導
亘化三年(六二七年)睦月十九日。
それは、一瞬のことであった。
鴛青が止める間もなく、紫苑が自分と夜叉の間に飛び出してきた。そして――ダンと地面を拳で打つ。己の無力さをこんなにも呪ったことはない。
初めてだった。初めて、雇い主の命令に絶対服従であるはずの兇手たる己が、命令に逆らい、誰かを守りたいと強く心に願った。それは己の心の均整すらも乱してしまうほどに。にもかかわらず、鴛青はそのたった一人の人さえを守ることができなかった。
辺りは血のすえた臭いが充満し、あちこちに乱闘の跡が窺い見える。だが、鴛青以外生きている人間は一人として居ぬ。
夜叉の攻撃を背に受け、紫苑の身体が崩れ落ちようとした時、何か凄まじい威力の黒い風が巻き起こった。あまりの強さに目も開けていられず、必死に地面にしがみついていたが、次に目を開けた時には、そこは一変していた。その場に倒れたはずの紫苑の姿は忽然と消え、逆に自分たちを襲った兇手ら全員がものの見事に絶命していたのだ。鋭利な刃で一瞬にして引き裂かれたかのような傷痕はあまりにも生々しく、鴛青ですら一抹の畏れを感じた。
だが、それよりも不可解であったのは、そこから高蓮と夜叉の姿が消え失せていたことにある。あの強風の最中、逃げおおせたとは到底思えぬのだが、方法はどうあれ骸がないのならば、夜叉を始末し損ねたということに他ならぬ。紫苑を守り切れなかったにもかかわらず、夜叉すらも取り逃がすとは、一体自分はなんのために戦ったというのか。
もう一度、強く拳で地面を打つ。そして、鴛青はどこかへ向けて、立ち上がった。
*
亘化三年如月一日。
そこは辺りを見渡す小高い丘の、心地良い風が流れる場所に在った。一つの枝に細長い葉がいくつも連なった見慣れぬ木々に囲まれ、ひっそりとここへくる誰かを待っている。
何百年も前に立てられたものだというに、荒れた様子もなく、手入れが隅々まで行き届いている。朔方が言ったように、ここに埋葬された人物が、死してなお崇拝を集めているというのは、あながち偽りではないのだろう。墓に刻まれた名は――静羅人。誰もが知る高名な陰陽師で、現在の陰陽省の礎を築いた人物。そして、紫苑の師でもあった人。
「こんな遠いところに呼びつけてしまって、悪かったですのう」
物思いに耽っていた策が振り返ると、手に花束を抱えた朔方がゆっくりと階段を上ってくるところであった。慌てて駆け寄り、花束を受け取ろうとするが、朔方は笑顔でそれを断る。
「羅人様にお供えする花くらい、自分で持ちませぬとなあ」
花束を大事そうに抱え直した朔方に頷き、策は朔方に合わせて一歩一歩踏みしめるように階段を上った。頂上についた朔方が石碑に向かって一礼し、丁寧に花をその御前に供える。しばらく無言のままそれを見上げていた朔方が、再び羅人に対して深く頭を垂れるまで、策はずっと黙ってそれを見届けていた。
「お待たせしましたのう」
顔を上げた朔方が手招きをして、木陰にあった石造りの椅子に策を誘う。
木っ端御史でしかない自分が、包拯と並ぶ官位を持つ朔方と同じ椅子に座るのは気が引けたが、にこにこと微笑む朔方には無言の圧力があった。結局、有無を言うことができず、策は遠慮がちにちょこんと隅に腰かける。それを見た朔方は、満足げに頷いた。
「ようやく星の導きがあり、こうして策殿とお話しすることができたようですのう」
その言葉に、ちくりと胸に痛みが走る。
結局、策は三日後と言われたあの日から、どうしても陰陽省を訪ねることができず、とうとう今日を迎えていた。陳腐な理由を並べ立てるだけならば、いくらでもできる。三日なんて短過ぎる。そんな日数で答えなんて出せるはずがない。その間に、一体どれほどの騒動があったと――実に無価値で無意味な問答だ。
ただ確かなのは、自分は逃げたということ。決めねばならぬことから。
『決めねばならぬ時に決めることを先送りにしたそなたに、これからどれほどの時を与えたとて、なんの成果も生みはせぬ。所詮、そなたはその程度であったということ』
紫苑があの時言った言葉の意味が、今ならばよくわかる。
朔方と会ったその日に、すべてを聞く覚悟を持てたならば、もしかしたら何かが変わっていたのかもしれぬ。こんな結果ではなく、もっと他の何かが――誰も傷つけることのない、最良の選択を得られたのかもしれぬ。そのことがずっと策の心の内で爪を立てていた。
「過去は過ぎたもの。悔やむより、今何ができるのかを考えたほうがよい」
いつの間にか遠くを見ていた朔方がそっと呟く。
「生前の羅人様のお言葉じゃ。今の策殿にぴったりじゃろう?」
「そう、ですね……」
漏らした苦笑が、風と共にどこかへ流れてゆく。常盤木の葉を散らし、精一杯生きた命を空へと還す。冬の訪いというものは、いつの時もどことなく物寂しく、冷たい。まるで今の策を取り巻く現実と同じように。
「聞かせていただけますか」
ようやくと言っていいものか、一本芯の通った静かな声が己から出る。
――策は、もう迷わなかった。過去の自分が迷ったことで招いた結果を思い知ったというのもあるが、それよりも紫苑の捜査をしてゆくうちに、気づいたことがあったからだった。
「羅刹……いえ、紫苑殿は、ある意味正しい」
紫苑が言ったことは、何一つ間違ってはおらぬ。
策に対する評価も、宋鴻を糾弾した時の主張も。紫苑は、宋鴻と主従の誓いを交わしていたために裏切りだと皆は騒いだが、もし本当に宋鴻が罪を犯していたとすれば、たとえ主を裏切ることになったとしても、罪を見逃す理由にはならぬ。
あの時の策は、ただそれまでの宋鴻の人となりを見て、罪を犯すはずはないと理由もなしに情のみで動いていた。それゆえに、紫苑が畳み掛けてきた策略に屈し、満足な弁護もできぬまま宋鴻を失脚させてしまった。罪を裁く者が、情で左右されてはならぬ――紫苑は、それを策に言いたかったのではないだろうか。
「じゃが……、策殿は紫苑様のすべてが正しいとも、思ってはおらぬのじゃろう?」
紫苑は確かに正しい。だが、それはすべてではない。
すべてを正しいと言ってしまえば、無実の宋鴻を故意に陥れたことまで肯定することになる。紫苑の目的がなんであったにしろ、それは許されることではない。
「ですが、最近はこうも思うようになったのです……。もし紫苑殿が宋鴻様を失脚させねば、王位に迫る勢いであった宋鴻様を疎み、内密にされていたお世継ぎごと、いずれ鄭貴妃様が手にかけていたのではないかと。事実、失脚したのち、鄭貴妃様は宋鴻様への興味をあっさりとなくしましたから……。誰もが紫苑殿を万能な陰陽師だと思い込んでおりますが、私にはどうしてもそんな都合のよい人間が存在するとは思えないのです。もし紫苑殿でもどうにもできない何かが働いて、鄭貴妃様が宋鴻様を手にかける未来が変えられないとしたら……、紫苑殿はおそらく……。まあ、私の身勝手な解釈でしかないのですが……」
「それでよい……。それでよいのじゃ、策殿」
こちらを再び向いた朔方の顔は、どこか安堵したかのような表情を浮べていた。
「紫苑様が歩もうとなさっておられる道は、一つの手段に過ぎぬ。それが正しいとも誤りとも、儂には言えぬ。じゃからこそ、策殿が必死に選び取ろうとしている道もまた、誤りとは言えぬのじゃ。策殿がその選択をしたゆえに、星はまた廻り、あなたをここへ導いた……。それらはすべて、運命のなせる業」
朔方が背筋を正したのを見て、策も自然と伸びる。朔方を取り巻く空気が一瞬温度を下げたような気がして、心臓がどくんと大きく跳ねた。
「ここへ埋葬されている御方は静羅人様といってのう、これからのち羅人様を越える術者は一人として現れぬじゃろうといわしめた稀代の陰陽師じゃ。我ら陰陽省はその羅人様によって築かれ、代々の長は形式上、静の苗字を継いでおる」
「形式上、ということは……、その御方にご子息はいらっしゃらなかったのですか?」
