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19/23

私は一人桜を眺め、酒を愉しんでいた。

熱く喉を潤すそれは、まるで死の薬を呑むようなそんな危うさとどこか似ている。一気に杯を干して、誰も居ぬはずの隣にずいっと差し出す。音もなく現れた鴉が杯になみなみと酒を満たしてゆく。常ならば呑み過ぎるなと、数限りなく嫌味を垂れ流すが、今宵ばかりは何も言わなかった。

「……もう、下がってよい」

鴉は何かを言いかけてやめた。

邸に戻ってからというもの、紫苑は今までになく安らかな表情をしていた。重い荷物をすべて降ろしてきたかのようなそれを見てしまえば、もはや鴉に紫苑を止めるすべはない。そう、すべては詮無きこと。ここで見苦しく引き留めたとて、明日がくることは避けられぬ。溜息のような吐息だけを残して、鴉は姿を消した。

「何も言わぬか……最後まで、ようできた者よ」

ゆらゆらと杯を弄びながら、片頬を上げ微笑む。

主の心を慮って、口を慎んだか。殊勝なまでの振舞いだが、それを嗤うことはできぬ。私がこれからしようとしていることを知って、鴉はまた、一つのものを失くすというのに。

酒に唇をつけ、一口だけ口に含む。こんなことを思うなど、感傷的で私らしくもない。

「今宵は、やけに美しい。……情けか」

 望月に照らされた桜が一つ、また一つと絶えることなく散ってゆく。音を失った世界で、ただそれだけが鮮明に発色し、生の儚さを謳っている。それは、まるで死に向かう者への散華。

 不意に背中の桜が痛む。今まで感じたことのない刺すような激痛に、杯が手から滑り落ちる。静寂に満ちた完璧な世界が、己の荒い息で壊されたことに苛立ちを覚えながらも、身体を支えようと床についた腕さえも震えていた。幾筋も伝い落ちる汗に目が沁みて、もはや桜を目に映すことすら叶わぬ今を、私はまるで他人事のように見ていた。桜にすべてを喰い尽くされ、そうして死を迎える自分を。

 瞳を閉じれば、この手で殺めた者たちが、肉が腐り落ちた手で私を地獄に引き摺り込もうとしているのが見える気がした。かつてはうなされるほど恐れたそれらだが、今はなぜか待ち遠しい。

 皮肉に顔を歪める。それでいい。地獄にでもなんでも連れてゆけばいい。それですべてを仕舞にできる。

「紫!」

 夜陰を切り裂くような声がこだまする。ふわりと優しい香が香って、気づいたときにはその逞しい腕に包まれていた。

「どうしたのだ、苦しいのか? 今、鴉を……」

 声を上げようとする鴛青を、袖を掴んで制する。

「……よい。この痛みは鴉にも……もう、どうすることも、できぬ。……そなたもわかって、おろう」

「しかし……」

 なおも言い募ろうとする鴛青は、傍目にもわかるほど動揺していた。

「そなたが、傍におれば、直に痛みも、和らぐ……」

 先ほどまで息をするのもつらかった痛みは、鴛青が触れているところから嘘のように引いていった。いつもなら鴛青の腕をすぐにでも振り払うが、それすら億劫になるほど身体が鉛のように重い。

 仕方なく鴛青の腕にもたれて深く息を吐く。そうするだけで、ゆるゆると力が流れ出してゆくような気がして心が冷えた。私に残された時間は、もう幾許もなきことを改めて思い知る。

「……貴女はすべてを懸けて、この国を救おうとしているのに……私は、傍にいることしかできぬのか」

 私の肩を抱いていた手に力が籠もる。額髪に隠れた鴛青の表情は読めない。それでも、鴛青が何をいわんとしているのか、私には痛いほどわかっていた。

「……もうよい、もうよいのだ。――明日、すべてが終わる」

 ふっと嗤う。

 鴛青が気に病むことなど何もないのだ。この痛みは、私一人が背負うもの。私の願いの代償として、この命が滅びるその時まで逃げることは許されない。

「終わる……? それはどういうことだ」

「そなたは、知らずともよい……」

 何かを考えていた鴛青がはっと息を呑む。

「まさか……武術仕合は……!」

 王の御前にあらゆる武人が馳せ参じ、その武を王に献上する。趙佶もその筆頭として、明日参列する。無論、高蓮も。国の最高の武人たちが集まるその席で、誰が最も武を魅せるのか。それは誰も知ることなく、そして後世に伝わることもない。

