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 近頃、宮城内が妙に活気づいている。

 鄭貴妃が亡くなってから、久しく行われていなかった武術仕合が明日に迫ったためか、武人はともかく、官吏たちも浮き足立っていた。

――無理もない。このところ嫌な出来事が立て続けに起き、未だそのすべてが解決されたわけではないのだ。本来ならば自粛させるべきなのだろうが、束の間の気晴らしに興じたいという気持ちはわからぬでもない。

 だが、呉陽にとっては関係のないことだった。新年の恩赦で宋鴻の幽閉は解かれたとはいっても、然したる役職もなく、すでに忘れ去られた存在だ。幽閉直後に比べれば、宋鴻の復権を叫ぶ者たちも増えてきたが、神宗を本格的に廃そうという動きにまでは至っていない。

 それも呉陽にとっては、煩わしいものでしかない。紫苑と決別したあの日から、宋鴻は塞ぎ込み、紅玉が傍にいる時だけしか笑わぬようになった。唯一の慰めは、紅玉が密かに出産した若君だけであったが、それも若君の存在が露見してしまえばどうなるかは知れている。

 なぜ、こうなってしまったのか。

 宋鴻による新しき世を待ち望んで、皆命を賭したというのに、何も苦労を知らぬ者たちが朝廷を貪り、宋鴻を嘲笑う。自分にもっと力があればと、何度悔やんだかは知れない。

 だが、呉陽はあの日の紫苑の言葉を疑おうとは思わなかった。たとえ、今のこの状況が紫苑によって引き起こされたと誰もが叫んだとしても。近頃、様子のおかしかった敬徳が見るも無残な骸で発見され、それを紫苑の仕業だと誰もが決めつけても――呉陽は紫苑の裏切りを信じなかった。

 今でも、鮮やかに蘇るあの横顔と共に思い出す。紫苑を信じると決めた日のことを。

 ゆえに宮城の長い廊下を歩いていたその時、太い柱の影で風に舞う白い衣が見えたのは幻覚だと思った。太陽の光に反射して目にも眩しいその衣は、咄嗟に紫苑を思い出させて、無意識に足が向く。だが、そんな自分に気づいてやるせなく笑った。

 そんなはずはない、あるわけがないのだ。紫苑の歩く道と自分が歩く道はすでに分かれていて、もう二度と交差することはない。それを認めるのが未だにできぬ自分が見せた幻覚だと言い聞かせて、呉陽はそのまま立ち去ろうとした。それでも足が止まる。なぜか、このまま立ち去ってはならぬと己の中の勘が警告していた。自分はあの衣の主を知らねばならぬと、何かが叫んでいる。

 つま先をその方向に向けて、ゆっくりと近づいてゆく。今までにないほどの緊張に手が震え、息をすることすら上手くできない。柱の裏まで来て、引き返そうかとも思ったが、呉陽が選んだのはその先を知ることであった。

 ばっと回り込む。呉陽は、瞬間的に言葉を失った。そこにいた人物にではなく、その人物の異様なやつれ様に。

「……し、……紫苑! 紫苑!!」

 苦しげな表情で座り込んだままの紫苑の肩を掴み、必死に揺する。それゆえに気づくのはその異常さ。まるで今にも消えてしまいそうなほど身体は痩せ細り、肌は死人のように青白い。だが、呉陽はそんな考えを振り払った。自分はなんて不吉なことを――

「……ん、……なん、だ……呉陽、殿か……」

「今、医官を呼んでや……」

「よい……少し、眠っていただけだ」

 声を上げようとした呉陽を押し留め、紫苑は柱に手をつきながらふらふらと立ち上がった。

「よいわけがなかろう! どうしたのだ! 面やつれて、以前と似ても似つかんぞ」

「そう、怒鳴るな……まったく呉陽殿は……相変わらず騒々しい……」

「そういうおぬしも変わらんようだな! だが、医官は呼ぶぞ」

「よいと申しただろう。……今日は、すべきことがあって来たのだ」

「すべきこととはなんだ! そのようになってもやらねばならんことか! 少しは自重することも覚えろ、紫苑」

 ぷりぷりと起こりながらも、なんの疑いもなく呉陽は紫苑に肩を貸し、その名を呼んだ。そうすることがあまりにも当たり前であったゆえに、紫苑の笑い声の切なさに呉陽は柄にもなく戸惑う。

「……そなたは、未だにそう呼んでくれるのか……」

「阿呆か。おぬしの名は、紫苑しか……」

「知っているだろう。今、私を紫苑と呼ぶ者はない。というより……私の名すら知らぬ。私は『白妙の羅刹』であるからな」

 自嘲気味に嗤う紫苑に言葉が詰まる。いつから紫苑は、そんな何もかもを諦めたような笑みで笑うようになったのだろうか。

「紫苑……」

 呉陽は返す言葉が見つからなかった。紫苑にもう一度会うことができたら、言ってやろうと思っていた言葉は山積みだったのに。いざ本人を前にすれば、言葉は声にならずに消えてゆく。

