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 亘化三年(六二七年)睦月十日。


「陛下、参りました」

 暗くじめっとした不快な空気がまとわりつく部屋で、神宗は一人きり椅子にしがみつくようにして座っていた。それが玉座ですらないただの椅子であることを思えば、酷く滑稽で無様な姿だと心の内で嘲笑う。

「……羅刹か」

 痩せて目は虚ろに落ち窪み、すっかり憔悴した神宗は、処刑されたかの人を思い起こさせた。やはり兄弟というものは似るものなのか。権力に溺れ、女に縋り、その姿はまるで王ではなくただの男。こんな男に縋ろうとする臣民もまた、総じて愚かでしかない。

「陛下、どうされたのです? 斯様にお痩せになって……」

 紫苑が傍に駆け寄ると、神宗は枯れ木のような腕でその肩を掴んだ。

「……宋鴻が余を狙っている……。余を恨んで、貴妃を、余を……、殺しにくる……!」

「いいえ、いいえ……もう終わったのです。かの御方は、すでに大司馬位を剥奪された無位無官。斯様な者に何ができましょうか」

「命はまだあるではないか……! それにあれを支持する者らもいまだ多くいると聞く……。余は、余は……もうお前しか居ぬというに……」

 そう言ってしがみついた神宗は、憐れなその姿を曝け出した。

 暗殺未遂事件が起きてより、神宗は人が変わったように萎縮し、以前よりも手に負えぬ存在に成り果てていた。これまでは誰の命だろうと容易く投げ出してきた癖に、いざ自分自身が狙われたとなれば、こうも安易に威厳をかなぐり捨てるとは。強欲な人間に限って、命が惜しいとはよく言ったものだ。

「お可哀相な陛下……。わたくしがずっとお傍におります。わたくしはいつ何時も、陛下のお味方にございます」

 心の内と反して、言葉は嘘を紡ぐ。神宗にとって唯一の存在にならなくては、意味がない。これから仕掛けようとしていることのためには。

「それに陛下のお傍にいるのは、何もわたくしだけではございませぬ。あの者も……、陛下が取り立てた徽趙佶殿も陛下の御身を心底案じております」

「趙佶が……余を……」

「ええ。されど、趙佶殿のご身分では陛下にこうして拝謁することも叶わず、ただそのことだけを嘆いておられました」

 虚ろだった瞳に、微かだが光が戻る。

 味方ができるという報せがそれほどにも嬉しいのか。ただの欲望ありきの忠誠に過ぎぬと、わからぬ神宗でもあるまいに。

「……羅刹よ、今すぐ趙佶に登殿が叶う身分をなんでもよいから与えてやれ。宋鴻に対するには……誰でもいい、手駒を増やさねば……」

 神宗は心底疲れ切ったかのように呟く。

「すべて陛下の仰せのままに。趙佶殿も陛下の御許に馳せ参じましょう」

 柔らかく微笑んだ紫苑は、神宗の指を解いて立ち上がる。縋るような瞳を知りながら、紫苑はそのまま退出の礼を取り、用が済んだといわんばかりに神宗の前から立ち去った。


 *


 亘化三年睦月十九日。


「……紫苑様、夕刻にございます。どうかお目覚めを」

 戸を挟んだ向こうから、鴉の声が届く。次いで躊躇いがちに戸が引かれ、闇に沈んでいた部屋に茜色の光が差す。

 鴉がわざわざ起こしにくるとは、珍しいこともあるものだと思いながら、渋々瞼を押し上げた。乱れた髪を脇に寄せ、何度か瞬いた後、陽の落ち具合を確かめる。だが、まだ茜色に染まったばかりのそれは時間よりも早く、戸の傍から動こうとせぬ鴉に何か他の影を感じる。「何かあったのか」と、枕元の蝙蝠に手を伸ばしかけたが、鴉の表情を見て手を引っ込めた。――あれか。

「……また、きたのか」

 無言で頷かれて、盛大に溜息をつく。

 鴛青が私の邸に入り浸るようになって、今日で通算何日目だと思っているのか。ここは頭の螺子がぶっ飛んだ男の子守をするところではないのだ。今日という今日こそ叩き出してやらねば、私の安寧がいずこに飛んでいったきり帰ってこぬことになりかねぬ。いや、むしろすでになりかけている。

 歯軋りしたくなる衝動を抑え、褥から這い出す。薄い夜着姿のまま部屋を出ていこうとするが、羽織を用意していた鴉は慌てた声を上げた。

「紫苑様、お召し物を……。そのままでは、あまりにも……」

「よい、面倒ゆえ。鴛青を追い出したら、刻限までもう一眠りしたい」

 鴉の差し出した羽織を、ひらひらと手を振って退ける。風邪を引くやらなんやら文句でも言うかと思ったが、戸の前から動こうとせぬ鴉の表情は、それとは違った。

「……ですが、鴛青殿に(まみ)える近頃の紫苑様は、どことなく浮かれているようにお見上げいたしますが」

 眉をひそめ、鴉を振り返る。私が一瞬にして醸し出した不機嫌さにも動じず、鴉は至極冷徹な瞳で私を射抜く。そのあまりの直向さで、私の中で変化しかけていた何かに、本人以上に気づきかけていた。

「……何が、言いたい?」

「時が迫っているのです。そんな生半可なお気持ちで、紫苑様が為されようとしていることを果たせるのか、と」

「わたくしが、情に左右されるような女とでも?」

「情に左右されたからこそ、今ここにいらっしゃるのでは」

 反論の余地もない答えに、私は唇を噛んだ。

 鴉を言葉で打ち負かすことなど無理に等しい。人よりも長く生きているというだけではない。――鴉は、私と同じ。私の生は、鴉の歩んできた生をそっくりそのまま繰り返しているようなもの。ゆえに、私の心の揺れもすべてわかっている。鴉もまた、それを知っているゆえに。

「……そなたが心配することは、何もない。あの者はただの……、器だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 吐き捨てるようにして、部屋を飛び出す。心が痛いのは、疲れているからだと決めつけて。


「……そなた、いつまでここに居座るつもりだ」

 当然の如く縁側で寛いでいる鴛青に、言葉を投げつける。鴉に言われた言葉に染まって、それは若干の棘を含んでいたが、鴛青は気づく素振りも見せずに顔を綻ばせて飛び起きた。