 すべての幕引きを、この手で。

「すでに賽は投げられ、運命は廻り始めた。……すべての、終焉に向かって。もはや誰一人それを止めることは叶わぬ。一切が終わり、静寂がこの世界を包むまで、記憶を刻み……歴史を、刻み続ける。……そうして、私はやっと……己の役目を果たすことができる」

 乱暴に身体を反転させられて、鴛青と向き合う格好になる。

 鴛青は髪を無造作に下ろしたままの上着を一枚引っかけただけの姿だった。身支度すら省くほど、何に焦って、ここに来たのかなど聞くまでもなくわかっていた。

 だが、あえて聞くのは、突き放すためだった。

「このような夜更けにその格好で……どこぞの女の下にでも忍んで行ってきたのか? 夜遊びも……」

「その役目とやらを果たしたら、貴女は……貴女は、どうなる……? もう……」

――もう、時が残されておらぬのに。そんな声が聞こえたような気がした。

 あの日、鴛青にすべてを告げてから、鴛青の何かが少しずつ変わっていったように思える。

 掌から砂が零れ落ちるように呆気なく失われてゆく命の時間を、私よりも鴛青のほうがはっきりと悟っていた。ゆえに、私が少しでも力を使わずに済むようにと、何度でも私の許に駆けて私を守ってくれた。その裏に潜む唐紅の想いに私は気づかぬふりをして。それが死にゆく者が、これから生きゆく者に最期に残せるものだと信じた。

 鴛青の胸に手をついて、おもむろに身体を離す。武人の癖に、こんなにもおろおろと動揺する鴛青を見て少しだけ笑った。

「……私の時代に、『願わくは桜の下にて死を乞む』……と言った奴がいたな……確かに、死ぬのなら、美しく儚く散るこの桜の下で死んでゆきたい」

 視線だけを桜の木に巡らす。はらはらと散る桜が、静かに私を死に導いてくれる。

「……鴛青。私はこうなった今でも、なんの悔いもないのだ。……かつての私は生きる意もわからずに、……無為に生きていた。そのような私が、命に代えてでも守りたいと思えるものを……見つけることができたのだ。そのためならば、私はすべての罪を背負うて、死にに逝こう」

 始めに私の手の上にあったのは、咲だけであった。咲を守るために、歴史を変え、人々を変えようと思った。

「希望に満ちた未来を創り、そして、このような私を支え導き慈しんでくれた愛しき者たちのために、私はこの身を懸けて……未来への道筋を守る。……瞼を閉じれば、人々の穏やかな笑い声が、愛しい者と交わす永久の愛が……美しく降る、桜が見える。……もう何も思い残すことはない。私はただ夢馳せて……死を得ることができるのだから」

