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「近頃、やたらと精を出しているな」

 府庫からの帰り、策と浩然は資料を両手一杯に抱えながら、御史台の私室へと向かっていた。隣で歩いていた浩然が風で飛びそうになった資料を押さえながらついでのように言う。

「これまでと同じだが」

「いいや、俺にはわかるね。なんというか、仕事に対する姿勢が変わった」

 思わず、どきっとする。浩然は相変わらず鋭過ぎて困る。

「別に……知っただけさ」

 自分がせねばならぬことの意味を。そして、この世界に迫っている危機を。

 朔方との会話は、それらを間近で見せつけられたようなものだった。そして突きつけられた。決断し、己が覚悟を決めねばならぬことを。

「ふーん。ま、いい顔しているから、問題はなさそうだな」

 安心したように浩然が笑った。

 それにつられて策も自然に頬が緩む。宋鴻の失脚より、塞ぎ込んでいたのが嘘のように。

 なぜか覚悟を決める前よりも後のほうが、気分が晴れやかで心が軽い。それは他の何とも比較し難い不思議な心地だった。

「何も解決できたわけではないがな」

「それでもいいさ。立ち止まるよりもゆっくりでも歩いていたほうが、何かが見つかるだろうよ」

 浩然のその言葉は羅人の言葉と似ているような気がして、ふっと笑った。浩然の癖に偉そうなことをとも思ったが、今回のことで浩然には幾度となく助けられていたのは事実だった。その浩然の顔つきが一瞬にして曇る。何かをいう前に袖を引かれ、物陰に押し込められた。

「浩然? なに……」

「策は全快したようでよかったが……あちらさんは相当こじれてきたようだな」

 見るからに上位とわかる大官たちの前を一人の男が通り過ぎていた。

 その腰に下がるのは、大司馬位を指す佩玉。大官たちは渋々といった表情で礼を尽くしていたが、趙佶が通り過ぎるとまるでおぞましいものでも見たかのような目でその背を睨めつけた。

「……あのような者が大司馬などと、一体王は何をお考えなのか」

 一人の大官が溜息をつきながらそう切り出すと、他の者たちも待っていましたといわんばかりにその話題に乗じた。

「近頃の王が考えつくはずもありますまい。そう……」

「大方、羅刹が王に取り入ったのでしょう。恩知らずにも宋鴻様を売り、朝廷を汚すような真似を……宋鴻様もあのような臣を重用したばかりに、お気の毒に……」

「しかし、最終的に羅刹を切ったのは、宋鴻様と聞いております。やはり王と違って邪悪な臣下を見抜く目はあったということでしょうな」

 何食わぬ顔で話を盗み聞きしていた二人が顔を見合わせる。

「ふうん。朝廷の噂話では、宋鴻様が羅刹を切ったことになっているらしいな……中々に面白い」

「どこからそんな話が流されたのかも、興味深いな……」

 もちろん真相を知るはずの御史台はそんなことをしていない。なぜか紫苑自身がそうしたのではないかと、ふと思ったがなぜそう思ったのかはわからなかった。

「されど、幽閉も今年限りでしょうな。政から離れて久しい王は考えなしに慶賀の恩赦を発布するでしょうし、それで宋鴻様もようやく解放されるでしょう」

「そうでなくてはなりません。……此処で申すのも何ですが、宋鴻様がお戻りになられれば、必ずや今の状況を打開してくれましょう」

「そうです。陰陽師としての能力を傘に着て、王と朝廷を蔑ろにしている羅刹も追放してくれましょう」

 そうだそうだと言い合う大官たちを尻目に、二人は足早にその場を後にした。

 正直いって、胸糞の悪い話だとしか思えなかったからだった。

「あーあ、いやだねえ、老害でしかない奴らは。宋鴻様を追放する時は掌を返すように王側についたというのに……本当に恥知らずというか、羅刹のことを馬鹿にできる立場なのかねえ」

 周囲を憚ることなく大声で言い出した浩然にひやひやしながらも、策も胸中は同じ想いだった。

 あの時の仕打ちを策は二度と忘れぬだろう。宋鴻を擁護していた者たちが一斉に宋鴻を庇うことをやめ、ただ単に己の保身のためだけに宋鴻を売ったことを。今思えば紫苑に対する怒りは、大官たちの薄情さに八つ当たりしただけなのが半分ぐらいは占めていた。