「やっと起きたか! 待ち侘びたぞ……って、なんだその格好は!」

「そなたをすぐさま追い出すつもりゆえ、着替える間も惜しい」

「まったく紫は無精者だな! 紫のような魅力的な女がそんな薄着で男の前に出れば、即刻襲ってくれと言っているようなものだぞ!」

 ぶつぶつと文句を言いつつ、鴛青は自らの衣を私の肩にかけた。その反動で鴛青の香が私を包み、抱きしめられているような錯覚に陥る。

「私に襲われたくて、その格好をしているのなら、遠慮なく紫をいただくが」

 悪戯っぽく片目を瞑ってみせた鴛青に、一気に脱力する。

 追い払おうと何度結界を張り直しても、なぜか鴛青だけには効かぬという怪奇がここのところ続いていた。私の力にかけてそんな馬鹿なことは許せぬと、日ごと術式は強力かつ複雑なものになっていったのだが、当の本人は何食わぬ顔で平然と突破してくるゆえ、手に負えぬ。

 その攻防が何度か続くと、もはや鴛青に結界は無意味だと悟り、追い払うことを諦めていたが、――私は知っていた。諦めることを、どこかで安堵している己に。そして、そんな私を鴉は見抜いていたのだ。

「わたくしはそなたと違うて、斯様に暇ではない。早う雇い主の下へ帰るのだな。これ以上、わたくしの傍におれば、そなたも敵とみなされ排除されようぞ。高蓮ならば顔色一つ変えずに成し遂げよう」

「前にも言ったろう。私は心から従っているわけではないと。向こうもそれをわかった上で、私を使っているのだ。まぁ……、それも理由があるのだろうがな」

「ふん。わたくしなら考えられぬな。自分に忠誠を誓わぬ者など傍に置いて、どんな利がある? 臣下に寝首を掻かれては、本末転倒ではないか」

「……――貴女が宋鴻にしたように、か」

 ぼそっと鴛青が呟いた言葉が、首元を掠めたような気がした。時々、鴛青は驚くほど核心をついたことを言うから困る。上手く感情を隠せぬ。

「そうだな。……あれこそ、愚の骨頂というものよ。すべてを懸け平和を築いたにもかかわらず、不義の臣を見極められず傍に置いたせいですべてを失った。……もはやあの男を顧みる者など誰も居ぬ」

「貴女は初めから、そうするために宋鴻様についていたのか?」

「なにゆえ斯様なことを聞く? 聞いても愉快な話は何もないぞ」

「それでもいい。貴女のことを少しでも知れるならな」

 溜息と共に、無意識に強張っていた身体の力が抜けてゆく。そして、そのまま鴛青から距離を取る。鴛青といる息苦しさに、どうにかなってしまう前に。

「……夢を、見たのよ。そう……――美しい夢を」

 もう二度と見ることもない、夢。――だが、夢はいずれ醒める。

 その時の私は、どんな表情をしていたのだろうか。一体どんな情けない顔をして、鴛青に腕を掴ませてしまったのだろうか。

「……わたくしに何も期待するな。わたくしはただそなたを利用し、捨て去る。……宋鴻にしたのと同じように」

 鴛青の腕を振り解いて、私は風に揺れた黒髪を束ねるように片側に流した。豊かなそれで何もかも隠してしまおうとしたが、鴛青はすでに気づいていた。

「そんなに悔いているのなら……、なぜ裏切りの汚名を着てまで、宋鴻を捨てたのだ」

 驚いて、はっと鴛青を振り返る。

「なにゆえわたくしが悔いていると……? 斯様な「そんなことがないと、誠に言えるか」

 私は叫べなかった。そして、そんな自分にぞっとする。

 すべてを切り捨てたはずだ。迷いも、感情も、信頼も――すべて。


 *


 亘化三年睦月十二日。


 かたりと微かな音を立て、宋鴻は手にしていた杯を置いた。

「……随分、顔を見せなかったが、息災であったか」

 あえて紫苑の顔を見ることをせずに、宋鴻はただ月を見上げていた。望月より少し欠けた十六夜の透明な光が庭に降り注ぎ、犯しがたい静謐さの滲む夜闇を創り出す。だが、それを壊すかのような衣擦れの音を立て、紫苑は宋鴻の斜め後ろに座った。その衝動で、ふわりと紫苑の黒方が香る。普段ならば、奥ゆかしく優雅なそれが、今宵だけは宋鴻をも拒絶しているかのように感じた。

 それゆえなのか、宋鴻は言葉を発するのを躊躇っていた。

 十六夜とは、躊躇いの意味。一つでも言葉を紡げば、何かが終わってしまうことを知っていた。ゆえに、今宵この時に、この十六夜の月が姿を現したのは似つかわしいとさえ言えた。

「数日中に、朝廷を揺るがす大事が起きます。……それの首謀者になっていただくため、今宵は参りました」

 紫苑の声音に、宋鴻が一人感じていたような感傷はない。ただ淡々と事実だけを告げるような酷薄さだけが、宋鴻の胸に突き刺さる。

 すっと紫苑が差し出した黒塗りの文箱を一瞥する。その中には、宋鴻の自筆を謳った命令文でも入っているのだろう。

「偽の佩玉を作ったのは、そなただな」

 床に置いた杯に手酌で酒を注いで、一時酒に映る月を眺める。ゆらゆらと揺らめくそれは、かねてより動くことの少ない自分の心に細波を呼ぶ。

「ええ。鄭宣喜暗殺容疑をかけるために必要でしたので。それでも、警告したはずですよ。偽の佩玉がすでに出回っていることを」

「呉陽とそなたが持ってきたあれに、そんな意があったとはな……。では、父上の暗殺を仕向けたのもそなたか」

「宣喜を取り逃がしましたので仕方なく」

「包拯は、そなたが死亡した武官らに接触したことをすでに掴んでいる。どうやったのかは知らぬが、あの策という御史が証拠を見つけたと」

「そうですか……、あの若造にわたくしの尻尾を捕まえられるとは思えませぬが、せいぜい遊ばせて「――紫苑。私を裏切るか」

 まるで自分のものではないかのような酷く冷静な声が、その場に落ちる。

 呉陽よりすべてのことを聞いている。紫苑が邸に寄りつかなくなってから何をしていたのか。

 宋鴻は最後まで信じようと思っていた。なんの容疑がかかろうとも、紫苑が自分を裏切ったと誰もが叫んでも。それでも、一縷の希望を捨てられずにいたのは、己の愚かさだ。

 翁や他の者らは、紫苑を売れと何度も宋鴻に忠告した。紫苑は宋鴻を裏切り、神宗に寝返ったのだと。こちらから攻勢に出ねば、すべてを失うと。だが、宋鴻はその事如くを退け、今宵まで待ち続けた。紫苑と初めて出会ったこの場所でなら、何かが変わるような気がして。