 そんな呉陽を知ってか否か、紫苑はもう一度微笑んだ。

「……呉陽殿、少し付き合うてくれ」


 くる者を萎縮させるような形相の鬼瓦を備えた重厚な門を紫苑の身体を支えてやりながら潜る。

 以前の紫苑ならば、こうして誰かに頼ることは決してしなかった。それが、今やほとんどの体重が呉陽に預けられているその意味を、呉陽は知りたくなどなかった。

 唐突に施政殿の扉が開き、中から見覚えのある青年が姿を現す。紫苑を一目確認すると驚いたような表情をしたが、すぐに厳しい表情に戻して、わずかに頭を垂れる。

「……中へ、どうぞ。呉陽殿、……紫苑殿」

 策が呼んだ名に、支えていた紫苑の身体がぴくっと反応するのがわかった。一瞬、紫苑の表情を垣間見ると、満足げに微笑むのが見えたような気がした。

 策はそれからこちらを振り返ることもなく、落ち着いた色合いの廊下を進み、その奥にある御史大夫屋に導いた。部屋の前にいた衛兵に何事かを言いつけ、衛兵を下がらせる間も策は以前のように取り乱したりすることはなかった。

 策の中で、何かが変わったのだろうと思う。歳相応の幼さのすべて捨てて、一人の観察御史として立てるように、何かを選んで覚悟を決めた。おそらくはその覚悟を、呉陽も決めるべきなのだろう。ゆえに、紫苑は自分をこの場所に呼んだ。

 『人は己の役目を果たすために在る』――かつての紫苑の言葉が蘇る。

 異様なほどの静寂に包まれた施政殿内と同じように、その部屋の中も静まり返っていた。むしろ、冷気すら漂っているような気がするのは、この部屋の主のせいに違いない。そして誰もが、これからここで起きることを知っていて、それゆえなのだろう。

 中央に用意された簡素な椅子に紫苑を座らせ、呉陽は壁際に置かれたもう一つの椅子に腰かけた。それを見計らい、策が重々しく口を開く。

「人払いは済んでいます。ここで話されることは、ここにいる者以外、誰一人知る者はいません」

「なれば、結構……始めに、突然の来訪をお許しいただき、包拯殿には感謝する」

 今まで見せたことのない真摯な態度に、包拯はわずかに眉を跳ね上げた。屹然とした表情の紫苑に、策から聞いていたようなやつれは見えない。それが、紫苑の意地と誇りなのかもしれなかった。

「……貴殿の名は、紫苑というのだな」

 何を言おうかと迷い、包拯は気づけばそう訊ねていた。

 尋問するときは、どう話を進めれば効率よく真実を引き摺り出せるかと計算し尽くされた会話しか発さぬ自分が、言葉を迷うのは珍しい。紫苑とこうしてまじまじと向かい合うのが初めてで、その美しさに不覚にも動揺したのかとも思ったが、おそらくそれは違う。

「近頃は、その名で呼ばれることも少ないが……そう、それがここへ来て初めて得た名よ」

 紫苑はこれまで対峙してきた人間のどれにも当て嵌まらない。

 色欲、暴食、強欲、怠惰、嫉妬、憤怒、傲慢――大抵の罪はこれらの大罪に類するが、紫苑からはそのどれもが感じ取れなかった。もし、唯一あるとすれば、天も罪すらも恐れぬその強い意志からなる――傲慢。

「羅刹などというふざけた名よりも、ずっと貴殿に相応しい」

「羅刹という名も、私は気に入っているがな……私を言い得ておるだろう?」

 気に留めた様子もなく、紫苑は笑っていた。鬼と呼ばれ罵られてもなお、なぜそうやってなんのてらいもなく笑えるのだろうかと包拯は思う。

「絶世の美女で、鬼をも魅了するその(かんばせ)で人を惑わし、残虐非道に殺める。一切の情を持たず、冷ややかな瞳は血を見るたびに悦楽に歪む。そして純白の衣で包みて、あの世へと誘う――それが、『白妙の羅刹』。貴殿のことだな」

 肯定するように紫苑は肩を竦めてみせた。

「自分で聞いても恐ろしい話よ、まったく」

「だが、それは貴殿の力を恐れた民が勝手に作り出した妄言に過ぎぬ。それでも今や誰もが貴殿といえば、羅刹と答える。貴殿の真名は忘れ去られ、羅刹が真実となった」

 包拯の視線が隣に立っていた策に移る。それを待っていたというように、策は一つ深呼吸をして話し始めた。以前のような脆さなど微塵も見せずに。

「羅刹と聞けば、まるで本物の鬼のように民は恐れ、あなたのそれまでの業績も、果ては人格さえも否定された。ゆえにあなたが鬼だとすれば、それを倒す者として……民はある御方を待ち望むようになった。勧善懲悪、因果応報。それは、民が最も喜ぶ言葉です」

 何一つ出なかった紫苑の過去の代わりに、それらは探さずともそこにあった。

 始めは気にも留めなかった。紫苑のやってきたことの報いの一つに過ぎぬと。だが、それは紫苑の思惑にまんまと引っかかっただけであったのだ。

「たとえ、今は悪がこの世を支配していたとしても、いずれは必ず滅ぶ時が来る。形あるものに永遠はなく、それは悪も同じ。苦しみを負わされるのは、いつも民です。だからこそ、悪もいつかは滅ぶものだと信じなければ、明日を生きていくことができなくなる。そんな民にとって……その御方は標。混迷な世を導いてくれる光」

 一度言葉を切って、大きく息を吸い込む。その様子を、紫苑はただ見つめていた。

「あなたは……宋鴻様を、そんな存在に導きたかったのですね」

 この人しかおらぬゆえ仕方ないではなく、この人でしかあり得ぬといわしめる存在へと。それを、他でもないこの国のすべての者たち自身の意志で選ばせるために――紫苑は鬼になり、『白妙の羅刹』となった。