 だが、そうしてゆくうちに咲以外にも大切なものができてしまった。

 命を懸けて御身を守ると誓った宋鴻、安らぎを教えてくれた紅玉、私に生きる道を与えてくれた羅人、私を理解し支えてくれた生涯の友、呉陽。――そして、鴛青。

 そのすべてを私は守りたい。そのために、私はこの力を得たのだから。

 不意に鴛青の手が伸びてきて、抱きすくめられた。ふわりと鴛青の香が私を包み込む。

「……えん……」

「貴女が、命を懸けて守ったこの世界で……貴女だけがおらぬその世界で、私に一人で生きてゆけと言うのか」

 声を荒げているわけではないのに、心臓がどきりとした。心に深く爪を立てられたかのような。

 柄にもなく、動揺してぼろぼろと言葉が崩れる。

「……生きて、ゆけるさ……そなたを、愛して、くれるひ……」

 言葉を攫って、鴛青は私に口づけた。

 初めて会ったあの日以来、素振りすら見せなかったそれを、なぜ今――

「何をする……!」

「誠に、誠にそう思っているのか! 貴女の命と引き換えに成り立つこの世界で、貴女を忘れ、他の女を愛することなど……私は……私は、貴女を……!」

「鴛青! ……それ以上言うてはならぬ、言うてはならぬぞ!」

「しかし、私は……!」

 冷たく鴛青の腕を払い落とす。

 鴛青が言いたいことはわかっている。わかっているが、聞くことはできない。その言葉は、私をこの世界に引き留めるものでしかない。そんなものは聞きたくない。

「それ以上、私は知りとうない! 早う、去れ。……そして、私のことなど二度と思い出してくれるな」

 立ち去れと言った癖に、逆に自分がこの場から逃げようとする。この雰囲気からなのか、鴛青のまっすぐな瞳からなのか。おそらく、その両方から私は逃げ出したかった。

 だが、立ち上がりかけた私の腕を鴛青は力任せに引いて、もう一度その腕の中に戻した。

「離せ! えんしょ……」

「離さぬ! よく聞け、紫!」

「嫌だ! 離せ……!」

 まるで子供のように鴛青の腕の中で暴れる。

 聞きたくない、聞きたくない。その言葉を聞いたら、私は――

「紫!」

 力強い手で頬を抑えられ、鴛青の瞳から目を逸らすことができなくなった。その吸い込まれそうな瑪瑙の双眸で、何度私を惑わすのか。

「えん、しょう……」

 お願いだ。何も言わないで欲しい。

 何も言わずに、すべてを墨で塗り潰したかのような闇に捨て去って欲しい。そうして、何もなかったことにして、私は一人静かに死んで逝きたいのに。どうして。

「愛している」

 どうして、最後の最後にその言葉を私にくれるのか。

 ぽろっと涙が零れた。がらがらと何かが崩れてゆく音が聞こえる。身体が震えて、上手く息ができない。

「貴女を愛している。たとえ、貴女が私を咲殿と重ねていてもいい。それでも、私は貴女を愛している」

 幾筋も零れ落ちる涙を鴛青は優しく掬った。頑是ない子どものように泣いたのは、いつ以来だろうか。そんな私を鴛青は悲しげに見つめる。

「手荒なことをしてすまぬ。私を捨てて、死に逝こうとしている貴女を見て……どうにも抑えられなくなってしまった。だが、私の言った言葉は誠だ。私は……貴女の誠の想いが知りたい。貴女は、いつも……宋鴻様や未来の話ばかりする、自分のことは二の次だ。だが、貴女自身は何を想っているのだ? その中に、私は少しでもおらぬのか……」

 私の……想い?

 何かを言いかけようとして、ぎくりとした。一瞬、身体に力が入らなかった。まるで、身体が自分のものではないかのように重い。指一本すら動かすのが、億劫になるほどの倦怠感。

――己の役目を果たせ。

 刹那、頭の中で聞こえた声は誰のものだったか。冷静になって、ゆっくりと口を開く。始めからわかっていたではないか。私と鴛青が共に歩いてゆける、そんなお優しい未来は始めからない。

「……愚かなことを。そのような台詞は他の女にでも、くれてやるがよい。……そなたなら、もうわかっているな? 明日、私は死ぬ。そのような女に愛を誓うなどと、そなた若い癖にもう耄碌したのか」

 馬鹿にするように、盛大に鼻で嗤う。

「ゆえに、早う立ち去るのだ……私は、そなたを想ってなどおらぬ」

 鴛青は何も言わなかった。おもむろに懐に手を差し込むと、懐剣を取り出す。装飾のなされた美しい鞘を勢いよく抜くと、闇に放り投げる。

「……何をしておる。怒り狂って私を殺すつもりか」

「ならば、私を殺せ」

 思わず、私は息を呑んだ。この男は今なんと言った? 自分を殺せだと?

 戯言を抜かすなと、言いかけて口籠もる。鴛青の瞳はなんの感情も表してはいなかった。一切の情を切り捨てた瞳。人を殺めてきた者だからこその、辺りを圧倒する冷厳なる覇気。私は前にも一度だけ、その瞳をした鴛青を見たことがある。私を襲おうとした高蓮の手先を追い返す時も、今と同じような瞳をしていたことを不意に思い出す。

 固まったまま動かぬ私に、鴛青は懐剣の柄を握らせる。ひんやりとしたそれに、私は我に返った。

「……な、何を言うておるのだ! なにゆえ私がそなたを殺さねばならぬ!」

 懐剣を捨てるために鴛青の手を払おうとするが、逆に痛いほど強く握られる。きっと睨みつけても、鴛青の表情は変わらない。そこには先ほどまで、ぐらぐらに揺れていた鴛青の面影はなかった。