 仏を照らしていた燭台の一つが消える。最後の希望すら、無意味だと嘲笑うかのように。

「……今宵を以って、御前辞させて頂きとうございます。あの王如きに失脚させられる主に、わたくしは仕える気など毛頭ございませぬ」

 だが、そうならぬことは何よりも宋鴻自身がわかっていた。すでに紫苑と宋鴻、二人が歩む道は別たれてしまったのだと。

「かつてそなたが申していた、もう一人の敵とは……、そなたか。そなたのことか……」

 ゆっくりと振り返れば、普段目にすることもない正装姿で、紫苑はそこに座していた。まるで赤の他人を見るような凍てついた氷の瞳で宋鴻を射抜き、そこになんの感情も浮かびはせぬ。どこまでも冷徹で、どこまでも遠い、そんな瞳。

 宋鴻はそれを知っていた。紫苑がくだらぬと見なした相手に、対する時に見せるものだ。自分は紫苑の中で、もはやその程度でしかないということなのか。その事実を唐突に理解したとき、宋鴻の中で呆気なく何かが壊れた。

「なぜ、だ……なぜ私を裏切る?!」

 力任せに置いた杯が割れて、破片が宋鴻の手を裂き、紅い鮮血を迸らせた。

 鈍い痛みがじわじわと宋鴻を食い尽くしてゆくが、宋鴻にとってそんなことはどうでもいいことであった。――それでも、問わねばならぬことに比べたら、痛みなどどうでもいい。

「答えろ……答えるのだ、紫苑! なぜ、だ……そなたがかつて私に申したことは、すべて偽りであったというのか!」

 あの日の誓いも、今日までの日々も、その何もかもが偽りであったのかと。

 激昂する宋鴻と冷静なままの紫苑。違い過ぎる温度が、歪んでしまった関係に決して戻れぬところまで罅を入れてゆく。それでも、紫苑の烟る睫毛に縁取られた瞳は、微塵も揺らぐことはない。

「あなたに告げるべきことは、もはや何もありませぬ。ただ一つ申せるのは、わたくしのような者に二度と信を置くべきではない、ということのみ」


『あなた』


 二人が出会い、宋鴻へ膝下を屈したあの夜から、宋鴻を『我が君』と呼び続けた紫苑はもう居ぬ。そこにいるのは、宋鴻の知らぬ敵方の陰陽師であった。その事実に、頭を殴られたのかと思うほどの衝撃を受ける。

 呆然としたままの宋鴻を置いて、紫苑は立ち上がり、踵を返した。そして、なんの躊躇いもなく自分の前から立ち去ってゆく。手から流れる血にも、宋鴻にも、一片の関心もないとでもいうように。

「……紫苑、待て! 行くな!」

 宋鴻は思わず叫んでいた。

 なぜかはわからぬ。だが、このまま別れてしまえば、二度と紫苑に会うことができなくなる、そんな予感がした。裏切りの臣下と主が二度と会うことがないという意味ではなく、もっと違う何かが。――今生の、別れ。

「紫苑っっ!」

 悲痛な絶叫が静か過ぎる闇にこだまする。鮮血に染まった手を伸ばしても虚しく空を切って、もはやその背を留めることも叶わぬ。

 なぜと宋鴻は叫び続けていた。なぜこんな時を迎えてしまったのか。なぜ紫苑が自分の許から去ってゆくのか。――なぜ自分を裏切るのか。

 だが、その問いに答える者はない。幾度となく宋鴻の魂切る叫び声が耳に入ろうとも、紫苑が一度たりとも振り向くことはなかったように。

「なぜ……私は、答えを間違えたというのか……」

 思い出すのは、鴉の言葉。


『その答えを得られぬ限り、主を真の意で得ることは叶いませぬ。あなたは未だ道半ばであり、あなたの選択次第では、主はあなたの許を去ることになるでしょう』


 何が間違いで、何が正しかったのかもわからぬ。これから己が歩むべき道さえも。ただ確かなのは、紫苑が宋鴻の許を去っていったということ。そして、永遠に。


 *


「真に人を裏切ることのできる人間は、感傷に浸る真似などせぬ」

「誰が感傷に浸るだと?! 斯様な……、愚かな主は裏切られて当然なのだ……。何も知らぬ癖に、適当なことを申すでない!」

「貴女はわかっておらぬのか? それ以上、底なしの闇に足を取られ続ければ、二度と戻れなくなるぞ。いや……、貴女がそれをわからぬはずはない。……自ら闇に踏み込むつもりなのか」

 鴛青の言葉は、闇を切り裂く光のようであった。私に面と向かってこんなことを言う者はない。今は、もう。

「貴方は宋鴻を愚かな主だと嗤うが……、私にしてみれば、愚かなのは貴女のほうだ。貴女に向かって伸びる手はいくらでもあったろうに、なぜそのすべてを振り払ってまで、その道をゆかねばならぬ……? なぜ孤独に生きねばならぬとするのだ。貴女は私と違って、独りではないはずだろう?」

 だからこそ、何も考えずに済んだ。何も見ずに済んだ。私にはこの道しかないと、己に言い聞かせることができた。

「……出て、ゆけ。そなたの顔など、見とうないわ」

 鴛青に背を向け、光から目を背ける。これ以上、それに染まるわけにはいかなかった。もうどこにも戻ることができぬと、私は理解しているはずではなかったか。

「私は、貴女に心から笑って欲しい。ただ、それだけだ」

 静かな声は温かな日差しのそれと似ていた。すべてを包み込み、何もかもを浄化してくれるような。だが、私が立つ場所はこんなにも冷たい。その現実が、鈍い痛みとなって私を襲う。

「そなたとわたくしとでは、所詮立つべき場所が違うのだ。それがわかったならば、……わたくしの前から去ね。わたくしは……、そなたには何も残すことができぬ」

「私には……?」

 無意識にいらぬことを口走っていた。鴛青の腕が、私に向かって伸びようとしているのが見える。気づけば、私はその場から逃げ出していた。


 *


「呉陽」

 どうやら得体の知れぬ気味悪さを感じていたのは、自分だけではなかったらしい。こちらを見咎めた紅玉の眉間に皺が寄っている。

「これからどこへ行くつもりであったのじゃ」

「宮城へと参るつもりでした。姫、何かありましたか」

「宮城とな……。いや、それならばよいのだ。ただ、何か……」

 腕を組んだ紅玉は、忙しなく視線を動かしている。勘の鋭い紅玉が言葉にできぬ何かを、確かに呉陽も感じていた。

「何か……、よくないことが起こりそうだと……?」

 音にしてしまえば、疑念は確信へと変わる。それを解しながらも言い当てた呉陽に、紅玉はさらに眉宇を歪めた。

 紫苑が正式に宋鴻から離反して、すでに七日が経つ。宣喜暗殺未遂があってより、いずれこの日がくるだろうとわかってはいたが、それでもついにきてしまったことを悔やんでも仕方ない。むしろ、これほどの時がかかったのは、紫苑の最後の良心であったと呉陽は今でも信じている。たとえそれがすでに詮無きこととわかってはいても。