「……そうじゃ。なんの因果か、羅人様の血縁者についての記述は、一切残っておらぬ。ゆえに、羅人様は当時の弟子であった葛様に、陰陽省に託したのじゃ。後世、自らの志を継ぐ者らへ、助けとなる『力』を」
てっきり何かしらの『物』を遺したとばかり思い込んでいたゆえに、策は拍子抜けする。そもそも『力』というのは、今現在紫苑が行使している類の『力』を指しているのだろうが、それは本人が死んだのちも現世に遺せるようなものなのだろうか。
そんな策の疑問が朔方に筒抜けだったのか、その瞳が用心深くきらりと光る。
「いつの世も、人は世界を混乱に貶めてきた。我らは持てるすべての力を以ってそれを鎮めてきたが、混乱が必ずしも我らの手に負えるとは限らぬ――先の戦のようにのう。……ゆえに、羅人様は最後の手段として、ある方法を遺されたのじゃ」
自分では気づかぬうちに、拳に力が入っていた。
これまでの話は、まだ誰でも調べられる昔語りのようなものだ。だが、これから先は禁忌。本来ならば、策のような何も知らぬ一般人が立ち入るべきですらない。ゆえに、ここまできたら、もう後には引けぬという意地だけで、策はこの場にしがみついていた。
「……それを、『栂の誓い』という」
*
「随分、顔を見せぬと思っていたが……、どうやら紫苑に骨抜きにされていたようだな」
相変わらずの闇は、想定内だ。ねっとりと身体に絡みつきそうなそれに身震いをしながら、耳障りな笑声を聞く。
「だが……、紫苑を落とすとはさすがよ」
「彼女を落とすことのできる男など、この世には存在しませぬ」
自分でそう言ったにもかかわらず、鴛青の胸に小さな痛みが走る。――馬鹿なことを。
自分で納得したはずではなかったのか。紫苑を得られずとも、彼女を守りたいという想いに変わりはないと。
「なぜもっと貪欲にならぬ? 好いた女一人奪えぬとは、情けない男よ」
男の揺れる銀髪が鴛青の心を掻き乱す。息苦しさを誘う紫煙から逃れたくとも、まるで離してはくれぬ。それでも、先ほど感じた痛みが鴛青を現実に引き戻す。目の前の男とは違い、鴛青は闇に囚われるよりも、光を守ることのほうを選んだのだ。
「奪ったところで、誠に手に入れたきものは手に入りませぬ。ゆえに……、あなたはこうして闇の中にいる。その力を以って奪ったすべてのものを掻き集めても、何一つ手に入らなかったために」
風切り音が耳元で警告して、咄嗟に顔を避ける。何か鋭いものが、勢いよく背後の壁に突き刺さった。
「……件の夜叉は、あなたが放ったものですね。紫苑の命を狙い、あわよくば私の口封じも兼ねて。紫苑に肩入れしかけている私からあなたのことが漏れるのを防ごうとしたのでしょうが、むしろ逆効果でしたね。……――私はあんたから離反する」
始めから気づくべきであった。
紫苑を殺したいのは高蓮ではない。むしろ、この男のほうではあるまいか。鴛青自身も元は紫苑を殺すための刺客として、この男に放たれたのだ。ゆえに、一向にそれを実行しようとせぬ鴛青に痺れを切らしたとしてもおかしくはない。
「離反する? 今さら都合のよいことばかりほざくな、若造。紫苑に対して弓引いたのは誰だ? 紫苑にとって己の命同然の宋鴻諸共、地獄に引き摺り込もうとしている者の手先になっていたのは、一体誰だ?」
「それは……! あんたが「紫苑を守りたいだと……? すでに罪を負ったお前が、それから逃れられると思うな。お前のその程度の覚悟では、高蓮以上に紫苑を守ることなどできぬ。高蓮はお前と違い、すべてを解し、そして一つのために他のすべてを捨てた。……それがお前にできるか」
今までの男は、人を小馬鹿にしたような態度で、余裕のある素振りを一度たりとて崩すことはなかった。――それが今は違う。鋭い刃のような怜悧さで、鴛青の喉元に喰らいつく猛獣に似て、どこまでも凶暴な怒りを爆発させている。
紫苑を射抜いたのは、この男の指示であった。それが紛れもない事実であると共に、ようやく自分は利用されたのだと気づく。男は鴛青が紫苑に出会えば、殺すことができなくなるとわかっていた。そして、鴛青をなぜか手酷く拒絶できぬ紫苑の弱さも。
「……いい目になってきたな。そうだ、そんなお前が紫苑の隣に相応しいはずがない。戻ってくるのだ、この闇へと」
くつくつと響く男の嗤い声は不快でしかなかった。紫苑と出会うまではその声も闇も、別段不快に感じることもなかったというに。
(そうか……。紫が放つ空気が、あまりにも透明であったゆえか……)
自分も含めて、人間なんてものは綺麗ではなく、常に打算と欲に塗れている。紫苑は返り血に染まった己を穢れていると思い込んでいるが、鴛青が手にかけてきた数多の人を思えば、紫苑の罪など取り立てて騒ぐほどのものではない。それでもなお、紫苑は己の罪を責め、その罪に相応しい贖いを常に求めている。だからこそ、紫苑は闇に染まらず、どこまでも透明で在り続ける。きっと、死ぬその間際まで。
「いいえ」
思ったよりも、はっきりと声が出る。それを理解したら、すんなりと答えが出た。
「逃げたお前に、紫苑がなびくはずはない」
「逃げたのは、あんたも同じはず。ゆえに、私はもう逃げぬ。紫苑を手放さぬために、……希望を、失わぬために」
一瞬にして、さらに闇を増した男を毅然とした表情で見据える。それから鴛青の叛意を感じ取ったのか、男は怒りに任せて、自らの背後からいくつもの鋭い氷の刃を発した。鴛青はそれを避けることもせず、正面から立ち向かう。それはいわば、宣戦布告。もう二度と、男の思いのままになるつもりはないという、宣言。
氷の刃は鴛青の頬や肩をかすって、背後の戸に突き刺さった。鈍い痛みが全身を襲っているにもかかわらず、なおも表情を変えぬ鴛青に、なぜか男は愉快そうな笑みを浮べる。
「……自惚れるな、鴛青。お前の命を取ることなど、私にとっては容易きこと。それをせぬのは、時を待っているだけよ」
唐突に何か大きい手で殴られたかのような衝撃を受け、戸ごと突き破り、後ろに吹き飛ばされる。受身を取った鴛青が次に顔を上げたときには、もはやそこにあったはずのあばら家は跡形もなく消え去っていた。
*
玄安二十五年(一二〇年)弥生十五日。
時の陰陽師、静羅人は己の寿命が、もうまもなくで尽きるのを悟っていた。
「葛よ……」
傍らで固唾を呑んで見守っていた三十半ばの若い術者に、羅人は一縷の望みをかけ、これから行おうとしている術式の全貌を語り始めた。
それは肉体的な死が訪れる前に魂を取り出すという、禁忌に近い術式。あまりにも高度な術式過ぎて、これまで誰一人成し遂げられた者はない。もし実現するとすれば、それは羅人ただ一人――史上最高の術者の名をほしいままにした、その人だけだろうと言われてきた。
葛は、いずれ羅人がそう言い出すのではないかと薄々覚悟をしていた。羅人が元来持っている『力』を、これからも存続させてゆくにはもはやそれしかすべはない。とうの昔に羅人はその覚悟を決めていて、未だ受け入れられずにいるのは自分のほうであった。
自分が実子であればと何度悔やんだかは知れぬ。もっと鍛錬に励み、羅人の力を受け継げるほどの器になりたかったとも。だが、それも今となっては叶うはずのない戯言に過ぎぬ。
「君には苦労をかけましたね……そして、これからも」
「何を……仰られるのです……苦労、など……」
動揺して声が上擦る。
一切の揺らぎを見せぬ冷酷な術者だと周りは思っているのだろうが、葛はこと羅人に関することではすぐに揺らいでしまう。幼き頃に捨てられた自分を拾って、ここまで育ててくれた羅人に対する情が、自分をそうさせているのだろうとも思う。そして、それを知りながらもなお、自分に最期の時を与えてくれる羅人を心の底から敬愛していた。
「これより、陰陽省は君に任せます」