「……だが、大官たちが藁にも縋りたい想いなのはわからないでもないがな。断じて、許してやるつもりはないが」

「嗚呼……この飢饉と疫病続きの今、鄭貴妃の霊園造りなんぞ正気の沙汰じゃないからな」

 宋鴻が失脚してから、徐々に見え始めていた翳りと歪みは今や国中に蔓延していた。

 天候不順による穀物の不作が相次ぎ、民は飢え、かろうじて備蓄してあった穀物も何年か前の税の免除で大部分を消費尽くしていた。余剰の穀物を持つのは、大貴族や富裕な商人たちだけで、困窮した民たちの暴動が一気に加速した。結果、貴族たちはさらに警戒を強め、邸を私用以外では決して開かぬようになってしまい、わずかの施しをしていた貴族たちも皆恐れて、同じように門を閉ざすという悪循環を招くことになった。

 一方地方では、飢餓状態に陥って抵抗力の弱まった民たちの間に、ここ数年なかった疫病が大流行する兆しが見え始めていた。だが、大官たちが財産を民に奪われるのを恐れ、参内するのを拒むため、朝廷も上手く機能を果たしておらず、若手の官吏だけで最低限の実務を運営している状態であった。むしろ、先ほど恥知らずなことを垂れ流していた大官たちは、未だに参内しているだけよっぽどマシなほうなのだ。

 その渦中で、神宗は亡くなった鄭貴妃のための霊園を造園すると突如お触れを出した。

 当たり前のことだが、贅を凝らした霊園の造園は総じて反対された。そんなものを造っている場合ではない、飢饉と疫病に喘ぐ民たちがいるのだと。王は当然のように聞き入れなかったが、今の王は心神耗弱の状態にあり、いくら王が強硬な手段に出ようとも臣下がそれを止めればいいだけの話だった。

だが、紫苑は違った。

 王の決断を蔑ろにするのか、王に逆らうのかと、反対派の何人かを死を得るほうが易いほどの苦しみを与え、力で捻じ伏せた。その強硬な手段に、かねてより紫苑に疑念を抱いていた者たちの不満が爆発した。紫苑の陰陽師としての職を半ば強制的に剥奪し、朝廷から追放しようという運動が起きたのである。それに従い、王に阿る者たちが大半であった朝廷も、宋鴻の復権を願う者たちが勢力を盛り返し始めていた。

 その裏で、御史台が王に阿る者たちを弾劾し、腐った官吏たちの首を端から切り落としていったことも、新しい風が吹こうとしている朝廷にとって追い風となった。近頃は空位の官位が増え、春の除目で大がかりな人事異動がなされるだろう。

 だが、策にとってそれらの出来事は日常業務の一つに他ならなかった。先の戦で出し切れなかった膿が今度こそ、すべて出し尽くされるだろう。朝廷は刷新され、新たな時代が生まれる。そのきっかけを作ったのが、皮肉にも紫苑であるということを今の策は知っていた。

 近頃、策は以前包拯が自分に言った言葉を思い出す。


『お前はなぜあの者を最大の原因と見る?』


 資料の束が風に紛れて、飛びそうになった。その冷たさに、思わずあの時のことが蘇る。

 紫苑に最後に会ったあの日から、目まぐるしく月日は流れ、世界は様変わりをした。危うい均衡の上に成り立っていた正義の秤が揺れ動く。だが、その秤がどちらに傾こうとも、策のやるべきことは決まっていた。それを、やっと手にできたのも、確かにあの人の言葉とあの人がここに居続ける覚悟を知ったからだった。

――己のすべきことの意。今でも、策は身の内に響く声を聞く。

 

 私室に戻ってきた二人は、どさっと資料をそれぞれの机に積み上げると、愚痴を零すように浩然が呟いた。

「それにしても、人というものは見た目ではわからないものだな。この前、弾劾した官吏だって、元は穏健派とかいわれて誠実そうな奴に見えていたのだがなあ」

 それに同意するように、策は溜息をつく。

 紫苑が王に取り入ったことで思わぬ産物が手に入ったとすれば、それまで偽善者の面を被っていた連中の化けの皮が剥がれ始めた、ということだろうか。紫苑ほど狡猾ではないゆえ、すぐに露見し捜査はしやすいが、こいつまでそんな馬鹿げたことを考えていたのかと呆気に取られることが増えたようにも思える。

「だが、そのおかげで本当に国のために尽くそうとしている官吏をよりわけることは容易になったさ。それに捕まった奴らを目の前で見ているから、奴らを反面教師のようにして実務に取り組んでくれた結果、以前より格段に官吏の水準が上がったしな」

「そう考えれば、牢屋にぶち込まれた奴らも無駄ではなかったな。後進の役に立って、なおかつ質を高めてくれた、と考えれば」

「それはそうだが、長年あいつらに払っていた給金の額を考えれば、無駄……いや、ちょっと待て……」

 はたと言葉が途切れる。何か大事なことに引っかかったような気がした。

 後進の役に立つ? 質を高めた……?