 ゆえに、この不気味な居心地の悪さは、何かが起こる前の前兆なのかもしれぬ。紫苑がのらりくらりと避け続けていた宋鴻との決別が過ぎた今、紫苑は何をしでかしてもおかしくはない。

「……以前、翁はこう申しておりました。紫苑は殿を守るためならば、なんでもするだろう。己の命を捨てることすらも厭わん。もし、誠に殿が答えを見つけられたのだとすれば、紫苑はもう決して引き返さん。あらゆる手段を使って、殿の望みを叶えるだろう……、と」

「……っ! あの、……馬鹿が……!」

 今ならば、翁の危惧していたことの意味がよくわかる。

 紫苑はもう装うことをやめたのだ。自らの望みと宋鴻の望みを叶えるために、文字どおり命を懸けようとしている。それが叶えられるまで、もう紫苑がこちら側に戻ることもない。いや、二度と会うことも叶わぬのだろう。呉陽は、紫苑ほど強情で意地っ張りな女を知らぬ。紫苑ほど、己の信念に直向きな女を知らぬ。良くも悪くも、それが紫苑という女の宿命ゆえだとしても。

「呉陽……、急ぎ宮城へ向かい、紫苑を止めるのだ……! これ以上、紫苑一人が背負う必要などない。妾は紫苑を失いたくなどないのじゃ……!」

「わかっております。某も、あやつには文句の一つでも言ってやらねば、気が済みません」

 紅玉に礼を尽くしてから、呉陽は馬を駆り、宋鴻の邸を飛び出した。ぐんぐんと近づいていく宮城の背後に浮かぶ、血を吐き出したような茜色の空は、これから起きることを暗示しているかのようで、呉陽はすぐさま目を背けた。

 誰もが紫苑を失いたくないと思っている。だが、それを本人だけが気づこうとせぬのだ。


 *


 足早に歩く女物の衣の裾は、目立たぬようにやつしているつもりなのか、それでも充分に上質な設えであるのがわかる。正体を隠すために羽織っている外套に紛れて、時折艶やかな肢体がそこから覗く。

 後ろに連れた侍女らしき女が、右手の寂れた廃寺を指差した。それを見て、あからさまに嫌そうな表情を浮かべる。

「誠にここなのだな? どう見ても、人がいるような場所とは思えぬが……」

「文にて、ここを指定されたのです。人目につきにくいからと」

「だからといって、なぜ吾がこんなあばら家に……。何もかも、あの憎たらしい宋鴻のせいに違いない……」

「そう、すべては宋鴻と紫苑がいるゆえ。……ようこそ、鄭貴妃殿下」

 音もなく滑るように開いた扉の向こうから声が響く。

 ぞっとするような鋭利さを含んだそれに、一瞬躊躇するが、宣喜は虚勢を張って中に踏み込んだ。重く垂れ込んだ空気で淀むそこは、息をするのすら苦しみを伴う。

「……この吾をわざわざこんなところに呼びつけたのだ、当然吾の願いを聞き届けるということだな?」

「さて……、私はそんなことを一言も申した覚えはありませぬが」

「なんだと?!」

 憤慨した宣喜が一歩踏み込もうとしたとき、暗闇からずるりと姿を現した人物に思わず言葉を呑んだ。重々しい空気がさらに重量を増したような気がして、膝が微かに震える。

「わ、吾が貴様に頼んだのは、宋鴻が邪魔に思う者を殺す兇手だ……! そして、その罪を宋鴻になすりつけろと……」

「だから?」

「だからって……、吾の親族まで無差別で殺すような無能などもういらぬ!」

 先日、宣喜の叔父が殺された。しかも、宣喜と料亭で会った帰途に。

 元々、宣喜の手に負えぬ事態になっているのは、すでに承知していたが、その凶刃が自らにも及びかけたのなら、もう黙ってはおれぬ。一歩間違えば、宣喜が標的にされた可能性だってあるのだ。

「……――ですから、申し上げたはずです。妃殿下では、あれを飼い慣らせぬと」

 趙佶のどす黒い笑みが、喉元に迫る刃となって掠める。一瞬感じた恐怖にうろたえて、無様にも裾を踏んで転びそうになってしまう。

「今、吾を嗤ったのか……?! この国の女で、最も高貴なる吾を!」

「他人が死ぬのは厭わぬというに、自らは別とは……。随分、身勝手な考えですね。妃殿下のような方が上に立つとは、まったく世も末」

「貴様、吾を愚弄するか……! 許さぬ……吾にひれ伏して、許しを「乞うのは、お前のほうだ」

 趙佶の翻す衣の音が間近で鳴ったときには、すでに遅い。悲鳴すら上げることもできずに、趙佶の大きな手が宣喜の顔面を覆い、握り潰そうとするかのように力が籠もる。

「所詮、お前も詰まらぬ女でしかなかったか……。到底、紫苑の足元にも及ばぬ」

「な、な、何を……放っ……せ……――っっ?!」

 趙佶の指の間から見えたそれに、宣喜の目が最大限に開かれる。まるでこの世のものではないものを見たかのように、恐怖と狂気がないまぜとなって宣喜を襲う。

「き、さまは……! だ――」

 断末魔の叫びは、すでに届かぬ。趙佶が次に手を離したときには、もう宣喜に己の意志をなかった。ぼんやりと宙を見つめ、両腕がだらりと力なく垂れ下がっている。

「この屑女を離宮に戻しておけ。……あとは、わかっているな」

 それまで、主であるはずの宣喜を庇うこともしなかった侍女が、趙佶の命令にようやく頷いた。自我を奪われ、生ける屍の如く成り果てた宣喜の身体を支え、寺から立ち去ってゆく。それを見送りながら、残された趙佶は宣喜が出て行った扉から久方ぶりに外へ出る。

 空に懸かるのは、下弦の月。どうりで闇が深いと思えば、ただでさえ頼りない月の光が分厚い雲に遮られようとしていたらしい。どこからともなく取り出したそれを口に運ぶ。

「あれは、無事に潜り込めたかな」

 耳を澄ませば聞こえるような気がした。今宵の惨劇の、音が。


 *


 悠々と滑空していた鴉が降りてくる。

 冷えた風が頬を掠めて、微かに上気した熱を冷ましてゆく。ふっと辺りを見渡せば、深々と静まり返った闇が、私を包み込むようにそこにあった。――この闇こそが心地いい。罪に塗れた私には。