「鴛青! 手を離さぬか! 離さねば……」

「……貴女のおらぬ世界で生き永らえたところで、なんの意があろうか。この想いさえ否定されるのならば、私はいっそ貴女の手にかかって死んで逝きたい」

 そう言って、鴛青は私の手に握られた懐剣を自分の首に当てる。

「さあ、早く刃を引き、私の首を掻き切ってみせよ」

「そ、そのようなこと、……私は、できぬ」

「なぜだ。私のことを露ほども何も想っておらぬのならば、今まで貴女が殺めてきた者たちと同じように、殺せるだろう。それとも、私が見知った人間ゆえ殺せぬとでも? そんなことでは、貴女は明日何も為すことができぬぞ。貴女が私を殺さぬというのなら、私は貴女が明日何をしようとしているのか、すべて雇い主に話す。わかっていたはずだ、私は元はといえばあちら側の人間でしかない。……貴女は冷酷非情な陰陽師、白妙の羅刹だ。その名を忘れたのか」

「……、私は……」

 違う、とは言えずに、私は唇を噛みしめた。

 冷酷非情な陰陽師。そんなことはわかっている。確かに、私は今まで多くの命を眉一つ動かさずに奪ってきた。それなのに、いざその行為を鴛青の口から聞くと、消えてなくなりたい衝動に駆られる。なんて都合のいい考えなのか。

 お前は何をしようとも、白妙の羅刹であることに変わりはない。今さらこの男の命を奪うことを躊躇ってどうするのか。早く、その刃を引いて殺してしまえ。秘密が露見する前に、口を封じてしまえ――

「早く引け!」

 懐剣が鴛青の首に触れる。鮮血が赤い糸のように一筋流れ落ちてゆく。赤くて、真っ赤な血が、鴛青の首から――

 血と、死。唐突に理解する、事実。その瞬間、すべての箍が弾け飛んだ。

「やめて! ……(わたし)には、できない! あなたを殺すことなんて……だって、私はあなたを……!」

 カランと音がして、懐剣が床に落ちた。一気に力が抜けた身体を鴛青が抱きとめる。

「えん、しょう……ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 うなされたように、ごめんなさいと叫び続ける。知らぬ間に、言葉が以前のものに戻っていることにも気づかずに、何度も。

 鴛青の指が顎に触れて、自然と上に向けさせられる。

「貴女は前に言っただろう。望みを叶えるためには、それ相応の対価が必要だと……望みが難しくなればなるほど、差し出す対価もそれと等しく大切なものを失わねばならぬと。……私の望みはただ一つ。――貴女だ」

 決して、望まぬと思っていた。自分は望むべきではないと、思っていた。それでも、紫苑を前にするとその決意は呆気なく崩れ落ちる。

「だが、その望みは罪に等しい。貴女は真にはここに存在するはずのない者。貴女と私は決して交わるはずのない者。そして、貴女は私に似て、否なる人を……想い続けている。そのすべてを壊して、私は貴女を求めてしまった」

 自分のこの想いは紫苑を苦しめる。わかっているのに、止められない。紫苑を自分だけのものにして、この腕に抱きたいと何度も願ってしまう。

「ゆえに、私は私の最も大切なものを差し出さねばならぬ。……私は、貴女を得て……貴女を失うのだ、永遠に。……これほどの対価は他にあるまい」

 紫苑の瞳から零れ落ちる雫を愛おしげに掬う。何もかもが、ただ愛おしかった。

 自分はこんなにも人を愛すつもりはなかった。武人である以上、自分もいつかは戦場で命を落とすだろう。その時に愛すべき者がいれば、必ずや己の足を引き留める。主に捧げたはずの命を捧げることができなくなる、と。愛は、時として理性を奪い、諸刃の剣となりかねない。

