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 笛の()が聞こえる。

 焔に焼け(ただ)れた地獄の亡者が、私を呪う苦悩の絶叫を掻き消すよう、清らかに涼やかに、残忍な主のために赦しを乞おうとしている。

 ――鴉も懲りぬことよ。

 私にそんなものは必要ない。赦しなど得ても、仕方がない。

 この紅蓮の焔に焼き尽くされる世界を招いた私が、一体何を悔い改めるというのか。今さら詮無きことと知らぬ鴉でもあるまいに。

 それでも、笛はやまぬ。

 轟々と唸る風に乗せて、いつまでもいつまでも途切れることを知らず、諦めることすらも知らぬのか。だが、それを哀れみこそすれ、不思議と煩わしさはない。その類稀なる調べは、私にとってはむしろ野辺の送りとなるだろう。


 ぴうるる、ひゅうるる、ぴいい………


 まさに、貴人の天音。眼前に広がる地獄すらも厭わぬ、その美しさ。だが、それを尊いと感じられるうちに、人らしい人に戻ることはついぞ叶わなかった。生身の感情のすべてを喪い、私の手に残ったのは一体なんであったのか。

 ――愚かな。修羅に堕ちた人間の哀れな感傷か。今まさに、私に向かって伸ばされた手を無情にも振り払い、足元へ屍として打ち捨てた癖に。

 嗚呼、この笛の音はならぬ。

「――呉陽(ごよう)殿」

 背後で砂利を踏み締める音が、刹那的な惨禍を憂い、啼っていた。その男にしてはあまりにも無用心なのは、この灼熱の地獄を未だ受け入れられずにいるゆえか。

 誰も彼もが感傷的で煩わしい。何を以ってして宿願が叶えられるのか、その真理を知りながらなお、人は浅ましくも理想を振りかざす。その愚を捨て去った己を、私は二度と振り返るつもりはない。――そう、振り返っても仕方がないのだ。もう戻れぬなら。

 指の一振りでさらなる焔を呼ぶ。

 唸りを上げて燃え盛る焔は勢いを増し、かろうじて残っていた宮城の残材をも呑み込む。その隙間から突き出ていた亡者の手は無残にも焼け爛れ、鉤のように屈折したまま動かなくなった指がおぞましい仕打ちを嘆き、憎悪を叫んでいる。

 だが、それすらも焔は呑んでゆく。呑んで、呑んで、呑んで――灰燼に帰すまで焼き尽くす。さながら断末魔の悲鳴は虚空に響き、それを拾う者すらも居ぬこの世界の無情さを嘲笑う。

「紫苑……おぬしは……――」

 言葉が音になるのを遮るために、風を孕んで翻った羽織の裾を繰って、あえて瓦礫を強く踏む。身体ごと振り返る前に視線だけを巡らせて、それを知る。

(嗚呼、やはりそれだ……)

 私にかけていたなけなしの希望すらも踏み(にじ)られたというかのような、そんな絶望を宿した瞳。これまで幾度となく、身に受けてきたものだ。

 それを再び思い知ってこそ、私は私足り得る。私は一体何者だと、常に問うて道を踏み外さずに済む。


 ――そう、私の名は『紫苑』だ。この世界に終わりをもたらす者。


 満足げに唇を歪めた私の背後で、凄まじい熱気の火柱が上がる。今にも私を呑み込まんとするそれがどこか愛おしい。最も罪深き者の粛清を待ち望む、地獄の亡者たちと同じように。

「わたくしのこの手で幕引きを」

 数え切れぬほどの魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)跋扈(ばっこ)するこの世界で、それと大して変わらぬ私は救世主でもなんでもない。ただの『鬼』、だ。


 ――それでも、笛はやまぬ。

(知っているだろう、鴉。わたくしの願いを、わたくしの望みを……それでもやめぬというのか)

 問いかけたのは叱責のためではない。無性にやるせなくなった感情の在処が、私の最後の良心だと信じたくなかったゆえか。


 ぴうるる、ひゅうるる………


(それが答え、か)

 くつくつと漏れた嗤い声は、火の粉に紛れて消えていった。ゆっくりと天に向けた瞳に、もはや人間らしい感情はない。


 さあ、舞え。飛び散る火の粉と共に死の神楽を。私のこの手で、終わりなき闇に魅入られたこの世界に終焉を与えよう。

 そして、潰えることなき希望を――あなたのその手で。


 *


 六二二年卯月二十三日。


 目が覚めて落胆する。障子に染み出した瑠璃が朝まだきを告げていた。

 昨晩はどうにも夢見が悪かった。仕方なく格子窓を開けて、月を愉しんだのは深更。それから転寝(うたたね)して、つい寝入ってしまったということか。

 一つ溜息をついて身体を起こす。暦上は春とはいえ、夜が明け切らぬ今の時刻はまだ肌寒い。身体を起こして乱れ髪を掻き上げれば、目の前に広がる光景に一瞬だけ言葉を失う自分がいた。呆れ果てて、もう一つ溜息をつく。

 単衣姿のままぬくもりが残る(しとね)から抜け出し、格子窓に近寄る。袖から無造作に伸ばされた腕が抜けるように白く、さながら陶器に似た血の通わぬ静謐さを持つ。男共はこれを見事な白磁の肌よと褒めそやすのだろうが、日焼け一つせぬこの肌が私は好かぬ。健康的に焼けた肌のほうがむしろ好ましいというに。

 その手があと僅かで格子に触れようとしたとき、それはなんの前触れもなく止まった。

 音にならずに呟いたのは、名。

 今年もまた、その季節がやってきたことを知るのは容易い。無意識に、足は部屋の外へと向かっていた。


 朝霧漂う瑠璃の世界で、遠く天に啼く鳥の声は切なく、露に濡れた深緑の葉が瑞々しい。一切の世俗の不浄を断ち切って、その桜は遥か昔からそこに在った。

 散ることを知りてなお、凄絶に咲き誇る。それは滅びゆく究極の美。――人が願っても、得られぬもの。だからこそ、人は恋焦がれる、その潔さゆえに。

(まさに、春の夜の夢……)

 桜に魂を奪われたかのように、はらはらと舞ってきたそれを無意識に掴む。そっと開いた掌の上で、白に近い薄桜の花びらが私を見つめていた。穢れを知らぬそれは、闇に縁取られた心の奥底をなんの遠慮もなく覗き込もうとする。

「あ……」

 刹那、吹いた強い風が花びらごと空に舞い上げる。

 私はしばらくの間、何をするわけでもなく、さらさらと桜の木が擦れる音に聞き入っていた。そうやって、ただ静かに景色を眺めることを、ずっと忘れていたような気がするのは、昨晩浴びるように受けた血のせいに違いない。

 背後でかたりと音が鳴る。持ってきた何かを床の上に置く音だ。この邸で私以外に形を取れるのは一人しか居ぬ。振り返ることすらも面倒だった私のすぐ隣に、全身黒檀一色の袴姿の女が控えていた。

 女性用に作り直されたそれは衿先が深く、半巾の帯を胃の辺りで締め、本来垂直に下に伸びるはずの袴は柔らかさを帯び、風を孕んで容易に翻る。唯一の装飾は、広めに取られた袖の先に揺れる結芸(ゆいげい)の飾りと、後頭部で髪の半分を結い上げた髷をまとめる翡翠の簪、半衿の申し訳程度の刺繍くらいしかない。

