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罅1

 亘化二年葉月十八日。


 包拯は、目の前に座る人物の変わり果てた姿に、少なからずも衝撃を受けていた。

 頬がこけ、幽鬼の如く顔色が青白い。袖口から見える腕は骨ばり、歴戦の猛者をうかがわせた堂々たる体躯は、今や風に吹き飛んでしまいそうなほどか細く、黒々とした死神の如き影に支配されつつある。――あれはいつの時か。大司馬に就任した際に見た、人々を無条件で跪かせるようなあの覇気は、すでに跡形もなく消え失せていた。

 おもむろに包拯は机の上で組んでいた指を解いた。そして、感情を削ぎ落とした瞳で、目の前に置かれた書状に視線を落とす。そこに書かれていたのは、罪人李宋鴻を取り調べよとの王命であった。

「……宋鴻様、顔色がお悪いようですが……、またの機会にいたしましょうか」

 あまりのやつれように、つい包拯らしくもないことを言ってしまった。だが、宋鴻は疲れたように微笑んで首を横に振った。

「構わぬ。そなたはそなたの職務を果たさねばならぬだろう。私に聞きたいことがあれば、なんでも聞くがよい」

 口調だけは以前と変わりないように思えたが、どことなく影はある。あの宋鴻をここまで変えてしまうほど、その影は宋鴻の一部を成していたのだと知る。

「宋鴻様はなぜ羅刹を、……いや、紫苑を切らぬのでしょうか」

 宋鴻の瞳に一瞬光が戻る。

「此度の一連の事件は、紫苑が何かしら糸を引いているのは明白です。にもかかわらず、なぜ宋鴻様はあの者を切り捨てぬのか。戦後、多くの粛清を行ってきたあなた様にしては、随分と手ぬるいご判断かと存じますが」

 このまま何も手を打たねばどうなるか、それを予測できぬ宋鴻ではあるまい。にもかかわらず、宋鴻はこれほどの嫌疑がかかろうとも、今日まで反論らしい反論すらしておらぬ。それが一気に立場を悪くした所以なのだが、まさかこんな仕打ちを受けてもなお、未だ紫苑を信じているとでも言うつもりなのか。

「長官も紫苑が黒幕だと考えているのか」

 いつの間にか、宋鴻の瞳が自分を射抜いていた。責めるわけでもなく、それは包拯を問うている。

「ある一方では、……あるいは」

 そんな歯切れの悪い答えになったのは、得体の知れぬ迷いからであった。

 第一の迷いは、紫苑がそれまで宋鴻と敵対していた神宗や趙佶、高蓮と接触をしているという点だ。神宗にいたっては周囲を憚ることもせず、謁見を願い出ているという。

 本来、今回の一件がなければ、宋鴻は順当にいって数年の間に王になったはずである。神宗が付け焼刃の改心を見せたとて、どうせそれもただの虚構だ。宋鴻が二代続けて堕落した王の血統という点を差し引いても、近頃一部の民が噂するように、地方の一節度使に過ぎぬ趙佶が王位に就くことなどあり得ぬ。

 すでに宋鴻の側近としての地位を確立している紫苑にとって、あとは待つだけですべてが手に入った。にもかかわらず、なぜ今頃神宗を担ぎ上げる必要があるのか。趙佶よりも王位に程遠い存在ではないか。

「紫苑の、……目的が見えぬ。……人間は、欲や己にとっての得になることでしか動かぬもの。だが、紫苑の一連の行為が、彼女の得になるとは……どうしても思えぬのです」

 視線を半蔀の向こうにやりながら、ぽつりと呟く。

「先の戦での紫苑の功績は、誰もが知るところです。たとえ、他の官吏が女であることを理由に、紫苑に官位を授けることを反対したとて、宋鴻様ならばそのすべてを退けられたはず……。また、これまでの王のような独断ではなく、真摯な説得を以って皆を納得させ、紫苑を相応の地位につけることも可能でしたでしょう」

 事実、一連の件が始まる前、宋鴻は紫苑を正式に朝廷に迎え入れるために動いていたという。それを知らぬ紫苑ではあるまい。

「そして、紫苑が望むのが、何も官位とは限らぬこともある。女に生まれれば、誰もがその頂点を、つまり国母の地位を望む。宋鴻様が、他の女も目に入らぬほど紅玉姫を寵愛しているのは周知の事実であるゆえ、手軽そうな王に乗り換えた。……それもあり得ぬ話ではありませぬ」

 だが、なおさらそれはおかしい。前王を処刑する際、紫苑はその側近の一族に暗示をかけ、自我を操り、我ら御史台に引き渡したのだ。ならば、それと同様に宋鴻に紅玉姫を捨てさせ、己を寵愛するよう仕向けることもできたはず。その上、未だ紫苑は後宮に部屋を賜ってはおらぬ。いずれ国母の地位を得ようとするならば、まずそこからだろう。

「官位を得るためでもなく、女としての地位を得るためでもない……。ならば、一体なんのために紫苑は動いているのか。これまで仕えていた主を捨て、国中から裏切り者と罵られてまで」

 紫苑の一連の不可解な行動。それに隠された意味は、一体なんなのか。だが、どうしても形を成さぬ。それらが正確に形を成すには、現段階でわかっている事実が少な過ぎる。ゆえに、紫苑にも宋鴻にも、今はまだ手を出すべきではないと包拯は思っていた。

 その時、宋鴻は唐突に笑い出した。困惑する包拯を差し置いて、壊れてしまったのかと思うほどにからからと。

「長官は紫苑をあまりにも……、軽んじている。あれが望むものも、その先に見据えているものも、……我らが思うより遥かに遠く、遥かに大きい。そんな瑣末なものなど、紫苑にとってはそこらに落ちている小石程度の価値しかない」

 微かに宋鴻に精気が戻ったような気がする。もしかしたら、包拯の出方を探られていたのかもしれぬ。やはり侮れぬ方だと密かに感服する。

「だからこそ、長官のその考えはまったくの見当外れだ。父上を狙った武官が抹殺されたのが、その好例」

 やはり、宋鴻もそれを案じていたか。包拯の第二の迷いもそこにある。

「長官は信じられぬだろうが、紫苑は無意味な殺戮を最も嫌う。あれは……、殺す必要のない命であった。それよりも、生かすことによって、さらに私を追い詰める手であったはず」

「確かに。あの者らが死んだことによって、紫苑自身の悪名は高まったが、本来宋鴻様を陥れるための暗殺としては、少々失策であることが否めませぬな。あることないこと暴露させるためのきっかけを失い、唯一の証人であった彼らが消されたことで、我らも宋鴻様を必要以上に追及することができなくなった。ゆえに、大司馬の地位を剥奪されるだけで済んだとも言えましょう。ですが、それではなんのための暗殺であったのか」

