を覗き込んだ。

「若君よ。この者は、母の大切な妹のような者じゃ」

 あやしてやりながら、優しく微笑む紅玉に私は込み上げる想いがあった。こんな私を妹だと言ってくれる紅玉に、そして新しき命に改めて確信する。

 己の選んだ道は、決して無駄ではなかったと。――初めて、笑えた。

「……若君様、お初にお目にかかります。紫苑と、申します……」

 紅葉のような小さな手が初めて見る私に興味津々で触れる。燃えるようなぬくもりに心が震えた。命の偉大さに、私は何も言葉が出なかった。

 遠くから、足音が聞こえてくる。その足音の主を正確に読み取って、一歩距離を取る。

「……紫苑?」

 初めて戸惑ったような表情を見せた紅玉に柔らかく微笑む。そして、流れるような所作で膝をつき、頭を垂れた。

「……どうか、宋鴻様と共にお幸せに生きてくださいませ。これまでいただいたご恩は決して忘れませぬ。……お健やかに」

 さっと立ち上がり、紅玉に再び背を向けた。今度こそ、二度と振り向かぬ覚悟で。

「紫苑……!」

「姫がお許しくださろうとも、私は己のしたことにけじめをつけねばなりませぬ。それが、今まで私が奪うてきた人の命に報いるただ一つのすべならば」

 懐に忍ぶ、蝙蝠を想う。二人の宿主の死を見届けて、どこへゆくのか。それは、私にもわからない。だが、その先が幸いであることを今はひたすらに願う。

「……最期に一つだけ、願うことをお許しいただけるのなら……どうか鴛青の命だけはお許しください。あの者は我が君の御代にとって、必ずや必要な者となりましょう」

「なぜ、そのようなことを言うのじゃ……? そちも共に……」

 問いかけながら、紅玉は知っていた。ただ、その答えを聞くのが怖かったのだ。

「どうか、私の……私の、愛した男を、お願い申し上げます……」

 紫苑の衣が蜉蝣のように舞う。儚きその羽が傷つかぬことを願っても、蜉蝣はただ生き抜いて、そうして死んでゆく。己にとってのたった一人を探して。

「……紫苑! 行ってはならぬ!! 戻ってこい、紫苑っっ!!」

「姫様? どうかされましたか……?」

 紅玉の崩れ落ちる音に控えていた女官たちが走り寄ってくる。

 だが、紫苑の姿はもうどこにもない。紫苑がここにいたことすら嘘であったかのように。

「早う……早う、背の君をお呼びするのじゃ……紫苑は、紫苑は……死のうとしている……!」

「紅玉よ、それはどういう意だ……?」

 呆然としたまま振り向くと、呉陽に付き添われた宋鴻が縁側に立ち尽くしていた。そのまま履物も履かずに、庭に下りて紅玉の肩を掴む。

「紫苑が、紫苑が死のうとしているだと……? なぜだ?!」

 呉陽は言葉を失いながらも、これから何が起ころうとしているのかを、ここにいる誰よりも正確に悟っていた。ふと視線を横に向けると、白い文のようなものが落ちているのに気づく。咄嗟にそれを掴むと、文の表に書かれていた見覚えのある手蹟()に息を呑む。

「……殿!」

 呉陽も同じように庭に下りて、それを宋鴻に手渡す。

「これは……?」

「紫苑が背の君へと……」

 目を見開き、呉陽から奪い取るようにして、その文を開く。整然と並ぶ美しい手蹟に懐かしいような、それでいて思わず目を逸らしたくなる感情が相反する。


『我が君』


 飛び込んできたその敬称に唇を噛む。

 紫苑ただ一人が自分をそう呼んだ。最後に別れたあの日、決して呼ぶことのなかったそれに心が引き裂かれる。

「……早く、紫苑を止めねば……」

 呆然とした宋鴻の手から文が落ちる。それを隣で立ち尽くしていた呉陽が手に取った。ざっと目を通し、やはりと確信を得る。

「いいえ。それは……ならんことです」

 一度だけ瞳を閉じて、強く言い切った。自分を振り返った宋鴻や紅玉の瞳が痛い。それでも紫苑が最期に願ったことを叶えるために、呉陽は情を切り捨てる。

「なぜだ?! 紫苑は、このままでは……!」

「それでも、にございます」

 表情を変えぬまま言い切る呉陽に、宋鴻はその胸倉を掴んだ。激昂する宋鴻を前に、呉陽は一片の揺らぎすら見せない。それを見て、紅玉は何かを悟った。

「そちは……知っておったのか。紫苑が、これからしようとしていることを」


 *


 武術仕合が行われる闘技場の扉が開く。

 終わりの時がくる――長く待ち侘びた、その時が。ひたひたと近づいてくる死の足音に唇が歪む。凄絶な笑みを浮かべながら、漆黒の蝙蝠を握りしめた。

 異様な緊張感が満ちるそこは最期に相応しい。武人たちの気の高ぶりと腰に下げられた物々しい剣。その中をこの場に似つかわしくない純白の衣が悠然と人々の前を通る。疑いもなく王の隣に座した私に、静かなざわめきが細波のように広がってゆく。