「どうしたのだ?」

「いや……何かこう、ひらめきかけたのだが……」

 前髪をわしゃわしゃと掻く。

 なんだ、自分は何を見逃している? まだもう一枚、捲っておらぬ札があるのではないのか。その最後の札が捲られれば答えがそこにあるのだと、漠然と気づく。だが、決定的な何かが策には欠けていて、それは天啓のように二人の目の前に現れた。

「……まだ、わからぬか」

 突如響いた声に振り向くと、策は言葉を失った。思わず腰が浮く。

 さらりと滑り落ちる黒髪、陽に透けた白い柔らかな衣。自分を射抜く瞳はその柔らかさに反して、何よりも鋭く冷たい。――そう、それは紫苑その人であった。

 最後に見えたあの日、紫苑の言葉に何一つとしてまともに返すことができなかった、あの日の自分が思い出される。

「久方ぶりだな。……その面構えを見ると少しは解したようだが、未だ足りぬ」

 気だるげに髪を掻きやりながら、紫苑は自分を見た。

 少し馬鹿にしたような態度も、冷たい刃のような瞳も、零れ落ちる美貌も、何一つ変わってはいない。むしろ以前よりも、際立つ紫苑の肌の白さが静謐さを醸し出し、元から常人離れした美を一層研ぎ澄ませたようにも見える。

 だが、不意に気づく。その白さも一瞬だけ垣間見えた腕の細さも、かつてと違い過ぎることを。宋鴻の許で戦い駆けていた頃とは似ても似つかぬ――そう、生きている人間の力を感じぬのだ。今の紫苑を包むのは、死という言葉こそが相応しい。

 やはり紫苑の目的は王に取り入り、国母なんぞになることでもなく、朝廷での地位でもない。朔方が言ったように紫苑はもっと先を、とてつもなく巨大な何かを求めようとしている。それは、紫苑をこれほどまでにやつれさせるものなのか。

「……聞いたか」

 初めて間近で見た紫苑に緊張した面持ちの浩然をちらと見てから、紫苑は唐突に問う。何を指しているのかを正確に理解して、言葉もなくただ頷く。

「そうか。……朔方も選んだか」

 紫苑の顔の表情が微かに緩む。

 安心したように見えたのは策の気のせいであったかはわからない。瞬時に瞳に宿った強い意志に、策は圧倒されていたゆえに。

「なれば、そなたは何を選ぶか」

 一切の言い逃れも許さぬような声だった。

 ここで何かを発せねば、紫苑は金輪際自分の許に現れることもなく、始めからなかったものとして記憶から消去されるのだろう。一度失い、もう二度と得られぬだろうと思っていた機会が再び与えられた――そう思えば身体が震える。それでも策は、紫苑を真正面から見据えることを放棄はしなかった。

「まだ……決められません。今を生きる者として、未来をどうするべきか。何を遺すべきか。……私はまだ知らないことが多過ぎる……」

 紫苑の表情は小揺るぎもしなかった。だが、あの時のような嘲笑と侮蔑を伴った瞳で策を射抜くこともなかった。

「……ふん。生意気な若造には違いないが、少しは成長したようだな。……一つだけ、問うことを許す」

「へ……?」

 思ってもみなかった返答に、策は間の抜けた声を発してしまった。

 まさかあの紫苑が、他人をわずかでも認めるような発言をするのもそもそも信じられなかったが、自分に手を差し伸べるなど天地がひっくり返ってもあり得ぬと思っていたからだった。

 紫苑はあからさまに怪訝そうな顔つきになった。

「不満か? いらぬなら別によいが、出来損ないの面倒を見てやるのも、先をゆく者の務めゆえ」

「いや、いります! というか、出来損ないってなんです……」

 言い返そうとした言葉が瞬間的に消える。出来損ないの面倒を見る?