「……私は、そこまで高尚な者に見えるか」

 紫苑の重ねられていた手がわずかに動く。

 笑いながらも、紫苑の自分を見る目は真剣そのものであった。だが、策は自分が導き出した答えに怯むことはなかった。

「何かを変えるためには、自身が強く変えたいと思うことこそが重要なのでしょう。誰かに押しつけられた幻想や生半可な覚悟では、何も変えることはできない。今や朝廷には、若い官吏が増え、政のあり方を自分たちで変えようと動き始めた。民は力なき王に追い縋るのではなく、自らの王を自らの考えで決めました。誰もが、いつからか諦めていた何かを変えることのできる力……それは、自らの中にあることを、あなたは私たちに教えたかったのではないのですか。――私たち自身が、この国を守っていくために」

「私がなにゆえそのようなことをせねばならぬ? この世は放っておいてもいずれはなるようになり、人が望めば続き、そして滅ぶ」

「確かにそうですが、それはいつのことでしょうか。いつ正しき王が立ち、いつ平和な世が来るのでしょうか。私たちはそれを待つことしかできないのでしょうか。……いいえ、それは違います。待つだけでは意味がない。誰かに与えられるだけの未来では、意味がない」

 最後まで言い切ってみて、策は自分の膝が震えていたことに気づいた。

 見た目のみで論じれば、紫苑は自分より少し上なだけだろう。――だが、自分とは違う。生きている覚悟が。そんな人の前で、己の考えを暴露することがこれほどにも恐ろしいとは知らなかった。それでも、策にはまだ知らねばならぬことがあった。

「しかし、自分にはわかりません。……なぜあなたはそこまで己を擲って、私たちを変えようとしたのですか。唯一の主を裏切ってまで、あなたが犠牲を払う必要がどこにあるというのです?」

 紫苑は肯定も否定もしなかった。だが、嗤うこともしなかった。

 一度だけ伏せられた睫毛が、震えていた。

「……さて、何が犠牲といえるかは、人次第であろうな。……私は己の望むことのためにだけ、生きてきた。その対価として差し出したものがなんであろうとも、私はそれを決して犠牲などとは思うまいよ。望みにはすべからず対価が必要であり、その理を破ることは誰であろうともまかりならぬ」

「では主を失うことも、あなた自身の命を失うことさえも、対価だというのですか」

「否。……私は得たのだよ。望み、失うことで」

 深く椅子に座り直した紫苑の横顔は、どことなく安らかな表情に呉陽は見えた。すべてを失う覚悟を決めた女の静けさがそこにはあった。

「すべてを裏切り、すべてを失のうても、それでも私には守りたいものがあった。……すべては、愛する者たちのために――」


 *


「以前、私は師匠に問うたことがある。私がしようとしていることは……間違っているのだろうかと」

 今宵は、珍しく自分から口火を切った。私の杯に酒を注いでいた鴛青の手が一瞬止まる。

「初めて人をこの手で殺めた時、私は……このようなことをするくらいならば、私の願いなど……叶わぬほうがよいのではないかと、そう思うたのだ」

 こんなことを鴛青に話すつもりなどなかった。いや、鴛青だけではなく、羅人以外の誰にも。それなのに、気づけば言葉が口をついて出ていた。

「涙を浮かべ、懇願するように伸びた手を……私は、無情にも振り払い、そして――殺した。その時の叫び声が、今も耳に残って……私を問い詰める。お前の願いは……人を殺め、不幸にするだけだと」

 鴛青が注いでくれた酒を一気に飲み干しても、今宵は酔う気配がない。すべてを吐き出して、忘れてしまいたい夜なのにそれすらも許されぬというのか。

「されど、師匠は……私に、答えを与えてはくれなんだ……惑うくらいならば、その者の命を償って死ねと仰られただけだった」

「随分、厳しい師匠であるな……」

「ふ……そうだな。師匠は楽に答えを与える方ではなかった。与えられただけの答えに、なんの意もなきことを……師匠自身がようわかってらしたからなのやもしれぬな」

 羅人はいつだって厳しかった。

 すぐに惑いそうになる私をそのたびに突き放して、辞めたければ辞めればいい、死んで償えと吐き捨てるように言った。所詮、そなたの願いはその程度だったのだと言われるたびに、私は酷く悔しい思いを味わった。

 普段はのほほんとして虫も殺さぬような顔をしているにも拘らず、『世界』のこととなると羅人は豹変した。一切の妥協を許さず、寸分の狂いもなく、ただ冷徹に正確に淡々とこなしてゆく。その背を見て、不思議と私の決意も固まっていったような気がする。

「師匠は常に仰られた……私たちの為すことに、決して失敗は許されぬと。失敗すれば、そこにあるのは……滅びと、絶望。守るべき世界を己の手で壊すのだと」

「ゆえに、貴女はいつも一人でやろうとするのだな。失敗できぬからこそ、他の者にその責任を負わせぬように」

「そのような大それたことなど思うてはおらぬよ。……ただ、私は信じることができなかったのだ。決断を下すのは、私以外の誰でもない、私でなければならぬと。……されど」

 明日、私は御史台に向かう。若さしか取り柄がなく、それに驕って道を逃そうとしていた、あの青年に会うために。

 策はすべてを知っただろうか。私の所業をすべて、明らかにできただろうか。なぜか心が浮き足立つ。これほどまでに高揚したのはいつ以来だったろうか。

「今宵の紫は、いつになく話をしてくれるのだな」

 再び私に酒を勧めながら、自らも手酌で酒を注ぐ。鴛青の表情もいつになく柔らかい。

 だが、これから話す内容におそらく鴛青はその表情を変えるに違いない。それでも、なぜか話さずにはいられなかった。

「……どうしてか、そなたに聞いて欲しいと思うたのよ。私の――罪の証を」

 血と腐り落ちた手が舞い戻ってくるような気がする。私の手を掴んで、今にも地獄の最奥へと引き摺り込もうとするかのように。ゆえに鴛青の袖を無意識に掴んでいたのは、それを恐怖と感じる私の最後の理性なのかもしれなかった。