 包拯が決して見逃せぬと思ったのが、それである。この件には、二方向の思惑が絡んでいる。宋鴻に罪をなすりつけたい者と紫苑に罪をなすりつけたい者との二人で。そのどちらかは紫苑が担っているのかもしれぬ。だが、もう一方は確実に紫苑ではない。

 では、それは誰なのか。姿も見せず、狡猾な手段で紫苑を手玉に取り、渾沌に満ちた世をさらに渾沌へと向かわせようとしているのは、一体誰なのか。

「紫苑はかつて、こう申していた……。敵は一人ではないのかもしれぬ、と」


 *


 策は、包拯による宋鴻の取調べがいつ終わるのかと、一刻も前からずっと待ち侘びていた。だが、一向に終わる気配のないそれについに痺れを切らして、息抜きがてらに御史台の外へ出たときであった。

 落ちかけた紅い夕日を怠惰に眺める紫苑が、門の前に一人で立っている。その姿を見て、策は猛然と紫苑に文句をつけたい衝動に駆られたが、それを寸前で抑え、ずかずかと紫苑の横を通り過ぎようとした。

「待っていた、策」

 こちらに気づいた紫苑は、緩めていた首元の紐を結び直した。

 策ははっと息を呑む。先ほどは怒りに目が眩んで気にもしなかったが、紫苑はどこまでも真白な装束を着崩すわけでもなく、今から朝廷に参内するかのように完璧に身に付けていた。なぜ今この時にその姿で、ここへ現れたのかをすぐさま理解する。

「あなたのような者を、宋鴻様のところへお通しするわけには参りません」

 御史台への道に立ち塞がるようにして、紫苑の前に立つ。だが、紫苑はそれを気にする様子もなく、ただぼんやりと策を見つめ返した。

「そなたの答えなど、どうでもよい」

 手にしていた漆黒の蝙蝠が策に向けられると、身体が策の意思に関係なく独りでに動き始めた。何か強大な力に押し負かされているかの如く、四肢が塀に押し付けられる。どうにか声を上げて、それに反抗しようとするのだが、塀に縫いつけられたかのようで一歩も動くことができぬ。

「羅刹、何を……!」

「転がり続ける石を見届けるのは、そなたではない。わたくしのこの手で幕引きを」

「幕引き、だと? 主を裏切るような真似を平気でしておいて、何を! あなたさえいなければ、宋鴻様は……!」

 取調べの前に、初めてこれほど近くで宋鴻を目にした。

 呉陽一人だけを伴い、その人はおよそ大司馬についていた者とは思えぬほどの覇気のなさで御史台に姿を現した。今や朝廷の大半が敵に回ったといっても過言ではないこの状況でも、宋鴻が真実覇気を失ったのは、それゆえではないのだと策は悟った。――今、目の前にいるこの女のせいで、宋鴻はそうなってしまったのだと思うと、何かが無性にやるせなくなる。

「御史台も落ちたものよ。証拠を上げることすらせず、己の勝手な妄想をただ喚き散らすだけの若造を未だに雇い続けておるとは」

「証拠はこれから掴みます! あと二日、いや……一日でもあれば、あなたを処刑場送りにしてやれる……!」

 今にも飛びかかっていきそうなほど、策は怒りに震えていた。だが、それは紫苑の裏切り云々よりも、己の無力さに。

 策は何もできなかった。これまで己に解決できぬ事件など一つもないと豪語してきたが、今回は何一つ紫苑の一手を覆すことができなかった。そして、その策の無力さを一切責めず、全責任を負おうとしている包拯に気づいたとき、策は羞恥に目が眩んだ。――なんたる惨めさ、なんたる無様さか。

「……――時は、有限」

 そんな策を紫苑は盛大に嗤った。まるでその言葉が期待外れであったといわんばかりに。

「決めねばならぬ時に決めることを先送りにしたそなたに、これからどれほどの時を与えたとて、なんの成果も生みはせぬ。所詮、そなたはその程度であったということ」

「決めねばならぬ時……? 何、訳のわからないことを……」

「聞きたいのなら聞かせてやろう。……そうだ。一連の事件を仕組んだのは、このわたくしよ。宋鴻を失脚させんがため、鄭宣喜と王の暗殺を企てた」

 驚きに目を見張った策を、紫苑はなおも愉快そうに嗤う。

「やはり、あなたが……!! 今からでも遅くはない、それをすぐに「すぐに包拯殿へ報告し、わたくしを詮議にかけるか? そなたは何一つ、それを立証できる証拠を己で掴んだわけではないというに?」

「証拠なら今……、あなたがここで話したではないか! 自分こそが犯人であると!」

「わたくしがそなたに話したのはな、結局道筋は変えられぬと知っておるゆえよ」

 一頻り嗤った紫苑は策に近づき、蝙蝠で顎を掬った。翻った裾から黒方が強く香り、酷い酩酊感を引き起こす。

「……そなたはまだ若く、そしていっそ滑稽なほどに、愚か」

「何を言うか!」

 蝙蝠を打ち払おうとするが、身体は動くことを拒否したままだ。堪らずに睨みつけてみるが、それすらも紫苑の凄味のある眼差しが遮る。

「宋鴻が失脚したのは、単にそなたに力がなかったゆえだ。わたくしが怪しいとわかっていながら、何一つ掴むことができずに、結局無実と知りながら宋鴻を有罪にするしかなくなった。……それはわたくしのせいではない。そなたが無力なせいだ」

 心臓を一突きされたかと思った。それほどの鋭利な刃が策を容赦なく抉る。

 黒く艶やかな蝙蝠が顎から首を沿い、胸まで辿ると、そこで軽くとんと押された。その瞬間、身体を動かすことができなかった何かが解かれ、へたりとその場に崩れ落ちる。

「恨みたければ、恨むがよい。そなたのような凡愚の恨み辛みなど、わたくしは星の数ほど買ってきたゆえ、今さら一つ増えたところで同じことよ。されど、わたくしを恨みてなんとする? それで真実を明らかにできるか。それで宋鴻は助かるか。それで、――わたくしを止められるか」

 策は何一つ言い返すことができぬまま言葉を失っていた。――嗚呼、わかっている。わかっていたからこそ、紫苑の言葉は何よりも鋭く心を引き裂く。

 策の周りにいる者らは、包拯も含め、おそらくここまで包み隠さずに言うことはない。だからこそ、策は見ずに済んだ。宋鴻を救うことができなかった自分自身の責任を紫苑に転嫁することで、現実を直視することから逃げようとしていた。