 策の中で目まぐるしく思考が駆け巡る。紫苑の矛盾ともいえるような数々の言動。朔方との会話。香蘭の言葉。そして、王と臣下の堕落。新しい世代の台頭。


『在るべき場所は、今。在るべき人は紫苑様。……為すべきことは、『世界の修正』』

『そのために紫苑様はここに存在するのじゃ。千年の時を越え、過去を正し、未来への道筋を創るために』


――そして、最後の札が捲られる。


『お前はなぜあの者を最大の原因と見る?』


 違う。紫苑が原因なのではない。原因は――

「……気づいたか。まったく手間のかかる若造よ。これで私の役目も仕舞だな。あとは包拯殿になんとかしてもらえ」

 策の変化に気づいた紫苑が肩を落とし、溜息をつく。そのまま先刻自分が言ったことも忘れて帰ろうとした紫苑を引き留める。

「まだ、です。一つ質問してもよいと仰ったでしょう」

 紫苑は眉を跳ね上げ、つまらなそうな顔をした。言うのではなかったという心の声がもろに出ている。「……言うてみよ」

「そのまま死ぬつもりですか。すべてを背負って」

 紫苑は何も表情を変えなかった。もちろん、自分の言葉程度で紫苑を揺らがせることなど到底できぬと知っていたが。

「……さてな」

「それでは、答えになっていません」

「なんだ、策の癖に生意気だな」

「策の癖にとは、なんですか。ご自分で仰られたのですから、答えてください」

 思いっきり嫌な顔をされたが、紫苑はふと考え込むような表情をした後、鼻で笑った。

「そうだな……先ほどそなたはすべてを背負うてと言うたが、すべてを背負うのは正確には私ではない。背負うのは、……そなたら自身なのやもしれぬな」

「あなたが死ぬことになってもですか」

 もう一度、紫苑は髪を掻きやる。

「……覚えておけ。死ぬことは生きることよりも、ずっと容易いのだ。ことこの世界にあってはな。……いずれ、そなたも知る時がこよう。……まぁ、そこまでそなたが聡ければの話だが」

 馬鹿にされているとわかってはいるが、紫苑の言葉は驚くほど自分の胸に響く。

 包拯に対する時とは、違う。紫苑は自分とそうは変わらぬ歳であるにも拘らず、何か畏怖するようなものを感じるのだ。それは、紫苑を知り、紫苑に会い、言葉を介したことで知った感情でもあった。

「いずれ、そなたと包拯殿には会いにゆこう。その時までに、私の悪行をすべて詳らかにしていることを……期待しておるぞ」

 紫苑の悩ましげな溜息と共に姿が掻き消える。

 実物と話していると思い込んでいた策は呆気に取られ、思わず立ち上がった。その足が机にぶつかり、積んでいた資料が床に崩れ落ちる。

「これが……力か……」

 朔方が言っていた他に比類なきその力。今、目の前でして見せたのはその中のほんの一部でしかないに違いない。

「驚いたな……初めて羅刹を間近で見たが、……それにしても……えらい別嬪だな」

 がくっと身体の力が抜ける。先ほどまでの真剣な空気をぶち壊すような浩然の感想に、思わずそこかよと突っ込みたかったが、策にはそんな気力もなかった。

 もう一度、紫苑が消えた場所を食い入るように見つめ、策は仕事に取りかかった。


 *


 ぐったりと床に倒れ込む。

 身体ごとこの邸を離れるよりは、魂だけのほうがいくらかマシだと思い離魂したが、それでもぐっしょりと汗を掻くほどに疲れていた。この程度の術でこれほど体力を消耗するようになるとは、この身体も仕舞だなと嗤う。策にまで見抜かれるとは。

「紫! また、私に黙って力を使ったな!」

 騒々しい声が聞こえて、身体を抱きかかえられる。抵抗する力さえももはや残っていない。

「仕方なかろう。目の放せぬ馬鹿者が……」

「貴女も馬鹿者だ。こうなることをわかって力を使うのだからな!」

「ばっ馬鹿者とは、なんだ! そなた最近、図々しくはないか!」

「それぐらいでなければ、紫苑様を引き留めることはできませぬゆえ、鴛青殿もっとやってください」

「鴉! そなたまで何を!」

 あれから鴛青は、勝手にこの邸に居座っていた。

 始めの頃は、鴉も鴛青を追い出そうと躍起になっていたが、自分だけでは私を止められぬと諦めたのか、主である私に反旗を翻し、鴛青の味方をするようになった。私がそれについて裏切りだと罵っても、鴉はどこ吹く風といった様子で、私が力を使おうとするたび鴛青に密告し、鴛青が力ずくで阻止しにかかるというのが最近の日常だ。

――溜息をつく。

 阻止された分は鴉がやってくれているのは知っている。そして鴉ではできぬこと、私しかやれぬことでは文句は湯水のように垂れ流すが、結局はやらせてくれることも、知っている。知っていてもなお、一人でやろうとしてしまうのは私の癖だ。

 何かを決めねばならぬとき、結局は自分一人で決めねばならぬのだ。そこにぬるま湯のような曖昧な決断は許されない。だからこそ、自分一人でやり自分一人で考え、自分一人で何もかもを決めた。自分以外の誰かなど、信じることはできない。決して間違うことが許されぬのだから。