「誰一人知らずともよいと、思うていた……すべての人から鬼だと言われ、侮蔑されるような人生を送った悪党。後世、そのように解されても私はなんとも思わぬと。だが……今宵、そなたの顔を見て、変わった。そのような人生でもただ一人にだけわかってもらえれば、私はそれで充分だと……心のどこかで思うていたことを――欲、だな」

 私は史実に人の皮を被った化け物だとか、情けを知らぬ鬼女だとか書かれるのだろう。事実、そうなるように私は動いたし、今さらそれを撤回するつもりはない。私の願いの前で、そんなことは些細な問題に過ぎぬからだ。

 だが、揺らいでいた。すべてが動き出そうとしている、今となって。

「誠の、私を遺してゆきたいと……愚かよ。所詮、この私も欲深き人の子に過ぎぬ」

「愚かではない。少しでも紫のことを知れるなら、私はなんだっていい」

 まっすぐな瞳は眩しかった。迷いなく言ってくれているとわかるその言葉も。だが、かつてようにそれから目を背けるのはもったいないと思えた。

「不思議な男よ……そなたに出会わねば、今宵このような想いで迎えることもなかった……誰かに託すことなど、恐ろしゅうてできなかった」

 託す――それは己を知ってもらわねば、真の意味で託すことなどできない。

 誰にも話したくないと思っていた罪と願い、それらを明らかにすることで次への道が拓かれる。そのことに私はようやく気づくことができた。

「私が宋鴻様を知ったのは、まだ自らの時代で生きていた頃であった。民に王になることを嘱望されながらも、父王に見捨てられ、命を奪われた悲運の皇子。それが、私の知る宋鴻様の運命(さだめ)であり……歴史だった。だが、師匠が現れ、その運命を変えることこそが、咲の運命を変えるのだと告げられたとき、私は己の行く末を決めた」

 宋鴻を初めて目にしたとき、その神々しいまでの圧倒的な存在感に私は息が止まるかと思った。

 そこには夢破れた悲運の皇子などどこにもいなかった。静かな闘志を瞳に宿し、崇高なる信念を胸に抱いた、輝く日の皇子――それが宋鴻だった。私はあの時ほど実感したことはない。私たちが見知ってきた歴史は人の生そのものであり、私たちと同じようにその時代を生きていたことを。

「仕えることの意も知らぬ私が、心を決めたのはその時であった。この御方を支えたい、命ある限りこの御方のために尽くしたい。……思えば、それは一目惚れのようなものだったのやもしれぬな」

「私の前でそんな話をするとは、妬かせるつもりなのか」

「仕方なかろう。宋鴻様は私にとって……すべてであったのだ。宋鴻様の手には数限りない希望があり、それは私が願う世界へ繋がるものでもあったのだから」


『誰も不幸に嘆き悲しむこともなく、理不尽な運命(さだめ)を享受せずともいい。愛する者と相生の道を歩むことのできる、そのような優しい未来を望める世界を』


 私の願いは、宋鴻の前で誓ったあの頃から、何一つ変わっていない。

「それゆえに禅宗や神宗でもなく、宋鴻様に王になっていただかねばならなかった。民と共に歩んでゆける、そのような尊い志を抱いた御方に……私は、宋鴻様が治める桜が降るように美しいその世界を夢見て、今日この日まで生きてきた。だが、私は……その世界を目にすることはない」

 宋鴻が王になった世界。

 それは、どれほど素晴らしい世界であろう。誰もが笑い、活気に溢れ、戦を忘れたその世界は。

「今の世界は、闇だ。光を導くためには、まず闇を滅ぼさねばならぬ。それには、多くの血と時間が要求されるだろう。闇はあまりにも多く、それに比べて私に残された時間はあまりにも少なかった。……ゆえに、私は決して最善とはいえぬ道を選んだ」

 鴛青の手がそっと伸びてきて、肩を抱かれる。知らずに震えていた私を優しく包み込む体温に、涙が零れそうになる。

「私は……次代に不必要な者を、片っ端から手段を選ばず排除するという、最も容易で最も許されざる道を取った。それが、あの時は最善だと思えたからだ。宋鴻様の道を阻むであろう者たちを幾人とも知れず、この手にかけた――私は、鬼だ」

 血に怯えて、飛び起きた夜は何度あっただろうか。発狂しそうになって羅人や鴉に術で無理やり眠らされた夜は、何度あっただろうか。

 本当の私は自らの罪に怯えるただの臆病者でしかない。誰も愛さぬ、人と馴れ合うことはせぬと豪語しながら、いつも縋る人を探して、咲を失えば羅人、羅人を失えばこうして鴛青に縋ろうとしている。