「……策よ。そのままのそなたでは、何も守ることができぬまま失うばかりぞ。……――早う知れ。己のすべきことの意を」

 紫苑はもはや策を見ることすらしなかった。立ち去ってゆくその背を引き留めることもせず、策はただ茫然とその場に座り込んだまま、己を見失っていた。


 *


「これは包拯殿。久しくお会いしておらぬうちに、随分とやつれたように見受けるが? 役立たずの出来損ないの尻拭いに奔走している、といったところか」

 なんの前触れもなくその白は姿を現した。先ほどから策と誰かが言い合うような声が聞こえていたが、彼女であったか。

「貴殿のような者に、あれの真価はわかりますまい。ゆえに、次に追い落とされるのは貴殿のほうかもしれぬ。ご覚悟を」

 包拯は巌のような顔つきを一度も変えることなく、視線だけで椅子を勧めた。

「さて、次があるかどうか……。先のことは誰にも読めぬもの。わかるのは、……今だけ。あの者はそれを逃したのだ」

 紫苑は椅子に座らず、壁際に詰まれた書を白く細い指で撫でてゆく。ゆったりとしたその動きは猫に似て、油断も隙もない。

「用もないのなら、早々に退出願いたい。我らは貴殿の罪を探すために、手一杯ゆえ」

「包拯殿もわかり切ったことを申される。……わたくしがくる前に、そなたはここで会うていたはず。どこぞへお隠しになられた」

 鈴が鳴るような笑声と共に、唐突に増す殺気ともいえる鋭利な空気。包拯は一つ溜息をつく。

「……何を申されているのか、私には図りかねる」

 振り返った紫苑は、面白そうに紅唇を歪めていた。自分に歯向かう者がいるとはと、その笑みはわかりやすく語っている。

「そうか。なれば、結構。ここで終わらせられぬのもまた、運命(さだめ)ということ。……それにしても、そなたが宋鴻の肩を持つとはな。部下も部下であれば、上司も上司ということか」

 紫苑の爪先がこちらに向いている。決して音を立てぬその歩き方は、訓練された兇手に似て、包拯は気づかぬうちに絡め取られていた。紫苑の指が包拯の顎を取り、強引に自らのほうに向かせると、挑発しているつもりなのか、肩膝を包拯の両足の上に立てる。

「貴殿の望むものは、一体なんなのか」

 紫苑はその問いに呆れたのか、肩をすくめて溜息をついた。その動きに袖がはだけて、白い腕が覗く。

「随分、色気のない問いをするものよ。わたくしが容易く答えるとでも?」

 まとわりつく紫苑の指を払おうとするが、紫苑は構わず、さらに包拯との距離を近づけた。衣から立ち上る黒方が自我にまで侵入してくるかのようで、酷い眩暈がする。

「私は、他に道はなかったのかと、思っているだけだ。貴殿を想う数多の人間を傷つけるこの方法でしか、貴殿の望むものは手に入らぬと申すのか。それほどの犠牲を払ってまで、得なければならぬものの価値とはなんなのか。私はただ「ふざけたことを抜かぬのも大概にせよ」

 初めて紫苑が感情を表に出した。獰猛な獣に似たそれは喉元に噛み付くかのように、強引に包拯の顔を引き寄せる。それでも、包拯は何食わぬ顔でさらに紫苑への攻撃を続けた。

「普段のすました表情よりも、今のほうがよほど貴殿らしい。その獰猛な怒りは、果たして何に向けてのものなのか。……わかっているはず。私の言葉に怒るということは、それを認めたも同じことだ」

「……なれば、そなたもようわかっておるはず。わたくしが手段を選ばぬ鬼であることを」

 唐突に紫苑の美しい顔が自らに近づき、唇を貪られる。甘い猛毒が肺腑の奥に沁み込んだのを感じたとき、扉の外で誰かが逃げ去ってゆく音を聞く。咄嗟に紫苑の身体を突き飛ばすが、紫苑の顔に浮かぶ愉悦の笑みが、時はすでに遅しを物語っていた。

「貴殿は、何を……!」

 包拯は狼狽して後退るが、紫苑はなおもくつくつと嗤い続けていた。まさにそれは羅刹の如き禍々しさで。

「信頼など、こうも容易く地に落ちる。それがわかったならば、わたくしのような者を理解しようなどと愚かな情を抱かぬことだ」

 紫苑は乱れた裾を優雅に直してから、常と同じすました顔で扉に手をかけた。

「わたくしは望むものの前で、手段を選びはせぬ。……いずれ我が君もそれを解し、わたくしを見捨てるだろう」

 そう言い捨てた紫苑が、宋鴻を『我が君』と呼んでいたことに包拯が気づくのは、ずっと後になってからのことである。そして、紫苑が宋鴻を見捨てるのではなく、宋鴻が紫苑を見捨てるのだ、ということも。


 *


 迎えにきていた軒に乗り込み、ほとんど無意識のうちに首元の紐を解く。張り詰めていた空気が一気に和らいで、束の間の深呼吸をする。ゆっくりと滑り出した軒の中で、紫苑はずるずると壁に寄りかかった。

 今日は何も力は使っておらぬゆえ、いつもよりは幾分かマシではあったが、それでも蓄積された痛みが引くことはない。また、宮城に貯まる雑念やそれら負の感情がその痛みを加速させる。

 髪を結んでいた紐を解き、ぼんやりと軒についた小窓から流れゆく景色を目に映す。先ほどの包拯の狼狽ぶりは、久しくなかった面白い見世物であった。今頃、噂の拡散に慌てふためいているに違いない。すでに時はもう遅いが。頭のおかしい者に近づこうとすれば、いらぬ被害を受けると今回のことでよく学んであろう。なれば、この先は『白妙の羅刹』を追い込むのに、なんの躊躇いもなくなるはず。

 溜息をつくように息を吐き出せば、指先から力が流れ出してゆくような気がした。

 何もかもが近頃は億劫であった。指を動かすのも、息をするのも――果ては、生きることさえも。いつからそうなってしまったのか、今はもう思い出すこともできぬ。

「……此度は、あちらから出向いてきたか」

 なだらかに動いていた軒が突然急停止した。まもなく御者たちの短い叫び声が落ちる。

 紫苑が懐の蝙蝠に手を触れたのと、剣を持った腕が小窓から突き出されたのは、ほぼ同時。だが、夜叉は一歩遅く、紫苑の張った結界に弾き返された。面倒そうに軒から降りると、弾き返された際に頭を土壁にしこたまぶつけたのか、夜叉はうずくまり呻いていた。