 だが、鴛青は紫苑を愛した。すべての覚悟を以って。

「そのような……許されぬ。そなたは、幸せにならねば……そこに、(わたくし)はいぬ」

「何を言うのだ。貴女は今ここにいて、私の腕の中にいる。私は、それだけですべてが満たされる」

「私は……! 私は、明日死ぬのだ! 私は、そなたに何も残せぬ……引き返すなら今だ、今ならまだ間に合う」

 唇を噛みしめて、顔を背ける。

 情などに惑わされて、自分を失ってはいけない。私は、なんのために今までやってきたのだ? この人に、鴛青に幸せになってもらうためではなかったのか。

「引き返すことなど、できるわけがなかろう!」

 身体を攫って、強く抱きしめられる。その強さにどうしようもなく、心が引き裂かれる。

「私は何があろうとも、貴女に出会えたことを悔やみはせぬ。貴女を忘れて生きてゆくことも、もはや不可能だ。ならば、私は選ぶ。……貴女を」

 放心した紫苑を見ると、胸が痛む。

 自分がこの想いを打ち明けねば、紫苑は静かに明日を迎えたのかもしれない。それでも、鴛青は選んだ。傲慢な恋心でも、紫苑を少しでもこの世に引き留めることができるのではないかと。

「私は、選んだ。咲殿を超えられずともよい。貴女が少しでも、私を愛してくれるのなら。どうか、言って欲しい。貴女の愛が、私にとって生きる希望なのだ」

「……私も、とうの昔に選んだ。咲は、もういぬ。今、ここにいるのはそなただ」

 鴛青の腕を払う。想いと裏腹に感情が高ぶる。

 咲を忘れられぬのは、私だ。それなのに、鴛青が咲に遠慮をしているのがなぜか許せなかった。

 無意識のうちに、鴛青に惹かれていったことに途中から気づいていた。鴛青を遠ざけようとしていたのはすべて、その想いが咲への想いを上回ってしまわぬようにするためだった。だが、鴛青はそんな私の必死の努力をいとも容易くぶち壊して、私の心の中に自分の在り処を勝手に作ってしまった。それは私の力では壊すことも、気づかぬふりをすることも、もう不可能だった。

 ゆえに、知らぬまま死にたかった。咲が私に与えてくれるはずもないその言葉を。

「咲はな、初めから手に入るはずのない人だったのだ……! 咲は私が知るよりも前に、すでに他の誰かのものだった。それを知りながら想いを寄せた私に、咲は苦しみ罪の意識にずっと苛まれていた。自分の軽はずみな行動が愛した人を苦しませている……その事実に耐え切れなくなって、私は勝手に過去に来て、勝手に己の命を懸けた。……これが事実よ。笑いたければ、笑うがいい……! 私はそなたに負けず劣らずの馬鹿な女よ!」

 ずっと、目を背けていた。

 咲は確かに私を好いてくれていた。だが、鴛青の私に向けるそれとは違う。鴛青はすべてを懸けて、私を得ようとしている。過去を美化して、己に都合のいいところだけ覚えているこんな私を。

――愛していると。

「そなたは私が欲しいのだろう? ……なれば、私を奪え。すべてを忘れさせるほどに私をめちゃくちゃに壊して、死ぬことを後悔させるほどに、私を愛しなさい! それだけの覚悟がなければ、私を手に入れることは……」

 言葉の最後が途切れる。

 触れるだけの口づけから徐々に互いを貪るように、唇を奪い合い抱き合う。さながら獣のように欲と熱を求めた。唇が離れると、お互いに荒い息で見つめ合う。

「……貴女を得るということは、失うということと等しいのに……それでも私は貴女を求めることをやめられぬ。愚かで無力な私を、貴女はそれでも愛してくれるか……? 貴女と今だけでも共に生きる夢を与えてくれるか……?」

 鴛青の瞳に先ほどの冷たさはもうない。すべてを包み込んでくれる、温かくて優しい瞳だ。

 もう一粒、涙が零れる。

 こんな想いは初めてだった。今まで愛とは、相手を想って相手のために身を引くことだけだと思っていた。私は愛する人に温かな想いも幸せも、何も残すことはできない。唯一残せるのは未来だけ。だからこそ、私は咲の記憶を奪った。私ではない誰かと歩いてゆく未来に、苦しみを残したくなかったから。