 今宵は、月も姿を現さぬ。こんな闇夜は、事を起こすのに相応し過ぎる夜だ。息をするのも忘れてしまったかのように立ち尽くしていると、羽をたたんだ鴉が目の前で膝をついた。その顔を見ただけで、何を言いたいのかを理解する。

「紫苑様、今宵は休まれたらいかがですか」

「なにゆえそなたが斯様なことを申す? 時が迫っていると脅したのはそなたのはず」

「ですが、鴛「鴉」

 蝙蝠を鴉の口元に差し向ける。それ以上、その名を聞いていたくはない。これからすることを思えば。

「夢は、いずれ醒める」

 闇を劈く咆哮がこだまする。それと共に響く数人の女の悲鳴と、唐突に上がる火の手。

「なれば、あとは現実を見るだけよ」

 強く地面を蹴り、宙に浮かび上がる。目の前に立ち塞がっていた離宮の塀を越え、惨劇の夜を開演したそこへ自ら身を投じる。背後で鳴った羽音を聞き届けると、私は不敵に嗤い、そのまま崩れかけた格子窓を蹴破って、居室内に着地した。その途端、ばしゃりと不快な音が足元で啼く。すえたその臭いに、色を失った世界であったとしても、容易に理解することができる。

「……また会うたな。今宵こそ、仕舞にしようぞ」

 私に気づいた夜叉は雄叫びを上げ、跨っていた亡骸から飛び降りた。

 宣喜の侍女であったらしいその女は、すでに原型を留めておらぬほど、無残に切り刻まれていた。生きていた頃は、それは愛らしい笑みを浮かべていたに違いない小さな唇も、今やどす黒い血に彩られている。

 居室内で息絶えていた女たちは、四人。皆同じように切り刻まれ、自らの身体から垂れ流した血の海に横たわっている。その中で唯一生き長らえていたのは、彼女たちが死ぬ理由となった女――鄭宣喜。

「その女を残しておいてくれたとはな……。わたくしへの手向けか?」

 にいっと笑んだ唇は、血と同じ真朱(まそほ)。返り血を浴びたその形相は、まさしく夜叉に相応しい。それを見てしまった宣喜は悲鳴を上げ、すでに退路を断たれたはずにもかかわらず、何度も壁際に向かって後退る。

「羅刹、羅刹っっ! 早く吾を、吾を助け……――っっ?!」

 夜叉の剣が一閃し、大輪の花が咲くようなと称えられた宣喜の頬を切り裂く。噴出した血は辺りをさらに真っ赤に染め、豪華絢爛を誇っていた調度品もすでに元の色を失った。混乱に陥った宣喜は耳障りにも金切り声で泣き喚き、その見苦しい姿に夜叉よりも前に辟易した私が、無理やり口を閉じさせる。だが、私がそうすることを見計らっていたかのように、夜叉のぎょろりとした瞳が注意深げに蠢き、その左手に空いた穴から外に逃げていった。

「まったく、逃げ足の速いことよ……。この女を始末するまで、そこで眺めておれば「らぜ、づ……っ!」

 宣喜に当てていた手に、他の手が縋る。そろりと戻した視線の先に、滑稽なほど恐怖に怯えた宣喜が命乞いをしていた。

 宣喜から手を離し、血に濡れたそれも瞬きの間に蒸発する。背後で派手な瓦解音と共に、焼け崩れた離宮の壁や天井の一部が崩れ落ちる。燃え盛る業火の世界の中にあって、皮肉にもようやく空を仰げたはずだが、そこに希望はない。あるのは、ひたすらの絶望。

「命乞いをしても無駄だ。わたくしはそなたを殺すためにここへきた」

 宣喜の目が大きく見開く。煤に汚れた四肢を小さく丸め、私から少しでも逃れようと震えている。

「なぜ吾を、……ころ、殺すと……」

「そなたが生き残れば、この世界は凶星に呑まれ、いずれ皆死に絶える――それが本来歩むべき歴史。わたくしはそれを阻止せんがため、呼ばれた存在なのだ。ゆえに、そなたをもうこれ以上生かしておくわけにはゆかぬ。一度は長らえた命だ、もう充分だろう」

「まさ、か……! あの夜、吾を襲おうとした、真犯人は……」

「このわたくしよ。そなたは宋鴻だと思い込んで、随分と神宗に言い募ったようだが」

 命を狙われたことがよほど頭にきていたのか、気丈にも宣喜は私に向かって襲いかかろうとした。だが、私は冷静に宣喜の心臓の位置を見極め、逆に壁際に追い込んだ。がっちりと掴んだそこから、宣喜の鼓動が伝わってくる。

「貴様、何をっ!」

「最期の情けに、楽に死なせてやろう。……まあ、そなたが死に追いやってきた者共からは、不平不満が漏れそうだがな。あの世に行ったら、彼らの沙汰を受けるがいい」

 私の右手から黄金の光が溢れ出す。それと共に宣喜の身体から徐々に力が抜け、私に縋ったままずるずると崩れ落ちてゆく。あと一欠片、それさえ吸い出してしまえば、宣喜は息絶える。その時に聞こえたのは、透明な笛の()。紅蓮の焔に焼き尽くされる世界で、唯一喪われぬもの。

「鴉も懲りぬことよ……」

 躊躇うことなく、宣喜の最後の欠片を吸い出して、ゆらりと笑みを刷く。その凶悪な笑みには、悔恨の念など僅かにも存在せぬ。

 赦しを乞うて、なんになる。息絶えた宣喜の骸を枯れ木の如くその場に打ち捨てるこの私が、一体なんの赦しを乞うというのか。

 背後で無用心にも砂利を踏む足がある。この光景が信じられぬのか、それとも足元に転がる骸に手をかけたのが私だと信じたくなかったゆえか。どちらにせよ、そんな感傷など私には必要ない。

「――呉陽殿」

 指の一振りでさらなる焔を呼ぶ。

 地獄の業火に晒された離宮は、周辺の建物をも呑み込み、一面火の海と化していた。夜叉によって命を落とした者らの骸も、無残に焼け爛れてゆき、その憎悪が断末魔の叫びとなって世界に爪を立てようとも、焔はそれすらも呑んでゆく。

