禍
「星が……騒いでおる……」
天球を模した球体が嫌な音を発して啼いている。
尋常ではないそれに、朔方が慌てて立ち上がろうとしたとき、風が舞った。奥ゆかしいその香が誰のものであるかを正確に悟って、驚いて開いたままの窓の向こうに顔を向けた。
「鴉殿、なぜここへ……」
「それはあなたも知っているでしょう、朔方殿。――星が変わったのです」
遠慮なくずかずかと部屋の中に入ってこようとした鴉を慌てて止める。
「なりませぬ! 早く、邸に戻られるのじゃ! 陰陽省内とはいえ、ここは宮城なのですぞ!」
実体で転位してくるなど、危険が多過ぎる。神宗の腐敗政治によって、神聖さを欠いたこの宮城は、鴉にとって毒でしかない。そんな場所に数刻でもいれば、たちまちその身体は毒に侵される。そんなことがわからぬ鴉でもないはず。
「朔方殿もおかしなことを仰る。今さら、この身体が毒に侵されたとて――どうしようもない。私は、私の望むようにその時を迎えるだけです」
鴉はけらけらと屈託なく笑った。『その時』というのが、死ぬ時であることを微塵も恐れる様子もなく。
朔方は初めて紫苑に会った時から、それを知っていた。紫苑と鴉があまりにもよく似ていて、お互いに自らの命を軽んじていることを。だが、自分ではそれをどうすることもできなかった。自分は、紫苑に命を使わせているこの時代の人間でしかない。
「鴉殿……」
「そのように心配召されますな。確認すべきことを終えたら、すぐに紫苑様の許に戻ります」
鴉はそういって、朔方が見ていた球体の前に立った。一瞬にして表情が削ぎ落とされるのを間近で見ながら、朔方はまだ鴉を強制的にでも帰らせたほうがいいのではと思案していた。それは、鴉がくる直前に見た夢のせいだった。
「――どのような夢を見られたのですか。あなたがそれほど渋るのです、幸先のよきものではありますまい」
言い当てられたことに一瞬どきりとしながらも、驚きはしなかった。むしろ、鴉から切り出してくれたことに安堵すら覚える。
先刻、近頃歳のせいにして動きが鈍くなった身体とは思えぬほどの俊敏さで、朔方は飛び起きた。夢で占ることなど久しくなかったとはいえ、その情景は強烈過ぎるほど朔方の脳裏に焼きついて、今も鮮明に蘇る。
「複数の刃が交わる音と、流れる血が……紫苑様と共に」
静まり返った部屋に朔方の声が虚しく落ちる。言葉にしてみて、さらにそれの残酷さに気づく。
「……そうですか、では急がねばなりませぬね」
言葉と裏腹に鴉は大して気を留めることなく、ただ球体を見ていた。それよりも大事なことがあるといわんばかりに。
「鴉殿! こうしている場合ではありませぬ、おそらくこの夢が意味するは……」
――謀り。
それを音にする前に、鴉に手で制止される。
「何も仰らずに。すでに我が主はすべてを解されております」
「じゃが……紫苑様はそうでも、いざ戦闘が始まれば何が起こるかわからぬのが、謀りというものではございせぬか」
「では、どうせよと仰られるのですか。あるべき運命を曲げ、星の巡りを妨げろとでも? 二度目は許されませぬ」
何を言おうとも鴉が聞き入れぬことはわかっていた。自分の言葉程度で意志を曲げるくらいならば、紫苑も鴉もは始めから禁忌に手を伸ばしはすまい。
それでも朔方が引き留めたかったのは、迷いからだった。
――わかっていはいる。これはどうしようもなきこと。
歴史上召喚された術者の中でも、羅人に匹敵する力を持つ紫苑。だがその紫苑を以ってしても、自らの命を擲たねばならぬほどにこの時代は危機に瀕している。昨今、力のある術者が生まれぬのを危惧してきたが、それが今となって仇になっていた。全盛期の頃のような力が失われて久しい自分や、紫苑の足元にも及ばぬ他の術者たちができることはおそらくないのだろう。