「すまぬな。急に出てきたゆえ、力が制御できなんだ」

 紫苑の声に反応して、ゆらりと夜叉が立ち上がった。血でぬらぬらと不気味に光る剣を握り直す。

「それにしても、せっかくこの世界に慣れた遣い魔をすべて殺ることもなかろうに」

 再び向かってきた夜叉を弾き返すことはせず、いとも簡単にその腕を掴み、呼び出した紐でがんじがらめに縛り上げる。抵抗する声を無視して、紫苑は夜叉の顔を覗き込んだ。

「さて……再びわたくしの前に現れて、望みは一体なんぞ。わたくしはどこぞの間抜けな役人共のように、二度も取り逃がすような真似はせぬ。……死にたいのか」

 意思疎通ができぬことは端からわかっていたが、紫苑はそう問わずにはいられなかった。

「このままそなたを滅することは容易いが、そなた……何かわたくしに言いたいことがあるのではないのか」

 ぴたぴたと夜叉の頬を蝙蝠で叩きながら首を傾げる。しばらくすると夜叉の抵抗が弱まり、嘘のように大人しくなった。捕縛している紐に力を徐々に奪う術をかけてある。もうまもなくすれば、夜叉の力はすべて吸い尽くされるだろう。

 至近距離で観察するのは、今回が初めてだ。腐り落ちた容姿は変わり果てているが、なんとなく女の名残のようなものが残っている気がした。鬼を身に宿した者は、次第に鬼に心を奪われ、姿まで鬼の様相を表すようになる。現に、額が割れたところからおぞましい角が生え、身体は切り立った岩のように所々が飛び出し、爪はそれだけで武器になるほど長く鋭く伸びている。

「……斯様な姿に成り果ててもなお、そなたは一体何を望んだというのか。女なれば、見目形も気にするであろうに……。なれど、その口はもはや何も話すことができぬ」

 見たところ、口であった部分はすでに退化し、呻き声しか上げることができなくなっていた。

(――なんという皮肉よ)

 やるせない思いが込み上げる。やはり、今ここでこの者の命を絶つべきなのだろう。何かに囚われ、身を削っているのは、何もこの者だけではない。自分も同じだ。

「では、終わりにしてやろう」

 最後の言葉を唱え始める。妖しい紫の光を放ち始めた言葉の陣が、夜叉を逃がさんと縛り上げる。闇を劈くような絶叫が辺りにこだまし、地獄へ道連れにしたいのか、紫苑に向かって鉤爪の如き手を伸ばす。


『羅刹殿。あなたのその傲慢さで、あれを救ってやることができるのでしょうかね』


 救う? 何を馬鹿げたことを。人の傲慢さで、何を救うというのか。数え切れぬほどの命を奪い、血に塗れたこの手で。

「……次の世では、幸多きことを」

 無意識からそう唱えたのは、憐れみであったのか。それとも――

 その時、もう動けぬはずの夜叉の手が動く。瞳を閉じていた紫苑は反応が一瞬遅れ、蝙蝠を叩き落とされ、剣が紫苑の腕を掠める。

「紫っっ!」

 言葉を発する前に、横から飛び込んできた何かに吹き飛ばされた。咄嗟のことに受け身を取る間もなく、地面に無様に転がされる。

「紫! 無事か!」

「えん、しょう……? そなた、なにゆえここに……」

 一瞬にして、紫苑と夜叉の間に滑り込んだ鴛青は剣を抜き、夜叉が振り翳した剣を真っ向から受けていた。

「そんなことは後だ! 今は、とにかく」

 むんと腕に力を込めて、一気に押し返す。飛び退った夜叉は自力で紐を引き千切り、剣を構え直した。

「そうか……、これが都に出没する謎の殺人鬼の正体か。この腐敗臭……、人間ではないのか」

 じりじりと間合いを詰めながら、鴛青は紫苑を背に庇うように立ち塞がった。その後ろで立ち上がった紫苑はひりつく痛みを覚え、先ほど切りつけられた腕を見る。僅かに布を裂き、皮膚から血が流れ出していた。

「鴛青、気を抜くな。わたくしに一太刀浴びせた者など、そうはおらぬ。そなたの敵う相手ではない」

「それでも、弱っている貴女を放り出して、このまま逃げ出せるか。男の誇りが廃る」

「……誰が弱っているだと?」

「紫に決まっているだろう! 他に誰がいるというのだ」

 キンと激しく剣と剣がぶつかる。馬鹿にするなと叫ぼうとしたが、咄嗟に言葉を呑む。

 鴛青は想像以上に強かった。というより、強いどころではない。これまで呉陽や宋鴻の剣筋を何度も目にし、宋鴻以上に強い者などおらぬと思ってきたが、鴛青はそれをあっさりと超えている。夜叉も計算外だったのか、徐々に押され始めた。

 何度目かの鍔迫り合いののち、弾き返された夜叉と鴛青の間を裂くように光の道が走る。目を細めて仰ぎ見れば、金色に輝く太陽が今まさに顔を出そうとしていた。それと同時にくぐもった雄叫びを上げた夜叉にはっと息を呑む。

「鴛青! 早う仕留めろ! 太陽が昇れば、その者は消え……」

 だが、その警告は僅かに遅かった。鴛青が向かってゆくのと同時に、夜叉は朝日に包まれながら姿を消した。鴛青が振り下ろした剣は地面に突き刺さり、土埃がただ空しく舞い上がる。

「まったく、そなたが出てきたせいで、仕留め損なったではないか」

 腕を組みながら、ぶつぶつと悪態をつく。今宵こそは、夜叉を完全に封じ込めようとしていたというに、思わぬ邪魔が入った。

 鴛青はしばらくの間、夜叉が消えた場所を、顔をしかめながら見つめていたが、剣を振り払い鞘に収めた。無言でこちらを振り向くと、つかつかと目の前まで歩いてきていきなり立ち止まる。何事かと思う間もなく、無遠慮に怪我をしたほうの腕を掴まれ、袖を捲し上げられた。

「何をする!」

「貴女一人では、これ以上に傷を負っていたかもしれぬだろう。いつまで意地を張るつもりだ」

「余計なお世話だ! そもそもわたくしの後をつけていた癖に何を言う。不審者極まりないそなたに、何かを言われる筋合いはない」

 鴛青の手を振り払おうとするが、さらに力を籠めて掴まれる。

「私が、いつ誰の後をつけていたと?」

「戯け。あの程度の下手糞な尾行、力を使わずとも始めから露見しておるわ。尾行するつもりならば、これからはせめて気配を消すくらいはやれ」

「まぁ、本気でつけるつもりはなかったからな。むしろ貴女に気づいて欲しかったぐらいだ」

 無駄口を叩きながらも、鴛青は懐から取り出した布で器用に傷口に巻いて、応急処置を施した。随分と慣れた手つきに若干驚きつつも、黙ってそれを受ける。

「これで、とりあえずはもつ。さて、このまま邸まで届けよう」

 布の端を強引にねじ込む様は、やはり適当な男なのだと思うが、日に焼けた長い指にはなぜか色気があった。その指を唇に寄せ、指笛を鳴らす仕草になんとなく胸が高鳴る。はっと我に返って、掴まれたままの腕を強く引っ張った。