 なんという、醜さなのか。

「私は、ただ……優しい世界を、望んだだけであったのに……なにゆえ、私はこれほどにも……血に染まってしまったのか……」

 今は、思う。あの時、違う選択をしていたらと。もっと他の誰かの言葉を聞いていたらと。

 ゆえに、私は策に会いにゆこうと決めたのかもしれなかった。次代を創るだろうあの若者ならば、私とは違う選択をするのかもしれぬと願って。

「……今宵だけは、傍にいてくれ……」

 頭をわずかに鴛青のほうに傾ける。私を包む優しい香りに包まれながら、最後の夢を見る。

「貴女は血に染まってなどおらぬ。……誰よりも優しく、清らかで……まっさらだ。貴女は私たちが思うような神などおらぬと言ったが、私にしてみれば貴女こそが神。何度傷を負っても、私たちを救い愛してくれる……」

 鴛青の腕が私を癒すように包む。

「貴女が望んだ願いがあったからこそ、今この国は変わろうとしている。貴女の願いは決して無駄ではなかったのだ。ゆえに……ありがとう。貴女がこの時代を選んでくれて、よかった」

 『ありがとう』――そんな言葉を言ってくれる者は今まで誰もいなかった。本当に、誰一人。

 この世界に来てから語りつくせぬほど、色々なことがあった。そのすべてが救われたようなその言葉に、ついに私の瞳から涙が零れた。


 *


――突如、現実に引き戻された策は身体の感覚を失ってたたらを踏んだ。酷い眩暈がして、頭を押さえながら机に手をつく。

 今、何が起こったのだ? 紫苑が『愛する者たちのために』と言ったまでは覚えているが、その後頭の中に何かが無理やり入り込んできて、紫苑と鴛青の会話を見させられていた。夢を見ていたのかとも思うが、包拯や呉陽も自分と同じ顔をしていることからして夢ではない。策が見たものと同じものを見ていたのだ。だが、どうやって――

 椅子を引く音に策が顔を上げると、疲れたような表情をした紫苑が立ち上がっていた。

「それでは失礼させていただこう。これを見て、どうするかはそなたら次第よ。どちらに転ぼうとも、私はその運命を静かに受け入れよう」

 名を呼ばれ、呉陽も立ち上がる。紫苑の傍らに立ち、その身体を支えてやりながら扉へと向かう。

「……なぜですか?! なぜ……!」

 今、見たのはきっと紫苑の記憶だ。紫苑が実際、鴛青に打ち明けた自らの罪の証。

 この際、どうやって見せたのかなどはどうでもいい。それよりもなぜ、そんなものを見せる気になったのかだった。これまで頑なに隠してきた紫苑自身の過去を、なぜ今さらになって自分たちに見せたのか。

 戸惑った策の声に、紫苑の足が止まる。振り返ることはせぬまま凛と顔を上げた。

「さてな。今まで、己の望むとおりに事を進めてきたが……誰かに最後の決断を託すのも、よいかと思うてな」

 呉陽の手が扉を押す。重苦しい空気を打破するように、柔らかな光が室内に走ってゆく。その中を、紫苑は穏やかな表情で歩いていった。まるで重い荷物を降ろしたかのように、ほっとした笑顔で。

 それを横目で見ながら、呉陽は必死に涙を堪えていた。自分がここで涙を流すのは、違うような気がした。紫苑の覚悟を自分も受け止めねばならなかった。己の主のために。


「……よいのか」

 俯いたまま、黙りこくっている策に包拯は問いかけた。

 紫苑の行動は、一つの手段だった。それが正しいかといえば、決して最善ではない。だからこそ、紫苑は決して自分の選んだことを仕方がないとは言わなかった。それが紫苑の覚悟と誇り。何かを為すために必要なもの。

 正義を貫くための覚悟を、紫苑は自分たちに問うているようにも思えた。

「よいのか」

 もう一度問う。

 紫苑は選んだ。そして、策も選ばねばならない。その先に進むために。

 策ははっと顔を上げ、そのまま部屋を飛び出していった。


「紫苑殿!」

 呉陽に支えられていた紫苑が止まり、今度こそこちらを振り向く。その衝動で舞い上がった絹糸のような黒髪が紫苑の表情を隠す。

 策は何も整理できぬまま、気づけばすべてを吐き出していた。

「自分は……自分は納得できません! 大切な者たちを守るためだとしても、そのためにあなたがしたことは、ただの人殺しです……! 人を殺めても、なんの解決にもならないではありませんか」

 愛する者たちを守りたい。それは、愛する者を得ている者ならば、誰もが抱く感情だ。

 人は愛する者がいるからこそ強くなり、脆くなる。だからといって、そのために他の誰かの幸せを奪うことなど許されるはずがない。

「大切な者を守りたい。その者たちの未来を守りたい。その想いは否定しません。しかし、あなたはそのために、他の誰かの幸せを奪ったのです!」

「そうだ。そして、その奪った命の代償が――この結果よ」

 呉陽の腕を払い、紫苑は一人で立とうとしたが、足に力が入らぬのかふらふらと柱に倒れかかった。咄嗟に差し出された呉陽の腕を紫苑はもう一度払う。

「人の命を奪う対価は、何よりも重い。なれば私も己の命を以って、それを払おう」

「そういうことではないのです!」

 拳を握りしめ、策が叫んだ。その意志の強さに、紫苑が不覚にも目を見開くほどに。

「命は容易に投げ出せるものだとお思いですか? ……私は、知っています。呉陽殿も紅玉姫も、おそらく宋鴻様も! その他にもあなたが係わってきた人たち皆が、あなたを少なからずも慕っていた……あなたは一見冷酷に見えるが、本当は情に深い人だ。それは、誰かのために命を賭そうとしていることだけでもよくわかります」

