交
亘化二年文月七日。
策は戸部において、かび臭い書物の中に埋もれていた。
「策……これだけ探してないのなら、もう無理じゃないか」
「たかが、この程度探しただけで、音を上げるな」
「僭越な、が、ら、この程度と仰られるが……、その程度を超えている!」
生意気な御史履行が鼻息荒く反論すれば、目の前に積み重ねていた分厚い書の塊が崩れかけた。慌てて手を添えたため崩れはしなかったが、策は溜まりまくっていた怒りと相まって、持っていた書で履行の頭を殴った。
「ぶつぶつ文句ばかり言うな! そんな暇があったら、一つでも多くの書を開け!」
「そう言われてもなー、ほんとーにこのすべてを調べるつもりなのか?!」
そういって指差したのは、まだ未調査のほうが断然多い、戸籍の束であった。連日夜を徹して、ひたすら戸籍を捲り続ける作業を続けていたのだが、部下らが投げ出したくなる気持ちもわかる。徹夜したとて、まだ半分も終わっておらぬのだ。
翁とかいう古狸は調べられなかったのではなく、実際のところ調べるのが面倒で、自分はそれをただ押しつけられただけではなかろうかと、先ほどからそればかり考えている。
「だが、お前の言うことも一理あるな……」
溜息をついて間食用の饅頭を手に取り、半分に割るのすら面倒でそのままかぶりつく。
紫苑の正確な年齢はわからぬゆえ、大体二十代前半であろうと仮定して、その頃に作成されたものから当たっていた。また、紫苑ほどの美女が都で有名にならぬはずはないため、情報が行き交うことの少ない地方から都に向かって見ているのだが、紫苑の足跡どころか、出生地や父母すらも戸籍から浮かび上がらぬのだ。
「相当など田舎で生まれたか、父母になんらかの理由があって、戸籍に記すことができなかったのか……」
「それか妖の類とか」
「妖?!」
履行の中でも、最も年数の長い浩然が、策の分の饅頭を横からかっさらいながら答える。
「嗚呼、策は知らないのか? 実は羅刹は天狗の娘で、だからこそ人間離れした妖術が使えるとかなんとか」
「なんとかって……、不確実過ぎる話だな……。その出処は?」
「さあ?」
がっくりと肩を落とす。昔から適当な男だということはよくよく知っていたが、そのあまりの適当さに一気に身体の力が抜ける。
妙に馴れ馴れしいこの男、浩然は、策の履行ということになってはいるが、実は同じ年に科挙に受かった一つ年上で、同じ地元の腐れ縁のようなものだった。科挙合格後、策はめきめきと頭角を現し、一番の出世頭となったが、それに反して浩然は適当にしか仕事をせずぐうたらばかりで、ついには冗官に落とされそうになっていたのを、策が包拯に頼み込んでぎりぎり履行として拾われたのだ。
その後も浩然の適当さが変わることはなかったが、変な勘のよさで事件の手がかりをちょくちょく掴んでくるため、底抜けの馬鹿ではないのだろうと策は思っている。
「どうせ、噂か何かだろう? 証拠のないものを御史は相手にしない」
「はいはい、お堅いこって」
饅頭を片手に、再び戸籍を捲り始めた浩然を見なかったことにする。劣化するからため、飲食しながらの閲覧は厳禁だと、あれほど戸部侍郎に念を押されたはずだが、完全無視を決め込むつもりらしい。策も気を取り直して戸籍を捲り始めるが、なぜか思うように進まぬ。先ほどの浩然の言葉が耳に引っかかっていた。
(妖だって……? そんなの噂に過ぎない。誰かが適当に作った話だ……)
民間に流布する紫苑に関する噂は、今や収集がつかぬほどであった。そして、そのほとんどが口承で人から人へと伝わってゆくため、最初は大した話でなかったものが、人を経るたびに誇張され、原型を留めなくなっていったものが大半である。おそらく妖であるとかいう話も、その原型を失った紫苑の噂話の一つに過ぎぬのだろう。にもかかわらず、策の思考からそれが離れなかった。
「証拠、証拠って文献にばかり頼るのも、一つの手なのだろうけど……、民間伝承っていう奴もあながち馬鹿にはできないと思うぞ」