陰陽師という得体の知れぬ存在を世に広め、王や臣たちにも認めさせ、たった一代で陰陽省を創り上げた羅人。宮城の奥深く、そびえる高楼を擁して、濃藍の神泉を抱くその美しき場所は、まるで桃源郷とも謳われた。生涯を懸け成し遂げたその輝かしいすべてを、羅人は気にも留めずに放り投げた。まるでそうすることが当然だというように。
こんな状況にもかかわらず、葛は笑ってしまいそうになる。羅人は昔からそうだった。地位や権力という普通の人間が普通に欲しがるようなものにはとんと無関心で、星がどうとか力がどうとかそんなものばかりにかまけていた。だが、そういう羅人であったからこそ、今の陰陽省があるのだろうとも思う。地位も権力もいらぬ、ただ人を救いたいというその願いしかなかったからこそ、実った奇跡。そんな素晴らしいものを、自分は後世に繋げてゆくことが本当にできるのだろうか。
「君に私の姓を与えよう」
あまりの衝撃に葛は言葉を失った。羅人と同じ道を葛が選んで以来、前にも増して羅人は親として接しなくなった。そのことにずっと負い目を感じてきた自分に、羅人は己の姓をくれるという。あまりにも呆気なく、淡々と。
「君は私の子であるよりも、術者であることを選んだのでしょう?」
深い皺が刻まれた手が、握りしめていた己の手にそっと重なる。
「私は、君に同じ道を辿らせるつもりはなかった……。ゆえに、君が術者になると言い出したとき、正直迷いました。己の仕事に私情を挟むまいと決めていたのに、もはや愛すべき我が子でしかない君をこの道に引き込み、……万が一の時、私は冷静な判断を下せるのかと」
愛すべき我が子。それは、初めて聞いた父親らしい言葉だった。
ぽろりと葛の瞳から大粒の雫が零れ落ちる。どうしようもなく溢れてくるそれを葛は拭うことすら惜しいと思った。
「ですが……私の想像を超えて、術者として成長してゆく君を見て、私も覚悟を決めたのです。……私の唯一の弟子として、君にすべてを託そうと」
息が止まったのかと思った。羅人からその言葉を与えられるとは、露にも思っていなかったゆえに。その言葉は葛にとって、何よりの誉れであった。愛すべき我が子と言われたことよりも、むしろそれ以上に。
羅人の許には、たくさんの人間がいる。羅人の教えを乞い、術者を志す大勢の者たちが。その者たちが今の陰陽省を支えているが、その中の一人として羅人に弟子といわしめた者はない。誰もが羅人に弟子として認められようと必死に精進し、それは葛も同じことであった。いつしか親としてよりも、師匠として羅人を尊敬するようになっていったのは、いつの頃だったか。
「師匠、と……呼んでいいのですか……?」
躊躇いがちに訊ねた葛を、羅人はいつになく穏やかな表情で笑った。
「やはり、呼び慣れませんから……義父上のほうがいいでしょうかね?」
「……義父上のほうが、さらに呼び慣れません」
そうでしょうかねえと、惚けた羅人がいつもと同じ過ぎて、葛は涙を流しながら顔をくしゃくしゃにさせて笑った。この人は、大切なことを最後の最後まで言おうとせぬ。そんなことは元より知っていたが、本当に今が『その時』なのだと思い知る。
「……私が君に託すのは、誓い。幽体となった私とこの世界との繋がりが断ち切れてしまわぬよう繋ぐもの。そして、それは新たな希望を繋ぐでしょう」
羅人の手の上で淡い光が発せられる。その光が徐々に形作られて、青々とした細長い葉が並ぶ瑞々しい木の枝が現れた。
「肉体的な死を迎えれば、私もこれまで同じというわけには参りませぬ。ですが、これから過ぎゆく時代の中に、私や私と同等の力を持つ者の助けが必要になる時がくるでしょう。これはその時の備えです。現世に生きる者たちの力ではどうしようもなくなったとき、助けとなるように」
そっと手渡されたその枝は、見た目に反してずっしりと重みを感じさせた。それが何かを託されるということの重みなのだろうかと思う。自然と唇が真一文字に引き結ばれる。
「ですが、これに頼ってはなりませぬ。日々研鑽を積み、今よりもさらに高みを目指しなさい。そうすることでこれを使わずとも、他の道を後世に繋げられるかもしれませぬ。君の役目はこれを守り、次代へ継ぐことです。私が君へ『静』を継いだように、いつの日か君が跡を託せると思えた者に継いでゆきなさい。その過程によって、これはさらに磐石なものとなってゆくはずです」
羅人が枝の上に手を翳すと葉が緑を増し、つい先ほど切り取られたかのような瑞々しさを溢れさせた。それを見て、羅人は微かに表情を曇らせる。
「この木が枯れぬ限り、私はこの世界と共に在るでしょう。……されど、人というものは移ろいやすきもの、私という存在が必要とされなくなれば、これも効力を失うしかありませぬ。……これは一本の細い糸、切れたらすべてが終わる。それでも、私は……諦め切れぬのです」
「……いいえ、一本などではありますまい」
眼差しに強い意志を顕した葛に、珍しく羅人は驚いていた。ぷつんと糸が切れる音がして、背後の扉が盛大な音を立てて開かれる。扉に聞き耳を立てていたらしい大勢の術者たちが、つんのめるようにして部屋に雪崩れ込んできた。
「人払いをしていたはずなのですが、申し訳ありません。皆、我慢ができなかったようで」
堪え切れなくなって、思わず笑う。
聞き耳を立てていた中には、葛よりも先輩の術者たちも混ざっていて、皆一様にばつが悪そうにもじもじとしていた。若い術者の何人かは、先輩術者に押し潰されていて、悲痛な呻き声を上げている。本来ならば、命令に背いたと叱りつけるところだが、葛には皆が命令を破ってまで話を聞こうとしていたその訳がわかっていた。
「私たちは皆、師匠を慕い、師匠の背を追ってここまできたのです。その師匠の最期の希望を繋げずにどうしますか」
不安は未だある。決壊してしまえば、立っていられなくなるほどに。それでも、繋ぐことを手放したくはない。羅人がこれまで歩いてきた人生を、未来を照らす希望を、自分が途切れさせてなるものか。それはきっと葛だけの想いではない。
葛は枝を掲げるように持ち、一歩身体を引く。その場で跪いた自分に倣うように、そこにいたすべての術者が羅人に対して頭を垂れた。
「一本の糸を数多の糸に変えてみせましょう。未来への希望を繋ぎ、師匠が我らに与えてくださったものを、今度は我らが次代へ継いでゆくために。……それが今を生きる我らの役目です」
一斉に伏す音が、その場に響き渡る。それに少し驚き、だが満足げな微笑みを浮かべながら、羅人は見届けていた。こんな自分が何かを遺せたことを、ほんの少しだけ誇らしく思いながら。そして、羅人は深く息を吐くように最期の言葉を呟き、静かにその生涯を閉じた。
*
亘化三年睦月二十三日。
「っ……! もう少し優しく……やってくれ」
「これで充分にございます。まったく、紫苑様の仰ることを鵜呑みにした私が愚かでございました。まだお身体も完全に回復し切っておらぬというに、まさかご自分が盾になられるとは!」
鴉はあえて染みるように、強めの薬を塗り込んだ。案の定、痛みに悶絶して紫苑が呻き声を上げるが、そんな瑣末は気にも留めぬ。
「うぅ……! これでも、致命傷にはならぬよう、背を選んで飛び込んでおる。……このわたくしがなんの計算もなしに、無謀な賭けに出るわけがなかろう。ゆえに、斯様な薬でちまちま治さずに、早うそなたの力で、……痛っ!」
「その態度はまったく反省しておりませぬね! 確かに致命傷にはなりませぬが、『桜』よりはみ出ているところは、しっかり切られているのです。……当分、外出禁止ですから、その間に痛みと仲良くしながら、反省なさったらよろしいかと!」
傷口に巻いた包帯の上から、遠慮なくしばく。あまりの痛みであったのか、紫苑は傷口を擦りつつ、こちらを恨めしげに見上げてきた。だが、それを見ただけで、今鴉が大激怒している理由をもわかっているのだと気づく。
「……すまぬな。次からは自重する」
「当たり前にございます。今さらしおらしくされても、外出はさせませぬゆえ」