「紫苑……おぬしは……――」

 呉陽は何かを言おうとしていた。だが、それが希望であれ、絶望であれ、今の私は何も聞きたくはなかった。何も、知りたくなどないのだ。

 風を受けて孕んだ羽織の裾を繰って、強く瓦礫を踏む。呉陽が浮べていたその瞳の色を知って、やはり何も聞かなくてよかったと思う。聞いてしまえば、私は私であることを見失ってしまう。

(そう、私の名は『紫苑』だ。この世界に終わりをもたらす者)

 紅唇が弧を描いて歪む。

「これは、始まりに過ぎぬ」

 火柱が上がり、その強烈な熱気に囚われそうになる。私こそが焔に呑まれ、粛清されるべきだと地獄の亡者たちが手招いているかのようだ。――真実、私はいずれ粛清されるだろう。鬼として生きた私には、それこそが相応しい末路。


――それでも、笛はやまぬ。

 くつくつと嗤い声が漏れる。鴉のなけなしの希望すらも、踏み躙るかのように。ゆっくり天に向けた瞳からは、すでに僅かばかりの感情すらも抜け落ちていた。

 崩れ落ちてきた大量の瓦礫と共に、私に向かって手を伸ばしてくれた呉陽の前からも姿を消す。逃げた夜叉の後を追うためには、過去に置いてきた記憶などもはや邪魔でしかない。


 火事の知らせを聞きつけた衛兵の目を掻い潜り、点々と続く血の臭いを追う。あまり遠くまで逃げられてはおらぬはずだが、もうもうと立ち上る煙で鼻が利かぬ。ついには血の臭いも絶えて、仕方なく千里眼を発動させようと、近くの物陰に隠れようとした。だが、そこで突きつけられたのは、一振りの剣。

「過ぎた望みは、……ただ己を滅ぼすだけだぞ。高蓮」

 柔らかな直裾の裾をなびかせて、その男はにいっと嗤う。

「されど、それでも望みを抱かずにはいられない。たとえ、己の大切なものを奪った者と同じ立場に立とうとも、己が滅びるまでただひたすらに、願う。――それが、人間の性」

 ぱたりと何かが上から降ってくる。すえた血の臭いを全身にまとわりつかせたそれは、紛うことなく私に狙いを定めていた。

 高蓮の剣を蝙蝠で払い、咄嗟に頭を後ろに引いたことで最初の一激をかわす。だが、そこから飛び退くよりも早く羽織の袂が掴まれ、剣が僅かに肩を舐める。夜叉の尋常ではない握力で、長着ごと掴まれているために身動きがままならぬ。早口で言葉を唱えつつ、夜叉の腕ごと容赦なく袂を切り落とした。

 悲鳴を上げた夜叉の隙を狙い、飛び退さって距離を取る。武術で劣る以上、近接戦は不利だ。おそらく高蓮が出てきたのは、強力な術を差動させる言葉を私に唱えさせぬためであろう。今は結界内に入ることで様子を見ているが、高蓮の油断ならぬ瞳は未だ諦めておらぬのが見て取れる。

「そのように油断するとは、あなたらしくもない」

「油断したわけではない。……あれは、鬼を身の内に飼うておる。力無き者に操れるはずがない」

「この世に、絶対と言えるものはありませぬ。それは、あなたが一番理解しているはずでしょう」

 しゃあしゃあと言ってのけた高蓮を、憎々しげに睨みつける。

 確かにこの世に絶対はない。高蓮が術者ではないと言い切れぬのも、また然り。だが、本当にあれを操るのが高蓮だというのだろうか。それにしては、夜叉から高蓮の気をどうしても感じ取れぬのだが。

「さあ、立ちなさない。羅刹にとどめを刺さねば」

 春霖の如き優しさを兼ねた声の主は、それとは正反対の残酷な微笑を見せる。

 高蓮の声に反応して、夜叉が再びゆらりと立ち上がる。驚くべきことに、先ほど切り落とした腕が、完全ではないにしろ元に戻りかけている。

「……その夜叉は、何を……」

「おかしいでしょう。仇を取るためだけに魂を鬼に売り、理性をも捨てた。もはや己が自分と同じ立場の者を作り出していることにも気づかぬ。これが、人間の成れの果ての姿ですよ。ですが、この者だけを責めることもできぬでしょう」

 抜き身のままであった刃をゆっくりと撫で、その切っ先を私へと向ける。ようやく分厚い雲から姿を現した下弦の月が、青白い刃と共に妖しい美しさを湛える高蓮ごと照らす。その光景に息を呑んだ私を待っていたのは、かつての己が知らぬ間に犯していた罪の宣告であった。

「この者は、奪われた者。そう……羅刹、あなたの手によって」


 *


 私はすべてを失った。

 帰るべき場所や、敬愛した主。そんな私が守りたかった、何もかもを。


『お前は殺したいか』


 不快な声が耳元で囁く。

 誰を? 花恭は誰も恨むなと言った。たとえ自分の身に何が起こったとしても。


『お前の大切なものをすべて奪っていった者に、復讐してやりたくないか』


 憎しみは、さらなる憎しみを生む。花恭は常にそう言っていた。だからこそ、私は……


『お前はすべてを失ったにもかかわらず、お前の主を殺した女はのうのうと生きている。それでも、お前はその女が憎くはないのか』


 花恭を、殺した……?

 心から慕っていた人。生涯その傍で仕えたいと思っていた人。それを――奪った人。

 渦巻き始めた感情に気づいた声が、愉快そうに色を変えてゆく。何もなかったところに、憎悪の芽を植えつけるために。


『目には目を。非情な殺人には、正義の殺人を。奪われたものを取り戻すために、お前は生まれ変わるのだ。……権花恭も、それを望んでいる』


 花恭が……望んでいる……? 花恭を殺した者を殺すことを?