だが、それは最善の選択なのだろうか。ここでただ星を見守り、結果だけを知ることが。
「あなたは忘れたのですか。己が策に言った言葉を」
鴉は自分を見てはいなかった。
この歳になると、誰もが朔方に気遣い、敬う者ばかりの中で、紫苑はそのどちらもすることはなかった。そればかりか朔方をただの一人の術者として扱い、他の者と区別することもしなかった。年齢という概念が存在するのなら、自分は紫苑より倍以上生きた年長者であるが、そんな瑣末なことは紫苑にとって必要なかった。
為すべきことの前で、生きた年月など関係ない。すべては、願いを叶えようとする意志の強さのみと、紫苑によく似たこの者は言うのだろうか。
その時、球体が悲鳴を上げて回り始めた。そして、突然の爆発音と共に球体が木っ端微塵に砕け散り、その残骸が何かを暗示するかのように鴉の目の前で浮遊する。言葉を呟きながら差し出した鴉の手の上に残骸が落ちるが、鴉がもう一方の手でそれを触ろうとすると、真っ二つに割れてその裂け目から血に似た赤い液体が流れ出した。
「……なんと、禍々しい……」
朔方は口に手を当て、ふらふらと後退った。爆発音に驚いた他の術者たちが、一斉に部屋に飛び込んでくる音が遠くに聞こえる。
「朔方様、一体何が……?」
部屋の中に満ちる負の空気に絶句しながらも、年長の術者がふらつく朔方の身体を支えようとした。だがそれを制して、先ほどから表情を険しくさせたままの鴉に駆け寄る。
「鴉殿、これは……やはり」
「ええ、星が変わった理由がやっとわかりました。どうやら紫苑様を排除するためならば、手段を選ばぬようですね」
*
紫苑は、武術仕合の根回しも兼ねて、兵舎を訪れた帰りだった。
夕暮れ時の血が塗りたくられたような茜空は何かを暗示するようで、怪しげな風が髪を巻き上げて、首筋を撫でていった。眉を顰め、髪を元の位置に戻そうとしたとき、隣に立っていた趙佶が思い出したように呟く。
「今が、『逢魔が時』というやつだろうか」
「……そうかもしれませぬ」
どうでもよさが声に出てしまったかとも思ったが、趙佶は変わらずに空を見ていただけだった。冷たい風が身に染みて、趙佶を早く軒に移動させようと腰に触れた。
「趙佶様、お風邪を召されては大変です。早く……」
「羅刹殿、知っておるか」
血に染まった空を闇に引き込もうとする音が聞こえる。
はっと背後を振り返れば、憎悪に瞳をぎらつかせた若い武人たちが群れをなしていた。結界を張ってはいなかったとはいえ、まったく気配を感じさせなかった彼らに、口角を上げ微笑んだ。
――来たか、と思って。
「趙佶様、お下がりください。ここは私に任せて、早う軒へ」
袷から蝙蝠を取り出し、少しだけ開く。ざっと人数を数えるが、たかだか二十ほどだ。趙佶の手を借りて、いらぬ貸しを作らせたくはない。
だが、趙佶は動く様子がなく、舌打ちをしたいのを全力で我慢して振り返る。
「趙佶……様――そなた、早うその手を離せ」
怯えた表情の趙佶の首に光るは、残忍な刃。それを握る男も違わず残忍な笑みを浮かべていた。
「――『大禍時』ともいうだろう」
男は趙佶以上の巨体で、抵抗を試みる趙佶を引き摺ったまま紫苑から距離を取った。武人の癖に、簡単に背後を取られてどうすると罵りたかったが、今はそれも無意味だ。
――見知らぬ者ではない。宋鴻の精鋭を務め、呉陽に次ぐ力を持つ男。
「ようやっと来たか――敬徳。待ち侘びたぞ」
紫苑の挑発にもまったく動じる様子を見せぬところは呉陽よりも達観していると思う。呉陽ならばすぐに激昂していらぬ被害を出す。
手馴れた様子で趙佶を縛り上げた敬徳は、部下に趙佶を放り投げ、すらりと剣を抜いた。落ちかけた夕日が反射して、禍々しいほどの色味を浮かび上がらせている。