眉をしかめ、鴉はふんとそっぽを向く。
そうやって反省したとて、紫苑はまた己の命を容易く擲ち、いずれ鴉を置いてゆくのだ。ゆえに、今のこんな状況だからこそ、もう少しくらい鴉の力を頼ってくれればいいというに。
「仕方なかろう……。わたくしがあの時出てゆかねば、わたくしのやってきたことが、すべて水泡に帰すところであったのだ……。そなたも知っておろう……、わたくしがここへきた、真の理由を」
「承知、しておりますが……。それでも、私は紫苑様がこれ以上傷つくのを見たくはないのです。たとえ愛する者を守るためであったとしても」
「そなたも、わたくしと同じであろう。……愛しき者に心奪われ、すべてを失う覚悟をしたのは」
ぎゅっと唇を噛む。同じであるからこそ、紫苑に同じ道を歩ませたくはなかった。それが、もはや後戻りできぬところまできてしまった今であっても。
「ゆえに……ゆえに、あの者を……鴛青殿を、身体を張ってお守りになられたというのですか……? 鴛青殿は、咲殿であって咲殿ではないでしょう。紫苑様が愛されたのは、咲殿のはず」
「されど、魂は同じよ」
紫苑はなんの屈託なく、涼やかに笑った。その微笑みは、かつての己と重なる。遠い過去、愛しい者のためにこの身を変えたあの日の自分に。
ゆえに、何度でも食い下がろうとしてしまうのかもしれぬ。紫苑の行く末を変えることができるのなら、何度でも鴉は紫苑を止めたいと。その先に待ち受ける地獄を知るのは、もう自分で最後にしたいと思ってしまうゆえに。
「だからこそ、わたくしは守るのだ。歴史を変えるためにもな」
「しかし、紫苑様のお身体では、もう強力な術を使うべきではありませぬ。これ以上、使い「何も申すな、鴉。力を使う代償は、始めから承知しておる」
「――その代償とは、なんなのだ」
突然聞こえた声に、条件反射で振り返る。僅かに開いたままになっていた格子戸が、夜闇を軋ませる音を立て引かれてゆく。その先に、魂を抜かれたような青褪めた顔で突っ立っていたのは、まさに鴛青その人。
どんな運命の徒か。誰に聞かれたとしても、彼にだけは聞かれたくなかったというに、なぜ今ここに――
「鴛、青……そなた、……」
あまりの衝撃に、言葉もままならぬ。心が一瞬にして冷え切って、震えすら覚える。私のその震えを感じ取ったのか、鴛青は無意識のうちに私の許に駆けてこようとしたが、寸前で鴉がそれを制止する。その顔に浮かぶのは、執念ともいえる形相。
「すべてをお聞きになられたのなら……、もうおわかりのはず。どうぞ、このままお引取りを。あなたが出られる幕などありはせぬのです。……これ以上、踏み込まれると申されるのならば、あなたの記憶を消させていただきます」
「私はただ紫苑に……!」
「紫苑様のことを第一に想うのなればこそ、あなたはここにいてはならぬのです! あなたは紫苑様の「――よい、鴉。そなたは下がっておれ」
「しかし、紫苑様!」
なおも言い募ろうとする鴉を、視線だけで制する。それだけで鴉は何かを読み取ったらしい。散々躊躇いながらも最後には諦めて、渋々一礼し、部屋を出て行った。
二人きり残された部屋で、私は徐々に冷静さを取り戻しつつあった。先ほどはあまりにも驚いて声を失ってしまったが、この程度で揺らぐとは私らしくもない。本当に、私はこの男の前でだけは、どうしても己を見失ってしまう。
(そうか……。今日、ここに鴛青がいるのもまた、運命だというのか……)
「……すまぬ」
立ち尽くしたまま搾り出すように届いた声。鴉に止められた場所から一歩も近づけぬこの距離に、鴛青の悔恨が表れている。
「すまぬ。私が不甲斐ないせいで、貴女を……」
「勝手に飛び出したのはわたくしよ。そなたが気に病むことはない」
「しかし……!」
拳を握りしめ、鴛青は思わず紫苑から目を背ける。柔らかな紫苑色の単衣がはだけた胸元から、真新しい白い包帯が覗いていた。咄嗟に紫苑が夜叉の剣を受けたあの場面が蘇る。――そうだ。紫苑が何を言おうとも、鴛青の優柔不断がこの傷を負わせたのは紛れもない事実。
こちらを見つめていた紫苑が、溜息をついて立ち上がろうとする。だが、上手く力が入らなかったのか、僅かに身体が傾ぐ。それを支えようと、気づけば鴛青は腕を伸ばしていた。こういうのを本能というのだろうかと、呆然と紫苑の手を取る。
「少し付き合うてくれるか。久方ぶりに桜の許へゆきたい」
「桜……?」
「ほら、わたくしは怪我をしておるのだ。早う」
鴛青は、恐る恐る紫苑の身体を抱きかかえた。以前にこの邸に運んだ時よりも、紫苑の身体はほっそりとして、体重というものをまるで感じさせなかった。それに何よりも、身体が触れ合っている今だからこそわかる、紫苑の身体の熱が驚くほどに低い。
それがどういうことなのか。先ほどの言葉の意味も。鴛青は、わかりたくはなかった。
「嗚呼、この桜だ……やはり美しい」
そっと桜の根元に降ろされ、嬉しさを噛みしめるようにして、白を振り仰ぐ。
闇夜に腕を伸ばし、花びらを絶え間なく散らしながら、疲れ切った者らを優しく包む。そこはすべての始まりの地で、すべてが終わる地。この世のものではない美しさが、いつまでも深々と降り積もってゆく。人間の栄枯盛衰を見届けながら。
「――かつて愛しき者が、在った」
隠しておこうと思えば、いくらでもすべはあった。これまで宋鴻や紅玉にさえ、決して明かそうとしなかったように。だが、意に反して口をついて出た言葉は、それとは真逆であった。
「わたくしが愛した最初で、そして最後の人。その人を守るためならば、わたくしはなんだってする。それが、たとえ他の誰かの幸せを奪う行為だとて……、わたくしは何も厭わぬ。ゆえに、わたくしはここへきた。変えられぬ運命を歴史ごと変えるために」
「歴史ごと変える……?」
不思議そうに首を傾げた鴛青に向かって微笑む。
私はいずれこうして鴛青に会うことを知っていた。かの人と同じ魂を宿した、かの人と同じ姿をしているだろう、『浪鴛青』に。そして、それは定められた宿命であるがゆえに。
「……そう。時の狭間で異変が起きたのだ。その人の運命が捻じ曲げられ、その存在までもが消滅すると告げられた。それを修正するには、歴史ごと変えるしかすべはないと」
「誰に、そんなことを……」
「わたくしの師匠である、静羅人様にな」
記憶を失くしていた私の前に現れた羅人は、淡々とその事実を告げた。このまま何も手を下さねば、かの人は死ぬしかないということ。そして、それを食い止めたいと願うのならば、羅人の跡を継ぎ、その力を身に受け入れ、なおかつ私は『今』という時間を捨てねばならぬということを。
その時の私が羅人の言葉に抗ったかどうかは、もう今は覚えておらぬ。冷静に物を考えるというよりは、自らの本能に従ったと言ったほうが正しい。皮肉ではあるが、その瞬間ほど己の中にある『紫苑の力』を強く感じたことはない。
「静羅人? 何を言っているのだ……? 静羅人といえば、大昔に死んだ陰陽師のことであろう? なぜ貴女の師匠になり得るというのだ」
「わたくしが生来持つ力と、時を渡ることのできる師匠の力があれば、できぬことは何もない」
「時を、渡る?」
なぜこの話を鴛青にしようと思ったのか。己の素性を、今まで誰にも話そうと思ったことはない。宋鴻や紅玉、呉陽にすらも。不用意に話して、好奇な目に晒されるのは鬱陶しかったし、価値もわからぬ輩にいいように利用されるのも煩わしかった。そして、何よりも私自身を理解してもらわずともいいと思っていたからかもしれぬ。
どうせ私はすべてを失う。ならば、情が移るような真似は、私にとっても誰にとっても最善とはいえぬ。ゆえに、私自身を話す必要はないとずっと思ってきたし、そう決めていた。呉陽はそんな私の態度を、何かを企んでいるに違いないとずっと決めつけていたようだが、真相はその程度の理由だ。にもかからわず、今日は何かが違った。なぜかこの話をした時の鴛青の反応を、ただ知りたいと思ったのだ。