 それでも、この女は今まで会ったどんな女よりも美しいと思う。こちらを見上げる涼しげな瓜実顔に、涙黒子が印象的に目に焼きつく。

「そなたは実に静かよの。どうしても気づけぬ」

 戯れのような言葉にも、一切表情を変えぬ。こちらは始めて会った気がせぬというに、随分と頑なな従者だ。音も気配もなく近づいてくる彼女に心から感心しているのだが。

「紫苑様、刻限にございます」

 意に介した様子も見せぬ彼女のその言葉で、ゆるゆると現実が戻ってくる。束の間の慰めさえ許さぬとでもいうように、私がいるべき場所へと強引に引き戻す。

 瞳を伏せて、開きかけた心を元通りに押し込める。誰にも触れさせぬ私の中の一番底に。

 いつからそのすべを覚えたのかは、もう思い出せぬ。気づけばそうしていたに近い。あの時は、ただ息をするのも億劫なねっとりとした闇から、気休めでも何かを守るためであったような気もするが、今はこれなしではおそらく立てぬ。それほどの闇が常に私の足元でぽっかりと開いて、『紫苑』を演じ続けようとする滑稽な私を待ち構えている。

 再びの風で去っていった掌の桜は、そんな私を疎んじたのか。問う声に答える桜はあまりにも清廉過ぎて、私は瞳を逸らした。

「……わかった。支度をしてくれ、鴉」

 くるりと踵を返し、歩きながら腰の帯を解く。後ろに回った鴉がそれを受け取ると、肌触りのよい単衣の衿に手をかけ、するりと剥ぎ取った。

 掠れた衣擦れの音しかせぬ静かな部屋で、二人の女は言葉を交わすこともせぬ。一糸まとわぬ陶器のような白い背に、するべきことも忘れた鴉が一時の間魅入っている。妖しげな美しさを湛えるそれに、ほんの僅か指が伸びたような気がしたが、一つ分の瞬きの間にそんな愚かな感傷も消え失せていた。何事もなかったかのように用意していた襦袢を私の肩にかけ、前に回って紐で結ぶ。その顔にすでに感情というものはない。

 鴉が動きを止めた理由を知っていても、私もあえて何を言おうとも思わなかった。今さらどうすることもできぬなら、感情を表に出すことすら厭わしい。

 黒塗りの盆から持ち上げた男物の長着の裾が、しゅるりと音を立てて滑り落ちる。背後に立った鴉が肌馴染みのよい絹で織られたそれを広げ、なんの感慨もなく袖を通す。銀糸で紫苑の花が縫い取られた白い帯で腰辺りを結び、前身頃にほんの少しだけ余裕を持たせる。

 最後に引き摺るほどに長い羽織を背にまとう。帯と同じく所々に紫苑の花が散り、時折月の光に照らされてきらきらと輝く。焚き染められた黒方(くろぼう)の高雅な香の名に反して、身につけたものはすべて一点の曇りなき白。

 懺悔か、悔恨か――そんな問いに意味などない。ただ、先達の慣わしに従っただけだと己に言い聞かせる。

 ついと伏せた瞳の先に、漆黒の蝙蝠(かわほり)が音もなく差し出される。唯一の色を持ったそれは、かつて違う誰かのものであった。

 私には到底及ばぬ遠く先をゆく人――追いつくはずもない。それでも、今は私の手にあり、胸に手を当てずとも感じる熱の高ぶりがわかる。

 僅かばかりの慰めを手に、そのまま幽玄の世界の外へと歩き出す。躊躇いがちな瑠璃の朝霧が引き留めるように私の足を取ったとて、桜を振り返るようなことは二度としなかった。


 *


 六二二年弥生三十一日。


 苦しくて、息が上がる。

 毒の回りが思ったよりも早い。自由の利かぬ身体に鞭打って、衿先を無造作に緩めた。少しは楽に息が吸えるようになったとも思うが、自分の死期の近さは変わらぬ。

 もう幾許か息を吐けば、自分は命を落とすだろう。人知れずなんの縁も所縁もない森の奥の名も知らぬ川辺で。

 嗚呼……それでもいい。現実の苦しさに比べれば、死ぬ苦しみなど幸いだ。少し我慢すれば、すべてが終わり、変わってゆくあの人をもう見ずに済む。

 柔らかな草の上に横たわり、青く澄み切った空を見る。まだ風は冷たいが、春の陽気が心地よい。うとうとと瞼が重くなってきて、最期の時が近づいてきたことを悟る。深く息を吐いて、瞼を、生を閉じようとした。なんのしがらみもない世界に行けることだけを、ただ一つ願って。これまでがそうであったように。

 ――だが、運命の徒というものは、なんと惨いものなのか。


「そなた、生きておるのか?」


 *


 羅刹という名の女が、かの地に最初の一石を投じたのは、今では一面豊かな草原が広がる都の東南の外れである。雑多な砦があるのみのその場所で、まさに人間が造り上げた地獄が口を開け、彼女の降臨を待ち侘びていた。

 残忍なる怒声と響き渡る悲鳴。刃物がぶつかり合う不快な金属音と、人間の身体が踏み潰される奇怪な音。憤怒の形相を浮べた将が、また一人また一人と雑兵を薙ぎ払う傍で、矢筈を弓の弦にかけた弓兵の一団が、勇猛なる将を数十本の矢で召し取る。

 殺し、殺され。殺し、殺され。

 一人倒れ、二人死に。三人倒れ、四人死に。

 持っていた剣は打ち捨てられ、折り重なった屍は大地を覆い尽くし、溢れ出した血が土を穢す。風に混じった腐臭が不快感を呼び起こそうとも、人は人を殺すことをやめようとはせん。この地獄を招いた者に、とうに失った天命が戻るはずもない。


 事の始まりは、数年前の王位簒奪に遡る。

 のちに貴妃となり、国と朝廷に禍をもたらした鄭宣喜(ていせんき)という妖女を寵愛した王は、政を忘れ、朝廷を疲弊させ、民を軽んじ、国を傾けた。そして、それを正したのが、王弟であった時の宰相である。

 兄とその寵姫を都から追放した宰相は、自らを王と僭称し、政を回復させたが、王位を示す玉璽を兄が所持したまま逃亡したことが発覚し、それを取り戻さんがため、ついに長き戦は始まった。この後十年に渡る戦を総称して、朱雀門の役と呼ぶ。

 朱雀門の役は、史上類を見ぬ悲惨な戦として、今も我々の脳裏に深く刻まれている。あと数年でも戦が長引けば、確実に今のこの国はなかったであろう。

 現に、その時羅刹の眼前に広がっていた草原も、緑の影など一つもなく、剥き出しの大地が荒涼と続くばかりの奈落であったと云う。その奈落の中心は、まさに地獄絵図の様相を呈し、折り重なる屍から発される怨念が生者の足を取り、自らと同じ幽冥へと引き摺り込もうとしていた。それはさらなる混沌と闇の萌芽の瞬間でもあり、いずれ世界の崩壊を招く種となる。羅刹はその種が芽吹いてしまえば何が起こるのかを、誰よりもよく知っていたに違いない。


 羅刹は草原に差し込む太陽を背にして、宙に浮いていた。漆黒の蝙蝠が翻り、妖しく風を孕んだ白き衣が終わりの始まりをもたらす。まもなく大地が揺れたのち、そこに生者は一人としていなかった。

『羅刹抄』


 *


 六二二年皐月二日。


 亮呉陽(りょうごよう)はそこにいた人物に気づいて、憚りもなく眉をひそめた。

(図々しくも、殿の近くに座りおって……)

 入ってきた呉陽に気づいたその女は、軽く会釈をしただけで立とうともせぬ。自分よりも遥かに高位な相手に礼儀も尽くさぬとは、一体どういう了見なのか。沸々と溜まり続けた怒りは、今や頂点に達しようとしていた。


 忘れもせぬ、先月の二十三日は酷い雷雨であった。

 呉陽は自らの一隊を率い、主である()宋鴻(そうこう)を護衛するため、昨日から本隊を離れ、王家所縁の寺に滞在していた。ゆえに、二日前に起きた惨劇の報告を受けたのは今し方のことであった。