「そいつはどこかに閉じ込めておけ。用があるのは、女だけだ」
必死の叫びも虚しく、趙佶は猿轡を噛まされ、数人の男たちに連れてゆかれた。途中で、くぐもった悲痛な声が聞こえ、暴れるのが厄介になったのか気絶させられたのだろう。だが、紫苑にとってはむしろ好都合であった。
「よいのか? 外野がいれば私は自由に動けぬゆえ、そなたらに有利ぞ」
「外野とは……お前の主じゃないのか? 今、だけのな」
惚けて肩をすくめてみせた紫苑を敬徳はせせら嗤った。
「宋鴻様にした仕打ちを再びやるつもりか、あの哀れな男に。……お前は、一体どこまで人を馬鹿にすれば気が済む?」
「さて……何を言うておるのか、私にはとんとわからぬが……知っておろうな? どこかの熱しやすい馬鹿と違うて、私に挑発は無意味よ」
趙佶を連れていった男たちが戻り、他の部下たちと同じように円形状に紫苑を囲む。内側の円は剣や刀を構え、外側の円は長槍と弓を携えている。私を身近で垣間見てきた敬徳らしい、一分の隙もない陣形だった。
「女一人殺すのに、随分と念入りなことよ。それほど私が怖いか」
紫苑の不審な動きを一つも見逃さぬというような鋭い視線に、焦げついてしまいそうだった。高まった緊張がぴりぴりと皮膚を刺激する。
「怖い? 嗚呼、怖いさ。何しろ相手にしようとしているのは、人間ではなく鬼なのだからな。だが、鬼ならば大義名分は容易く得られる。鬼退治は――民の総意だ」
「面白きことを言うてくれるわ。なれば言わせてもらうが、たかが人でしかないそなたらが鬼に敵うと思うてか? 傲慢も甚だしい……敬徳、部下を殺されとうなければ、今のうちに去れ。私に情けなどなきことを、そなたはよう知っておるはず」
今ここで退かねば、命はない――そう脅したとて、退かぬことはわかっていた。
彼らはそれだけの覚悟を以って、紫苑の前に姿を現し、そして今日ここで起こることもまた運命であったからだった。
「情けならば、こちらにもない。お前を今日ここで確実に殺るために、何を捨てたと思っている」
敬徳の剣が啼ったのを合図に、矢が一斉に放たれた。それを薙ぎ払う間を完全に読んで、剣が目の前を掠める。それを避ければ、刀の勢いある振りが横から下ろされて、飛び退く前に少しだけ袖を裂かれた。塀の上に降り立ち、その裂かれた袖を面白そうに見る。
「さすが、そなたがここに連れてきただけはあるようだな」
再度放たれた矢を片手で薙ぎ払い、後方で戦況を観察している敬徳を伺い見る。以前の敬徳とは違う気を微かに感じたが、その正体を知るには距離が離れ過ぎていた。
「どうした、攻撃を返す余裕もないか!」
「ふん、この程度で私に勝ったつもりか。そなたらは誰に喧嘩を売ったのか、わかっておらぬようだな」
第二陣の攻撃が繰り出され、破壊された塀を飛び降り、着地する前に弓兵の利き手を狙って攻撃を返す。悲痛な呻き声が背後に聞こえたが、それは完全ではなかった。弓兵すべてを狙ったつもりだったが、半分は避けられている。
心の内で憎憎しげに舌打ちをしてから、繰り出された剣を奪い取って、その持ち主を背後から羽交い絞めにし人質に取った。これで少しは言葉を唱える時間が取れると思ったが、人質の男は手甲に潜ませた刃で紫苑に不意打ちを食らわせた。咄嗟に避けても、脇腹を掠めた刃は焼けるように熱い。
「何を……仕込んだ……?」
ふらついた私に再び刃を向けようとした男の腕を取って、上に向けてから肘の関節を後ろから蹴り上げる。崩れ落ちた男の身体を、こちらに向かってこようとした数人に向け吹き飛ばし、とりあえずの攻撃を止めようとしたが、男たちは倒れた仲間に見向きもしなかった。むしろ、骨を折られて利き手が使えなくなったはずの男さえも再び立ち上がり、絶え間なく攻撃を繰り返す男たちに群れに入ろうとしている。