 まもなく王の入殿を知らせる銅鑼が鳴り響き、皆一斉に頭を垂れた。御簾に囲まれた椅子に腰を下ろすと、神宗の陰鬱な声が発せられる。

「皆、面を上げよ」

 御簾の内にある神宗は、近頃の憔悴ぶりが信じられぬほどしゃんとしているように見える。もちろん、寸前で武術仕合を欠席するなど戯言を抜かさぬよう、軽い催眠術をかけたのだが、誰も神宗の変化に気づくことはなかった。

 所詮、その程度。神宗がどうなろうとも、ここにいる者たちにとってはどうでもいい。権力を維持できるなら、そこに座るのは神宗でも誰でもいいのだ。政に口を出さぬ傀儡であればなんでも。

「趙佶、羅刹。此度はご苦労であった」

 私の左隣、神宗を挟んだ形で座っていた趙佶と共に頭を垂れる。

「勿体なきお言葉にございます」

「趙佶よ、今日はお前も剣舞を見せてくれるのか」

「御意。不束ながら、今日の仕合の開始を兼ねまして、私が始めに一指し舞いたいと存じます」

「そうか……お前の剣舞は、かつて貴妃と共に見たことがあるがとても素晴らしかった」

「陛下の仰せのとおりで……趙佶様の舞ほど、始まりに相応しきものはありませぬでしょう」

「羅刹もそう思うか……そうだ、お前も以前に余の前で舞ったことがあったではないか」

「みすぼらしい舞にございます。趙佶様の足元にも及びませぬ」

 謙遜するように蝙蝠で顔を隠す。だが、神宗は椅子から身を乗り出して、私の衣の端を掴んだ。

「一つの余興として、羅刹と趙佶二人で舞ってみせよ」

「滅相もございませぬ。私の舞は、人前に出せるものでは……」

「よいではありませぬか。王の仰せなのですから」

 趙佶がすぐさま賛同の意を表す。その後ろで高蓮がわずかに表情を曇らせたのに気づきながらも、平静を装う。

「趙佶殿が、そう仰られるのなら……」

 すっと立ち上がり、趙佶に目で促す。待っていたことを気取られぬよう、慎重に表情を隠しながら。

「共に舞ってくださるか? 趙佶殿」

 小首を傾げ、挑戦的な笑みを浮かべて、中心に用意された舞台へと趙佶を誘う。朱色で組まれたそれは、趙佶を絡めとろうとする檻のようにも見えた。

 その意味に誰一人、気づくこともない。――すべては読みどおり。

 階に足をかけるとき、思わず膝が震えた。それでも毅然と顔を上げる。この時を待っていたのだ。震えている場合ではない。

 鋭い笛の音と共に始まった曲は、剣舞の激しさとどこか怜悧な哀を奏でていた。趙佶の剣が太陽の光を反射し、漆黒の蝙蝠が生まれた影を孕んで翻る。衣擦れの音すら舞を盛り立てる囃子のようで、時々二人の位置を交差させながら、舞はさらに熱気を加速させてゆく。始めは胡乱な目つきをしていた者たちも、想像を超えるその舞に皆息を呑んだ。