 それでも、私は――

「……鴛青、私はそなたに何も残せぬ。それでも、あと少しだけでも……傍にいて欲しい」

 鴛青にだけは、傍にいて欲しいと願ってしまった。それが、許されぬことだとわかっていても。

 もう一度唇が重なる。先ほどよりも深く何もかもを絡め取るように。しゅっと衣擦れの音と共に、帯が引き抜かれるのを感じた。そのまま静かに押し倒される。

「……紫、愛している」

 鴛青がそっと頬を撫でる。少し悲しげな瞳が私の心に爪を立てながら。

「私は、本当は紫を手放したくない、本当は……」

 呟いた言葉を掻き消すように鴛青は私の身体中に口づけをくれた。

 その熱にうなされて、夢を見る。愛する人と共に生きてゆく夢を。そっと瞳を閉じる。現実を瞳に映すのは、もう少しだけ先に延ばしたかった。

 何度も口づけを交わして、鴛青の指で快楽の絶頂に何度も押し上げられる。何もかもを忘れないでいようと思った。鴛青の息遣いも、熱も、愛も。すべて私の中に閉じ込めて。

「……紫、……」

 うっすらと瞳を開ければ、鴛青の顔が見えた。声を押し殺し、私に気づかれぬよう必死に抑えている、愛別離苦の涙。

 そんなに泣くのならば、私を得るべきではなかった。私を得るということは、一切の喪失と同じことなのに。何も言わずに鴛青の身体を抱きしめ、お互いを反転させた。少し驚いた表情で見上げてくる鴛青に微笑む。

――それでも、得らずにはいられない。

 どっぷりと浸かっても許されるこの愛を知ってしまったら、もう知らなかった時には戻れない。お互いを喰い尽くしながら、この愛は輝きを増してゆく。その輝きは運命(さだめ)すら変える。

 出会うはずもなかった二人。私にとって鴛青は、とうの昔に死んだ人。鴛青にとって私は、生まれることすらわからぬ人。だが、なんの徒か二人は出会い、愛を知った。


『愛していますよ。されど、きっと君はもう一度人を愛すのでしょう。妬いてしまうけれどね』


 不意に思い出すのは、羅人の最期の言葉。

 羅人はこうなることを、始めからわかっていたのだろうか。わかっていて、自ら身を引いたのだろうか。

 そう考えると、面白くなかったから心の中でだけ悪態をつく。だがわかっていたとしても、私は鴛青を求めたのだろう。それが、認めたくなくとも――運命というのなら。

 ゆっくりと二人が繋がる。その瞬間、背中に焼けるような痛みが走る。

「ああああっっっ……!!」

 絶叫して、倒れかかった身体を鴛青が咄嗟に抱きとめる。

「どうした!? 紫、大丈夫か……!!」

「……だい、じょうぶ……いい、から……続けて」

 新しい桜が背中に刻まれてゆくのがわかる。

 最初の頃はほとんど感じることがなかったが、最近では一つ刻まれるごとに、あまりの痛みで気を失いかけることもあった。

「大丈夫ではないだろう! やめ……」

「やめてはならぬ……!!」

 鴛青の言葉を遮るようにして叫ぶ。

「私はもういい……だが、愛をやめない、で……そなたを、感じて……ずっ、と……そ、ばに……」

 永遠の時は、もうこない。

 ならば、今だけでもあなたの傍に。その愛を感じて、熱を知って、私は花を散らす。

 鴛青は、ただ頷いた。

 私はやはり幸せをあげることはできなかった。鴛青に悲しい顔をさせてばかりで。だが、どこか深く安堵する自分がいた。私との日々が鴛青にとって、最も悲しい出来事ならば、もう鴛青にこれ以上悲しみはこない。その感情を与えられるのは、私だけ。その事実が、酷く嬉しかった。

「お願い……鴛青」

「……わかった。紫がどんなに泣き叫ぼうと、もうやめぬ。よいな」

 答える代わりに、口づけを交わした。

 鴛青は真実強い人だった。不安も何もかもを呑み込んで、私を愛してくれる。その強さに委ねて、私は深く息をつくことができる。それはただ鴛青の傍でだけ。私は愛がこんなにも愛しいものだと、初めて知った。終わりゆくこの時になって、やっと。

 桜は散る。はらはら、はらはらと、音もなく。その時は、近い。

 愛を焼きつけるようにして、瞳を閉じた。

――願わくは桜の下にて死を乞む。深き安らぎを知りて、愛しき人に別れを告げむ。

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