「そこまで、そなたの世話になるつもりはない。早うわたくしの腕を放せ」

「放したら、すぐさま姿を消すだろう」

「当たり前だ」

「ならば、なおさら放すことはできぬな」

 速足で駆けてきた青毛の馬に、紫苑が抗議するのも構わず鞍に押し上げ、自分もその後ろに飛び乗る。そのあまりの手際の良さに舌を巻きそうになるが、巻いている場合ではない。

「何をする! 降ろせ!」

「舌を噛むぞ。口を閉じて、私に掴まっていろ」

 かけ声をかけ、手綱が乾いた音を立てる。必死の抗議も虚しく、そのまま朝日を背にして、馬は勢いよく駆け始めた。鴛青の慣れた手綱捌きは、鴛青が剣術だけではなく、馬術にも優れていることをも露呈させたが、その事実は紫苑を余計に腹立たせただけであった。

 仕方なく口を閉じた紫苑は、誰が鴛青に掴まるものかと思い、鞍の端を握る手に力を込めた。時折、鴛青がかけ声をかけながら、馬は飛ぶように駆けてゆく。その間、じっと自分の手だけを見つめていた。

 少しでも顔を上げれば、自分を挟むように伸びる腕を、背中に伝う熱を、耳元で聞こえる息遣いを、知ってしまう。それらは心の奥底に封じたはずのものを呼び起こしてしまうと、私は無意識に知っていた。

 腕の傷に触れる。鈍い痛みに、本来の自分を取り戻す。どうか、早く。一刻も早く邸に着くことだけをひたすらに願った。


「邸の外まででよいというに、なにゆえ中にまで入ってくるのだ! そもそも、なにゆえそなたがこの邸の場所を知っていて、なおかつ邸内に入れる?!」

 鴛青は邸に着くと、「邸の前で降ろせ」という紫苑の主張を全力で無視して、勝手に厩に乗り入れ、あまつさえ紫苑を抱きかかえ、堂々と部屋にまで侵入してきた。非常に不本意だが、一応助けてもらった立場も忘れ、沸々と苛立ちが込み上げる。

「なぜって……以前にも、一度入ったことが……。あ」

 思わず口を滑らせた。案の定、紫苑が美しい顔を般若のように歪めて突進してくる。

「以前にも入ったことがあるだと?! なにゆえそなたが入れる!」

「なぜと言われてもなぁ……。むしろ誰だって入れるではないか? 門番もいないし、貴女以外誰も住んでなさそうであるし……。そういえば、一人だけ恐ろしいほどの殺気をまとった……。はっ、まさかあれは貴女の命を狙う刺客であったのか?!」

 あの夜を思い出して、鴛青は青褪める。あれほどの刺客にすでに狙われているとなれば、鴛青の出る幕などないではないか。呆然として紫苑を窺い見るが、間の抜けたような顔をしていた。それでも、変わらずに美しいことに変わりはないが。

「……それは簡潔に言えば、わたくしの護衛のような者だ。それより、そなたよう逃げ切れたな。あれに見つかったら、……まあよい」

 鴉も鴉だが、鴛青も並みの使い手ではない。とりあえず鴛青を邸から叩き出したら、結界を張り直そう。そのための護符を用意しようと思ったら、またもや鴛青に腕を掴まれた。

「……なんだ」

「なんだ、じゃない。まず傷の手当が先だ。貴女は自分で自分の傷を癒すこともできるのだろう」

「この程度の傷、傷とも言えぬわ。放っておいても直に治る」

「駄目だ。傷を治すまで、私はこの手を放さぬ」

「いや、すぐさま放せ」

 お互いに睨み合う。危うく火花が散りそうでもあったが、「わかったゆえ放せ。治せぬだろう」と言って、先に目を逸らしたのは紫苑のほうであった。

 その途端ぱっと放れた鴛青の腕を見比べながら、一瞬このままトンズラこいてやろうかと思ったが、やめた。地の果てまで追いかけてきそうだ。

 袖を捲り、一直線に伸びる傷に手を翳す。剣が薙いだ程度の深さであったため、造作もなく治せたが少し息が上がった。器が消耗していることなど、誰にも見せることはできぬ。たとえ、それがこの男だとしても――いや、この男だからこそ。

「ほら、もう治ったゆえ、早う出てゆけ」

「ほー、随分広い邸だな。一人で住むにはちと広過ぎやしないか」

 顔を上げると、鴛青は勝手に部屋のあちこちを見て歩いていた。無遠慮にもほどがある。

「……先ほどまでの傷への異常な執着はどうした」

「なんなら、私が一緒に暮らしてやろうか? ちょうど部屋も余っているようだし」

「誰が、そなたなんぞと共に暮らすか! 厩の馬とでも共に寝たほうがまだマシだ」

「ふむ。……前から、思っていたのだが」

「わたくしの話を聞け」

 ずいっと顔を覗き込まれて、思わず仰け反る。相変わらず行動が読めぬ――そんなことを思う自分にぞっとした。自分は何を言おうとしたのか。

「貴女はなぜここにきたのだ?」

 一瞬言葉が詰まる。この男は、脈絡というものがなさ過ぎる。

「一応、貴女のことは調べさせてもらった。というより、資料を読んだだけなのだが……。それだけではよくわからぬ点も多く、ならば本人に直接聞こうと思ってな。せっかく貴女の邸に招き入れてもらったわけでもあるし」

 心が冷えたのは、一瞬のことであった。そんな感情を抱いた己に馬鹿らしく思いながらも。

 何を調べ、何を知ったのか。そして、その内容を見て鴛青は何を思ったのか。紫苑はなぜかそれを知りたいとは思わなかった。

「――さぞ、恐ろしい女だと思うたであろう。斯様にうるさく付きまとえば、次に血を見るのはそなた自身になるやもしれぬ。そなたとて命は惜しかろう。……わたくしが力を使う前に、姿を消したほうが賢明だぞ」