――なんという美しさか。

 その容姿だけでなく、身の内から発せられる色香はもう人ではない。衣の上に重ねた薄衣が風を受けるたびに揺らめいて、まるで天女が舞っているような錯覚を覚える。

 ゆえに、誰も気づくことはない。袖に隠れた口元が小さく言葉を唱えているのを。音に紛れて、舞に乗せて、それらは確実に死を招く。気づいたときには、もう遅い。

 素早く四隅に視線をやる。術は完成した。あとは実行するのみ。

 趙佶と向かい合う。微笑んだ私に、趙佶は何も気づかず間抜けに笑い返した。

「……あり得るはずのない、もう一人。それがそなたではないかと疑うたこともあったが……そなたはまるで操り人形、愚かでしかなかったな」

「……?」

「なれば最期くらい、私の役に立ってもらおうか」

 目が眩むような閃光が趙佶の目の前で弾け、その身体は宙に舞った。


『我が君』


 声を上げる間もなく舞台から叩きつけられ、後頭部を強か打って趙佶はそのまま動かなくなった。次いで流れ出した毒々しい血に、呆気に取られていた人々も正気に返る。

「羅刹が……!! く、く狂いおった!!」

 ひ弱な官吏たちが我先にと逃げ惑う中で、趙佶が潜ませていた武人たちが剣を抜き、舞台に飛び上がった。じりじりと間合いを詰めながら、私に飛びかかる機会を窺う。

「……命が惜しければ、早う逃げ出したほうがよい……といいたいところだが、うぬら全員逃がすつもりはない。揃ってあの世に送り出してやろうぞ」

 繊手が天に伸びて(いかずち)を呼ぶ。辺りを埋め尽くす白光の中心で、私は鮮やかに微笑んだ。


『このようなことを文でお伝えせねばならぬことを、お先に深く詫びさせていただきます。すでに裏切り者でしかない私が我が君に拝謁する資格はありませぬゆえ、こうして筆を取った次第にこざいます。

 されどこの文が残れば、明かしてはならぬ真実を残すということになります。ゆえにすべて読み終えたのち、この文は必ず炎にくべて、後世誰の目にも触れぬようにしてくださいませ』


 雷が武人たちの剣に飛来し、弾けた真白な煌めきが辺りに飛び散る。次々と倒れゆく屍の向こうに、雷が反射した光の粒が浮かんでは消えてゆく。

 嗚呼、滅びゆく刹那のこの世界はなんと美しいのか。


『私は、これから最後のお役目を果たしに参ります。

 我が君が一点の曇りなき治世を敷くために、足枷になり得るものは私がすべて消し去ります。私の命に懸けて必ずや成し遂げると、ここに誓いましょう』


 鴉の黒き翼が翻り、鋭い針に似た羽の名残が次々と人々を刺し貫く。赤い血潮に満ちた中で、かつてこの世界の主であった男はなすすべもなく、椅子の上でただ震えていた。ふわりとその前に降り立てば、なお一層恐怖に顔を引きつらせた。

「羅刹……お前……」

「哀れな王よ。女に溺れ、政を放棄し、国を疲弊させたその罪、天は決して許さぬ。そなたの命を以って償ってもらおう」

「お前だけは……余の味方ではなかっ……」

「……味方? 世迷い言を」

 私のことを今のこの時まで味方だと思っていたなら、救いようのない馬鹿だ。

 神宗に近づいたのはすべて――今日のため。愚かな王に世界を乱させ、宋鴻が創る世界をなんの疑いもなく皆に望ませるため。神宗は始めからただの駒の一つでしかない。

 私が戴く御方は、たった一人。色素の薄い髪を風になびかせ、民のためにあの時代を血も厭わず駆け続けた、あの御方だけ。

「私の主は、天地が果てるその時まで――宋鴻様、ただお一人!! それは、決して変わることのない真実よ!」

 とえ、宋鴻から二度と許されることはなくとも――私は駆け続ける。

 私が願う世界を、宋鴻に託すために。

「宋鴻だと……?! 貴様、余を裏切るとは、なんと……不遜な……!」

「裏切る? 馬鹿を言うな。始めから駒でしかないそなただ、裏切るもなにもそなたに誓ったものはない」

「なん、だと……! 貴様は宋鴻を殺したのち、余のものになると……そう言ったではないか!」

「社交辞令もわからぬとは、とんだ大間抜けよ! そなたは愚かで……弱い。かつての己の姿は今この時になっても思い出さぬか。そなたの罪の最たるものは、己で考えることを放棄したことよ」

 足元に落ちていた剣を引き寄せ、その切っ先を神宗の急所に違わず向ける。泡を吹き、興奮し切った神宗は、その刃の鋭さに青褪めて全身を震えさせた。

「まさか……それで、余を殺すつもりか……? 神である余を!」

 哀れな子羊とはまさにこのことか。神宗はあまりの恐怖に、自分が失禁していることすら気づいていなかった。だが、私は躊躇うことなく、柄頭を少しだけ押した。吸い寄せられるように剣が勢いよく心臓に突き刺さる。