 敵、自軍に関係なく全軍壊滅。

 目付けとして斥候に出していた呉陽麾下の部隊は、直接戦闘に参戦していなかったのが幸いし、こうして報告を受けているわけであるが、ほとんどがすでに正気を失っており、まともに話を聞ける状態ではない。

 呉陽が衝撃を受けているのは、道連れになった奴らのことではない。王に押しつけられた旧体制の頭のおかしな連中ゆえ、むしろ首を切る手間が省けてせいせいしたくらいである。

 それに落とす必要もないようなどうでもいい砦を、奴らが子飼いにしている部隊で勝手に仕掛けただけで、こちらには大した損害もない。始めから期待してもいなかった戦の結果がどうなろうとも、他に考えるべきことは山ほどある。だが、それが一人の――しかも、一人の女の仕業というのなら、話は別だ。

 どこからともなく現れた白き衣の女が、白魚のような手を天に翳して光を呼び、一瞬のうちに全軍を一掃した――そんな途方もない絵物語のような話を――指揮官は震えながら語った。

(馬鹿らしい、そんなことが信じられるか)

 訳のわからぬ光だけで人が殺せるなら、喜んで両手両足でも挙げてやると怒鳴った呉陽に、指揮官は言いにくそうにだがはっきりとした口調で断言した――「将軍はあれを直接ご覧にならずに済んだからこそ、そんなことが仰れるのです」、と。

 普段、のんびりとして温厚な彼が呉陽に逆らうなど、あまりにも記憶に乏しい。それほどの事態なのだと理解すると共に、呉陽は訳もなくぞっとした。

 数刻前、この報告を簡易に受けた宋鴻は考えさせてくれと言って、仏像が安置されている奥の堂へと護衛も付けず一人で入っていった。その時は特に気にも留めなかったが、もしや自分は重大な失態を犯したのではなかろうか。どこからともなく現れたというその女が、ここには現れぬとなぜそう言い切れる?

(いいや……、外は酷い雨だ。……こんな雨の日にどこから侵入しようというのだ……)

 もはやその言葉は、己に言い聞かせるためだけのようなものであった。

 風情もけったくれもないざあざあと強い雨音が、死神の足音のように聞こえたのはおそらく気のせいではない。長年培った武官の勘というものが、静かに警鐘を鳴らしていた。何かを暗示するような激しい落雷が、呉陽の胸を突く。

 だが、呉陽が本能で宋鴻の許へと走り出した頃には、すでに運命(さだめ)(とき)は廻っていた。出会うべき二人は出会うべき時に出会い、星の巡りの(もと)で膝下に屈することは――今思えば、誰にも曲げられぬ歴史であったのかもしれぬ。


 ――そして、今目の前にいるのが件の女である。

 呉陽は女の正面にどかりと腰を下ろした。呉陽と同程度の上座が許されているのは、それだけ宋鴻の信頼が厚いということなのだが、どうにもこうにも納得がゆかぬ。

 自分もこの中の長老たちに比べればまだまだ新参者で、今の呉陽と同じようなことを他の長老たちも思っているのだろうが、それとこれとはまた別の話だ。少なくとも、自分は得体の知れぬ怪しげな妖術で惑わしたわけではない。

 女は自らに突き刺さる好奇の視線をものともせず、涼しげに座っている。ぴんと張った背筋が自然で、居住まいの美しさもさることながら、その容姿はまさに傾国。宋鴻の奥方も並々ならぬ美貌を兼ね備えているが、これはもう別次元とでもいうべき代物だ。もはや人間なのか、仙女なのかも判別がつかぬ。

 ほとんど化粧をせぬ雪のように白い肌は滑らかで、小さく熟れた真っ赤な唇が瑞々しい。烟る睫毛に囲われた大きな瞳は、黒曜石の如く密やかな輝きを放ち、流し目などをされればすぐに男は落ちるに違いない。

 なぜか男物の長着をまとい、見たことがないほどに長い羽織も、すべて純白の誂えである。少し癖のある波打った射干玉の髪と、右手に持った漆黒の蝙蝠だけが色を持ち、それが間逆の白と黒であるからこそ、対照的で実に艶かしい。

(ふん、魔に魅入られたような女だ。……不吉極まりない、一体殿は何をお考えで……)

 まるで人とは思えぬこの女。鬼気迫る美しさとでもいうのか、それは呉陽にとって凶兆としか思えなかった。

(こんな女がなぜ殿に膝下を屈したのだ。そして、なぜ殿はそれをお受けになった……)

 その問いの答えは、呉陽だけでなくこの場にいる――女とその隣に座るしたり顔の翁以外――全員が求めていた。

 当の翁は呉陽がどんな態度を見せるのかと、飄々と観察しているようであった。今に始まったことではないが、翁は人を手の上で転がして遊ぶ悪癖がある。本人は悪気もなく、人を見極めるために必要なことじゃと抜かすため、改める気もさらさらないらしい。

 その上、翁は宋鴻に仕える者たちの中で最も長く信頼も厚い。現役を退きたいと常に愚痴を漏らしてはいるが、たとえ退いたとて家臣の中で最大の発言権を有する事実が変わるわけではない。

「……某は、今でも反対ですぞ。その女、腹に一物どころか何物抱えておるかわかりゃせん」

 翁と視線が交差したのを見計らって、幾度となく注進している内容を再び口にした。

 腕を組んで威嚇するように眉間に深い皺を刻むが、翁に対してそれが無意味であるということはすでに承知している。現に、翁はいつものように雪と似た白い髭を梳いているだけだ。小憎たらしいことこの上ない。

「ほう……。おぬしは儂の言葉が信用できぬと、そう申すのじゃな?」

「滅相もない。さりとて、その女は危険過ぎます。いつ殿の仇となるか……」

「それは確かに案ずるべきことじゃ。じゃがのう……ほれ」

 翁がいつどこから小刀を抜いたのかは、呉陽にさえわからなかった。力を込めれば呆気なく折れそうな細首に、鋭く尖った小刀が突きつけられている。だが、女は毛ほどの動揺も見せず、呆れたように薄ら笑いを浮かべているだけであった。

「――このとおり、刃物を突きつけても顔色一つ変えぬ、可愛げもくそもない女じゃ。たとえ、めった刺しにされようとも、己が吐いた言葉を翻すなど軽々にはしまいて。じゃがの……――その時がくれば、儂がこの手で始末しようぞ」

 そろりと戻された小刀は、ぬらぬらと妖しげな色を放っていた。一瞬にして張り詰めた空気が、さらに凍るほどの冷気を孕んで。誰もが皆、翁という人物の底知れのなさを垣間見たような気がした。その小刀に似た切れ長の鋭い瞳が、翁の真の姿を現している。

 代々王家に仕えてきた兇手の一族――(せん)家。翁はその当代の総帥であると聞く。

 元来、兇手がそうであるように、翁自身も唯々諾々と王家つまりは先代の王神宗に仕え、玉命のままに暗躍してきた。王家が存続する限り、千年も変わらぬはずのその専家の在り様が唐突に変わったのは、宋鴻が都を落ち延びた際のこと。

 翁がなぜ宋鴻を選んだのか、それは誰にもわからぬ。だが、翁がその選択をせねば、我々がさらに苦しい戦いを強いられていたのは事実。

「ほんにふざけた爺よ。わたくしに刃を向けておきながら、生きて帰れると思うておる」

 唐突に声を発した女に、呉陽は僅かに身体を強張らせた。だが、女はまったく意に介した様子もない。「実際生きておるじゃろう?」と、かかっと大笑した翁に呆れ、女も蝙蝠の裏で意地悪く微笑んでいるだけである。