「……して、そなたは何をしているのだ」

 あれよあれよという間に、鴉に汗を掻いた衣を取り替えられ、それと代わるように鴛青がさも当然のことように私の褥に滑り込んでくる。あまつさえ思うように力が入らぬのをいいことに、私を抱きしめるように鴛青の腕の中に引き込まれる。

「私に黙って力を使った罰だ。鴉にも許可は取ってある」

「私は許可などしておらぬ! 鴉め……!」

 ぎりぎりと歯軋りしたくなるというのは、こういうことなのか。身を以って知りたくなどなかったが。

 今すぐにでも蹴り飛ばしたいが、それもままならぬこの身体が憎い。ぶちぶちと文句を言い続ける私の背を、鴛青は優しくさすった。

「大丈夫か、つらくはないか? いや、つらいだろうが……それでも、大丈夫か」

 自分で言ったことに自分で突っ込みながら、私を労わるようにさすり続ける。鴛青が触れたところから、淡い熱が発して痛みやつらさが嘘のように薄れてゆく。

「……そなたが、いるからな。認めたくはないが」

 ぼそっと呟く。

 認めたくはないし、そのわけを知りたくもないが、なぜか鴛青が傍にいると痛みが和らぐようになった。息をするのも億劫だった空気が優しくなったような。

 桜の力でこの邸内は常に清浄な空気を保っているが、それにも勝るその力。なぜかはわからぬが、わかってしまうような気もしていた。だが、それを認めることはできなかった。

「そうか、……なら、よかった」

 泣きそうな鴛青の顔を見れば、胸がしめつけられる。そんな己を馬鹿らしいと知っていてもなお。

「……そのような顔をしておると、間抜け面がさらに間抜けに見えるぞ」

 あえてこんなことを言っていなければ、馬鹿なことを口走ってしまいそうになる。

「こんなにも男前だというのに、間抜け間抜けと紫はちと酷過ぎではないか」

「自分でいうか間抜け!」

「そうか? 確かに紫の美貌には敵わぬが、私も名うての美男子ともてはやされ……」

「名うての間抜け面の間違いであろうが」

「しかし紫が、この顔が好きというならば間抜け面でも私は構わぬ」

「……いつ、誰が、そのようなことを申した? 私は間抜け面の男など、御免蒙る」

「むう。貴女は注文が多過ぎるぞ。美男子の私も間抜け面の私も私であることには変わらぬのだから、諦めて受け入れるしかなかろう」

「そなた……いつから、そのような恥ずかしい男に……咲は、そのような――すまぬ」

 無意識に出た名に、はっと息を呑む。そして、口をついて出た言葉にぞっとする。

 なぜ、私は鴛青に謝る必要がある? なぜ、後ろめたいなどという感情を抱く必要がある?

 戻ってきた力を精一杯使って、鴛青に背を向けた。ぐちゃぐちゃな感情をこれ以上知りたくなどなかった。だが、鴛青は腕を解くことなく後ろからぎゅっと抱きしめた。先ほどまでよりもずっと強く。

「……私は、そんなにも咲殿と似ているか」

 掠れた声が耳元で響く。ぞくっと身体中に電気が走ったかのようで、無意識に私の手は鴛青の腕を掴んでいた。

「似て、いるわけなかろう……咲は、そなたのように自分で自分のことを美男子などと言わぬし、私の褥に勝手に入り込んでくるほど図々しくもない」

 分厚い胸板も、長く伸ばした髪も、私を包む逞しい腕も、咲と似ているところなどない。その顔以外は、何も。

「ずっと、覚えていようと思うていた。私はここへ来る前……咲がこれ以上苦しまぬよう、私と過ごした記憶を咲から……奪うた。私は決して戻れぬことを知っておったゆえ、そのような女を想い続けるなど……つら過ぎるであろう? ゆえに、私だけは覚えていようと。私だけは……」