「ぐああああああああっっ!! ら、せつ……! きさ、まっっっ!!」

 神宗は椅子から転げ落ち、苦悶の表情で断末魔の叫びを上げた。執念深く私に向かって伸ばす血に濡れた手は、私に忍び寄る地獄からの使者のようだった。

 皮肉に唇を歪める。焦らずとも、もうすぐ私もそこへゆく。少しは己の罪でも悔やんで、地獄の底で待っているがいい。

「愛した者に再び会えるのなら、地獄もそうは悪くないだろう」

「……ま、さか……きさ……」

 何かに気づいたのか、それとも気づかずに逝ったのか。

 神宗は結局最期まで、何も得ることのできぬまま死んでいった。それもまた神宗の運命(さだめ)であるならば、神宗ほど虚しい人生を送った者もおらぬだろう。

 わずかに瞳を伏せる。憐れみなどかけるつもりはない。だが、その死を無駄にすることもないだろう。

「……やはり、そなたか」


『私の術が完成したのち、私の身体は塵に還るでしょう。

 我が君はもはや大逆人と成り果てた私を、我が君の御力を以って塵も残さず滅したと、そう公言なされればいい。さすれば、王を弑し奉った大逆人を打ち滅ぼした者として、我が君は揺るぎなきものにおなりでしょう』


「呉陽、そなた……知っていて、紫苑を止めなかったのか!!」

「止める、ことができたでしょうか……紫苑が、これと決めたことを決して曲げんのは、殿とてご存知のはず」

「それでも、紫苑の命が係っているならば止めねば!!」

「……だからこそにございます! ……紫苑が命を懸けてでも、望んだのです! 殿が御位に立ち、この国を変えることを!!」

 紫苑は始めからこうなることを知っていた。いや、望んだのだ。

 果てしなく続く、未来への道筋を創るために。それのために紫苑は己の命を懸けて、宋鴻を至高の座へと導いた。

「某は……紫苑の願いを叶えてやらねばならんのです。それがどれほど辛くとも、非情だと罵られようとも、それが、紫苑が某に託した――最期の願い、ならば……!!」


『昨今の情勢は、我が君に味方するでしょう。

 堕落した王に仕える鬼を、新たな王が打ち滅ぼす。そのために必要な定石は、すでにすべて打っております。あとは、我が君が立つだけ』


「殿……ご決断を。紫苑の願いを無駄にすることだけは、どうか!」

「私には、できぬ……紫苑をこの手で葬るなど……」

 ふらふらと後退りながら、うなされたように呟く。

 宋鴻には、わからなかった。――わからなかった。

 なぜ、紫苑はこんなにも自分に尽くす? 自分は結局紫苑に何もしてやれずに、その命をただ黙って摘めと? そんなこと、できるはずがない。

 刹那、思い浮かぶのは。紫苑が自分に膝を折ったあの日のこと。


『真実は、闇の中。

 そうして、すべてが守られるのです。

 決して惑うてはなりませぬ。何かを為すためには、何かを捨てねばならぬのです。それが、私だったというだけのこと』


「……背の君、行くのじゃ」

 何かを決心したかのように呟いた紅玉を、縋るように見つめる。

「紫苑の願いを無駄にするだけではない。……背の君が描いていた世界を今こそ、為す時なのではないか。紫苑は、そのきっかけを与えてくれたのじゃ」

「……そうですな。もう、戻れぬなら――進むべきかと」

 別な方向から響いた声に、呉陽は顔を上げた。

 渋い顔をした翁が数人の長老たちを従えて、宋鴻を仰ぐ。

「御史台からすべてを聞かされての……あの者のしたことは、決して許されぬものじゃが、それでも……あの者が、命と引き換えに与えてくれたこの機を、逃がすわけには参りませぬ」

 誰もが宋鴻の言葉を待つその視線の中で、宋鴻は一人苦しんでいた。

 紫苑に言いたいことがたくさんあった。なぜこんな結末を選んだのか。紫苑が去っていったあの日、紫苑を疑い、言葉を投げつけた自分になぜ――こうして命を委ねてまで尽くし続けられるのか。