 そんな二人に、呉陽はなぜか取り残されたような虚しさを感じていた。何か自分には知らされぬ事実がそこにある――その事実が、どうしようもなく呉陽の矜持を傷つけていた。

「――某は許さん!」

 突然大声を上げた呉陽に、誰もが目を見張った。おやおやと肩を竦めてみせた女の行動が、ことさらに呉陽の癇に障る。

「どこぞの馬の骨とも知らん女が、殿の傍近くに侍ることだけは許せん! いつ殿を裏切るか……知れたものでは「――それはそなたも同じことでは?」

 一瞬で心が冷える。

 顔を隠していた蝙蝠は、いつの間にか閉じられている。潜んでいた獰猛な獣が本性を現したかのように、鋭利な牙が呉陽の喉元に食らいつく。それは得体の知れぬ恐怖を呼び起こした。

「そなたの刃が再び我が君に向かぬと、どうして言えようか。……のう、かつての反逆者殿?」

「ふざけるなっっ!!」

 反射的に飛びかかった呉陽は、女の首を絞める勢いで衿を掴んでいた。慌てて止めようと長老たちが群がるが、呉陽はそれを見境もなく張り飛ばしている。

「女……覚えとけ! 再び同じことを抜かせば、ただではおかん!!」

 呉陽が今までにないほど猛り狂っているのは、誰の目にも明らかであった。だが、女は笑っていた。そんなことどうでもよいといわんばかりに。

「なれば、そなたも女、女とやかましいその口を閉じろ。わたくしの名は紫苑よ」

 ばんと盛大な破裂音を発して、呉陽の身体は弾き飛ばされた。寸前で受身を取った呉陽が、憎らしげに紫苑を睨みつける。

 紫苑は衿を整え、すくっと立ち上がった。猫のようなしなやかなその所作に見惚れるには、今はあまりにも相応しくないと誰もが解していた。

「……覚えておれ。そなたがどれだけ喚こうと、わたくしが我が君のお傍にて仕えるその『宿命』は変わらぬのだ。なれば、無駄なことに時間を割く前に、そなたはそなたのすべきことをせよ。役立たずに興味はない」

 紫苑はそう吐き捨てると、長い羽織の裾を取って、その場から立ち去った。

 般若の形相でその背をしばらく凝視するが、闇に紛れるように揺らめいて、次の瞬間には跡形もなく消え失せた。呉陽は驚きに言葉を失うと共に、やはり同じ感情を抱いていた。

 危うげ、なのだ。あの紫苑という女の存在そのものが。

 紫苑を初めて目にした時に感じた、あの強烈な心象を今でもよく覚えている。安易に近寄ることを躊躇われるような不可侵の空気。そして、人でありながら人に非ざる力を持った者の全身から滲み出る自信。それらは、本来自分たちのようななんの力も持たぬ者たちが服従させられるものではないことを、呉陽は一瞬で解していた。

 確かにその力は圧倒的な手段になり得る。皆の悲願である戦の終結に、これまでの何倍もの早さで辿り着けるのだろう。命が萌え出ずる希望に満ちた春が、軍馬に踏み躙られ光を失うことも、荒れ果てた大地や崩壊する都、失われた明日を見ることもない。戦に泣く人々の絶望に支配された空っぽな瞳に、ようやく終結という希望を与えられる。――その、強大な力があれば。

 それでも、紫苑が『我が君』と呼んだその声は危うげに揺れていた。

 宋鴻を見上げているはずにもかかわらず、何かを心に掴んでいる者だけが見せるその強い眼差しは、宋鴻ではない誰かを見ているような気がした。それが誰なのかはわからぬ。だが、重要なのはその誰かではない。

「……おぬしもまだまだひよっこじゃのう」

 よっこらせと立ち上がった翁は、発した言葉と同じくらいにのほほんとした表情を浮かべていた。

「おぬしの考えもあながち間違ってはおらぬ。じゃがの……まだ知らぬこともある」

 髭を梳きながら、翁は格子窓に近寄った。その向こうに見えるのは、荒れた大地が続く疲弊した国土。

 翁が何を考え、何をしようとしているのか、呉陽には何一つわかりはせぬ。だが、呉陽以上に翁が宋鴻に心身を賭していることだけは知っている。

「焦ることはない。いずれ、おぬしはすべてを知り、選択するじゃろう」

 何をと、言いかけた言葉は音にならぬ。

 振り返った翁の顔は逆光でよく見えなかった。だが、それでよかったのかもしれぬ。瞬時に増した陰に言い様のない不安感が募るのは、おそらく気のせいではない。

「――(うつつ)か、夢を」


 *


 六二二年弥生三十日。


「これは……まさか……」

 六角形の部屋の中央、大理石製の巨大な水盆に多くの術者たちが群がっている。精緻な紋様が施されたそれは、溜息が出るほどに素晴らしい代物であるが、彼らはそれを褒め称えるためにそこに集まっているわけでない。

 たっぷりとした布で仕立て上げられた直領は爪先まで隠れるほどに長く、誰もが一様に白を召している。一見、葬式とも見間違いかねぬが、ことこの場にあってはその色こそが正装であった。

 張り詰めた静寂の中、一人の術者が水盆を上から見下ろす台に立つ。最高位を示す佩玉を腰に下げたその老齢の術者は、皺くちゃな手で水の上に一文字を切った。するとどこからともなく細波のような細かな揺れが水面を揺らし、天の星をそっくりそのまま掬い取る。濃紺の艶やかなそれは宝石のような輝きを放ち、一際強い光を放つ一点を祝福するように何度もきらめいた。

 老齢の術者も周りを囲む多くの術者たちも、その美しき輝きを見つめ、長らく待ち続けてきた夢のようなその訪れを噛みしめていた。そして、その訪れの意味を――この時代が選ばれてしまったその意味を解して、彼らは戦慄していた。

 ひたひたと近づき始めた崩壊の足音。それはもう誰の手にも止められぬ勢いで、この世界を覆い尽くそうとしている。

 その訪れは彼らにとっては悲願だ。幾世代も待ち続け、次代に託し、そうして今を迎えている。どれだけ喜びに打ち震えているのか、おそらくは彼らだけにしかわからぬ。だが、それは同時に悲報でもある。

「この世界はもう……終わりに近いということですかのう……。あの『誓い』も、すべて……」

 老齢の術者が、深い皺が刻まれた顔を夜空へと向ける。

 この歳になるまでどれだけの時が過ぎ、一体どれだけの地獄を目にしてきたか。だが、人間はさらなる地獄を自らの手で招こうとしていることに、いつになっても気づかぬ。

 そう、いつになってもわかろうとせぬのだ。どれほどの苦悩に自らを置いているのかを。

 だが、(とき)は廻る。

 ゆらゆらと揺れる揺り籠のように、この世界にもたらされた悪夢はついに断たれる。陰の凶星は引き連れてきた悪女と共に堕ち、新たに天命を受けた王が立つ。それは長く苦しい戦いの日々の果てに。

 水盆の上の光が、なお一層の光を放つ。

 老齢の術者がその場に膝を折り、最上級の礼を取る。本来ならば、王にしか見せぬはずのそれを、誰もが躊躇することなく他の術者たちも倣い、次々に礼を尽くした。

「お待ち申し上げておりました。――我らが始祖よ」


 *


 いつのことだったか、思い出すことすら厭わしい。

 酷く淀んだ空気ばかりが蔓延した世界であった。これがあの人――もう名も姿も思い出せぬ誰かが作り上げた世界なのかと嘲笑ったが、そんなものは気休めにもならなかった。

 この世界に生れ落ちた時から、何かを忘れているような気がしていた。とてつもなく暗い闇に塗れた己を縛る枷。思い出せばさらなる苦悩に引き摺り込まれることがわかっていてもなお、思い出さずにはいられぬ――そんな何か。

 悶々とした月日が過ぎ去り、代わり映えのせぬ季節が終わって、気づけば三十年。ただ朽ちてゆくばかりだと思っていたそれまでのなんの価値もなき生。だが、その日々は唐突に終わる。