 策は、今も忘れられぬことがある。


『どうするべきか、ずっと考えておりました。ですが、私は決めました。紫苑様のご命令に背くことになりますが――あなた方は、紫苑様を誤解されています。……実はあなたがいらっしゃる前、紫苑様が訊ねてらして、策という御史が訊ねて来たら、偽りを言うようにと命じられました。また、紫苑という名ではなく、極力羅刹と呼ぶようにと……されど私は、紫苑様を羅刹とお呼びしたことなど一度もございません。私だけではなく、紫苑様を見知った者たちは口が裂けても、羅刹など呼ばぬのです』


「香蘭という者のことを覚えていますね? 彼女はあなたの名誉のために、神とも等しいあなたからの命令を破り、私にすべてを話しました」

 香蘭がどんな想いで策の許に来たかなど、自分には想像を絶する。だからこそ、何にも代え難い価値があると思う。その勇気ある行動には。

「私が、なぜ正直に話したのかと訊ねると、香蘭はこう言ったのです。『紫苑様は、お優しい人ですから』と」


 あの日、浩然が客だといって連れてきたのは、香蘭だった。

 思い詰めたような表情をした香蘭は、紫苑に命じられて心にもないことを言ったこと、そして策や浩然が他に聞いて回った者たちも同様に、紫苑に命じられ偽りを証言したことを白状した。


『紫苑様は、盗賊に捕まって慰み者になりかけていた私を助けてくださいました。それはもうお強くて、数人いた男たちをすぐに伸してしまわれて……震えていた私に手を差し伸べ、暗闇から救い出してくださったのです……私は、神を見たのかと思いました』


 そう、涙ながらに語った香蘭の言葉には、今度こそ嘘も偽りもなかった。

 そして、最後をしめくくった言葉は酷く策の心を打った。


『紫苑様がこれから何を為されようとしているのかは、残念ながら私にもわかりません。……確かに、紫苑様は厳しい面をお持ちで、紫苑様が大切にされていたすべてのものを断ってまで為されようとしているのを見れば、誰からも賞賛されるようなよきことではないのかもしれません。……それでも私は紫苑様を選びます。どんな結末が待っていようとも、それだけは譲れぬのです。……紫苑様を知らぬ者たちが羅刹と騒いだとて、それがなんだというのでしょう? 私たちはあの日私たちを助け、手を差し伸べてくださった紫苑様を信じます』


 策の口から聞かされた話を、私は呆然と受け止めていた。

 私は誰からも恨まれていると思っていた。宋鴻を裏切ったその時から、誰一人私を擁護する者などおらぬと。

「そのようなわけが……」

「あなたが見ていないだけではありませんか……? 気づいていないだけではありませんか? あなたは確かに必要とされているのです! 容易に、命を捨てるなど言いますまいな!」

 策はもはや叫んでいた。氷のような私の心を溶かしてしまうようなそんな熱を全身から発しながら。

 初めて策が本気で私に向かってきていた。鼻で嗤ったあの時とは、比べものにならぬ確固たる意志を持って。

「紫苑……策殿の言うとおりだ。おぬしは、己を大事にしなさ過ぎている。某も姫も、もちろん殿も、おぬしを犠牲にしてまで、己を生かそうとは思っておらなんだ。だが……おぬしのことだ。もはや振り返ることはせんのだろう」

 呉陽にはわかっていた。紫苑の話をすべて聞いて、だが紫苑が懺悔をするためにここへ来たわけではないことを。

「呉陽殿……!」

「おぬしは、おぬしが歩もうとする道に……なんら後悔はしておらんのだろう。後ろ指を指されようとも、後世悪人だと罵られようとも、おぬしは……己の決めたことを容易に翻すような者ではない。だからこそ、おぬしは先に進める……誰も為し得なかった奇跡を起こすことができる」

 呉陽が伸ばした腕を、紫苑は今度こそ払わなかった。まだ信じられぬというような瞳で、黒曜石のそれが戸惑いに煌く。

「呉陽……」

「ゆえに、策。某は紫苑が選んだ道を選ぶ。たとえ人から批難されたとて、紫苑がすべてを懸けて生きた道だ……某はそれを守る。己の――宿命に従う」

 やはり、紫苑はどこまでも残酷だった。

 今まで話そうとすらしなかった己の過去を、今この時になって自分に話すその意味。自分に託されたものの価値を知って、どうやって反対などできるか。一切の逃げ場を用意させずに、己の決めたことを貫こうとするその姿は、鬼よりも残酷で、そして何よりも――紫苑らしい。

 いつか自分はこの時の選択を後悔するのだろうか。紫苑を止めることもせずに、逝かせてしまったことを悔やんで、過去を取り戻したいと願うのだろうか。

「……何を後悔したとて、運命(さだめ)は変わらぬよ」

 きっと呉陽が何を考えているか正確に知って、紫苑はそう言って意地悪く微笑んでいた。その言葉を思い浮かべた過去の自分を思い出して、泣き笑いのように呉陽は微笑む。

「まったく……おぬしには敵わんわ……」

 自分にこんな選択をさせる者など後にも先にも紫苑しかいない。まったく、面倒な奴に懐かれたとも思うが、不思議と嫌ではない。ただ、あるのは寂しさだけだった。

「……他にもっと、方法が……あなたが命を賭さず、誰かの命を奪うこともなく……すべてを解決できる方法が、他にあったのではないですか……何かを、失わなければ得ることのできない世界など、理不尽ではありませんか……!」