それはまるで――執念。
「嗚呼……人というイキモノはなんと浅ましきものか」
紫苑を殺すことだけを原動力にして、憎悪を漲らせた野生の獣。そこにはもう、理性などというお優しい人間の感情はない。紫苑を嘲笑うように見下した敬徳の表情のそれは、まるで象徴するようであった。――人間の根底にある、傲慢の性を。
「その浅ましい人間を狩るお前は何者か。神にでもなったつもりか!」
「神になったつもりなのはそなたのほうであろう。――私を裁くのは、天。傲慢に酔いしれ、人を捨てたそなたではない」
飛び込んできた男の一撃を避け懐に入り込み、鳩尾に強烈な膝蹴りを入れる。降り返る反動を生かして、背後からの刃を蝙蝠で受ける。まさか受けるとは思っていなかったのか、一瞬できた隙を狙い、結界を出現させた。一斉に弾かれた男たちの中央で、やっと一息つくことができたといわんばかりに、先ほど破かれた袖を触れるだけで直す。
「これで私に指一本触れられぬゆえ、そろそろ話してもらおうか……そなたらを唆した者を明らかにせねば」
「明らかにしてどうする? 裁くのは天ではなかったのか」
「わかりきったことを……始末する以外に他にすべがあると? そなたらは気づかぬうちに、己では手に負えぬものを引き寄せてしまったのだ。それは憎悪の糧を食ろうて、さらなる力を得よう。そなたらは所詮、利用されただけに過ぎぬ」
「……それでもよいと言ったとすれば?」
「何……?」
敬徳の背後に浮かび上がるは黒煙。それを身にまとった敬徳が信じられぬ跳躍力で結界に飛びかかってきた。びくともせぬはずの結界が撓み、薄い膜ごしに執念に瞳をぎらつかせた敬徳を向き合う形になる。
「敬徳……そなた……」
「俺はお前を許さぬ……! 宋鴻様の仇を討つためならば、この身がどうなろうとも本望だ!」
「馬鹿なことを言うな! そなたはそれで満足だろうが、もう一体の夜叉も片づいておらぬ今、新たな夜叉を生み出されてはさすがの私の手にも余る。――敬徳、正気を取り戻せ。夜叉になれば、もう二度と主の許に戻ることもできぬのだぞ!」
「かつての宋鴻様はもうおらぬ! すべてお前のせいだ!!」
敬徳の両目は、もう変化し始めていた。赤く滲んだそれは、もはや人間の姿ではない。
振り翳された右手に握られた短刀が結界を切り裂き、その衝撃にぐらついた紫苑を真上から地面に押し倒す。敬徳の全体重が上半身にかかり、膝で押し込まれた肋骨の何本かががその重みに折れたのを感じる。苦痛に顔を歪めた紫苑を、敬徳は愉悦に浸りながら嘲笑った。
「苦しいか、痛いか! 宋鴻様はお前よりも何倍もそれを味わわれたのだ! まだ足りぬ、お前にはさらなる苦悩を!」
短刀が肩を貫き、焼けるような痛みに思わず呻き声が口の端から漏れ出る。だが、右手に握ったままの蝙蝠を動かすこともせず、抵抗をする様子もない紫苑に敬徳は業を煮やしたのか、紫苑の首に手を回し、わずかに力を籠めた。
「なぜ抵抗せぬ! 俺にはお前を殺せぬと高を括っているのか!」
「今、ここで……抵抗、すれば……そなたは、手遅れ……になる……これ以上、私の……面倒を、増やす……でないわ」
「面倒……? はっ、随分余裕なことだな! お前のこの細首など俺が力を籠めればあっという間に折ってしまえるのだぞ!」
「では……そうせよ」
驚きに見開いた赤い瞳は、人間のものではない。だが、まだすべての迷いを断ち切れたわけではない。あのもう一人の夜叉のように。それは、宋鴻が生きている――その唯一の希望が残っているからなのだろうか。それともこの男の最後の理性なのか。
「私を……殺した、ところで……何も、変わらぬ。――何も、取り戻せぬ」