 それは流星の如く、落雷の如し。

 目の前を歩くのは、ごく平凡な男。穏やかなそうな面差しの、人に害するような要素を一切持ち合わさぬような、自分とはまるで正反対の男。だが、その男と目が合った瞬間、これまでのすべての世界が崩壊したことを知った。

 そして、思い出す。己がこの世界に再び生を受けた意味を。


 *


 六二四年如月五日。


 うっすらと積もった雪を蹴散らし、馬を急がせる。

 元より急ぐつもりなどなかったため、こうして時間に追われているのだが、あの男は僅かに遅れただけでもとにかくうるさい。末代まで祟ろうかというぐらいにうるさい。

 最近はさすがにそれを聞くのも辟易して、多少なりとも改善したつもりだったが、どうにも雪を甘く見ていたようだ。大した積雪ではないとはいえ、馬の足並みが想定よりも遅い。

 馬をこの場に乗り捨て、転位するのも手だが、僅かな気配も敵に気取られるわけにはゆかぬ。それに大切な馬を捨ててきたともなれば、またあの男がうるさいのだ。

(ほんにやかましい男よ……呆れてものも言えぬわ)

 私のやることなすこと常につっかかってくる。私に文句を垂れるのを生業としているかのような有様だ。その文句が荒唐無稽なものであれば、鼻で笑って突っ返してやるのだが、一応筋は通っているためなおさら面白くない。

 一昨年の顔合わせで衝突してから、二人の仲はまさに犬猿の仲であった。呉陽は私の提案に何かと文句をつけ、私はその報復に呉陽の案を頓挫させるの繰り返しで、一向に解決の目処が立たぬどころか、むしろ二人共立てるつもりもないときている。

 あの亮呉陽が、これほどまでに融通の利かぬ頑固者だったとは少々想定外だが、むしろ私にとっては都合がいいのかもしれぬ。数年前、戦力を吸収するために宋鴻が仕掛けた戦で、民兵を含む少数の戦力だけで堂々と渡り合った話はあまりにも有名だ。神算鬼謀を尽くした呉陽の戦法は、敵であるはずの宋鴻すらも舌を巻いたという。それを買われて、宋鴻麾下の軍に将軍兼軍師として迎えられたのだが、呉陽が真の意味で宋鴻に忠誠を誓うまで、随分と時を要したらしい。

 だが、そうでなければ困る。臣従することのなんたるかを知らぬ者では、たとえ仙人ほどに使える頭脳を持っていたとて、後々使い物にならぬ。

 しばらくすると、私と馬が吐く白い息で霞んだ先に、馬影が見え始めた。栗毛を従えた先頭の一頭が雪に馴染んでいる。灰白を散らしたようなその芦毛に跨る人物が、こちらに気づいて振り返った。案の定の仏頂面に、このまま引き返してしまおうかと一瞬考える。

「遅い」

 不機嫌な第一声が、深々と静まり返る夜の静寂(しじま)に響く。

 歩みを緩ませ手綱を引き、私の青毛は対峙するように芦毛の正面に陣取った。ふふんと鼻で笑われたような気もしたが、面倒ゆえ特に相手にもせずにいたら、呉陽はわかりやすくむっとした。隣に控えていた()広栄(こうえい)が、喧嘩が始まろうとする雰囲気に気づいて年甲斐もない上官を諌める。

「面倒を起こすのは城に帰ってからにしてください」

「面倒とはなんだ!」

 熱しやすい呉陽に比べて、広栄は常に冷静沈着だ。呉陽の第一副将として、常に暴走気味な上官を上手く御していると思う。

「呉陽殿そのものに決まっておろう」

 茶々を入れた私に対して、「紫苑殿もです」となんの遠慮もへったくれもなく突っ込む。細く一重の瞳が注意深げにきらめいて、強制的に私の口を閉じさせる。

「今宵に限っては、くだらない喧嘩をしている暇はありません。お二人が一番よくおわかりかと」

 広栄が顎をしゃくって自分たちの左手を促す。有無を言わせぬ態度に、上官のはずの呉陽が黙って馬首を巡らせる。明らかに文句を言いたそうな口がへの字に曲っているが、広栄は僅かも取り合おうとはせぬ。

 主従関係が逆転しておるぞと笑いながら、私も二人に倣う。何気なしに見たその先に、黒をも呑み込む闇がぽっかりと口を開けて待っていることに気づく。執拗に絡みつくそれが、身の内まで侵食されたような気色悪さに似ていた。

 瞬間的に蘇るのは、幻影の如き翻る白。


『君は、私のようになる必要はありません』


 いつの日か、そう言った人がいた。蝙蝠を持つ手を震わせて、だが私に気づかせぬよう長い衣の裾で隠して。

 やるせなく(こうべ)を振って、僅かに瞳を伏せる。それでも、次の瞬間にはすでに手綱を繰って、馬を走らせていた。

 私は、私の望むままにゆく。たとえ、どれほどの犠牲を積み上げ、地獄の亡者に足を取られようとも、それは変わらぬ。変えてはならぬのだ。

「紫苑、どうした? 闇にでも呑まれたか」

 無愛想な声が珍しく名を呼ぶ。何一つ表情を変えたつもりはなかったが、疑るように振り返った呉陽の目は何かに気づいていた。

 まったく困ったものだ。普段は何かとがさつで抜けている癖に、こういう時に限って怖ろしいほどにすべてを見抜く。

「……何も。そなたの部下を、どこへやったのだと思うてな。さてはわたくしの命でも狙うて、そこらの木々の陰にでも隠しておるのか」

 一度だけ瞬いて、いつものように軽口を叩く。平静をあえて装うほどに動揺する可愛さなど、始めから持ち合わせてはおらぬ。だが、おそらくは私が誤魔化したことすらも呉陽は気づいていた。その上で知らぬふりを決め込むのが、今の二人の距離であった。

「ふん。某がおぬしを狙うだと? 思い当たる節でもあるならば、自省したらどうだ」

「わたくしが自省する理由など、一つも見当たらぬではないか。斯様な寒い夜に駆り出される、そなたの部下までも厭うておるというに」

 重厚な鎖帷子の上に羽織った、見るからに重そうな上着を指で突つく。案の定、虫を掃うが如く振り払われる。

「無駄に触るな、縁起でもない。おぬしのせいで化け物に憑かれたらどうする」

 呉陽は大げさに肩を竦めて、乱れてもいぬ衿を整え、夜の闇に溶け込む純黒の装束を自慢するように胸を張った。

 無駄な装飾も布地も省いた膝丈の上衣と身体の線に沿った細めの袴は、あまりにも殺風景でなんの面白みもない。冬用の分厚く長い靴に巻かれた足音を消すための綿のような布が、用意周到な男の性格を如実に現している。

「そなた自身が化け物みたいな面して何を言う」

 なんだとといきり立った顔はまさに般若のようだ。後頭部できっちりと括った髪が表情を険しくさせている要因だと、本人だけが気づいておらぬらしい。

「お二人共、その程度で仕舞にしてください。うるさくてかないません」

 大仰な溜息をついて見せた広栄は、呉陽の影に似て同じ装束をまとっている。蛇に似た顔が引っ詰められた黒髪と相まって鋭さを増しているが、飾り気のかの字もない呉陽とは対照的に、広栄は常に光物を絶やさぬ。雫型の小さな耳環をよく好んで身に着け、結髪をまとめる簪一つ取っても、派手さはないが優美な彫り物がなされ、耳環と同じ石が片側に垂れている。

 だが、その耳環が警告していた。赤く揺らめく輝きは、天で啼き始めた不気味なカラスの鳴き声と相まって、密やかに私を捕えようとする。

 結わずに垂らしたままの髪が風を舐める。ぬるりとした粘液に似たそれは黒を孕んで、容易く人間を闇に引き摺り込む。それを恐れるどころか、歓喜して待ち望む己の在処を、私は知っている。