 策には呉陽のように、紫苑のすべてを受け入れて、その願いを叶えてやれるほどの余裕はなかった。呉陽と自分とでは年齢も経験も、紫苑と過ごした時間も違い過ぎるのだろうが、何よりも策は納得できなかったのだ。

――代償、対価。

 そんなものに縛られ、生きねばならぬこの世界の理不尽さを。そんなにも窮屈であったこの世界を。

「……この世界はすべからず理不尽なものよ。誰かの幸せを願えば、誰かが不幸になる。どちらかが不幸を得ねば成り立たぬ。それが、この世界の現実だ。……されど私はこうも思う。不幸は、誠に不幸であるのか。己と他の価値観は違う。自らが選んだ結末ゆえに、己の選んだ道になんの後悔もなければ、そもそも不幸は存在し得ぬ。……なぜなら、それが誰でもない己の選択だからだ。……されど、人は己の決断にそこまでの覚悟を持たぬ。だからこそ、己の選択ゆえにも拘らず、人のせいにして己は不幸だなんだと泣き喚くのだ。私は、そのような手に負えぬ馬鹿共の世話をしてやるつもりはない。私がしてやれるのは、己の決断が他の要因によって故意に捻じ曲げられることをなくすことだけよ」

「他の要因……?」

「戦、盗み、謀り――人の意志によってもたらされる、悪のことだ。されど、私はそれらすべてをこの世界から失くせると豪語できるほど傲慢ではない。私ができることなど、所詮はたかが知れておる。あとは人の選択に任せるしかない」

「それでもやるのですか……? あなたのやったことが、人の選択によっては無駄になる可能性だってある。あなたが言うように、この世界の悪が完全に消え去るとも思えない。それに……あなたが命を懸けるほどこの国の人々に価値があるとは、私には到底思えません……!」

 策の揺れた瞳を見ていると、ここへ来た当初の自分を思い出す。

 命を奪うことにも己の決断にも非情になれず、揺れ動いていた私に。

「そなたが今言ったことのどれか一つでも、やらぬ理由になるのか。……そこに、わずかでも希望があるならば、私はすべてを懸けてそれを掴む」

 羅人はそんな私に、何度でも同じことを言った。

――希望があるのなら決して諦めるな。そんな言い訳が理由になると思っているのか。そんな覚悟で、己の望みを叶えることができると思っているのか――

「確かにそなたの言うことも尤もだ。……人は容易に嘘を吐く。裏切り、妬み、蹴落とし、己こそが至上の存在であろうとする。それは――人の性だ。ゆえに人を信じるなど、愚かの極みとしかいえぬ。この世界は……どす黒い塵溜めの中にいるようなもので、人はその底辺で争っているに過ぎぬ。されど、真実我が君は……希望であった。人を信じるなど愚かに過ぎぬがそれでも、唯一この御方にならば何かを託せると思えた」

 揺れているままでは、何も為せなかった。心に鍵をかけて、私を惑わせるものでしかない『感情』を放棄したのはそれゆえだった。それなのに私の傍にいようとする者たちは、その封じたはずの心を呼び覚ましてしまった。揺れることを恐れるよりも、誰かを愛するために揺れさえも受け入れたいと私に思わせるほどに。

「ゆえに、我が君や我が君を愛する人々を守ろうと、彼らが幸せに生きてゆける未来を創ろうと思った。……私のこの力は、そのためにあるのだと」

 切なさの滲む風に顔を上げて、流れ着くかの地を想う。

――随分、遠くまで来た。いつの間にか、守るべきものが増えてしまうほどに。

 何を持たなかった私の掌に、そっと重なる呉陽の頑丈そうな手のように、私はたくさんのものを手に入れていた。ただ一つしか得られぬといわれた己の宿命が嘘ではないかと思うが、得られたものと同じだけ私は失っていた。

人の良心というものを。

「されど、私は大切な人たちを守るといいながら、同じ手で人の命を奪い続けた。奪った命も守るべき命であることに変わりはないのに……そのような果てしない矛盾の中で息を潜め、闇に押し潰されそうになりながら……私は、今日この日を迎えた。私がしたことは結局なんだったのか。その答えは……今も出ぬまま」

 風の流れる先が、穏やかな地であればいい。そうすればきっと、悔恨に似た私の情けない言葉を聞くこともないだろう。

「そして考える。他に道はなかったのか、私はどこかで道を間違えてしまったのか、と。……だが、何を考えたとて、私にやり直す時間はもう残されてはおらぬ。私に残されているのは、私が行ってきたことの始末と……託すべき者たちに託すことだけ」

 策の頬に涙が走る。それを私は素直に美しいと思った。私はそんな涙を流すことを、もう随分前に忘れてしまった。

「策よ。これからの道は遠いぞ。そなたを潰そうとする輩は何も悪人の面を下げているとは限らぬ。少しでも気を許せば、すべてを失うと心せよ。誰にも阿らず、権力に屈さず、己の信じた道だけを歩むのだ。さすれば、そなたは決して裏切らぬ者と正しき道を得ることができよう」

「私が、本当にそうなれるとお思いでしょうか」

 紫苑のように、自分の信念にすべてを懸けられるのだろうか。自分はそこまでの意志を持てるのだろうか。だが、紫苑はそんな迷いを打ち払うように笑った。

「そのようなことまで私に聞くな。それを決めるのは私ではない。――そなた自身よ」

 紫苑の言葉がすっと心に入ってくる。こんな時にまで紫苑は答えを与えてはくれない。己で考えに考えて出した答えにこそ、意味があると紫苑は誰よりも知っていたゆえに。

「……自分は、やはりあなたを許すことはできません。しかし、あなたがいなければ……この国は変わることができなかった。それもまた事実です。――だからこそ、私はあなたとは違う道であなたが望んだ以上の世界を目指します」