 自分は未だ答えを見つけられずにいるというのに。

「『あなたは、その覚悟と誇りに、何を以って答えますか。あなたは、どのような覚悟と誇りを主に差し出せますか』」

 唐突に響いた声は知らぬものではなかった。だが、その声を聞くのは随分と久しい。

 闇から染み出たような黒檀の衣が風に透け揺らめいている。思えば、白しか着ぬ紫苑と正反対の色だった。紫苑に常に寄り添い続ける影、のような。

「鴉……」

 誰にも気配を読ませず、忽然とその場に姿を現した鴉に、呉陽が警戒して宋鴻の前に出る。だが、宋鴻の腕がそれを制す。

「そなたが来たということは……」

「ええ。――終わる時が来たということです」

 にっこりと微笑んだその顔に生気はない。狂いなく精巧に作られた人形のようで、鴉を初めて目にした呉陽は背筋にうすら寒いものを感じざる得なかった。

「今のこの姿は式神、とでもいいましょうか。実体は今、主と共にあります」

「主とは……紫苑か! 紫苑は今どこに?!」

 焦り駆け寄ろうとした宋鴻に、鴉は小首を傾げ微笑んだ。

「私は言ったはずです。『たとえどのような結末を迎えたとて、悔やまれぬよう生きられませ』、と。……今のあなたでは、主と同じ舞台に立つ資格すらない」

 なんの遠慮もない言葉が胸に突き刺さる。鴉の表情はそれでいて責めるようでもなく、ただの純粋な微笑みを浮かべたままなのがさらなる痛みを覚えさせた。

「あなたは、この世界を主から託されることの意をおわかりか。……太古より、この世界を守ってきた力は今滅びようとしているのです。主はその滅びと共に死ぬ運命(さだめ)であり、それはつまりあなた方を守ってきた人の常を超えた力が失われる、という意です」

 鴉の言葉は、その場に驚嘆をもたらした。唯一、策より事の詳細を聞き出していた翁だけが差し迫った危機を悟っていた。

「それは、『栂の誓い』のことかの。……誠に最後であると」

 鴉が翁の姿を認めて、すべてを知った者だけが知るその言葉に微笑んだのが答えだった。

「あなたがそれを知っているということは、あの青年も変わったのですね。……そして、朔方殿も。よき報せです。この世界にとっても、変わることを望んでいた紫苑様にとっても」

 誰にも漏らしてはならぬとされてきた秘密が、明らかになろうとしている。長らく停滞してすべてが淀んでしまっていた世界が、再び生まれ出るように。だが、それらが新しき次代として廻り始めるには、瞳を揺らしたまま道を見失おうとしている、紫苑が主として戴いた唯一の人間の選択にかかっていた。

「『栂の誓い』は、元来陰陽省の管轄下に置かれ、何百年もの間秘匿されてきました。それが最善であると判断されたゆえに――ですが、時は変わった。徐々に生じていた綻びを完全に修復し、これよりのち人の常を超えた力に頼るのではなく、人本来の力で世界を廻してゆくために、今為すべきことを。そして、主亡き後も世界を次代へと繋いでゆくために、今果たされるべき誓いを」