「わたくしを信用できぬと……、今さら申すつもりではあるまいな」

 広栄は呉陽よりも慎重に表情を選び取って、貼りつけたように思えた。まるで一枚の紙をめくるかのように、その青白い顔の下が剥がれ落ちる。

「私は将軍と同意見です。あなたを信じるには、……その言葉、力、本心。どこまで誠と言えましょうか」

「人の本心など……探るだけ無駄というもの、泡沫の如く消え失せる。手には掴めぬのだよ。されど、……わたくしが我が君に捧げた言葉に嘘偽りはない。たとえ、そなたらが信じまいと」

 どちらとも取れぬ曖昧な微笑みを浮かべて煙に巻く。心の奥底を隠して、誰一人として真実を悟らせることはない。

「ならば、その理由を申すべきだ」

 気づけば、呉陽が私の行く先を阻むように馬を寄せていた。必然的に止まった馬上で、二つの鋭い視線が私を射抜く。――嗚呼、煩わしい。何もかもが。

 どこか諦めが混じって、くすりと嗤う。

「何がおかしい?」

 呉陽の鋭利な眼光が突き刺さる。柄に添えられた無骨な手が、今にも大刀を抜こうとしているようにも見えた。

「おぬしの殿への忠義が誠ならば、その証を見せろ。……戦を勝利に導けるその力、誠に殿のためだけにあり、決して殿に仇なすことはないと」

「それを見せたところで、そなたは満足なのか」

「なんだと?」

 まばらに散る細雪が、深々と私たちの間に降り積もってゆく。呉陽の馬が蹄でそれを蹴散らし泥に変えてしまうのを、もったいなく感じるもそれ以上の感情はない。――置いてきた心に届くものは、もう何もない。

「人は信じたいように信じ、見たいように見る。そこに真実は関係ない」

「おぬしは某が事実を歪めるとでも申すつもりか!」

「現に、そなたは何一つ見えておらぬではないか。……誠も、偽りさえも」

 呉陽が怒りに目を剥く。僅かばかりの理性で抜くのを押さえている右手が震えている。

 嘲笑するように蝙蝠で顔の半分ばかりを隠すが、それを未だ冷静な声が遮る。今にもはち切れそうな呉陽の理性を留めるように。

「どうせあなたは始めから手の内を明かすつもりなどないのでしょう。我らをあなたの言う愚かしい人間と侮って、交わらないように一線を引いている。ですが、所詮あなたも自らの力に驕った人間に過ぎない。――話したくないというのならそれでもいい。馴れ合いは私も勘弁ですから。ですが、あなたはそれでどうやって戦をするつもりなのですか。誰の信も得ず、誰の言も聞かず、反感を生む存在でしかないあなたについてゆく将兵がいるとでも?」

 広栄はどこまでも淡々としているがゆえに、その言葉はまさに鋼。

 心の中で嗤った。確かに誰もついてはこぬだろう。平気で部下を見殺しにしようとする女についてゆく奴など、よほどの馬鹿か変態か、もしくは欲に取り憑かれた人間くらいだ。だが、私にとってついてくる将兵がいようがいまいが、そんなことは大した問題ではない。そのことに彼らは気づいておらぬ。

 ――その時鳴ったのは、鴉の声。かあかあと退廃的な茜空にこそ似合うそれだが、今は闇だ。しんと静まり返った夜が、ただそこに横たわっているだけの。

 どうやら(とき)がきたらしい。溜息をついて、羽織を胸の前で掻き合わせる。

「瑣末にかかずらわって、大局を逸する。そなたらがしようとしておるのはまさにそれよ。わたくしはすべきことをする、ただそれだけだ」

「逃げるつもりか!」

 手綱を打ち、前に進み出ようとした私を呉陽が遮る。その顔に浮かぶのは、まさに執念。

 溜息をつく。髪を乱れさせる冬の風よりも冷たい何かが、私と二人の間を裂くように落ちてくる。その裂け目があまりに深過ぎて二度と修復できずとも、私のやるべきことは決まっていて、待ってはくれぬ時を過ぎるままにしておける時間もない。

「……そなたが戦功を焦るとは、珍しいな。わたくしを出し抜かんと、部下たちを庵に配したのは良いが……、爪が甘い」

「……なんだと?」

 何かが燃えるきな臭い臭気が、微かに風に混じっている。はっと顔を上げた呉陽の横顔から、徐々に顔色が失せてゆく。

「とうに無駄であろうが、忠告しておいてやろう。あの庵は、罠ぞ」

 今や呉陽の顔色は白を通り越して、病弱なまでの青白さだ。先に我に返った広栄が乱暴に馬を叱咤し、風のように駆けていったが、それでも呉陽の瞳は驚愕の色を浮べたまま動こうとせぬ。

 言葉を失くした二人の許に、黒い影が旋回しながら降りてくる。すっと腕を伸ばすと、軽やかに着地して、かあと一鳴きする。黒々としたその羽を撫でてやりながら、あえて言葉を紡ぐ。

「そなたは自らの選択で(とき)を廻した。……その結果がどちらに転ぼうとも、わたくしが関知すべきことではない。ゆえに、わたくしは何度も申したはずだ、一人で暴走するなと。されど、それを聞かぬと決めたのまた、そなたの選択だ」


 *


 六二四年睦月五日。


「彼女が動きますか……」

 重く圧しかかる月が天に懸かっていた。

 静かな宵だが、これから起こることは、それとは間逆の凄惨さを秘めている。にもかかわらず、心静かにいられるのは、絶え間なく続いてゆくその先を知っているゆえに他ならぬ。

 耳の脇で軽く結っただけの髪が、立ち上がった振動で背に流れる。柔らくゆったりとした直裾(ちょくきょ)と呼ばれる丈の長い装束の裾が椅子から零れ落ちて、怠惰な吐息を漏らした。

高蓮(こうれん)様、御館様がお呼びです」

 音もなく控えていた小姓に微笑みを向けると、年端もゆかぬ少年は頬を赤く染めた。

 凍りついた森のような静けさと色を併せ持つ高蓮の色香は、理性のなんたるかも知らぬ少年に跳ね除けられるものではない。高蓮の切れ長の瞳が細められれば細められるほどに、少年は絡め取られるように高蓮に近づいていった。

 まろびながら足元に跪いた少年は、神をも見るような恍惚の表情を浮かべている。それをなんの感慨もなく見下ろして、つるりとしたその肌に手を伸ばす。

「もうすぐ、彼女に会えるのですね……」

 冷え切ったこの暗闇の部屋に身体は在りながらも、心は遠く彼方にあった。唯一の熱を示す少年すらも、高蓮の心を取り戻す(よすが)にはなり得ぬ。

 ――瞬間的に蘇るのは、太陽を背にした影。

 あまりにも美しく、あまりにも刹那な記憶の欠片は、今や現実のものとなって高蓮の手の届くところにあった。

 高蓮はただそれを掴むためだけに生きてきた。そのために必要な何かがあるならば、躊躇なく差し出すだろう。たとえば自分を恋い慕う憐れなこの少年の命であろうとも、いとも容易く、そして最も残酷な手段で奪ってしまえる。

「今宵は騒がしくなりそうですね」

 色を失くした世界に、再び色を取り戻す存在――それを掴めねば、もう自分は形を成すこともできぬ。

 肩に羽織っていただけの羽織に袖を通して、脱ぎ捨てていた柔らかい布靴に足を入れる。少年が我に返って、慌ててそれを手伝おうとしたのを無下に遮り、高蓮は部屋を出た。とうに少年のことなど頭から消え失せていた。