そんな策に気づいてか、戸籍を捲りながら浩然が何食わぬ顔で話しかける。
「民は俺らがしている話のほとんどを知らない。だが、逆をいえば俺らも民の話をすべて知っているわけではないだろ? だからこそ、民だけが知り、民だけに伝わっている話もある。それらはくだらない噂話として切り捨てるには、惜しいものだと俺は思うがね」
「では、私に民たちの話でも聞きにいけとでも言うのか?」
「そういうこったな。こんなかび臭いところで無駄に時間を潰すより、そっちのほうがよっぽどいいね」
「無駄って……、なんかわかったのか?」
意味ありげに視線をうろうろさせる浩然に詰め寄る。浩然は読みかけだった戸籍を閉じて、にやりと笑った。
「多分、ここにはない」
広い書庫を見渡して、浩然はあっさりと言い放った。
「な、ない?! なぜそう言い切れる!」
「翁とかいう人物ですら見つけられないほどの情報が、こんなところにそっくりそのままあるわけないだろ。もし、本当に羅刹の戸籍なんてものがここにあったとしても、羅刹ならいつでもここへ忍び込めただろうし、その時にすべての情報が失われたと考えるほうが無難だ。まあ、これは戸籍があった時の仮定だがな」
「あった時?」
「策も、さっき戸籍がない場合の話をしていただろ。ど田舎説と父母に問題があった説」
「嗚呼、確かにしたが……、それは限りなく可能性が低い話だろう。それがどうした」
「実はもう一つある。戸籍がない理由がな。……もし、羅刹がこの国の生まれではないとしたら」
天啓を受けたかのように、策は衝撃に揺れた。なぜ今まで一度もその可能性に思い至らなかったのか、自分をぶん殴りたくなる。
「……この国の民ではないとしたら、戸籍に載っていないのにも説明がつく……! そして、あれほどの美女がそれまで騒がれてこなかったのも……」
「頭が若干柔らかくなったところで、もう一つ……興味深い噂話をしてやろう」
目まぐるしく思考を回転させ始めた策を楽しそうに見ながら、浩然は最後の饅頭に手を伸ばした。
「――羅刹の出処、について」
*
亘化二年文月十日。
高蓮は、夏の午後の日差しが差し込む自室で文をしたためていた。
「男の部屋を訪うなら、夜にしていただきたかったですね」
一瞬の風の変化と共に、漂う高雅な黒方。開け放った格子戸から降り注ぐ日差しを遮り、影を背負いながらその人はそこに立っていた。突然姿を現したことに一片の驚きすら見せぬ自分に眉をひそめ、蝙蝠を僅かに開く。
「少しくらい驚いたらどうだ? からかい甲斐のない男よ」
滑らせていた筆を硯に置いて、高蓮は紫苑を見上げた。どこまでも穏やかな表情をその顔に浮かべながら。
「そろそろ、私にお顔を見せにきてくださる頃だろうと思っておりましたので」
「別に、そなたに見せるためではないがな」
「そういう強がりを仰るあなたも悪くはありませんが、久方ぶりに会う未来の夫に、少しは情けを与えてやってもいいのでは?」
「まだ斯様なことを覚えておったのか。とうに時効だ」
吐き捨てられるように落ちた言葉にも、高蓮はなんら気にした様子は見せぬ。むしろ微笑みさえ浮かべて立ち上がり、怪訝な顔つきをした紫苑の手を取る。
「さて、私を篭絡しにきてくださったのなら、喜んであなたを迎えるところですが、……あなたの目的は御館様。嫉妬させたいのでしょうか」
「嫉妬するような感情が、そなたにあるとは思えぬがな」
氷の如く冷えた手を払い除けようとするが、高蓮はそれを許さなかった。逆にもっと強い力で紫苑を引き寄せ、腕の中に閉じ込める。反抗的な視線を向けた紫苑に、高蓮はただただ優しく微笑み、耳元で語りかけた。
「私以外の男に揺らいではなりませんよ。御館様がただでさえあなたに執着しているのは知っているでしょう」
「わたくしがあの男に揺らぐわけがなかろう。……無駄に耳元で話すな! 早う離れろ」
「おや? 耳が弱いのですね。……可愛い人」
力いっぱい高蓮を突き飛ばすが、高蓮は笑顔のまま性懲りもなく再び手を差し出した。