 一つの瞬きの間に、鴛青と紫苑の間に壁が作られたのを知る。冷た過ぎて近寄ることもできぬような、そんな壁が。

「貴女はいつもそうなのか? 己の内に踏み込まれようとすると、そうして悪に染まったふりをして遠ざけようとするのか」

「ふりではない。そなたもわたくしのことを調べて知ったのであろう。わたくしがこれまで犯してきた、所業を「知らぬ」

 驚いた紫苑がこちらを向く。黒曜石の瞳が僅かに揺れている。

「知らぬ、と……先ほど、わたくしのことを調べたと申したばかりではないか」

「私が資料を読んだのは、白妙の羅刹についてだけだ。貴女自身については何一つ知らぬ」

「それで十分よ。白妙の羅刹は、このわたくし自身と相違ない」

「いいや、違う。白妙の羅刹は鬼だ。されど……、貴女は鬼ではない」

 断言されるように放たれた言葉が私を貫く。あまりの痛みに私は思わず膝の力が抜け、柱に倒れかかった。

「紫、どうした!」

 反射的に伸ばされた腕にしがみつきたかった。愚かにも衝動に似た激情で。

「……よい。ただ、疲れただけだ」

 心配して伸び続ける腕を拒み、私は逃げるように鴛青に背を向けた。

「私は貴女を知りたい、ただそれだけだ」

 それでも、こんな私に引き留める言葉を囁く鴛青に、僅かに足を止める。

「貴女は、おそらく人知れぬ過去を抱き続けているのだろう。そのすべてを話してくれとは、言わぬ。されど、私は知りたい。紫自身を」

「……知ってどうするつもりだ? 雇い主にそう命令されたのか」

「貴女は何か勘違いをしている。私は誰でもなく貴女の傍にいたいと願い、貴女の前に姿を現した。そうでなければ、とうに貴女を殺している」

 表情を失くした横顔が僅かにこちらを向く。ゆったりと肩に流れていた黒髪がその衝動で背に滑り落ちる。その様が妙に切なく、あの夜に感じた孤独と絶望を思い出させた。

「そなたに殺されるのならば、……いっそ、そのほうが良いのやもしれぬな」

 独り言に似た呟きは、あまりにも冷たい。紫苑はそのまま隣部屋に一人入り、タンと障子を閉めた。鴛青は拒む間すら与えられず、紫苑の世界から締め出されたことを知った。


 *


 亘化二年葉月二十五日。


 することもなく縁側で庭を眺めていたが、ようやく名を呼ばれ、振り返る。

「趙佶様……」

「待たせてすまぬな。中々朝廷の使者が帰ろうとせんゆえに、おぬしとの貴重な……、いやなんでもない」

 咳払いをして誤魔化しているようだが、隠し切れてはおらぬ。趙佶の後ろで、影のように付き添っていた高蓮が微笑んで話を促す。

「せっかくきてもらって悪いのだが、仕事が立て込んでいてだな……」

「構いませぬ。こうして貴重なお時間を割いていただけただけで、わたくしは充分にございます」

 微笑んだ紫苑に、子犬のように顔が綻ぶ趙佶だが、用件を思い出したのか急に深刻な表情になる。

「高蓮から聞いたのだが、おぬし先日賊に襲われそうになったとか……。なぜ私に話してくれなかったのだ」

「いえ、それは……。趙佶様にいらぬ心配をおかけしたくなかっただけで……」

 袂で顔を隠し、消え入りそうな女の風情を演出するが、その裏では余計なことをしやがってと、高蓮に非難の眼差しを向ける。本人はいたって心配そうな顔をしていただけであるが。

「心配も何も、おぬし一人守れんで何がおぬしの主よ。何も心配はいらぬ。おぬしに警護をつけさせよう」

「警護?! 趙佶様……斯様なお気遣いは、無用にございます……! わたくしは一人で「駄目だ、おぬしのその美しい肌に毛一筋の傷もつけさせたくはない。本来ならば、私自らおぬしを守りたいところだが、高蓮が腕の立つ者を推挙してくれた。その者は、私も以前から信を置いておる者ゆえ、おぬしはなんの心配もいらぬ」

「いえ……、そうではなく……」

 言いかけた言葉を遮るかのように、廊下の先から小間使いが駆けてくる。それを見るなり、趙佶は傍目でもわかるほど落胆した。

「もう次の奴がきたらしい。羅刹殿、あとはすべて高蓮に任せてあるゆえ、私はこれで」

「趙佶様……! お待ちを……」

 片手を挙げて、満足げに去ってゆく趙佶を結局引き留めることもできず、若干恨めしい笑みで見送るしかすべはなかった。その姿が見えなくなった途端、「……どういうつもりだ」と、一瞬にして表情が剥がれ落ちる。それを見た高蓮は、愉快そうに腕を組んだ。

「あなたを心配したまでのこと。以前にも、護衛をつけましょうと申し上げましたが?」

「いらぬと申したはずだ! わたくしは斯様な者がおらずとも、己で己の身くらい守れる!」

「そんなに逸らずとも、あなたの護衛につく者を見てからでも、考えを決めるのは遅くはないでしょう」

 今まで微動だにしなかった御簾の内が動いて、咄嗟に身構える。翻った先に見えた顔に、一瞬言葉を失う。

「その者ならば、必ずやあなたを守り抜きましょう。鴛青の剣の腕は私が保証いたします」

「……その者なればこそ、余計にいらぬ」

 鴛青の顔をまともに見られず、逃げ出すようにその隣を行き交う。肩が触れ合うその距離で、僅かに触れてしまった鴛青の指に再び息を呑む。

「羅刹殿、もう帰られるのですか? 私の部屋へいらしてはどうですか?」

 白々しい高蓮の声も、もはや耳に入ぬ。紫苑は蝙蝠で深く顔を隠して、足早に過ぎ去った。残された二人の間に隙間風が吹く。鴛青は無表情のままで、高蓮だけが穏やかな笑みを浮かべて。

「……高蓮様は私に何をお望みなのですか」

「私の命令は、何も変わりません。花の色香に惑わされて、己の役目を忘れることだけは決してないように」

「惑わされているのは、高蓮様のほうではないのですか」

 何を言われたとて、面に出すような人ではないことを鴛青はよく知っていたが、探るつもりで問いかける。案の定、高蓮の表情がちらとも変わることはない。

「私は時折、あなたを羨ましく思うのです。ただ、与えられたその運命(さだめ)を……、私はそこに至ることすら許されない」

「私が、羨ましい……?」

「―奪取早く行きなさい。羅刹の命が失われることだけは、あってはなりません」

 高蓮の穏やかな視線が、一瞬だけ冷気を帯びたのを鴛青は見逃さなかった。そして、それが僅かに紫苑の背を捕えていたことも。だが、それがどんな意味合いを含んでいたとて、本来の目的を遂行するためには、どちらの化け物にも命を落としてもらわねばならぬことだけが、唯一の真実であった。


 *


 亘化二年神無月十二日。


 策は仕事も手につかず、半分だけ開いた半蔀の向こうをぼんやりと見ていた。その先に別段何かがあるわけでもないが、策の視線はそこから動こうとせず、それはあの日紫苑に会った時から続いていることであった。