 それなのに私に降り積もってゆくのは、鴛青の想い。

 鮮やかに色づく、生きている者の輝き。

「そなたのせいで、そなたが傍にいるせいで……咲のことを思い出せなくなる。どうして、くれるのだ……そなたのせいで……私はもう二度と、誰も愛さぬと誓ったのに……」

 似ているのは、私を愛してしまうその心。幸せになれぬのに、求めてしまうその燃えるような情熱。

「すまぬ……」

 囁き声は闇に弾ける。

「すまぬ……すまぬ……」

 何度もそう囁く声に、私は泣くのを堪えて唇を噛みしめる。すまぬと何度も繰り返すのに、それでも私を抱きしめる鴛青の腕に縋りながら。

 罪に堕ちるのならば、どうか私だけをと願わずにはいられなかった。

――そして、年が明ける。何もかもが終わる時が、確実に近づいていた。


 *


「趙佶様、趙佶様」

 突然かかった声に、趙佶は一応武人らしく隙のない所作で振り返った。

「羅刹殿……」

 微笑みを浮かべながら礼を尽くすと、満面の笑みを浮かべる趙佶の顔が飛び込んできた。私に気づかれて、すぐさま顔を引きしめたのがなんとも笑いを誘う。

「き、今日はどうしたのだ? 陛下に謁見してきたのか」

「はい。それで、そのことについて趙佶様にご相談したいことがあるのですが……本日のお仕事はまだございますか?」

「いや、……今日はもう帰ろうとしていたところだ」

 若干泳いだ瞳に、まだ仕事が累積しているのがわかりやす過ぎるほどわかったが、私は都合よく気づかぬふりをした。

「そうですか。よかったです。私の軒をすでに呼んでありますので、ご一緒にいかがですか」

 私に上目遣いで微笑まれて、断る男がこの世のどこにいるだろうか。いや、いない。ちなみに決して、謙遜ではない。

「すまぬな。では、お言葉に甘えてさせていただこう」

 趙佶は見た目だけは武人としての誇りを総動員させて取り繕っていたが、時々にやけているのが傍目でもよくわかった。

「……して、相談とはなんなのだ?」

 鴉を変装させ御者を任せた軒に迎えられた趙佶は、少しでも怪しげな真似をしたら鴉に瞬殺されることも知らず、暢気に私に微笑みかけた。

「実は、先ほど陛下に謁見してきたのですが、陛下のあまりのお変わりように心痛くて……」

「そうだな……それは私も憂いていた。貴妃様がお亡くなりになられてから、陛下はすっかり塞ぎ込まれてしまった」

「そうなのです。ですから、私はなんとか陛下にかつての気力を取り戻していただきたいと思い、陛下に武術仕合を提案したのです」

「武術仕合?」

「ええ。貴妃様がご存命の折、陛下と貴妃様は武術をご覧になるのが特にお好きで、よくお二人で見物なさっていたのを思い出したのです」

 趙佶が顎に手を当て、思案に耽るような顔つきになる。

「……確かに、私もそれで陛下に剣舞をお見せしたことがあったような」

「私も覚えております。趙佶様の剣舞はそこにいた誰よりも、素晴らしかった」

 向かい合わせに座った趙佶がわかりやす過ぎるほどに動揺して、扇子を取り落とした。

「ですから、趙佶様を筆頭に名のある武人たちを集め、かつてのように武を競わせたらいかがかと」

「そ、そ、そうだな。それは、よい案だ」

「――さすれば、陛下の御首も容易く取れましょう」

 そっと自分の手を趙佶の手に重ねる。驚いて言葉を失った趙佶を逃がさぬように。

「武術仕合と銘打てば、武器を怪しまれずに持ち込むこともできましょう。味方はなく、武術に慣れた者ばかりの中で、痩せこけた王にもはやなすすべはございますまい」

「おぬし……本気で、王を弑し奉らんと言っているのか……?!」

「私は、始めに趙佶様にお約束したはずです。趙佶様に、至高の御位を献上すると」

 衣に焚き染めた香と催眠術が、趙佶の自我を混濁させる。王を殺すという大罪を容易く受け止められるように。

「趙佶様とて、近頃の王をご存知のはず。政を放棄し民を疲弊させ、このままではこの国は近い将来倒れます。そうなる前に、趙佶様がこの国を救うのです」

「おぬしの言い分も一理あるが……いや、しかし王を弑し奉るなど、畏れ多い……」

「趙佶様が立たねば、この国は死を待つのみ。趙佶様は、それでよいのですか? 趙佶様を慕う領民たちをこのまま見殺しにすることになっても」

「それは、そうだが……」

 一応、趙佶も武人の端くれか。香や催眠術の効きが悪い。未だ心を手放さぬ趙佶に内心舌打ちをしながら、次の手に出る。

「わかりました」

 趙佶を拒絶するかのように距離を置きながら、重ねていた手を振り解く。

「趙佶様がやれぬと仰るのなら、私がやるまでにございます」

「羅刹殿、何を……?」

「どうか、ここで聞いたことはお忘れになってください。趙佶様は何も聞かなかったのです。罪は私一人で……」

「何を言うのだ! おぬし一人にすべてを背負わせられるか!」

「されど、趙佶様は……」

「武人たる者おぬしに、すべてを押しつけるわけにはいかぬ。……私が、やる」

 やっと落ちたか。かけた術が切れぬよう念を押すために趙佶の瞳を捕らえる。

「……誠に? 誠にやってくださると仰られるのですか?」

「男に二言はない。私とて、今の世を嘆くそなたと同じ思いなのだ。……とうとう、その時が来てしまったというだけのことだ……」

「されど、私は……私が言い出したことですが……趙佶様に、罪を被せたくもないのです。確かに趙佶様以上に王に相応しき御方はおりませぬ。だからこそ、罪は私一人が背負うべきものだと」