「ではいきましょうか、『白妙の羅刹』殿」
紫苑はその手を取ることもなく、鼻を鳴らして手酷く振り払った。
「何を企んでおるのかは知らぬが……、わたくしがそなたに望むのは、ただ死のみよ。のう、『死の軍師』殿」
妖艶な流し目を残して、部屋を出ていった紫苑の背を見つめながら、高蓮はくつくつと笑った。
「……情熱的な告白ですね」
*
趙佶はなんの前触れもなく現れた紫苑に、心底驚いていた。
「ひ、久方ぶりだな……! 相変わらず、見目麗し……いや、なんでもない……。それよりも、此度はどんな用件で参ったのだ?」
あの時とは違い、純白の長着を正しく身にまとった紫苑の姿は、一見麗しい男にも見えるが、袖口から垣間見える華奢な手首は、確かに女のそれである。――両方の性を兼ね備えた魔性の女。そんな女に趙佶が抗えるはずもない。そわそわと落ち着きがなく、節度使としての威厳よりも、突如舞い込んできた蝶に心を奪い尽くされそうになっているのが手に取るようにわかる。
「趙佶様にお情けを頂戴いたしたく」
「情け?」
「御意。どうかこのわたくしをここに置いてくださいませ」
趙佶の目が飛び出さんばかりに見開かれた。
昨今の朝廷の状況は、都から遠く離れた地方を拠点とする趙佶とて、よく理解している。ゆえに、今日紫苑がこの邸に現れたのも驚くべきことであったが、今まさに発された言葉はそれを軽く凌駕していた。
「訳をお聞かせ願いましょうか」
言葉を失った趙佶の代わりに高蓮が進み出る。すでに紫苑と顔を合わせていることなど、おくびにも出さずに。口調は相変わらず穏やかだが、その瞳はどこか愉しげである。次の言葉を言うことが、実に愉快だとでもいわんばかりに。
「あなたは宋鴻様にお仕えする身。……――主を裏切る、ということですか」
その場に緊張が走る。趙佶は無論、他の諸侯らも高蓮が発した言葉に、戦々恐々としていた。
それも無理はない。たとえ短い期間であったとて、彼らは紫苑の力を間近で見て、その絶大なる恐怖を、身を以って知っているのだ。その紫苑に正々堂々喧嘩を売るとは、さすが高蓮だと思いながらも、身の内に買う化け物が二人に増えたら、どれだけの脅威になるのかという畏れもあった。
「……高蓮殿も、わかり切ったことをお聞きになる。我らは同じ穴の狢ではありますまいか」
だが、彼らの思惑に反して、紫苑は高蓮同様一片の揺らぎも見せはしなかった。ふっと口元に手を当て、鈴を転がすように笑い出す。
「わたくしをここに置いてくださるのなら、趙佶様にとっての最善を必ずや叶えて差し上げると、お誓い申し上げましょう」
ここにいる誰よりも、紫苑は泰然自若としていた。「さ、最善とな?」と恐る恐る訊ねた趙佶よりもよほど。
「ええ。趙佶様の手に、……――至高の御位を」
息を呑む趙佶の斜め前で、高蓮は微笑んだ。次にくる言葉を正確に予測しながら、あえて問う。
「至高とは、空位になった大司馬位ということでしょうか」
「いいえ。斯様な中途半端な位など、趙佶様には相応しくございませぬ」
紅い唇が弧に歪む。伏せられた瞳が妙に艶かしく、蠱惑的な妖しさを湛える。
「――この国の覇権、を」
その瞬間、大げさな足音を立てて、武装した男らが部屋に雪崩れ込んできた。紫苑を取り囲み、剣が今にも抜刀されようかという緊張感。
「お前たち! 何をしているのだ! 女相手に剣を持ち出すとは何事ぞ!」
趙佶が慌てた様子で紫苑に駆け寄り、その背に庇う。
「私の命が聞けぬのか? 出ていけ!」
久しく聞くことのなかった趙佶の大喝に、男らは一瞬怯んだ。その内の頭らしい男が目だけで高蓮に了承を得ると、そのまま何事もなかったかのように引き上げていった。
「す、すまぬな。恐ろしかったであろう」
ほっと息を吐きながら、背に庇った紫苑を振り返ると、紫苑はいかにも儚げな少女のような風情で震えていた。「趙佶様……」と、細い指が頼りなさげに趙佶の衣に縋る。
「わたくしはどうも信じてもらえぬようです……。名残惜しゅうございますが、これもわたくしの不徳と致すところ。どうか趙佶様も息災で」