 *


 自分は何をやっているのだろうと、時折思うことがある。

 地方の一豪族に過ぎぬ己が、王の皇子である宋鴻に真っ向から敵対して、部下を死なせた時。結局敗北を喫し、その御前に引き摺り出され、文句の一つでも言ってやろうと思ったが、誰にも覆せぬ崇高な志を持った宋鴻に、逆に自らの意志が覆された時。圧倒的な力を見せつけた紫苑というただの女に、自分では敵わぬと悟った時。

「……某は……」

 そして、今――呉陽は痛烈に感じていた。自分は何を仕出かしたのか。紫苑よりも功を挙げたいなどという、浅はかな欲で、一体自分はどれだけの命を犠牲にしたのか。

 庵の茅葺は、火矢の名残に黒煙を立ち上らせ、土足で踏み躙られた庭の玉石があちこちに飛び散っている。背後に横たわる雄大な自然は、仙洞の如き美しさを兼ね備えているというに、人界はとうにそんな感傷を失っていた。

 呉陽はその人間の前で、膝から崩れ落ちた。身体がずたずたに引き裂かれ、まるでぼろきれのように力尽きていたのは、宋鴻に対した時より呉陽に付き従ってくれていた部下の一人であった。「紫苑一人だけに良い思いなどさせません、任せてください」と言って、呉陽の愚かな作戦に文句の一つも言わず、先陣切ってそれに加わったのだ。

「おぬしらを……死なせるために、こんなことをしたわけでは……」

 おぼつかない視線は、さらなる悔恨を写し取る。

 ある者は泥に突っ伏し、ある者は庵の土壁にもたれ、ある者は四肢を地に投げ出している。皆、鋭利な刃物で切り刻まれたかのように無数の切り傷を負い、そこから流れる血は目に染みるほどの赤。握り締められた剣が真っ二つに折れているのは、彼らの命をもそうやって呆気なく手折られたことを意味するのか。

「何もすべてを己の咎と責めることもない。さすがは高蓮、だということだ。このわたくしすらも惑わせるのだからな。されど、この術は……」

「高蓮、だと……? もしや、すべて奴の……」

「十中八九そうだろうな。我らはあやつにまんまと利用され、この者たちは、それの犠牲になった。いや、犠牲になったのは、呉陽殿の驕り、にか」

 紫苑の香が傍らで強く香り、膝をついた自分の隣にきたのがわかる。下腹部に開いた大きな裂傷へと手が伸び、一瞬紫苑がその力で命を取り戻してくれるのかと、浅はかな希望を抱いてしまう。

 羞恥に目が眩む。自分はどこまで自らの責任を他人に拭わせるつもりなのか。

 紫苑はおそらくその呉陽の葛藤に気づいてなお、肯定も否定もしなかった。そして、内臓すらも覗いている無残な傷痕を、跡形もなく綺麗に消し去ると、再び立ち上がる。

 彼女の手つきには、驚くほど迷いがない。命を奪う時も助ける時も、こうして助けられぬ命を少しでも綺麗にしてやる時も、いつも同じ風情、同じ静謐さでこなしてゆく。

「人である限り、誰もが過ぎるままに、運命(さだめ)に身を任せることしかできぬ。そうして、あるべき結果が残り、それが歴史になる」

 さもなんでもないことのように紫苑は説く。

 白く揺蕩う衣の裾が、蜉蝣の如く淡く翻るのは、それこそ紫苑の生を表しているかのようで。その儚さゆえか、紫苑を憎み切れぬ己がいることもまた、呉陽は自覚していた。だが、常にそれも揺れている。紫苑の神よりも惨い微笑みを垣間見るたびに。

「つまり、あなたは知っていたということですか。この結末を」

 先に駆けていった広栄が、闇からぬらりと姿を現す。

 死んでいった部下たちと似た裂傷が頬に走っている。何かを追いかけてきたのか、荒い呼吸で肩が揺れ、右手に握られた剣からは血が滴っている。それでも、その殺気すら孕んだ視線の先は、ひたと紫苑を見据えていた。

「彼らが死ぬことを」

 雪の混じった風が、両者の間を裂くように吹きつける以外音もせぬ。薄く降り積もってゆく白が惨劇を覆い隠そうとしたとて、すえた血の臭いが現実を叫んでいる。そんな極限状態の中、紫苑の赤く小さな唇は弧を描き歪んでいた。

「わたくしは、始めに言ったはずだ。今日、ここで高蓮を討ち取れるか否かは、わたくしでも判断に迷うと。ゆえに、被害を最小限にするため、必ずわたくしの指示に従え、さもなくば命の保証はできかねるとな。――嗚呼、確かに知っていたとも。それでも、そなたらはわたくしの指示に従わず、こうして命を犠牲にさせるであろうことはな」

 はためいた紫苑の羽織が、ゆらゆらと闇を連れてくる。染み出した血痕に似たそれが、狂気すらも含んで襲いかかるが、その程度で呑まれるほど闇を知らぬ彼らではなかった。

 何かを紫苑に期待したわけではない。何かを、望んだわけではない。にもかかわらず、今味わっているこの感情はなんなのか。舌の奥まで広がるこの苦味は一体なんなのか。

「せめて……せめて一人だけでも、救ってやることはできなかったのですか!」

 珍しく声を荒げた広栄を、紫苑はなんの感慨もなく見下げていた。乱れた衿を直すその細い指が、舐めるように滑ってゆく。

「安易に言うてくれる。それの意することすら知らずに……のうのうと」

 身体の芯から凍えさせるような冷気を孕んだ声。表情には見えずとも、紫苑が微かに怒りを覚えているのだと呉陽はなぜかそう思った。自分たちが紫苑に対して怒っているのとはまったく違う理由で、紫苑はその感情を持て余している。

「神が定め給うた人の命の長さは、誰にも変えられぬ。それでも、その禁忌を犯そうとするならば、それ相応の対価が要ろう。そなたは、それを支払う覚悟はあるのか。その覚悟があって、わたくしにその禁忌を願い出るのか」

 辛辣な問う声に、答える者はない。広栄は言葉を失い、頭を抱えて座り込んだ。

「おぬしは……」

 ――その覚悟を決めたのかと問おうとしてやめた。

 闇よりも黒い黒曜石の瞳を見れば、音にすることのほうが無粋。

 紫苑という人間を知ろうとすればするほど、さらなる深みに嵌ってゆくような気がした。限りある命を、呆気なく喪われてゆく命を――それを知りながらもなお、紫苑は揺らがぬ。紫苑は命を天秤に懸けたわけではなく、さりとて情を優先するわけでもなく、ただ世の理を受け入れている。

(それは、どれほどの孤独なのか……)

 呉陽の心の声が、聞こえたはずはない。だが、紫苑にかかる薄闇の紗が、微かに濃さを増したのは、どんな情からであったのか。

 辺りに散らばっていた亡骸が、蝙蝠の動きに合わせて、すうっと宙に浮かぶ。それらが紫苑の視線の先に一列をなして並び、その下にとろりとした光沢のある白磁の小さな壷が現れた。その壷の蓋が外れると、亡骸が足の先から塵となって、その中へと吸い込まれてゆく。

「わたくしはこれから先も、見捨てねばならぬ命は見捨て、助ける必要があると判断すれば助けよう。味方も敵も、わたくしの見据える行く末の前では、等しく駒でしかないゆえ、そなたのように情で動くことはない。それだけはそなたの慰めにもなろうか」

 虚空に響く紫苑の声は、怒りとも違う何かに滲んでいた。それが胸を突き刺して痛い。痛くて、堪らぬ。

 完全に人の形を失った彼らの残滓が、すべて壷の中に吸い込まれると、かちゃんと乾いた音を立て、蓋は閉じた。紫苑は僅かに安堵したような表情を浮かべ、なぜかそれが印象的に瞳に焼きつく。