「いいや、取り戻せる……! 取り戻して、宋鴻様を、元の……」
「なれば、なにゆえ……迷う? 人を……殺すことの意、を……知らぬ、そなたではあるまい……」
伏せた瞼の向こうに、茜から闇に染まりゆく空が見える。こうも命が終わる時というものは、切ないものなのか。その切なさを知ってなお、人は明日を夢見ねばならぬのだろうか。
『逢魔が時』――人の心に魔を誘い惑わせて、大切なものを失わせる。痛みを暈して、現実を忘れさせる猛毒を肺腑の奥まで染み込ませて。
「呉陽様と同じことを……それでも、俺は許せぬのだ――」
それが誠なれば、現世ほど残酷なものはない。
*
残骸はすでに血のような液体と共に、焦げついた炭のようになっている。鴉がそれを渾身の力で床に叩きつけた衝撃に、朔方は畏れすら抱いて凍りついた。
――無表情であるからこそ恐ろしい。うっかり鴉に触れでもしたら、関係のない者たちまでも引き裂かれてしまうようなそんな凶暴な殺気がそこに渦巻いている。今にもそれに巻き込まれてしまうのではないかと震えるが、理性ではもはや一歩も動くことができない。
「紫苑様に手を出すとは、なんと命知らずな愚か者か……この私が、消してくれる」
何が起こっているのか戸惑う術者たちを押し退けて、鴉は開け放たれた窓に近寄って翼を広げた。
光を遮る見事な大きい翼が黒い羽が撒き散らす様は、どこか現実ではないように思える。地獄の淵に迷い込んだ亡者が絶望の果てに辿り着いた、仙洞に住まう美しき仙女を見てしまったかのような。だが、ばさりと風を切る音に、朔方は我に返る。
「私も、どうか……共に連れていってくだされ!」
「朔方様?!」
慌てて引き留めようとする術者たちを押し退けて、冷酷な瞳で自分を射抜く鴉の袖に縋りつく。
「私にもすべきことがあるはずじゃ! 未来への希望を繋ぎ、次代へ継ぐのは……今を生きる我らの役目じゃろう……!」
己の力が及ばぬ現実から目を逸らしていたのは誰か。過ぎた過去を悔やんでいたのは誰か。
――それでは、駄目なのだ。
いつからか『栂の誓い』に頼り、救いが与えられることをただ待っていたこれまでの陰陽省では。与えられたその名に、胡坐をかいていたこれまでの自分では――
思い出せ。『静』の名を継いだその意味を。
「元より、そのつもりです。あなたがそう言い出すのを待っていました」
鴉の和らいだ瞳を見上げ、言葉を見失った朔方を、招くように黒き翼が翻る。迷うこともなく、足を踏み出そうとした朔方を術者たちが未だ留めようとしていた。彼らを振り返り、その瞳を知って頷く。
「自分たちが未来を切り拓く努力をせねば、勝ち取った未来になんの価値もないのじゃ……我らはいつしか、その最も大切なことを忘れてしまっていた。私は……取り戻したいのじゃ、我らが我らであるための誇りを」
「――いいえ、止めません」
戸惑いを見せていた瞳は消えていた。そこにあるのは、決意だった。朔方の許に術者たちが集まり、決意を固めるように皆が一斉に膝をつく。まるでそれは、語り継いできたあの話と同じだった。
遥か昔、臨終の間際の羅人が見た光景が今、自分の目の前にある。
朔方は不意に涙が込み上げてきた。ごちゃごちゃとした感情がないまぜとなって、激流に似た激しさで何もかもを呑み込んでゆくかのように。
「ご指示を。……我らのすべきことを為すために」
無駄ではなかった。自分が今日まで歩いてきたこの道は。
――心が震えて、どうしようもなかった。
呆然と言葉を失った朔方の肩を鴉が叩く。優しく頷いた瞳を見て、安心したように涙が一筋零れる。
「あなたを選んだ紫苑様のご判断は正しかった。そして、あの青年も……」