頭を下げ、立ち上がろうとした紫苑の身体が不意にぐらつく。条件反射で趙佶はその嫋やかな身体を抱き止めていた。
力を少しでも籠めれば、折れそうなほど華奢な腕。睫毛の奥に煌めく瞳。白く透き通る肌。間近で見る紫苑は、想像を絶するほどの美しさであり、趙佶は思わず口走っていた。
「よい。ここにいれば……よい。私がおぬしを守ろう。よいな、高蓮」
「――すべて、御館様のご意志のままに」
反論することもなく平伏した高蓮に、ほっとした表情を浮かべながらも、趙佶は名残惜しげに紫苑の身体を離した。
「もう少しおぬしと話をしていたいのは山々なのだが、これから外せぬ用があってな。……高蓮、彼女を迎える支度を」
「かしこまりました。では、お前たちは御館様の支度を」
高蓮が呼んだ小姓を連れ立って、趙佶はそのままどすどすと足音を鳴らして部屋から出ていった。次いで他の諸侯らもすべて席を立ったのを確認すると、紫苑は先ほどまでの吹けば飛びそうなか弱い雰囲気を一瞬にして払拭した。
「……なんぞ男共をけしかけた? また謀でも見つけたのか」
「謀など物騒な……。容易に御館様の懐へ潜り込むことができたでしょうに。それにあの様子では、私があなたに求婚した事実など、きれいさっぱり忘れているようですから、なおさらあなたの仕事がしやすくなったかと」
「臣下の女に手を出すとは、……まさに下衆よ。それにしても、なにゆえわたくしに協力するような真似を?」
心底嫌悪した表情で、紫苑は蝙蝠を仰ぐ。
「私はただ……、あなたを我が陣営に招き入れられる日を、夢見ていただけですよ」
「夢とな、そなたらしゅうもない。……そなたならわかっておろう。わたくしが意味もなくここへきたわけではなきことを」
「ええ、わかっています。あなたは『白妙の羅刹』ですから」
蝙蝠の裏で優雅に口元を隠しながら、紫苑は嗤う。それすらも花も恥らうほどの美しさで。
「なれば、なにゆえわたくしを受け入れる? そなたの主を窮地に追いやってまで」
高蓮の柔らかそうな額髪が風に揺れていた。常ならば、その姿をまじまじと見ることはない。だからこそ、こうしてみると伝え聞く高蓮像とはかけ離れた容貌なことに気づく。
少し茶色がかった黒髪に、印象的な切れ長の細い三白眼、女にも引けを取らぬつるんとした白い肌。微笑んでいるにもかかわらず、どこか無機質さを感じさせるのは、唯一高蓮像と一致する点ではあったが、どちらかというと生粋の武官で、無骨者の風貌を醸し出している趙佶のほうが、残虐非道という言葉がよく似合う。実際の趙佶は気の小さいどこまでも凡庸な男だが、人は見かけによらぬとはこういうことなのか。
「そうですね。あえて申すのなら、……下心ですよ」
虚を衝かれ、蝙蝠を扇ぐ手が止まる。
「さて、ご案内しましょうか。あなたのために、私の部屋の隣に部屋を用意しておりました。追々、あなた好みの調度品なども揃えさせましょう」
穏やかな表情のままで差し出された高蓮の手を一時注視して、だが紫苑はその手を取ることなく通り過ぎた。
「……わたくしは、誰とも馴れ合うつもりはない。そなただけではなく、生きとし生ける人間すべてと」
「失うのが、恐ろしいからですか」
翻った袖が高蓮に掴まれるのと、言葉が心を掴むのは同時だった。お互いの視線が交差し、言葉なき言葉を交わす。
「……いいや。情になど流されて、己を見失わぬためよ」
「情、ですか」
「嗚呼、そうだ。情があるからこそ、人は惑い苦しみ、道を踏み外す。……そう、そなたの主のようにな」
面白がる風でもなく、紫苑はどこにでもあるありふれた事実を語るように淡々と告げる。蝙蝠で口元を隠しているせいか、その表情を読み取ることはできぬ。
「左様ですか。それは残念ですね……」
高蓮の指が緩むのと同時に、紫苑はそこからするりと抜け出した。いっそ逃げるように、鮮やかに軽やかに。凛とした立ち姿に動揺を知ることはできぬが、揺れている髪がどことなく危うげであった。