 紫苑に言われた言葉が、頭の中で渦巻いている。

 己の力量、仕事に対する誠意、何かを為すための覚悟。そのすべてが策には欠落していた。そんな自分を紫苑は見抜き、そして嘲笑った。この上ないほどの痛烈さを以って。だが、それゆえに策は突きつけられた現実から逃げることなく、向き合えているのだろうと思う。ああして、真冬の屋外で冷水を頭から浴びせかけるような冷徹さがなければ、策はいつまでもこの現実に気づかず、いや気づこうとすらしなかったに違いない。

 そう考えるとわからなくなる。紫苑が一体なんのために、自分にそんなことを言う必要があったのかと。

「策、元気にしていたか?」

 ひょいっと顔を出したのは、常と同じ暢気な顔をした浩然であった。「なんだ、元気なさそうだな。これでも食べて元気出せ」と言って、小脇に抱えていた荷物を、なんの許可もなく書類を勝手にどかした机の上に広げる。

「お前は本当に遠慮がないな……」

「そうか? 逆に策は色々考えて溜め込み過ぎだ。そろそろ、お悩み相談に乗って欲しい頃合いだと思いきたのだが?」

 溜息をつきながら、苦笑する。――浩然には、本当に敵わぬ。

 普段、ぐうたらでまともに仕事もせぬ癖して、その勘の良さはどこからきているのだと、つくづく不思議でならぬ。

「羅刹は、……本当に裏切ったのだろうか」

 ずっと喉元までせり上がっていた言葉がようやく音になる。そして、音にしてみれば、さらに疑念は確信に変わる。

「ずっと羅刹を疑っていたお前にしては、どうしたのだ? 花の色香に惑わされたか?」

「この私が惑わされるわけがないだろう……。実際、あれを間近で見ると、あまりにも人間離れしていて、むしろ恐怖を感じるくらいだぞ? というより、私が話したいのはそんなことではない。羅刹がどんな目的で、宋鴻様を裏切るような真似をし、かつての側近に何かを吹き込み、そして今、王に近づいているかということだ」

 なぜ宋鴻の許では駄目だったのか。なぜすでに廃位寸前の神宗に擦り寄るのか。なぜ、これほどまでに己を悪に貶める必要があったのか。

「だから、そこまで深く考えるなって」

 浩然は解いた荷物から飛び出てきた饅頭を頬張りながら、何食わぬ顔で肘を机につく。また饅頭を持ってきたのかと呆れるが、こればかりは浩然の好物のため文句は言えぬ。

「お前や長官も、というか他の誰もが難しく考えているが、案外単純な理由なのかもよ? ああいう向こう見ずな女に限って、無鉄砲に走り出すから、周りが首を傾げるのさ。……なぜ今それをするのかって、な」

「待てば、何もせずとも終わるのに……?」

 浩然が悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。

「そう。数年も待てば、すべてが終わった。誰も傷つかず、綺麗さっぱりな。いや、綺麗さっぱりとは言えんか。羅刹が動かねば、膿は隠れたままだったかもしれん」

 策の思考が、急に勢いよく動き始める。――何かが、頭の奥で引っかかっていた。

 待てば、すべてが終わる。確かにそうだ。今無理に行動を起こす必要などない。本来、紫苑は無精者で有名だったほどで、共に宋鴻の片腕を務めていた呉陽が、何度も尻を叩いてやってようやく戦いに出たとか。そんな紫苑が、これだけ無理を通す理由は――

「……――待たなかったのではない、待てなかった……?」

 そう呟いた策を傍らで見つめていた浩然が、待っていましたといわんばかりに満面の笑みで立ち上がる。

「ここで、策にお客様と対面を果たしてもらおうじゃないか」

 不審な顔をした策を流して、浩然はいそいそと扉を開いた。その先に立っていた人物に、策は思わず目を見開く。

「あなたは……!」


 *


 亘化二年神無月十日。


 邸の中の穏やかな風の流れに、私は深く息を吐いた。秋の訪れを感じさせる草木の色合いに、僅かばかりの癒しを求める。

 身体を休めろとひっきりなしに鴉が進言してくるため、仕方なく狩りの前の一休憩を受け入れたのだ。鴉が用意してくれた菓子は、文句を垂れるだけはあるさすがの美味しさで、一人舌鼓を打っていた。だが、廊下を走ってくる足音に気づいて、思わず顔が引きつる。

「紫! 嗚呼、ここにいたのか!」

 鴛青がよく好んで身につけている縹色に花菱が入った装束を翻しながら、意気揚々と私の隣に、私のなんの許可もなく座り込んだ。あまつさえ菓子に伸びかけた手を瞬時に叩き落とす。

「痛っ! 一つくらい、いいではないか」

「そなたに用意する菓子などない! せっかく一人で寛いでいたというに、またも邪魔するとは……、そなたはわたくしの疫病神か何かか!」

「護衛に決まっているではないか」

 ひょいっと菓子を横から掠め取られた。悔しげに歪んだ眉間を、鴛青は揉み解すように人差し指をつく。

「そんな顔ばかりしていては、せっかくの美貌が台無しだぞ。ほれ、笑え!」

 みょーんと両頬を摘ままれ、左右に伸ばされた。この私になんたる真似をしてくれているのだと、沸々と怒りが溜まる。それが頂点に達したとき、鴛青の顔面に向かって拳を突き出したが、軽く避けられた。

「そうだ、今日は紫のことを教えてもらう約束だぞ」

「斯様な約束などした覚えはない」

「なんだと? 昨夜、双六で負けた者は勝った者の言うことを聞くと決めたろう!」

「そなたが勝手に決めただけだ!」

「詰まらん! いいのか? 天下の陰陽師殿が、みみっちーい約束すら守れぬと言い触らされても」

「たとえ言い触らされたとて、誰も信じぬゆえ、わたくしに然したる害はない」

 今度は鴛青が脹れる番であった。もう一つ菓子を摘まんで、面白くなさそうに指で転がしている。その様を横目で見て、私はどうしようもなく溜息をついた。

 これだから鴛青といるのは嫌なのだ。高蓮は護衛だと言っていたが、この面倒な男のお守りを押しつけられただけなのではなかろうかと、最近は思っている。

「……何を知りたいのだ、早う申せ」

「教えてくれるのか!」

 瞬時に煌いた瞳に、犬かと呆れながらも私も自然と笑い出していた。常のような皮肉めいた笑みではなく。

「ただし、一つだけだ。それ以上は、びた一文まからぬ」

「一つか、うーん」

 顎に手を当て、本気で考え始めた鴛青を見て、ころころとよく表情の変わる男だと思う。

 日に焼けた浅黒い肌と袖口から覗く逞しい腕。黒々とした肩までの髪を結わずに垂らして、きりりとした切れ長の瞳は深い瑪瑙に似ている。若い女に限らず、人気が出るのも頷けるほど整った目鼻立ちをしているが、未だに浮いた話は一つもないときている。近頃は降るように舞い込む縁談話を断るのが、大変だとかなんとか抜かしていたが、「まあ、わたくしには関係のない話だ」と切って捨てたら、鴛青は今までにないほどぶすくれて帰っていった。