鴉がつと視線を巡らすと、陰陽省の入口を司る扉が突然荒っぽく叩かれた。切羽詰るようなそれに、ゆっくりと鴉の表情が緩む。やっと来たかというように、少し呆れた溜息をつきながら。
「――見届けるべき人が、揃ったようですね」
*
瞳を閉じていた私は、懐かしい香りがすると思っていた。
だが、低い声の癖にやたらと叫びまくってうるさいこの声の主も、私を抱き上げようとする腕の強さも――私はもう、見ずともわかっていた。
大した日々を過ごしたわけではないと己に思い込ませていたが、本能は何よりも正直だった。されど、後悔しても時は戻らない
「鴛青……なにゆえ、ここ……へ来た……」
意地なのか、瞼を開けることを拒否したかったが、顔の上に落ちる雫の在り処を知りたい欲に駆られて、うっすらと開けてしまった私はすぐさま悔やんだ。見るべきではなかったと思って。
「紫! よかった……!」
全力で駆けてきたのか、滝のように額から汗が伝い落ちている。その雫が私を突き動かして、無意識に鴛青の首に手を伸ばしていた。
「ゆ、紫?」
そっと引き寄せて、何をしようとしたのかはわからない。だがもし、口づけをしようとしたならば滑稽だった。あれほど人と係わることを避けてきた私が今さら何を、と。それもよりによって――鴛青に。
「……愚か者が。早う、帰れ」
鴛青の腕を押し退けて、そこから這い出す。間抜けな顔をした鴛青にわずかな哀れさを感じこそすれ、再びその手を取ることはしなかった。口の中に溜まっていた血を吐き、身体が力なくふらつきかけても、鴛青を拒む。
もう二度目は、ない。
「紫! 何をしようとしているのだ、早く怪我を……」
「早う帰れと……申した、はずだ……あれの、始末は……私がつける」
「何を言っているのだ?! 血が流れ過ぎて、意識も朦朧としているのに何が始末だ! 貴女のほうが先にやられるに決まっておろう!」
「うるさい! そなたに……何が、できる! 何も……できぬであろうが!」
鴛青を突き飛ばして、先ほどよりも虚ろで赤みを増した敬徳と対峙する。
力の半分を回復に回しているが、それでも追いつかぬのは始めからわかっていた。蝙蝠を半分以上開き、常ならばここまで力を開放することはないが、それでも今はそれが必要に迫られていた。
敬徳が夜叉に変化する前に、どうにかして洗脳を解かねば敬徳を救うことはできなくなる。敬徳の部下たちが、様子のおかしい敬徳に恐れおののいているのを見る限り、部下にまでその道を強制しなかったのが唯一の救いだった。
(……いや、唯一の情、か)
『情があるからこそ、人は惑い苦しみ、道を踏み外す』
いつの日かの自分の言葉が思い出される。
敬徳ではなくとも宋鴻の臣下の誰かが、こうして自分に仇を討ちにくるであろうことは始めからわかっていた。宋鴻に仕える者たちは誰もが皆、心から宋鴻を慕い、忠誠を誓っている。その想いの強さは、戦いの最中、最も宋鴻の近くにいた私が一番知り抜いている。ゆえに、私の中に敬徳に対する怒りはない。私がもし逆の立場であったならば、敬徳と同じ道を迷わず選んでいた。
だからこそ、それを利用した者に心の底から強い怒りを感じていた。何が目的か、何を望んで命を弄ぶような真似が容易くできるのか。弄ばれた者の末路すら、己の目で見届けぬというのに。
敬徳が上げた絶叫に一瞬だけ身震いをして、蝙蝠を握り直す。どうにか糸口を掴もうと言葉を唱えようとしたが、その脇を鞘から抜いた剣を手に持った影がゆく。
「鴛青……何をやっておる? 早う帰れと申し……」
「貴女の言葉を聞いていたら、私は私の思うように生きられぬ」
鴛青の剣に反応したのか、虚ろだった敬徳の瞳に光が戻る。それを見逃さぬようにじりじりと距離を詰めてゆく。
「何を、言って……そなたは……わからぬ、のか……そなたが……死ねば、私は」