「……そなたも一度は聞いたことぐらいあろう。羅刹の先読みの力は、もはや人間ではない。あれは、すべてを知り得る神でしか成し得ぬと。まぁ……、わたくしが神ではないことは明らかだが、常人より先を知っているのは当然のことよ。……――わたくしは、この時代の人間ではないゆえ」
*
「――『生きよ、我らの誇りと共に』。それが羅人様の最期のお言葉じゃった……」
朔方はこの歳になるまで、何度も何度も新しい術者らに言い伝えてきた古い話をようやく終えると、どこか疲れたように息を吐いた。曲がった背がさらに縮こまったようにも見え、策が言葉を紡ぐのを躊躇うほどに。だが、傍に立っていた木の葉に腕を伸ばすと、その表情に切なさが交じる。
「栂という木にはのう……、『死をも惜しまず』という意がある。世界を救うため、自ら人柱となることを選んだ羅人様を象徴するような木じゃ」
(嗚呼、これは栂であったのか……)
羅人の墓碑を囲むように、栂が幾重にも林立している。その数は、そのまま彼らが人知れず繋いできた歴史の賜物なのだろう。人間がこれまで犯してきた罪の尻拭いを、彼らは長い間黙って請け負ってきたのかと思うと、いたたまれぬと共に何かが策の中で引っかかる。
「『栂の誓い』と名づけられた羅人様との契約は、今日に至るまで脈々と受け継がれてきた。たとえ王であっても秘匿したのは、悪意に染まることや利用されることを最も恐れたゆえじゃ。王というものは、いつの時代も善王が立つとは限らぬ。価値もわからぬ愚王などに、羅人様の崇高なお志を穢されては堪らぬのじゃ。……――ゆえに、我らは黙した」
朔方の主張は、至極正論に思えた。今まさに立っている王が、善王とも、万民にとって相応しい王とも呼べぬ代物なのは間違いない。そして、そういった王が歴史上何人も立ってきたことも。
己を律し、民を導く存在であるはずの王こそが揺らいでいる。その浅はかな揺らぎに、羅人が己の命を懸けて紡ぎ出した希望を踏み躙られるわけにはゆかぬ。彼らの必死な想いは、策にでもわかる。だが、策はその想いとは正反対の問いを朔方に投げかけていた。情ではなく、ただ王の官吏としてあるべき己の存在意義を失わぬために。
「では……、あなた方は王という存在を蔑ろにしてきたということですか。すべてを捧げてお仕え申し上げるべき王に、誠実ではなかったということですか」
冷たさを孕んだ風がぞくりと背筋をなぞる。策の問いは、目の前の朔方も含めて、これまでの陰陽省の在り方を全否定するような問いに違いない。だが、無礼は端から承知だ。
朔方ら陰陽省が守り続けてきたその誓いの価値を、策が本当の意味で理解することはおそらく難しい。そんな大昔の誓いを、現代になっても忘れずに守り続けていることの意義も。だが、それもある意味では、当然のことなのだろう。策にとって、羅人は過去の偉人の一人に過ぎぬが、彼らの中では未だ羅人は生き続けている。それもおそらくは羅人が生きていた頃よりも、さらに妄信的な要となって。
ゆえに、これまでの話を聞いていて確信したのは、彼らが王に対して誓っていただろう忠誠と、彼らの始祖である羅人に対する忠誠とでは、遥かに重みが違うということ。彼らは二者択一を迫られれば、間違いなく王ではなく羅人を選ぶ。――それでは駄目なのだ。
「……紫苑様と、同じことを仰る……」
朔方は咎めることもなく、何かを悟り、深く息を吐いた。なぜか策がそう言うであろうことを遥か前から知っていたかのように。
「そうじゃ……。我らは王を第一に選べなかった……――どうしても、じゃ。過去にしがみついていると批難されたとて、王に一体なんの希望を抱けるじゃろうか。王は我らに何をしてくれた? 王は民に何をしてくれた? ……何もせぬ。ただ戦を繰り返し、その尻拭いに将来有望な術者を、……我が娘を! 人身御供にしただけじゃ……!」
朔方の叫びが冬の冷たい風を震わせ、それに呼応して栂の木が啼く。ざわざわ、ざわざわとまるで朔方の娘のために、涙を幾千にも散らすかのように。
宋鴻の母、夭折した皇后は、朔方の一人娘であったという。策は最近になってその事実を知ったが、その皇后が亡くなってからというもの、陰陽省は王と距離を置くようになったと聞く。羅人が死没してから五百年もの間、どんな形であれ王と国を守ってきた陰陽省に対して、あの仕打ちであれば、これほど朔方が嘆くのもわかる。
「羅人様は、我らを必ずや救ってくださる。これまで幾度となく、救ってくださったようにのう……。ゆえに、我らは王よりも羅人様を慕う。破壊しか生まぬ王よりも、再生を与えてくださる羅人様を」
唐突に朔方の声から、力が失われる。いきり立っていた朔方の剣幕が、何かに思い至って、はっと我に返るかのように。その視線の先にあったのは、やはり栂。だが、真に朔方がそこに見ていたのは、誰の幻影であったのか。
「……じゃがのう、紫苑様はそれでは駄目じゃと、……それでは、羅人様が真の意で望まれておった未来はこぬと……。そう、仰るのじゃ……」
朔方の瞳から、しわくちゃな頬を伝って涙が落ちる。
「やはり……、羅人様が最後にお選びになられた御方じゃ……。過去の契約に安穏として、何かを為すことを忘れておった儂のような凡人とは違う……。じゃからこそ、あの御方は為すことができる。先へと、刻を廻すことができるのじゃ……」
震えている朔方の手を取って、策は焦りを表に出さぬように問い詰める。
「紫苑殿は何を為そうとしているのです? 刻を廻すとは一体……?」
急に話が核心に迫ろうとしているのを、策は身を以って感じていた。だが、その先を聞くことに、震えるほどの恐怖すら感じる。朔方の震えを止めようと手を握ったのだと思っていたが、本当は己の震えをどうにかして抑えたかっただけなのかもしれぬ。
「幽体となられた羅人様は時代を行き来し……、在るべき場所へ在るべき人を、為すべきことを為すために呼ぶ――それが、『栂の誓い』。この世界を守るための最後の一手。……そして、その契約にて叶えられる最後の人が……、紫苑様なのじゃ」
――在るべき場所へ在るべき人を、為すべきことを為すために呼ぶ。
策には時代を行き来するということも、『呼ぶ』という言葉の意味もよく理解できてはいなかった。だが、朔方が『最後』と言った時の、その言葉にかけた重みは今までのそれとは違っていた。
不意に蘇るのは、浩然の言葉。
『……もし、羅刹がこの国の生まれではないとしたら』
ぐらりと身体が揺れる。浩然はその後に何を言っていたか。
「最後、とは……」
「人は……いずれ死ぬのじゃ。どれほど願ったとて、どれほど策を弄したとて、必ずのう……。この世界に形あるものは、すべてがいずれは滅びる運命。それは幽体となられた羅人様も、『栂の誓い』も例外ではないのじゃ。……ゆえに、紫苑様は羅人様が遺されたすべてのものの滅びの前に、ここへ遣わされた」
『陰陽省の下っ端の下っ端で、術者ともいえないような術者崩れみたいな奴が、酒場で泥酔して、ある話を声高に話していたのさ。周りの奴らは、毎度のことさって気にも留めていなかったが、後日俺がその男に話の真偽を確かめにいけば、男は橋から身投げして御陀仏となった後だった。一応、役人はきたが、男が常に泥酔状態だったのは周知の事実で、案の定ろくな捜査もされず、酔って足を滑らせての事故死、ということになった。……だが、随分間が良過ぎるとは思わないか?』
事故、ではない。浩然が話していたあれは、正真正銘殺しであったのだ。術者以外には決して漏らしてはならぬ話を、漏らした男への制裁。ならば、あの話は……
「紫苑殿は、まさか……」
『あの男の話はこうだ。我らは誰にも明かしてはならぬ秘密を持っている。遥か昔、静羅人より託された術式を何百年も守り続けてきたのだ。今その術式は実り、紫苑がこの地へ召喚された。遥か……――』