「何を言うのだ! むしろ、おぬしのほうこそ、罪を背負うべきではない」

「いいえ! 趙佶様こそ清廉でなければ! 私がお慕いした……! いえ、……何でもありませぬ」

 唇を噛みしめ、顔を逸らす。なんとか笑い出したくなる衝動を抑えながら。

「おぬし……今、なんと……」

「お許しください……私のような者が、趙佶様のような高貴な御方を想うなどと……恥知らずな私を、どうか罰してくださいませ」

 あえて袖で顔を覆い、表情を隠す。

 冠を被り、男性用の正装をまとった姿の私は、女だけではなく麗しい男にも見えよう。趙佶に稚児趣味があることもすでに調査済みであった。普段目にする女の私と、男装をした男の私。趙佶を落とすには確実に男の私のほうが容易かろうという計画であった。そして、それはまんまと成功した。

「どうして、罰することなどできようか……! こんなに美しいおぬしを、この手に抱けるというのに」

 抱きしめようとする趙佶の腕を一度拒むふりをする。

「されど、されど……高蓮殿は、私を許しはせぬでしょう」

「高蓮のことなんぞ考えるな! 主は、私だ! どうにでもしてみせる」

「――ではすべてが終わるまで、高蓮殿には此度のことを決して明かさぬと仰ってくださいませ」

 趙佶の服に仕上げというように縋りつく。

「私を疑っている高蓮殿の耳に武術仕合のことが入れば、私が趙佶様を亡き者にしようとしていると誤解され、すべてが台無しになるやもしれませぬ。……機会は一度きり、失敗すれば待っているのは破滅だけなのですから」

「わかった、わかったから、落ち着くのだ。せっかくの美しい顔が苦悩に歪んでしまう」

「趙佶様……」

「おぬしと交わした約定は、必ずや果たそう。武人の誇りに懸けて」

「……嗚呼、趙佶様!」

 しな垂れかかる身体に趙佶が触れるのがわかる。その手が背中を這い、不快な体温が私を包む。

(くっ……?!)

 趙佶の指に食い込むほどの力が籠められる。その瞬間、身が凍るような冷たい何かを感じた。

「趙佶様……?」

「おぬしは……よき匂いがするのだな……」

 だが、それを確かめる前に鴉が趙佶の邸に到着したことを告げた。

 波が引くように消えてなくなったそれを、微かに不審に思ったが、その後襲ってきた疲労に私はその不審をいつしか忘れてしまった。


 *


「笑いを堪えるのが大変でしたよ」

 趙佶を邸に送り届け、自らの邸に着くと紫苑の顔は精気を失い青褪めていた。微かに震える手を取り、鴉は母屋へと誘う。

「こちらの、身にも……なれ。背筋が、うすら寒う……なったわ」

「それにしても、あそこまでよく趙佶を骨抜きにできましたね。さすがです紫苑様」

 紫苑は眉を寄せて、心底嫌そうな顔をした。

「嫌味か……まったく男は、ゆえに駄目なのだ……女の、容色に惑わされ……考えることを、すぐ放棄する。女が微笑みの、裏で何を……考えているのか、など思いいたりも、せず……」

「それも、いたしかたありませぬでしょう。男はかくも愚かなイキモノにございますから」

「……随分、辛口な評価だな」

 物音に気づいた鴛青がひょっこりと顔を出す。手を差し出され、当たり前のように紫苑の身体を抱きかかえる。このところは、紫苑も逆らうことをしなくなった。それは、ただ単に逆らうだけの気力がないともいえるが。