「用が済んだならば、もう帰らせていただこう」
そのまま何の躊躇いもなく立ち去ろうとした紫苑を、最後にもう一度だけ引き留める。
「春になれば……、桜がよく見えるのですよ」
立ち止まった背に這う黒髪が揺れるのを、高蓮は珍しく表情もなく見つめていた。振り返って欲しいような、それでいて振り返って欲しくないような、そんな曖昧な情は確かに己を脆くするに違いない。
「ですから、明日こそは必ず部屋を一度ご覧になってください。きっと……、あなたのお気に召すことでしょう」
端正な横顔が、一度だけこちらを振り向こうとした。だが、その時遠くでカラスが唐突に啼く。何かを思い出しかけた紫苑の横顔が、それ以上こちらを向くこともないまま、紫苑は言葉なく立ち去っていった。
高蓮の背後からかたりと音がして、影が歩み出る。
「……羅刹の行動を監視しなさい。同じ過ちは二度と許しません」
影は、部屋から見渡す渡り廊下を無表情のまま歩く紫苑の姿に、一度だけ目を細めた。
*
先ほど戸部で浩然に聞いた衝撃的な噂の真偽を確かめるために、策は普段ならあまり踏み入ることのない場所を訪なっていた。
部屋に通された策は、物珍しそうに辺りをきょろきょろと見渡した。部屋全体がなんとなく薄暗く、隅に不思議な形をした球形の物体や見たこともない文字で書かれた書などが積み重なり、どう見ても通常の部署とは異なる様相を醸し出しているが――決して空気は悪くない。むしろ宮城のどこよりも、澄んだ空気に満ち溢れているような気さえする。策はそういった霊的なものに詳しくはないが、肌に触れる何かがその場所の清しさを教えてくれる。
「お待たせしましたのう、爺になると身体が言うことを聞かぬものじゃ」
顔を上げると、天井より幾重にもかかった重厚な布の奥から、一人の老人が姿を現した。身に着けた装束と佩玉でこの陰陽省の長官、静朔方であると知る。
「大変失礼だと知りつつも、突然の来訪をお許しいただきたく……御史台の公孫策と申します」
「硬い挨拶はよいから、椅子に座らぬかのう? 実は美味しい菓子が手に入ったもので、食べられるのを楽しみに待っておったのじゃよ」
「は、はあ……」
思っていた朔方の人物像とあまりにかけ離れていて、策は呆気に取られた。
どこぞの邸の縁側で、のんびり日向ぼっこでもしているような感じのただの老人じゃないか、と叫びたくなるが、こう見えても陰陽省をまとめる要であり、若い頃はそれこそ紫苑のような力を誇った陰陽師である。だが、卓に置かれた菓子をまぐまぐと美味しそうに食べる様は、どう見てもかわいいお爺ちゃんにしか見えぬ。
「あの、朔方様……」
「ああっ、儂ばかりが食べては悪いのう……。ほれほれ、策殿もおひとつ」
「は、はあ……」
にっこりと微笑まれては、中々無碍に断れぬ。渋々、菓子に手を伸ばす。二人して午後の穏やかな日差しの中で、菓子を食べ、茶を飲む。――策は自分が何をしにここへきたのかをつい忘れかけた。
「策殿が聞きたいことはわかっておるからのう、心配せずに茶でも飲みなされ」
ずずっと茶を啜りながら、朔方はのほほんと言った。
「近頃、朝廷を騒がしておる、『白妙の羅刹』こと紫苑様のことじゃろう?」
思わず茶を吹き出しかける。陰陽省を訪れた際、迎えてくれた次官に伝えたのは、調査の関係で知りたいことがある、のみであったはず。
「久方ぶりに占ってみたが、結果は上々のようじゃのう」
ふぉっふぉっふぉ、と満足げに笑う朔方にがくりと肩を落とした。
そうだった、ここは陰陽省だ。これくらいのこと朝飯前に違いない。驚いた自分が馬鹿らしい。心を落ち着かせようと一度茶を啜ってから、ここへきた本来の用件を話し始める。
「……ここへくる前に、一つの話を聞いたのです。それの真偽を確かめたい」
朔方は何も表情を変えなかった。もしや、その話の内容すらわかっていたのかと疑うが、朔方が発したのはそれとはまるで違うことであった。