「遥か、未来より……」
呆然と紡いだ言葉が嘘であって欲しかった。そんなことはあり得ぬ、あり得るはずがないと、始めに浩然からこの話を聞いた自分が一笑に付したように。
「在るべき場所は、今。在るべき人は、紫苑様。……為すべきことは、『世界の修正』」
ぼろぼろと何かが崩れてゆくような予感がした。今まで自分が築いてきた常識や概念というような、そんなものたちが。
「そのために紫苑様はここに存在するのじゃ。千年の時を越え、過去を正し、未来への道筋を創るために」
――千年。
果たして、そこにどれほどの隔たりがあるのか。策は考えることすら苦しかった。
*
風が吹く。強くはないというに、どこか恐ろしい風が。この世の一切を巻き上げ、発された言葉の意味を泡沫の彼方へ運び去ってしまうかのように。
苦しみに満ちた悲鳴のような風音と共に、ゆらゆらとなびく紫苑の黒髪がゆっくりと首を絞め上げる。いっそそのまま気を失ってしまえば、楽であったのだろう。その先に続く言葉を聞くくらいならば。
「わたくしは、ここよりも遥か遠い未来からきた」
衝撃に言葉を失った鴛青の瞳を、紫苑のそれが捕える。愛しい者を見るような、それでいてまったく鴛青を見ておらぬその黒曜石の瞳が。
「……私は、その咲殿と何か関係があるのか」
鴛青は気づけば、紫苑の肩を掴んでいた。紫苑が言い放った事実よりも、自分を見てくれぬ瞳のほうがあまりにも痛くて。
「それよりも、未来からきたということのほうに突っ込むべきなのではないか」
「貴女ほどの人ならば……、現実では到底考えられぬことを成し遂げたとて、別に不思議ではない。私にとっては、貴女が今ここにいるということのほうが重要なのだ」
呆気に取られて、次いで顔をくしゃくしゃにさせて笑う。
鴛青に断言されると、本当にどうでもいいことのような気がしてくるから不思議だ。千年もの時の隔たりを、なんの疑問もなくあっさりと飛び越える。そして、私の欲しい言葉をいとも容易く与えてくれるのだ。
「……そなたは、誠にその先を知りたいのか」
一度瞬きをして、鴛青の背後で散る桜を嘆く。
知りたいのか否かと問われれば、おそらく否であろうとは思う。もうすでに残酷な真実を鴛青はいくつも聞いたのだ。これ以上、鴛青の与り知らぬことで傷つく必要などない。――だが、鴛青は聞く。たとえ、その結果がどうであろうとも、鴛青が『浪鴛青』であるのならば。
「聞かなかったことで悔いるくらいならば……、私は聞いて悔いるほうを選ぶ」
そう簡潔に言い切った鴛青に、私は呆れながらも笑った。何も変わらぬ、そのまっすぐな瞳に。だが、かの人よりも鴛青はただひたすらにまっすぐで、真実を告げるのを躊躇ってしまうほどに。
「咲は、……そなたの次。……生まれ変わり、とでも言ったほうがよいか。……そなたが死んだのち、魂は輪廻の輪に還り、新たな肉体を得て蘇った。それが、咲」
「ならば、あの攻撃でもし私が死んだとしても、別に咲殿には……」
「……常ならばな。されど、あの時そなたが失おうとしたのは、ただ単に肉体だけではない。魂の死、つまりどこぞの輩が、そなたの生まれ変わりを阻止しようとしているという意味だ」
「一体なぜ……、そんなことをされる覚えはない……!」
「その理由がわかれば、ここまで後れは取らぬ。……されど、この時代で何か問題が起きておるのは、もう間違いないようだな」
――運命の刻が廻る。その言葉の意味を、高蓮は確かに知っている。知っていて、私の目の前でそれを廻そうとした。だが、高蓮の真意がわからぬ。術者でもない高蓮が、なぜそんな危険を犯す必要があるというのか。
「……貴女は咲殿の未来を守る、ただそれだけのためにここへきたと……? それゆえに、同じ魂を持つ私を助けたというのか」
驚くほどに感情の伴わぬ声であった。今までの楽観的な鴛青からは想像もつかぬような。
「なんだ……、落胆したか? 千年もの時を超えるのだから、崇高な志ゆえにとでも思ったのか? それならば、残念だったな。かつてのわたくしは容易く情に転ぶ女であったのだ、不本意ではあるが」
どうにかして重苦しい空気を払おうとしたが、上手く笑えなかった。冷えたまま体温も戻らぬこの身体のことを、鴛青は気づいたはず。
――何も悔いはない。これまでのことも、これからのことも。
だが、鴛青にこんな顔をさせるくらいならば、私は何か他にできることがあったのだろうかと思ってしまう。もうすべてを悟っていて、だがそれ以上を訊ねればきっと痛い。鴛青はその痛みに全身で耐えていた。
「ならば……、力を使う代償とはなんなのだ」
一瞬、息が止まる。
答えたくなどなかった。これ以上知ることは、鴛青にとって良いとはいえぬ。だが、そんな言い訳が自分本位であることもまた、よく理解していた。それを知れば、鴛青は必ずや咲と同じことを言うに違いない。
「貴女のこの身体が関係しているのか? 以前よりも細く、顔色も悪い。それは力を使うゆえなのか」
何かを言おうとして躊躇い、そして瞳を逸らす。それが、すべての答えであった。
「なぜだ……なぜそこまでするのだ! 貴女の命を削ってまで生きようなど、咲殿とて願ってはおらぬであろう!」
「な、何をわかったような口を……」
「私ならば、愛した人にだけは幸せに……、誰よりも幸せに生きて欲しいと願う。だからこそ、全力で守り、全力で道を拓こうとするのだ。愛する人と共に生きてゆくために! 貴女がやっていることは、咲殿が望んだのとは違う道を辿ることではないのか……?」
「……――っ言うな! わたくしは、……わたくしが望んだことなのだ! 命を懸けてでも守りたいものがある……、すべてを失ってでも仕えたい御方がいる! それが……それほどにも、悪しきことなのか……」
紫苑の瞳から涙が迸る。初めて目にするそれに、鴛青は不覚にも瞳を奪われた。あまりの透明な美しさに。鮮烈なるその意志に。
「わたくしには、何を差し置いても叶えたい望みがある。されど、望みはなんの代償もなしに叶うものに非ず。その望みが大きければ大きいほど、望みと等しい対価を払わねばならぬ。それが世の理。絶対の不文律。……何かを得て、何かを失ってこそ、辿り着ける場所がある」
鴛青を手酷く振り払うと、紫苑は何を思ったのか、片袖を脱ぎ、背中を月光の下に晒した。鴛青が慌てて目を覆う間もなく、それは目に飛び込んでくる。
包帯が巻かれておらぬ背の中央。そこに艶やかに咲き誇るは、大輪の桜。
(――なんて、美しいのだ……)
刺青のようにも見えるが、線が淡い光を放ち、まるで桜が紫苑の背で息づいているかのよう。古の巨匠が残した物語絵の如く精巧で緻密な桜の花びらは、今にも背から零れ落ちそうな写実性がある。言葉を絶するほどの究極の美を前にして、鴛青は手を触れることすら躊躇われた。あまりの神聖さを感じさせる何かが、不意に鴛青の脳裏にあの言葉を思い出させたのだ。
『お前のその程度の覚悟では、高蓮以上に紫苑を守ることなどできぬ。高蓮はお前と違い、すべてを解し、そして一つのために他のすべてを捨てた。……それがお前にできるか』
「……この桜は、力を使うたびにわたくしの背に刻まれてゆく。桜はわたくしの命数を吸い取り、背をすべて覆い尽くした時、わたくしの命も果てる」
「すべてとはもう……」
「そうだ。すでに桜は半分以上咲いている。……わたくしの命が尽きる日も、近いということよ」
紫苑が死ぬ……、もうまもなくで? そんな馬鹿な。
鴛青はその事実に、頭を殴られたかと思うほどの衝撃を受けると共に、ようやくその意味を知る。そうか、それが紫苑の覚悟なのか。そして、それと同じような覚悟を、高蓮もまた決めているというのか。