 つと鴉が指差したのは宋鴻自身。

「あなたはとうに選んだはず。己の在るべき場所と行く末を。……ゆえに、主はあなたの覚悟と誇りを受け入れ、未来を託したのです」


【私はあなたの剣となり、盾となりましょう。私はあなたに待ち受ける運命(さだめ)を変えましょう。

 私が望むのは、ただ一つだけ。優しい世界を。

 それを叶えてくださるのなら、私はあなたに膝をつき、この身が滅び、骸骨を乞うその時まで、心からの忠誠を誓いましょう】

【そなたのすべてを引き受けて、私は生き抜く】


 宋鴻の瞳から、涙が一つ零れた。

 宋鴻はこんなことを望んだのではなかった。紫苑の命と引き換えに、この世界を望んだのではなかった。それでも――


『私はなんの悔いもございませぬ。

 我が君が優しい未来を創ってくださる、私はそれだけを信じて死にに逝けるのですから。

 絶望ではありませぬ。我が君がそこに生きていらっしゃる、ただそれだけで未来は希望なのです』


「……呉陽、翁。すぐに集められるだけの兵の準備を。闘技場に向かう」

「御意」

 顔を上げた宋鴻に、もはや迷いはなかった。戦いの日々に身を置いていたあの頃に戻ったかのような精気を湛えた瞳に、安心したかのように鴉は頷き、わずかに頭を垂れた。

「鴉、最後に一つだけ聞きたいことがある……紫苑は……」

――死ぬしかないのか。

 声にしようとしてできなかったのは、自分の弱さだった。それでも鴉は、宋鴻の言いたいことをすべてわかって、現実だけを言った。

「力を使った者の末路に、例外はありませぬ。それが、世の理というもの。……では、またお会いしましょう。最期の時に」

 鴉はそう言うとそのまま姿を消した。その場に残った一枚の黒い羽をしばらく見つめた後、宋鴻は呉陽を伴い、長く留まっていたこの場所から歩き出した。

 生きるということは、苦しい。現実は無情ばかりが溢れている。

 それでも生きるのは、紫苑の忠誠に誓ったからだ。その生、すべてを引き受けることを。


『どうか、姫と共に幸せに生きてくださいませ。

 桜が降るように美しい、我が君がお創りになるその世界で。私の願いはただ、それだけにございます』


 一転して、断末魔の叫びに満ちた闘技場の中で、高蓮はただ一人冷静であった。

 裾についた泥を払い、立ち上がる。片手を意味深に上げたその瞬間、結界で封じたはずの空間が撓み、武装した集団が流れ込んできた。実に素早い動きで紫苑を取り囲み、矢を番える。

「なにゆえ……結界を通れたのかは、あえて聞かぬことにしようか。されど、同じ手に二度は乗らぬぞ」

「数打てば当たるとも、申しましょう」

 一斉に放たれた矢の中心で私は不敵に嗤った。


『短き時間ではありましたが、我が君のお傍にて仕え、命を賭した日々は私にとって何にも代え難い至福の日々にございました。

身に余る信頼に応えることもできずに、我が君を置いて先に逝くことを、どうかお許しください』


 黒い影が紫苑に立ち塞がり、強い風が舞う。

「紫苑様、私がいるからといってあまり無茶はなさいませぬように」

「これくらいのこと無茶とも言えぬだろう。鴉、雑魚の始末は任せたぞ」

「かしこまりました」

 一瞬の瞬きの間に鴉は目の前にいた五人の首を、花を手折るかのように呆気なく落とした。そこにできた隙間を狙って、高蓮との距離を縮める。

「……やはり、これだけではあなたを止めることはできませんか」

「私を見くびってもらっては困るな。私はすべてを懸けておるのだ。……そなたの首を落とすことにな」

「まるで、情熱的な愛の告白にも聞こえますね」

「……ふ、そうだな。愛と憎しみは紙一重とも申すしな。されど、戯れはここまでよ」

 衣の裾を翻し、縫い込まれた銀糸を針に変化させ高蓮を襲う。そのほとんどが高蓮の身体を突き破って地に縫い止めたがなぜか何本かが弾かれた。不意に、高蓮が腰に何かを下げているのに気づく。淡い光を放ち、そこが私の術を弾いていた。

「……何を腰に下げている? 対魔の守りか何かか?」

 だが、おかしい。私の術を弾けるような守りを造れる者など、今は亡き羅人ぐらいしかおらぬはず。高蓮はその問いに静かな微笑みさえ浮かべて答えた。

「あなたの術は、今ここにいる……誰も破ることは、できません。……この国の術者が、あなたの力の足元にも……及ばぬことを引いても、もう一つ……理由があります。それは、あなたが……この時代の人間では……ないからです」

 口元から血を垂らしながらも、高蓮の涼しげな表情は変わらない。それは、この者の意地なのか。

「……やはり、知っていたか。だが、なにゆえ」

「妻に、しようとしていた女性……のこと、です……あなたのことで、知らぬことなど……私にはありません」

「今は、偽りを言う時に非ず。真実だけを言え」

 高蓮の膝が震えて、地につく。じわじわと襲っているだろう痛みに堪えた様子もなく、高蓮は顔を上げた。その強気な瞳に、問いに答えるつもりは毛頭ないことを知る。

「……使う術の(とき)が、違えば……それを知らねば、術を……破ることはできぬ。……だが、私は……術者ではあり、ません。ならば……」

 懐に差し入れた手が何かを掴む。

「ならば……私は、私の……ものを使えばよいと」

「そなたのものを使う……?」

 高蓮の手がさっと動く。

 それは小さな小柄。死ぬ間際の無駄な足掻きかと、避けることもしなかった。

 だが、唐突に思い出す。私の結界を破ったあの矢のことを。確かに、ただの術者では私の力に勝ることはできない。刻が、違うのだから。だが、それを知った上で術を破るために必要なのは、刻の結界を張れる新たな時代の何か――

「まさか……!」

 小柄が結界を破る。

 力の逆流。激しい眩暈と衝撃。何かが一閃し、訪れる衝動。怒声が支配するその世界で、溜息のような声が耳元で響く。

「私の……」

 そして、世界が暗転した。


『私の唯一にして、最愛の主、宋鴻様。

 死を以ってそれを別つ時が来たならば、どうか骸骨を乞いて、幽冥へと参らん』 

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