「今宵は、何をしてきたのだ?」

「考えなしの男を、一人……篭絡させてきた」

「誰だそれ? そんな阿呆な男を篭絡させるくらいなら、私のことも篭絡してくれていいのに」

「知るか。そなたも、よう飽きずに……同じようなことを、何度も……何度も」

 ゆっくり褥に下ろされ、深く息を吐く。

「容易に諦められぬことは、知っているだろう」

 月に照らされ、陶器のような紫苑の肌に躊躇いがちに触れる。紫苑は瞳を閉じたまま、疲れたように笑った。

「……知らぬな」

 紫苑の手が伸びて、頬に触れていた手が静かに下ろされる。

「早う私など忘れて……どこぞの女の許にでも、通うがよい。私には、もう……そなたのことを考えてやれる、余裕もないのだ……」

「そんなことを言って……たまには可愛げがあるところも見せてはどうだ?」

「ふ……前にもそのようなことを、言われたな……そうだ、師匠にお前は愛想がないとか」

 紫苑の瞼が危うげに開いたり閉じたりしている。眠気に耐えようとしているが、それも長くは持ちそうにない。

「人を見る目があるのだな。貴女も師匠の言葉に従ってみたらどうだ」

「……ほっとけ。愛想がなくとも、寄ってくる男は……寄ってくるだろうが」

「それは、もしかして私のことを言っているのか?」

「そうだな、そなたもその一人か……物好きな男もいるものよ」

 力なく笑い、微睡みの中を漂う。その時、鴛青がどんな顔をしていたのかすら見ることもなく。

「……紫、どうしても私を愛してくれぬのか」

 そっと呟かれた言葉が夢か現か、もはや判別はついていなかった。ゆえに、その時紫苑が返した言葉も、本人は覚えていない。

「……私は、誰も愛したくはない。それも、そなただけは……愛したら、ただでさえ、愛しい者の……面影と重なるそなたから……今度こそ、離れ難く、なるではないか……」

 吐息のような言葉を囁いて、紫苑は意識を手放した。

 眠りについた紫苑を見下ろしながら、鴛青はもう一度その頬に手を伸ばした。

「……諦めてはどうですか。鴛青殿とて、おつらいのでは」

 いつからいたのか鴉が鴛青のすぐ斜め後ろに座っていた。だが、鴛青は表情一つ変えずに、紫苑の頬に触れる。

「紫苑様の中には、永遠に咲殿がいらっしゃる。たとえ、紫苑様があなたを愛するようなことがあったとしても、それはその姿容ゆえ。あなたは咲殿を超えることはできぬでしょう」

「……そんなことは、わかっている」

「ならば、これ以上紫苑様を惑わせるようなことは仰いますな。それに紫苑様は、もう……」

 鴛青がこれ以上深みに嵌らぬようにと咎める声を、鴉はそれ以上上げることができなかった。鴛青の泣き笑いのようなその表情に、時はすでに過ぎたことを知る。

 引き返せる、その時を。

「私は……私のこの顔に生まれついたことをこんなにも呪い、そして感謝したことはない。たとえ、咲殿の代わりだとて紫は今ここにいて、私の手の触れられるところにいる。……それでもいい。それでもいいのだ、紫が私を少しでも心にかけてくれるのなら」

「しかし、それではあなたが……鴛青殿が、哀れにはございませぬか……! 己を見てくれぬ者に、そこまでの情熱を捧げたとて、それは……」

「わかっている!! ……私とて、男だ。先の男のことなど捨て去って欲しい、私だけを見て欲しい――私だけを愛して欲しい!」

 紫苑に触れていた手を強く握る。

 己の中に、こんな凶暴な想いがあるなど知らなかった。紫苑を誰の手にも触れさせず、自分のものだけにして、たとえ咲にさえも渡したくないと。鴛青の本心は、ただ紫苑を独占したいという、その強い想いだけ。

「だが……」

 高ぶった感情を、瞳を閉じることでなんとか押さえ込む。

「紫は、咲殿のためにすべてを捨て、ここへ来たのだ。……咲殿を守るということは、引いては私自身の未来をも守るということ……それなのに咲殿を忘れ、私だけを愛してくれなど……どうして言えようか」

 握っていた拳を開く。

 紫苑に出会えた奇跡を思えば、それでもいい。だた、紫苑の傍にいられるのなら。それ以上は望まない。望んでは、いけない。

「鴉よ、……人の想いほど、ままならぬものはないな。いっそ忘れてしまえたほうが楽だというのに、それでも……紫に出会い、愛したことを、悔やもうとは思わなんだ」

 薄い掛布団を引き上げてやりながら、鴛青が呟く。

 鴉が目を逸らしたのは鴛青からだったのか、それとも過去の自分からだったのか。あまりにも苦しい恋は鴉にも覚えがあった。

「それでも、人は愛すのでしょう……己の片翼を、得るために」

「片翼か……そう、だな」

 得たいと願っても、得ることのできぬものがある。だからこそ、人は願い続ける。

 鴉は、そっと瞳を伏せた。

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