「……師匠に出会うた時、こう告げられたのだ。わたくしの運命は、『すべてを捧げられる主との出会い。そして、それと引き換えの一切の喪失』。確かに……、わたくしは咲を助けるためにここへきた。されど、今のわたくしには、それ以上に為さねばならぬ望みができたのだ。宋鴻様を助け、次代への道筋を拓く。それが引いては咲への未来にも繋がると、わたくしは信じておる。……わたくしは、己の望みのためにすべてを失う覚悟を、とうに決めておるのだ。今さらそなたが何を言おうとも、わたくしが立ち止まることはない!!」
か細い身体を震わせながら、紫苑は全身で訴える。それは、まるで魂の叫びと覚悟。
その姿はあまりにも遠過ぎて、鴛青は酷く胸を締めつけられた。そのどうしようもない痛みから逃げ出したくて、気づけば紫苑の身体を抱き寄せていた。己の情けなさで、すべてを失ってしまう前に。
「鴛青、何を「それならば……、私に守らせてくれ。貴女を……」
思い、知った。紫苑は決して自分のものにはならぬ。
紫苑は鴛青と同じで、だが違う者を慕い、たった一人の主のためにすべてを失う覚悟を胸に宿している。そこには鴛青が入り込める隙間などもうどこにもなく、その事実が鴛青の心を強く深く引き裂いた。――ようやく気づく。紫苑を想うこの心の在処に。
「私を見てくれずともよい。……ただ、貴女がそこにいるのなら……」
出会うはずもなかった人。人生で初めて心から愛した人。そして――決して手の届かぬ人。
だが、今だけは鴛青の腕の中に紫苑はいる。あと少しだけ、この時間が続けばいい。それぐらいは願ってもいいだろうか。
「……申しただろう。わたくしは、そなたに何も残せぬ」
「それでもいい。……それでも、いい」
「……ならば、勝手にしろ」
抵抗していた手が下ろされる。僅かにかかる紫苑の重みに、鴛青は泣きそうになった
*
亘化三年如月二日。
「おや……? お怪我は大丈夫でしたか?」
のうのうと、そんなことを言ってのけた高蓮に思わず頬が引きつる。一体どんな面を下げて、私を出迎えるのかと思えば、まったくもって常と同じであった。どこまでも小憎たらしい。
「おかげさまで、傷一つなく完治したさ」
「それはよかったです。あなたの美しい肌に傷痕など似合いませぬゆえ」
傷を負ったのは、誰のせいだと心の中で突っ込むが、余計なことは何も言わなかった。――そう、今日に限っては言葉など由無し。
高蓮の断りもなく、部屋の中にずかずかと入り込むと、後ろ手で格子戸を閉める。遮られた光に眉をひそめて、高蓮が白々しい顔を上げた。
「今日はどうしたのですか? 護衛につけたはずの鴛青も見当たりませぬが」
「今、そなたの前に鴛青を連れてこようものなら、鴛青はそなたを瞬殺するに違いないであろう? そなたにはまだ死んでもらっては困るゆえ」
「私の身の安全を心配してくれるとは、随分優しくなったものですね」
片頬を上げてにやりと笑いながら、私は羽織っていた羽織を高蓮の前でするりと肩から落とした。少し驚いたような表情をした高蓮の肩に手をかけ、そのまま身体ごと押し倒し、畳の上に二人で雪崩れ込む。その衝撃に、緩くしか結んでいなかった高蓮の髪が解け、扇状に広がった。
「おかしなことを……。わたくしは以前から優しい女ではないか」
自らの顔の上にさらりと垂れた私の髪を、高蓮は指に絡めて、そっと口づけをする。細めた瞳の奥に含ませた色気を隠すこともせずに。
「まさかあなたから誘ってきてくれるとは、ね……。私は無防備なあなたを前にして、指を銜えて見ていられるほど紳士ではありませぬが」
「そなたが紳士……? 鬼畜の間違いではないのか?」
手の裏で高蓮の顔をゆっくりとなぞり、互いの息がかかるほどの距離で瞳を覗き込む。だが、そこに情欲の焔はない。
「――男を誘惑するのなら、もっとお上手にやってくださらないと……。大抵の男なら、あなたのその美貌だけで落ちるのでしょうが」
何事もなかったかのように髪から手を離し、常と同じ微笑みを浮かべた高蓮に溜息をつく。大抵の男は落ちても、自分はその程度では落ちぬとでも言うつもりか。本当にどこまでも――
「憎たらしい男」
上半身を起こし、高蓮の腰の上で馬乗りの体勢になる。次いで高蓮も肘をつき、少しだけ身体を起こそうとしたが、それよりも早く私は腰帯に手をかけ、躊躇なくそれを一気に引いた。高蓮の視線が余すことなく己に注がれているのを知りつつも、むしろ私は挑戦的な眼差しで帯を背後に放り投げた。そして、衿元に指を這わせ、長着を脱ぐ。
「これでも誘惑できぬと申すか、高蓮?」
長襦袢を押さえる薄桃色の腰紐も解き、長襦袢ごとそれも後ろに放ると、身体にまとうのは透けた肌着のみとなった。
「……お上手ですよ、とっても」
にっこりと満足げに笑った高蓮の顔が近づいて、静かに唇が重なる。それはまるで獰猛さを微笑みの裏に隠した、得体の知れぬ獣に食べられる感触に似ていた。昨夜、勝手に奪われた口づけと共に感じたのと同じ、唐紅に染まる――何よりも凶暴な獣に。
「――あなたがこんなことをしてまで、得たがっているものとはなんでしょうか」
くすくすと笑いながら、高蓮が首筋に軽く甘噛みをする。冷たい手は自然と背に回されて、官能を呼び覚まそうとするかのようにゆっくりとなぞられていた。この男、顔に似合わず女の扱いには慣れているらしい。小癪な男だと、私も笑う。
「わたくしはただ、そなたに触れたいと思うただけやもしれぬぞ?」
「それならば、遠慮なくあなたをいただいてしまえるのですが……。夜叉のことで確かめたいことでもあるのでしょう。そう、たとえば」
最後に残った肌着の結び目がいつの間にか解かれて、僅かに白い肌が覗いていた。高蓮の指が焦らすように鎖骨辺りを撫で上げ、衿を少しずつ広げてゆく。それを止めようとした私の手を取って、人差し指をぱくりと口に含む。
「私が術者ではないかどうか、など」
小首を傾げ、零れ落ちた髪で表情を隠す。捕らえられていた指を解き、高蓮の首に回せば、一気にその距離が縮まった。上から見下げるような体勢で、そっと自らの手をその背に回す。
「……――そうだ、と申したら?」
諦めたように肩を竦めた高蓮が、少しだけ強い力で私の顔を引き、「やはり、あなたは残酷ですね……」と、先ほどとは打って変わって荒々しく唇を押しつけた。
高蓮の背に当てた手が、燃えた炭の如き高熱を発する。崩れ落ちそうになった高蓮を抱き留めてやりながら、言葉を最後まで唱え終えると、高蓮は力なく崩れ、私にもたれかかった。それをなんの感慨もなく畳に転がしたのち、すぐさま衣を剥ぎ取る。
「やはり、な……」
――高蓮は術者ではなかった。
短時間で強引に暴こうとしたゆえに、背全体が赤く爛れたように見えるが、それが徐々に引いていっても、そこには何も残らぬ。術者であるとすれば、私と同じようになんらかの紋様がそこに浮き出るはずだ。本人の意志に関係なく、目隠しの術が施されていたとて、必ず暴けるように高蓮の素肌に触れられる機会を狙ったが、結果は白。
「随分と、手……酷く、やってくれますね。……本当に容赦ない、お人です……」
高蓮はその涼やかな笑みに似合わず、肩で呼吸を繰り返し、酷く体力を消耗しているように見えた。それも無理はない。身体に直接攻撃を仕掛けたようなものだ。この際、諸共にくたばってくれれば一石二鳥なのだが、中々頑丈な造りをしているらしい。そんな高蓮の姿に情でも湧いたのか、咄嗟に手を貸そうとした己に驚く。
「手を、貸してくれ……るのですか? ……それならば、ぜひあなたの、口づけが欲しい……もので「ふざけている場合か。もう痛みはないはずだ、さっさと起きろ」
「全然、優しくないではありませぬか……。まったく」
高蓮が衣擦れの音を立てて、ゆっくりと身体を起こすのを横目で見守る。それすらも、常の己とは違う気がして、なんとももやもやとした心地になる。
高蓮といる時の私は、どこかおかしい。互いの冷酷さを知り尽くしているからこそ、交わせる何かがあって、それが私を常とは違う行動に走らせる。
「訳を、知りたいですか」
上衣がはだけたままこちらを向いて座っていた高蓮に、不覚にも一瞬言葉を失う。