「貴女のその言葉、私にとっても同じだということを忘れるな……貴女がおらぬ世界など、私はいらぬ」
「鴛青……! 馬鹿な、ことを言うでない……私など、本来……いらぬ存在、だ……どうでも……」
「馬鹿は貴女だ!」
振り返った鴛青は、今までになく怒っていた。どうしてそんなに怒っているかと、問うことすらできぬほどに。初めて私に怒りの感情をぶつけてきた鴛青に、私はただ戸惑うことしかできなかった。
「なぜ己をいらぬと言うのだ! 貴女が欲しくて、ただひたすらに貴女の許に駆けるしかできぬ私の前で!!」
鴛青が言わんとしている意味がわからない。
私は為すべきことのためだけに呼ばれた存在だ。それ以上でも、それ以下でもない。世界が私を欲しただけで、人は誰も私を望んでなどおらぬのだ。だからこそ、私はそれだけを頼りに戦ってきた。為すべきことのためだけに生きて、死ぬことを望んできた。
今さら、他になんの意味を見出せというのか。
「少しでよい、少しでもよいゆえ……私と会うためにここへ来たのだと、そう思わせてくれ」
鴛青の表情はもう見えなかった。その言葉の真意を知りたくとも、私は一歩も歩き出せなかった。そのすぐ後に起きた時空の歪みに、身体が引き裂かれるような痛みを覚えたからだった。
絶叫した私に鴛青が仰天して、駆け寄ってくる。私はそれよりも敬徳の真上に、見慣れた黒い翼と共に転位してきた影に安堵していた。これでひとまず敬徳を夜叉化する力を抑えられると。だが、その安堵は一瞬だけのことだった。
敬徳の周りを囲むように、陣が形成されてゆく。それは転位の際に起きる力を利用して、恐るべき早さで構築し、敬徳の最後に残った自我を破壊しようとしていた。
「やめ、ろ……! 鴉、くるな!!」
だが、すでに手遅れであった。
*
策は何がなんだかわからぬ間に、突如発生した黒煙と爆風に巻き込まれていた。
虫の知らせというのか、なぜか陰陽省に行かねばならぬという勘が働いて、陰陽省の扉を叩いたのはほんの数刻前のことだった。なんの説明もないまま朔方に追い立てられて、鴉とかいう謎の人物――おそらく人ではない何か――に強制的にここへこさせられた。転位というわけのわからぬ単語に、安全なのかと問いただす策の声は朔方にすら無視され、結果安全ではなかった。
凄まじい爆風で策たちを守っていた何かが破れ、外に放り出される。武人ならば格好よく受身を決めるところだが、策はそんなものはもちろんできず、顔から地面に突っ込んで、顔を押さえて涙目になった。だが、爆風は収まる気配がなく、必死に地面にへばりついていたとき、切羽詰った悲鳴に似た叫び声が響いた。
「紫苑様っっっっ!!」
紫苑の名に顔を上げれば、なぜか自分の身体がほんの少し浮く感覚がした。驚いて地面を掴もうとするが、その前に上から何かに押しつけられるかのような力が働いて、今度は地面に叩きつけられた。踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだと思いながらも、押し潰されそうな圧力に必死になって耐えようとした直後に、あれほど吹雪いていた爆風が一瞬でやんで、悲鳴が啼くような静寂が残された。
ぼろぼろになった身体をなんとか起こし、辺りを見渡そうとして策は絶句した。思わず込み上げてきた吐き気に耐え切れず、嘔吐する。
「なん、だ……これ……」
――地獄絵図。それしか言葉が思い浮かばなかった。
十数人の男たちの身体が切り刻まれ、糸の切れた人形のように転がっていた。血のすえた匂いが辺り一帯に充満し、呼吸することすら罪深い。恐る恐る身体を起こそうとして、ぐちゃっと何かに手が触れた。なんの覚悟もなくそれを見てしまった策は再び激しく嘔吐した。かつて人として生きていたはずの腕が、ぼろきれのように切断されて無造作に転がっていたのだ。