 不可思議な力や武力ではなく、人が編み出した法の力で。王に縋るのではなく、王と共に考え歩んでいける世界を。

「いつの日か、きっと……いや、必ず私はあなたを超えてみせます。あなたが創った今よりももっと、素晴らしい世界を創り上げて……それをあなたへの餞にします。だから、今は泣きません」

 本当は今にも大泣きしてしまいそうだった。だが、それを堪えて凛と紫苑を見据える。

 泣いている場合ではない。自分に託されたものを守ってゆくために、為すべきことを。――己の宿命を果たさねば。

「そのように大それたことを言って……知らぬぞ? 私はもう、そなたのケツを拭いてはやれぬ」

「拭いてもらわずとも結構です!」

 馬鹿にするように笑う声も、少し呆れたような表情も、何もかもが今は愛おしい。

 紫苑は最後まで変わらず失礼で、だが強くて美しい人だった。

 そんな人を喪いたくないと思っているのは自分だけではなく、紫苑を支えるように立つ呉陽も、その他紫苑と係わってきた大勢の人々も同じなのだろう。だが、それを紫苑だけが気づいていない。自分がどれほど人々に影響を与え、愛されていたのかを。

 もし、それを紫苑に気づかせるとしたら、よほどの底抜け馬鹿か粘着系馬鹿のどちらかだろう。自分はそのどちらでもなく思い出すのは、切れ長の瞳に深い瑪瑙を宿したあの男。紫苑がくる直前に読んでいた調書の内容が蘇る。

「……あの男は、鴛青という男は……あなたが思うような人間では……」

「よい。……策、何も言うな」

 嗚呼、紫苑はすべてを知っているのだと悟る。それでもなお鴛青を置くのは、紫苑の一体どんな心情なのか。知りたくはないが、心に燃え上がる焔の色に気づいて、一瞬戸惑う。頭を下げて、逃げるようにその場を立ち去ったのは、その意味をもう知りたくはなかったからだった。


 策が立ち去った後、軋みながら開いた扉の向こうに厳しい表情をした包拯が立っていた。

 その表情だけで今の会話すべてを聞いていたのだとわかったが、お互いにそれについて何を言うこともなかった。

「紫苑殿」

「あの者の宿命は、『真実を追い、()る者』。御史という職ほどあの者にとっての天職はないでしょう。いずれ包拯殿よりも素晴らしい御史になるやもしれませぬ」

「ゆえに、策を焚きつけたと?」

 さて、なんのことやらと、私は肩をすくめて恍けてみせた。厳めしい表情がついぞ変わることはなかったが、瞳が微かに緩んだような気がした。

「では、今度こそ失礼させていただくとしよう」

 呉陽を促し、ゆっくりと歩き出す。その後ろで包拯は目上の者に対する最高の礼を取った。

「……貴殿に、心からの敬意を」

 消え入るような声で呟かれた言葉が、紫苑の耳に入ることはない。それでも、包拯は言わずにはいられなかった。

 やり方はどうあれ、紫苑もまたこの国のことを考え、少しでものちの世に希望を繋げようとしたことは、明らかであったから。


「……紫苑、あの時はすまなかった」

 ただ前を見続けながら、呉陽は呟く。

 今日この時が、紫苑と言葉を交わせる最後の時なのだと、無意識にわかっていた。

「某は、おぬしに死んで治せと、言ったようなものだったのだな」

 あの時、紫苑と紅玉が話していたこと。力の代償など、それまでの呉陽は考え至りもしなかった。自分が怒りに任せて放った言葉は、紫苑に死ねと言ったのと同等だったのだ。

 紫苑は今までそんな重大な事実をおくびにも出さなかった。自分の命が削られてゆくことを知りながら、力を使うことがどれだけの恐怖なのか呉陽にはわからない。そして、そんな恐怖に耐えていた紫苑に、これまで自分たちが浴びせてきた容赦なき嘲笑がどれほど残酷だったのかも。

 だからこそ、呉陽はもう迷わなかった。紫苑が命を懸けて宋鴻に仕えるといったその言葉が、たとえどんな状況になったとて、翻ることはないと。

「いつの話だ……もう、忘れたわ……」

「おぬしは、忘れていてもいい。某は、おぬしの願いを必ずや叶えてみせる」

「呉陽、殿? どうしたのだ、らしくもない……」

 紫苑がからかい笑う声は常に傍にあった。今だけではない。それなのになぜ今になってその大切さに気づくのか。紫苑との日々が走馬灯のように駆け巡って、抑えていたはずの感情を逆流させる。

――嗚呼、自分は馬鹿だ。

「……おぬしは、某の――生涯の友であるのだから」

 涙など、流したくなかったのに。意に反して、呉陽の瞳から絶え間なく涙が散ってゆく。

 もっと二人で宋鴻の傍で仕えていたかった。もっと年をとって毎日喧嘩して、そうして他愛のない日々を過ごしてゆきたかった。――もっと前から紫苑にぶつかってゆけばよかった。

 何もかもが終わりゆくこの時になって、ようやく友というかけがえのない存在になれたのに、もうすべてが終幕。

「涙脆いな、呉陽殿は……だが、ありがとう……」

 どうか、自分の唯一の友に、幸いを。どうか。

 呉陽は、ただひたすらに願うことしかできなかった。

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