 ならば、私はもう憎んでもいいのだろうか。


『憎んで、憎んで、憎み尽くせ。お前の未来を奪い、お前の主を奪った、羅刹を。そして、お前の主の餞に羅刹の首を捧げるのだ』


 耳元で囁いていたはずの声は、今や頭の中でがんがんと反響し、己の声と混同していた。自らを引き留める鎖であったはずの何かは、狂いゆく精神と共に奥底へと沈み、紫苑に対する憎悪だけが己を支配する。


『ならば、名を。名を捧げよ』


 束の間、花恭と過ごした懐かしい日々が蘇る。そこにはすべてがあった。愛も、優しさも、穏やかな明日も。そして、何よりも花恭が。

「……私の名は、……小梅」

 私は取り戻す、すべてを。そのために紫苑のすべてを奪うのだ。


 *


「覚えているでしょうか……。先の戦の責任を取って処刑された前王の寵姫、権花恭。戦のどさくさに紛れ、彼女の腹心の女官が人知れず姿を消しました。大した罪もなく、その者は戦乱に巻き込まれて死んだものとして処理されましたが……、結局その遺体が見つかることはありませんでした」

 一気に全身の体温が下がったような気がした。凍ってしまうほど冷たい汗が背筋に走る。

「まさか……!」

 咄嗟に夜叉を振り返る。以前、夜叉と応戦した時、元は女であったのではと感じたのは、真実であったというのか。

「ええ、そうです。その者は権花恭を死に追いやった『白妙の羅刹』を亡き者にするという、己の望みを叶えるため、……鬼を呼び、こうして身を変えたのです」

 哀れなものを見るかのように、高蓮は一度睫毛を伏せた。その白々しい態度に、怒りを覚える。

「そうして、夜叉となったその者を利用したのか!」

「私にそれを問うのですか? あなたの願いの犠牲になったこの者を見て」

 無意識に唇を噛む。――その言葉に、言い返すことなどできなかった。

 あの時の決断を悔やんだとて、時は巻き戻せぬ。すでに過ぎ去った来し方を嘆いても、行く末が変わらぬように。ゆえに、目の前の夜叉は、私の浅慮が招いた最大の罪だ。さらなる闇を引き連れてきた夜叉を救うことも、助けてやることもできぬ今が。

「ですが、あなたはあなたの仕事をしただけなのでしょう。後顧の憂いを残らず排除するために。……むしろ、最も愚かで恥ずべきなのは、原因が己の主人にあるにもかかわらず、その仇を取らんとするこの者に他なりませぬ。やはり、愚かな者に仕えた者は、同じように愚かになるという良き見本でしょうか」

 吐き捨てられた言葉には、なんの憐憫の情もない。あるのは、ただの事実。仇討などという意味のなさぬ望みを抱いた者への、嘲り。常ならば、私も同じように嗤っていたかもしれぬ。愚かで、だからこそ人間らしいその行為を。

「……そなたに情など期待したわたくしが愚かであったな。わたくしもそんなものを持ち合わせてなどおらぬが、そなたもわたくしと同じ、……いや、それ以上に非情であったか」

 今さら何をと微笑んだ高蓮に、私も肯定して嗤う。そう、情などない。あるのは、ただ己の望みだけ。

 蝙蝠を半分ほど開き、身の内から沸き起こる力を放出する。怒りに我を忘れるわけではないが、この時ばかりは己の陰陽師としての性を痛感せざるを得ぬ。びりびりと電流が肌を走る感覚が空気にも伝染し、細かい石や木屑を巻き上げる。

「己の始末は、わたくし自身がつけよう。そなたの手駒を減らして悪いが、これ以上その者を野放しにするわけにはゆかぬ」

 最初の一撃が、高蓮の足元を削る。もうもうと舞い上がった砂埃の向こうで、爆風に押し出された高蓮が顔を腕で庇い、片膝をついていた。頬に走った傷から、一筋血が流れている。

「――やはり、あなたは何も……、わかっておられぬ」

 自嘲気味に歪んだ唇が、諦念の言葉を呟く。何かに期待し、裏切られたかのような、そんな絶望を孕んで。

 動揺? いや、そんな可愛いものではない。絶望の裏に潜むのは、明らかなる怒りだ。

「以前にも、同じようなことを申したな……。此度のわたくしは、一体何をわかっておらぬと申すのだ?」

「それを申せば、情を不要と切って捨てるあなたにも、如何ばかりかの情が湧くのでしょうか? いえ……、そんな戯れも私たちの間には許されぬもの。……私たちに許されたのは殺し殺される、その運命(さだめ)のみですから」

「そなたの申すとおりよ。何度、我らが生まれ変わろうとも、どんな選択を下そうとも、結局こうなる運命は変わらぬ。いや……、変わらぬからこそ、我らは互いを求めて、殺し合うことができる。それこそが我らの愛し方ではあるまいか」

「あなたにしては、随分粋なことを仰りますね。――ならば、私もあなたを殺しましょう。さすれば……、未来は確かに変わる」

「未来……? そなた、何を申して……」

 剣を鞘に収め、後退した高蓮の代わりに、おぞましい影が立ちはだかる。ゆらゆらと身体を左右に揺らしながら、夜叉の鋭い眼光がこちらを向く。驚くべき再生力を持つ夜叉の動きを先に封じなければ、その奥で悠々と高みの見物を決め込んだ高蓮に指一本触れられぬだろう。幸い、先ほど切り落とした腕は、まだ完全には再生し切っておらぬ。

(言葉を唱えるには……、まず足か)

 夜叉の俊敏な動きを封じようと、足に向けて攻撃を仕掛けるが、情けなくも己の手が震えていた。瞬間的に嗤い出したくなる衝動を抑え、凛と前を向く。

 先ほどからやんでいる鴉の笛の音は、私に起きた異変に気づいたゆえだろう。今も駆けつけるべきか否か葛藤しているに違いない。だが、鴉は私の命令があるまで動くことはできぬ。その上、高蓮と夜叉の関係性が未だ不透明な今、不用意にこちらの手札を見せるべきではないだろう。

 それにしても、なぜ高蓮に夜叉が操れるというのか。どうしても、それが信じられぬ。術者の類が放つ一種独特な空気を高蓮から感じぬ上、やはり夜叉から高蓮の気を感じ取れぬのだ。それに一見高蓮に従っているように見えるが、高蓮の声というよりは、言葉のみに従っているようにも見える。ゆえに、夜叉は完全に復活できておらず、おそらく言葉のみで使役するには、使役する者の力が足りぬのだ。

 ならば、今が好機。これ以上、高蓮の思いのままに操らせぬためにも、夜叉を完全に葬り去らなければ。高ぶる神経を研ぎ澄ませ、腹の底から深く息を吸う。未だ手は震えていたが、蝙蝠さえあれば力が暴発することはない。

「光、永久(とわ)なれ。かの者に憑きし鬼よ……」


『た、すけて』


 言葉を唱えるのと、夜叉が走り出すのは同時であった。だが、思わず詠唱する声が止まる。

(この声は……――そう、だったのか)

 私は、無意識に翳していた手を力なく降ろした。

 この者は、負の念そのもの。私が葬ってきた者らすべての苦悩を背負ったかのような、私の望みの影になってしまった者。この者とて、むやみに人の命を奪いたかったわけではあるまい。凝り固まった執念が心を歪め、壊してしまった。それは確かに私が招いたことだった。