「わたくしは知っている。そなたらの来し方も、これからの行く末も。……さりとて、それがすべてではない。人はそれだけで生きてゆくのではない」

 すべての壷を封じた紫苑は、呼び出した桐箱にそれらを詰め、押しつけるように呉陽の腕に乗せた。

「おぬしは何を……。しかも、これは……」

「多少手荒く扱うても、壊れぬよう術をかけてある。……受け取るべき相手に渡るまで、それは途切れぬだろう」

 そうではないと言いかけた呉陽ははっとした。

 紫苑の端正な横顔が、月に照らされている。真っ赤な唇を真一文字に引き結んで、そっと天を仰ぐ。風になびく艶やかな黒髪に、呉陽は一時桜の幻を見たような気がした。不意に紫苑が初めてこの地に現れたのも、桜の季節だったことを思い出す。

「人は己の役目を果たすために在る。運命(さだめ)に逆らい、理不尽な世界に足掻くのは、すべてはそれゆえ。そして、そこに叶えたい願いがあればこそ、善にもなれれば……――」

 その口調に何かを懐かしむような色が混ざっていたのは、なんだったのか。

 天を仰ぐことでかろうじて押さえつけている何かが、紫苑を蝕んでいる。蝕んで、ずたずたに食い尽くそうとしている。だが、紫苑はそこから無様に逃げ出すような真似もせぬ。

「際限なく、悪にもなれる」

 華奢で壊れそうな紫苑の手から何かが落ちた。黄昏に似た琥珀色の小さな粒が荒廃した大地に呑まれて、そっと姿を隠す。

「ならば、おぬしは悪になると申すのか……」

 呉陽が言いかけた問いを遮るように、ひらひらと紙が舞う。雪のようでいて蝶のように優雅なそれを、紫苑は人差し指と中指で掴み、天に向けていた黒曜石の瞳を下界に戻した。

 我が意得たりと、妖艶に微笑んだ紫苑の瞳に、とうに輝く星は映ってはいなかった。あるのは底知れぬ闇だけ。

「やはりな。呉陽殿、我らは出し抜かれたようだ――高蓮が我が君へ宣戦布告した」

「なんだと?!」

 握り潰した紙を燃やそうとした紫苑に駆け寄る。

「もしや殿自らご出陣されたのか?!」

「知っているだろう、我が君はそういう御方だ。我らの留守を狙ってのことだろうが、情報が筒抜けなのがきな臭いな。されど、それはあとで考えることにしよう」

「殿が出陣されたとなれば、士気は充分だろうが、何分急すぎて兵が足りんだろう。ここから馬を急がせても、間に合うかどうかは五分五分だ……。おぬし、どうするつもりだ」

「別に大事ない、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。わたくしはここから転位するが、そなたらは一緒に連れていけぬゆえ、自力でなんとか戻って「――紫苑殿!!」

 それは悲鳴に近い金切り声であった。すべての希望を失い、ただ絶望に満ちたそんな声。

 冷静沈着な広栄が発したものにしては、あまりにも切羽詰っていて、怒涛のように迸る濁流に似た激しい怒りを湛えていた。それは呉陽を無視して転位の準備を始めようとした紫苑を、一瞬だけであっても留めるほどの。

「あなたは、まさか……――」

 面倒臭そうに溜息をついて、紫苑は広栄から視線を逸らした。たったそれだけの行為ですべてを解した広栄は、逃げようとした紫苑の腕を掴んで乱暴に反転させる。

「あなたの卑劣な行為を認めるわけではありませんが、それでも高蓮を討つ大義のためであるなら……、まだ死んでいった者たちにも顔向けができる。ですが、……あなたは……! それすらも踏み躙る!! あなたの本当の狙いは宋鴻様を囮に、高蓮自らが姿を現し、あなた自身の手で確実に抹殺すること。要するに今回の作戦は「――茶番だな」

 その表情にはなんの感慨もない。目の前で感情をぶつける広栄にも、死んでいった男たちにも、かけるべき情すらないとでもいうように。

「茶番とは……あなたは、どこまで我らを……愚弄すれば気が済むのか!! あなたはつい先ほど仰いましたね……、見捨てるべき命は見捨てると。……ですが、たかが茶番に付き合わされて死んでいった者たちにも、同じことが仰れるのですか!」

 人が死んでも眉一つ動かさず。大義のために、他人の命を代償に差し出すことも厭わぬ。

 それは、ある意味一軍の将として、あるべき姿なのかもしれぬ。一殺多生を旗印に、葬られてきた命が数多もあることを知っている。何人もの君主が、そうした手段を選択してきた歴史があることを知っている。――だが、それが最善だと認めたくはない。

「何を、今さら驚くことがある? わたくしは冷酷非道な術者、紫苑ぞ。その名を背負うと決めた時から、わたくしはわたくしの宿命から逃れられぬ。この身を地獄の業火に焼き尽くされ、二度と輪廻の輪に戻ることができなくなろうとも、わたくしは血の道をゆく」

 妖美に微笑む紫苑は、時々見せる﨟長けた眼差しのそれと似ていた。どこまでも遠く、呉陽たちには届かぬ先を追っているような。

 夜明けを告げる太陽が金色の光を放ち始め、瑠璃色の闇を掃っても、紫苑は未だ闇の中にいた。ずぶずぶと深みに嵌っていたのは、一体どちらのほうであったのか。

(おの)が望むものを、この手に掴むために」

 言葉を失っている広栄の腕を払って、紫苑は凛と立つ。

 その時、はっきりと呉陽は悟った。紫苑の中に渦巻くものは、自分たちが捧げた忠誠や覚悟よりも、遥かに堅いものなのだと。そして、それが揺らぐことなど、天地が滅びようともあり得ぬことなのだと。

 ゆえに、気づけば言葉が飛び出していた。なんの迷いもないその背を僅かでも引き留めたかったのか、もう自分自身でもよくわかっていなかった。

「おぬしが望むものとはなんなのだ! それほどまでの血を浴びても掴まねばならんものなのか! おぬしが望むものの先に光はあるのか!」

 今思えば、それが初めて紫苑に本心をぶつけた瞬間であったのかもしれぬ。

 これまで散々罵り合ってきた二人が、ほんの少しでも距離を狭めたその時は、あまりにも呆気なく訪れたゆえに、紫苑は初めて少し戸惑うような表情を見せ、そうして答えたのだろうか。

「……光ならば、もはや見つけた。我が君が選び取った未来(さき)にな。わたくしはそれにすべてを懸ける、この命さえも」

 薄い膜のようなものが、紫苑の身体を包み込んでゆく。その中で紫苑はただ自分を見ていた。あり得ぬほどの静かな微笑みが、呉陽の心を叩く。

「わたくしが創るのは、道筋。そなたらはその先で我が君に心からお仕えし、桜が降るように美しい我が君の治世を支えてくれ。……わたくしがそなたらに望むのは、それだけよ」

「その先とやらで、……おぬしは、おぬしはどうするのだ!」

 呉陽は自分でそれを聞きながら、答えを聞くのが怖いと思った。その先に自分は居ぬ――紫苑の口ぶりは、まるでそんな未来を見通しているかのようであった。

 なぜと問えれば、まだよかった。なぜ紫苑は居ぬのか、なぜそんな未来しかないのか。なぜ、紫苑はそれでも凛と立ち続けることができるのか。

 だが、呉陽の口からそれ以上言葉が転がり落ちることはなく、それは紫苑も同じであった。紫苑の姿が掻き消えるのを待って、呉陽の瞳から一粒の水滴が散る。哀しいのか、憤っているのか、もう呉陽にはわからなかった。――わからなかった。

 だが、紫苑が最後に見せた今までのどれとも違う、一切の嘲笑も含まぬどこまでも透明な微笑みが、すべてを物語っているような気がした。

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