 その顔が何か閃いたのか、こちらを向く。突然だったため、鴛青を見つめていた視線とぶつかり、ぎくしゃくと視線を逸らす。

「なんだ、私に見惚れていたのか?」

「斯様なわけがあるか! 決まったのなら、わたくしの気が変わる前に、早う申せ!」

 くすくすと楽しげに笑いながら、鴛青はずいっと私のほうに膝を近づけた。

「では、一つ。貴女はこの世界をどう思っているのだ?」

 どんなふざけたことを言い出すかと思っていたが、あまりにも抽象的なそれに一瞬言葉を迷う。鴛青は、時折突拍子もないことを言い出すゆえに、この男の思考回路はどうなっているのかと、ほとほと呆れさせられる。

「どう、……と申しても」

「陰陽師とは、様々な事象や天文学的な知識を知り得、かつ貴女には先を見通す力もあるという。ならば、貴女の瞳には、この世界がどう映っているのかと思ってな」

「斯様なことを聞いても、面白くもなんとも思わぬがな……」

 そう言いながらも、脇息に置いていた指が思案げに動く。羅人が生きていた頃、二人でこんな話をして夜を過ごしていたことをふと思い出す。それが今は酷く懐かしい。

「世界は……ありのままを映す。人が望めば、闇にも光にも容易く転じる。そこに人が願うような神は、居ぬ。在るのはただ、人のみ。ゆえに、世界は常に滅びへと向かっておる」

「それは、人が諍いばかりを繰り返すからか?」

「それもあるがな。……滅びは、常に死と同義ではない。滅ぶことにより次代が訪れ、光が生まれる。されど、光は生まれたその瞬間から、次の滅びへと向かい……人の歴史は、常にそれの繰り返しであった」

 手を伸ばし、一つ菓子を摘む。指の腹でころころと転がしながら、一つ息を吐く。

「それを知っていても、人はまた諍いを繰り返す。愚かな生き物であるな「いいや、愚かであるからこそ、面白いのだよ」

 摺りかけた羽織をかけ直して、そっと顔を上げる。遠くに立つ桜を想う。

「愚かで、どうしようもなくて、滅んだほうがいっそ世界のためであるとわかっていても……、それでもいつの時代にも愚かな人間を救おうとする人が、必ず現れる。それを思い知るたびに、御心は人に傾く。何度人間に裏切られようとも、斯様な光に満ちた人を愛すゆえに」

「御心……?」

「神は居ぬ。されど、神は在る。神が人と同じ(かたち)をしているとは、人の傲慢の極みぞ。神は人間が在るよりもずっと、太古の昔からこの世界におられたのだ。人間のような愚かな生き物と同じであるはずがなかろう」

「では、その愛された人というのが、貴女のことなのか?」

 呆気に取られて、脇息から落ちかけた。

 私が神に愛された? そんな人間が血生臭い闇に、片足を突っ込んでいるはずがなかろうに。

「斯様なわけがなかろう。わたくしは、……罪人よ。己の欲望を叶えるそのためだけに、他のすべてを犠牲にしても厭わぬ、冷徹なる鬼よ」

「その欲望が、貴女をそこまで鬼にさせるのだな。……――その、愛された人を守るためなのか」

 二人の間に沈黙が落ちる。

 話し過ぎてしまったことを知るのは容易い。立ち上がろうと脇息から浮きかけた手が、鴛青に掴まれる。

「その手を放せ」

「放せば、また貴女は逃げるだろう」

 まっすぐに見つめてくる瞳に、いつもの逃げは通用せぬことに気づく。鴛青は気づかぬ間に、私に近づいていた。それが、今になって恐れすら感じるほどに。

「貴女は逃げる必要などない。――私は、貴女を裏切らぬ」

 その言葉に目を見張る。嘘をついているとか、そういうことではない。私はその言葉を――知っている。

 頬に伸びてきた大きな手に反射的に身体が震えた。冷たいままの私のそれとは違い、鴛青の手は陽だまりのように温かく、夢と現の狭間を曖昧に暈す。


「どうか、それだけは知っておいて欲しい。他の何を信じてくれずとも」

 大切なものを扱うかのように、そっと後頭部に手が滑り腕の中に包む。こんなことをすれば、また紫苑に怒鳴られると思ったが、なぜか今はそうしたい気分であった。無性に、紫苑に触れたくなった。

「……大切な、ものは」

 ぼろっと零れ落ちた言葉。それは罪の告白に似て。

「大切なものは、わたくしの手から……離れてゆく」

 紫苑は自分が鴛青の腕の中にいることなど、気づいておらぬようであった。突然に訪れたぬくもりに、無意識に縋りついているような。その姿はあまりにも痛々しくて。

「私には、貴女の本心がわからぬ。……大切なものが手に入らぬことを知っていてもなお、苦しみを糧にここに在り続けようとする、貴女の心が」

 そっと紫苑の身体を放し、初めて目にしたその揺れた瞳を覗き込む。

「貴女の命は、貴女だけのものだ。なぜそんなになってまで誰かのために生きようとする? 貴女だって、己の命を己のためだけに生きる権利が「わたくしは己のために生きるすべなど、とうの昔に忘れてしまったのだよ。……斯様なことは赦されぬのだ、罪人たるわたくしにはな」

 一瞬の瞬きの間に、紫苑は常の表情に戻っていた。突き放すように胸に置かれた手が、痛くて堪らぬ。なぜそんなことを思うのかすら、今の鴛青にはわからぬというに。

「そんな、はずはない……! 誰だって自分が一番大事で、他人のことなど二の次……。それが、人間というものであろう……?」

「なれば、わたくしはもう人ですらないのやもしれぬな」

 何もかもを諦めたかのように笑う。それはまるであの夜、桜の傍で初めて紫苑を見た時に感じた、底知れぬ絶望と似ていて、鴛青は酷い眩暈を覚えた。

「もうやめたってよいではないか……。なぜそこまで……」

 問いかけて知った。紫苑が自分を見る瞳に。懐かしくて、愛おしい。そんな感情を湛えた瞳に。

「それほどまでに、大切なものなのだ。己のすべてを、捨ててもよいと思えるほどに」

 その瞳は確かに鴛青を見ていて、確かに鴛青を見ていなかった。そんなどうしようもない事実を、それが何よりも鮮明に物語っていた。

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