 ならば、もう良いと思った。まだやるべきことは残っている。残っているが、この時ばかりは何もかもを放棄したくなった。酷使し続けた力。指一本すら動かすのも億劫なままならぬこの器。そんな背負い続けてきた何もかもを、両手をぱっと放すように宙に放り投げたくなった。――あまりにも疲れ果てて。

 もう終わらせてもよいだろうか、とかの人に問いかける。こんな私を見て、羅人は怒るだろうか。それとも、あの時のように悔やむのだろうか。そっと息を吐いて、私は瞳を閉じた。死を受け入れるために。


――だが、その時はいつになっても訪れぬ。うっすらと瞼を開けると、見覚えのある背中が、私の前に立ちはだかっていた。

「貴女は死ぬつもりか!」

 ぐらぐらする頭を抑え、顔を上げる。夢でも見ているのではなかろうかと思った瞬間、夜叉を弾き返した鴛青が激しく私の肩を掴む。その瞳に浮かぶ焦燥に、私が夜叉の攻撃を甘んじて受けようとしたことに、どれほど衝撃を受けたのかがわかる。

 この男は、一体何を考えているのだ。なぜこの私にそんな感情を抱く必要がある?

「どんなに苦しくとも、貴方は生きねばならぬ! 貴女があれほど悔やみ、それでも手放した大切なもののために! それが貴女の贖い……、死ねばすべてが赦されるなどと驕るな!」

 愚かで愚かで仕方がないというに、なぜ常のように嗤えぬ? 私を殺すために送り込まれた兇手の癖して、何を馬鹿げたことをと。

「――生きろ」

 強く美しい光が私を貫く。今まで感じたことのない胸の高鳴りをなんと呼ぶのかは忘れた。いや、忘れようとしただけかもしれぬ。そんな言葉は、この現実には不釣合い過ぎて。

「やはり……運命(さだめ)は無情、ですね。運命の(とき)が廻るのは誰にも……羅刹、あなたにも変えられぬことだったのですよ」

 鴛青の影に隠れて、そう言った高蓮の表情は見えなかった。先ほどと同じような自嘲が浮かんでいたような気がしたのは、私の気のせいであったのか。

 高蓮が片手を上げると、ばらばらと黒装束の集団が鴛青を囲んだ。その数、十数人。鴛青と初めて会ったあの時、御簾を暴き、我らを襲おうとした兇手と同じいでたちの彼らは、隙のない動きで命令を待っている。

「鴛青の命を取りなさい。……運命の刻を、廻すために」

 その掛け声と共に、兇手たちと夜叉が一斉に鴛青目がけて飛びかかる。最初の一撃を難なくかわした鴛青は、私を背に庇いながら攻撃を繰り出し、隙を見て壁際に突き飛ばした。だが、兇手たちの狙いはあくまで鴛青なのか、私に向かってくるものはない。私は壁に身を任せつつ、次の機を狙おうとするが、次第に鴛青の戦いぶりに舌を巻いていた。

 鴛青の太刀捌きは、あまりにも見事であった。以前、夜叉と応戦した時も思ったが、鴛青の強さは並大抵ではない。今も一人ですべてを相手にしているというに、確実に敵を減らしていっている。だが、鴛青が鬼神の如き強さを誇る兇手だとて、敵も侮れぬ。まず数が多い上に、凶手独特の変則的な動きで先が読みにくい。そして、人間離れした力で潰しにかかる夜叉が鴛青を手こずらせる。

「無様ですね、羅刹殿。男に庇われて、眺めているだけとは……、羅刹の名が泣くというもの」

 こつこつと沓音を鳴らしながら、高蓮が近づいてくる。無意識に蝙蝠を握る手を羽織の内側に隠す。

「先ほどは敬称などつけておらなんだ癖に……。いっそ、殺してやりたいほどに面憎い」

「左様ですか。とはいえ、今のあなたにそんな力は残っていない、そうでしょう?」

 高蓮の無邪気な笑みとは裏腹に、私は一瞬言葉を失った。羽織の内で震えている蝙蝠が気づかれたはずはないにもかかわらず、その震えからぐらついた身体を後ろから高蓮に攫われる。見た目の細さからは想像できぬ、ほどよく筋肉のついた腕が私を逃すまいと抱きしめる。

「あなたは残酷ですね。私よりもあの男を頼りにするなど、……私があなたに求婚したことをお忘れですか?」

 耳元で囁かれた声が熱い。逃れようにも、声に麻痺したかのように身体が動かぬ。高蓮は私の羽織を剥ぎ取り、横に投げ捨てた。長着ごしに伝わる高蓮の体温に、知らずに身体が反応する。

「あなたをこの腕に抱く日を、私はずっと夢見ていた……。それが『今』であるとは、運命の徒としか言えませぬが」

 身体を硬直させたままの私を、高蓮は愉快そうに愛でる。冷たい手が身体をなぞり、それとは正反対の熱さを持った唇が、強引に私の唇を奪う。

 見た目の穏やかさに似合わず、乱暴でいて私を食らい尽くさんとするかのようなどこまでも身勝手な口づけ。それにもかかわらず、伝わってくるのは紛いのない情熱の唐紅。だが、唇を離した途端、それは怜悧な刃へと姿を変える。

「あなたは、ここで運命(さだめ)の廻る(とき)を眺めていればいい。あとは私が歴史を変える」

「歴史、を……」

 はっと息を呑む。『運命の廻る刻』。それはまさか――

 鴛青を振り返る。また一人、また一人と薙ぎ倒してゆく、その後ろ。倒れていたはずの夜叉がむくりと起き上がる。だが、鴛青は他を相手にするのに必死で気づいておらぬ。

 残酷な響きを湛えて、高蓮がもう一度囁く。

「目の前で、己の大切な者が殺される。それは一体どういう気分なのでしょうね」

 気づけば、走り出していた。先ほどまで身体に力が入らなかったことも忘れて。

 思い出すのは、血に染まった宋鴻の背。あの時、私は宋鴻を守ることができなかった。止まらぬ血。苦しげに歪む顔。静かに涙を流した紅玉。もうそんなものは見たくない。もうそんなものを知りたくない。私はこの人を守るために――

 風のように駆ける。驚いたような鴛青の顔。一切の静寂の後に訪れる、背中に走る焼けるような痛み。だが、これが何ほどのことであろうか。この人を守ることができるのならば、私は他のすべてを捨てられるだろう。

 ゆっくりと身体が崩れ落ちる。鴛青が何かを叫び、鴛青を囲んでいた兇手らの首が一瞬で飛んだ。その様を私はぼんやりと見つめ、そして意識を失った。


 何も恐れることはない。なぜなら、私はこの人を守るために、ここへきたのだから。

 愛しているわ――『(しょう)』。

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