筋力があるのはあの夜の出来事で知っていたが、存外にいい身体をしている。引き締まった筋肉から漂う男の匂いが鼻腔をくすぐったときには、すでに高蓮は私の背後に回り込んでいた。背から伝わる素肌の熱に驚いて、咄嗟に肌着を掻き合わせ、長襦袢を胸の前に手繰り寄せる。
「……もう、そなたに用はない。離れろ」
立ち上がりかけた私の肩を引き、冷たい手が背後から私の頬を捉えて、一向に放そうとせぬ。振り払うこともできぬまま、何かが後頭部に押しつけられる感触がして、高蓮が私の髪に顔を埋めたのだと気づく。そこから直に伝わってくる息遣いが、あまりにも生々しくて、私は柄にもなく混乱していた。たかが高蓮を相手にしているだけだというに、なんだ、この動揺は。
「高蓮、離れろ。さもなくば「我らは似ているのですよ。生き方が」
はっと息を呑む。思わず抵抗することも忘れて、呆然と宙を見る。
「ゆえに、交わらぬ。……どう手を尽くしても」
高蓮の声は水底の静けさに似ていた。
音もなく、熱もない。深々と静まり返る紺青が、どこまでもそこにあるだけの。
「……――諦めればよい。さすれば、楽になれる」
高蓮が背後で微笑むのがわかる。呆れたようなそんな溜息をついて。
「それができぬのを、知らぬあなたではないでしょう」
高蓮の手が衿にかかる。そして、そのまま剥ぎ取られてゆくのをもはや止めはしなかった。乾いた衣擦れの音と共に、肌着が腰の辺りに落ちる。すべてが顕になってしまったことを悟って、そっと横を向く。
「美しいであろう」
背に垂れた髪をそっと前にやって、高蓮はまるで壊れ物を扱うかのように私の両腕を掴んだ。片時も目を離すのが惜しいとでもいわんばかりに、その視線のすべてが桜に注がれている。
「あなたは顔も声も何もかもが、誰よりも美しいですが……、この桜はその中でも最たるものだ……。あなたの生き様、そのもののような桜」
熱にうなされたようなとは、まさにこういうことを言うのだろうか。常に冷たいばかりの男が発する熱は何よりも熱く、今にも桜を焦がし尽くすかのよう。
「生き様か……、そうやもしれぬ。この桜はわたくしと共に生き、そして死ぬ。すべてを見届けて、食らうのだ」
「なんと羨ましい……。あなたと共に死ねるなど」
はっと身体が震える。桜を愛おしむかのようになぞる手。その冷たさは、高蓮の手でしかない。
「鴛青は触れなかったが、そなたは違うのだな」
「私より先に鴛青に見せたと? 妬かせるのはお上手ですね、あなたは」
「されど、触れたのはそなたよ。……訳を」
なぞる手が一瞬止まり、不自然に間が生まれる。常ならば、際限なく言葉を畳みかける高蓮にしては珍しい。眉をひそめ振り返ろうとするが、男にしては綺麗な手が私を留めていた。「高蓮?」と名を呼んでも、答える声はない。微動だにせぬ高蓮に痺れを切らして、もう一度名を呼ぼうとしたその時。
背に息が近づく。何をしようとしているのかに気づいて、咄嗟に身をよじろうとするが、微塵も動けぬほどの力で肩を抑えつけられる。
「……知っているからですよ」
何を。それを問う間もなかった。
柔らかい感触が背に押しつけられる。時が止まってしまったかのような世界で、ただ背だけが熱を発し、息をすることすらもままならぬ。私のすべての意識が必然的にそこに向かい、高蓮の鼻息が軽く肌を滑っただけで、身体の芯からぞくりとする生々しい官能を生む。その瞬間、ようやく思考が覚醒し、今起きている事実を明確にさせた。――高蓮が桜に唇を寄せている。
「あ……!」
芯から這い上がるような刺激が、私の全身を突き抜ける。思わず漏れた声は、無意識に色を帯びていた。そんな自分にぞっとして、受け入れ難い現実から逃れるために、ぎゅっと唇を噛みしめる。
その時聞こえたのは、慌しい足音と声。
「……名残惜しいですが、もう時間切れのようですね」
高蓮が唇を離した瞬間、格子戸が勢いよく開け放たれる。瞬間的に跳ね上がった肩のまま、そこに立ち尽くす人物を見れば、なぜか声までもが震えているように聞こえた。
「鴛、青……?」
焦燥を浮べていた鴛青が、衣が乱れた高蓮と一糸まとわぬ姿をしている私を見て、一気に殺意を漲らせた般若の如き顔つきに変貌した。いつ抜いたのかもわからぬほどの速さで剣を掲げ、一瞬で間合いを詰める。乱暴に高蓮の肩を掴み反転させ、剣を首につきつけた。
「やめろ、鴛青!」
咄嗟の叫びは、もはや鴛青の耳には入らぬ。凄まじい形相で、なおも高蓮を睨みつけている。
「もう少し遅かったならば……、羅刹殿のすべてを貰おうと思っていましたが」
「今、それどころでは……!」
鴛青の怒りなど、どこ吹く風といった様子の高蓮が暢気にそんなことを言う。一瞬で顔色が青褪めたのは、むしろ私のほうであった。
「どうせ殺せぬと……、高を括っているのですか」
高蓮の首に剣が食い込み、糸のように細い鮮血が流れ落ちる。
「……まさか。あなたは殺しますよ、羅刹殿に危険が及ぶものならば、なんであっても。……ですが、己には過ぎた願いを持つのは、何もあなただけではないということです」
柄を握る手にさらに力が籠もる。まさに一触即発の空気の中で、私は衣に紛れた蝙蝠を探し当て、言葉を叫んだ。その瞬間、鴛青の剣が部屋の隅に弾き飛ばされる。
「やめよ。無用なことで剣を抜くでない!」
衣を掻き集め立ち上がった私を二人が同時に見る。
「頭を冷やせ、馬鹿共が。……わたくしは、誰のものにもなるつもりはない」
踵を返し、颯爽と部屋を出てゆく。その間、私はなぜか鴛青の瞳を見ることができなかった。羞恥か、それとも罪悪感か。どちらにせよ、私がその感情を抱く資格はない。
*
「相変わらず冷たい人ですね。羅刹は」
紫苑がいなくなった部屋で、高蓮はやれやれと肩を竦めた。適当に衣を直し、帯を手に取る。
「……よく、紫苑の前に姿を現せましたね。高蓮様」
「訊ねてきたのはあちらです。付け加えるのならば、……誘ってきたのも」
また襲いかかろうとした鴛青に対し、高蓮はそれを気にする様子もなく、ただの傍観者の如く見つめ返した。その瞳に、すでに紫苑の前で見せていたような柔さはない。
「私は、高蓮様を殺しても構わぬと思っています……! 今、ここで!」
「物騒ですね、鴛青。……羅刹は無事だった、それで済んだ話です」
「そういうことではありませぬ! 高蓮様は、私に何をさせたいのです? 羅刹を守りたいのですか? それとも、殺したいのですか……?」
「私が羅刹を殺したいと? 何を馬鹿な「実際、殺そうとしたではありませぬか!」
今にも鴛青は、高蓮を絞め殺さんばかりの勢いであった。
己に向けられた刃なら構わぬ。兇手という生を歩んできた以上、どんな死に方をしようとも覚悟はできている。だが、紫苑を狙ったのだとすれば、話は別だ。
「鴛青。あなたも羅刹を本気で守りたいと思っているのなら、早く気づきなさい。そうでなければ、すべてが手遅れになる」
「手遅れ……? どういう意ですか」
「――あなたの素性を知らぬ私だとでも?」
にっこりと笑った高蓮に戦慄が走る。鴛青は思わず半歩後退っていた。
「別に、私はあなたが何者であろうとも構いませぬ。……その身体能力とあなた自身の宿命で、羅刹を生かせるのなら」
「私自身の、宿命……」
いつかの紫苑との会話が脳裏に蘇る。確か紫苑も、定められた己の宿命を語っていた。
「己の与り知らぬところで宿命は決まり、運命は廻る。あなたはちっぽけな一人の人間に過ぎず、それらに逆らうことなどできませぬ。……ですから、早く知り、気づきなさい。己がこの世に生かされている意を。そして、それを奪おうとしている者のことを」
「高蓮様は、何か知っているのですか……?」
その時、趙佶の登殿を知らせる小姓が、遠くから走ってきた。それを見る高蓮の視線に、一瞬殺気が交じる。
「――人の見せる一面が、何も一つとは限らぬ、ということです」