策の思考は、混乱の極みであった。何が起きたのか、なぜこれほど大量の人間が無残に殺されているのか。狂ってしまいそうな光景に耐えかねて、自分が震えていることすらわからなかった。
「紫苑様!」
その時響いた声がなければ、おそらく策は狂っていた。現実とは信じたくない現世の残虐さに呑まれてしまうかのように。
鴉が叫びながら駆け寄った先に、血の海に浮かぶ二つの人影と倒れたもう一人があった。人影の一つは、見知らぬ男。そして、もう一人が紫苑だった。紫苑の真白なはずの衣が返り血に浴びて、真っ赤に染まっていた。血は紫苑の顔にも飛び散っていたが、それでもなお狂気に満ちた美しさが損なわれることなく、むしろ背筋が凍るほどに美しかった。
「策、殿……」
倒れていた朔方の手を取って立たせてやる間も、策は紫苑から目を離すことができなかった。
もう、なぜと問うのはやめていた。問うたところで答えが出ぬのなら、時間の無駄だ。今、自分がすべきことはそれではない。
きっと、自分は意味があってここにいる。――いや、呼ばれたのだ。なれば、ここで策がすべきことが必ずやあるはずだった。
「しっかりしろ、敬徳! 瞳を開けよ!」
紫苑は抱えていた男を揺らしながら、必死になって話しかけている。だが、男の傷が今生き残った誰よりも酷く、そしてなくなった両足から流れる血が尋常ではないことに気づくのは造作もなかった。そして、もう紫苑ですらどうにもできぬのだということも。
「紫苑……もう、やめるのだ……! その男は……」
「黙れ、鴛青! 私が、なんのために……なんのために宋鴻様を裏切ったと思うておる! 敬徳、そなたらを次代へ生かし、宋鴻様をお守りしてゆくためではないか!! なにゆえ、そなたが私よりも先に死ぬのだ……!」
これほどまでに理性を失った紫苑は初めて見た。美しいその顔が苦悩に歪み、強さとは無縁の揺らいだ姿だった。唐突に胸が苦しくなる。紫苑の苦しみが伝わってきて、心が痛い。
「敬徳!」
紫苑の絶叫が届いたのかはわからない。だが、その時もう動くはずがないと思われていた敬徳の唇が震えた。
「気を、つけ……ろ……銀、ぱ……つ……」
言葉が途中で途切れ、敬徳の身体は凄まじい腐臭を上げながら、カラカラに干からびていった。後に残ったのは、およそ人間とは思えぬ苦悶に満ちた無残な骸であった。
すべてを失った者の末路がこれかと、策は気を失いかけて一歩前に足が出ていた。ばしゃりと音がして、血の海に足を踏み入れてしまったことに気づいたときには、すでに血の気が引いていた。ねっとりと絡みつくそれが、敬徳のような無残な末路に自分を捕らえ、もう逃られぬと言っているような気がした。
「――この世は、地獄」
気づけば、紫苑がこちらを見ていた。恐ろしいほどに空虚な瞳で。
後退ることもできずに凍りついた策を嗤うこともなく、ただ淡々と告げる様は紫苑に何かが乗り移ったかのようだった。
血の海に身体を浸し、今にもその狂気に侵食されそうな状況であっても、紫苑の凄絶なる美は何一つ衰えることはない。もし、それが天を現すとしたら、まさにこの世は地獄。腐臭と血と死に塗れ、希望を失った世界こそが、この世の現実なのか。
「それでも、そなたは知りたいか。……狂気の先を」
知れば、戻れない。だが、今さら戻りたいとも思わなかった。己の中で、答えはすでに決まっている。
逃げられるわけがない。この血に満ちた世界を見てもなお、逃げて、傍観者でいられるはずがない。
はっきりとした答えが出て初めて、策はそれに気づいた。敬徳が銀髪といったとき、紫苑が鴛青と呼んだ見知らぬ男が見せた揺らぎを。