「話すのは構わんがのう……。偏に隠された真実というものは、残酷であるがゆえに隠されておるのじゃ……。策殿は、誠にその先の未来を背負う覚悟があるのかのう?」
「その先の、未来……?」
怪訝な顔つきになった自分を見つめながら、朔方は空になった茶器を置く。その仕草の妙な静けさに、一瞬どきっとする。
「星の変わる時がきておるのじゃ。策殿の答え次第で星は変わり、未来の選択が変わる。まだその若さにもかかわらず、すべてを決めねばならぬとはのう……。運命は惨いとしか言えぬが、星の巡りを決めるのは、今この時しかないのじゃ」
天文学は基礎程度しか頭に入っておらぬため、朔方の話のほとんどが意味をなさなかった。陰陽省の仕事には星を読み、その結果からあらゆる未来を予測することがあると聞いたが、果たしてそれと同じなのだろうか。だが、なぜそれに自分が係わってくるのかがわからぬ。
朔方は策から目を離し、遠くを見つめた。過ぎた日々を思い出すかのように。
「……かつて、紫苑様がこの地に降り給うたその日……。国中の術者たちが、残らず震え上がったのを思い出すのう。……彼女の出現は、それほどの衝撃じゃった」
皺くちゃになった手で、もう片方の手をそっと撫でる。
これまでの長き時を、この陰陽道という特殊な世界に身を置いてきたが、まさか自分が生きているうちに本当に出会えるとは思っていなかった。だが、きっとこれこそが運命。
何百年も昔より、術者たちだけに言い伝えられてきた――一つの秘密。それをこの目の前の青年が知りたいという。その意味も事の重大さも、何一つわからずに。
「紫苑様自身でなくとも紫苑様と同じ人間が、いつの日かこの地に降り給うことは、遥か昔から定められておったことなのじゃよ。ゆえに、儂や他の術者たちも、今この時代に生まれ、待ち侘びたその時を共有できたことが何よりの栄えなのじゃ」
「も、しや……朔方様も他の術者の方々も知っておられて、それでもなお黙っていた、と仰られるのですか……?!」
「――それが、契約ゆえにのう」
脈々と受け継がれてきた古の契約。
陰陽省を出ておらぬ術者崩れは例外だが、陰陽省にて学ぼうとする者はすべて、始めにその契約を遵守することを誓わされる。大半の術者は契約が果たされるのを見ることもなく、生涯を終えてゆくが、稀にいくつかの時代で契約がなる時がある。そのたびに術者たちは契約を守ってゆくことの意義を知り、さらに契約の遵守を徹底させるようになっていった。そして、前回よりちょうど百年後に当たる四年弱前。ついに、待ち侘びたその時がきた。
「策殿は知っておるかのう? 新たに術者を志し、陰陽省に入ろうとする者が受ける誓いの儀を」
「知りません……というより、そんなことをやっていたなんて、公式な文書には何も……!」
「じゃろうなあ……その儀の内容は、陰陽省に属する術者しか知らず、またそれを文書にしたり、術者以外の者に漏らしたりすることは、絶対禁忌なのじゃよ。……万が一、術者以外の人間に漏らした場合、術者とその人間は例外なく抹殺される」
「ええっ?! で、で、では、私も……」
瞬時に青褪めた策を、朔方は笑った。
「安心するのじゃ。前途洋洋の若者を不必要に殺すほど、我らとて偏屈じゃのうない。……稀にあるのじゃよ、術者とはなんの関係もない、なぜこんな人間に? と思う者に、この秘密を打ち明けねばならぬ時がのう」
今月の始め、慣例の星読みを行った際、異常な結果が出た。
すぐさま緊急に密議が開かれ、朔方直々の占いが行われた。だが、当然星読みと同じ結果が出たことにより、満場一致でそれに従うことが決まったのだ。そもそも、それに逆らうことなど始めからできはしなかったが。
それでも、どうしても抗いたかったのは、契約をこれまで守ってきたのが自分たちであるということへの自負であった。何も知らぬ若造よりも、己のほうが相応しいと誰もが思ったであろうが、その傲慢で星の巡りを曲げるのだけは、術者として決して犯してはならぬ罪でもある。
「星がそうせねばならぬと言うのなら、我らはそれに逆らうことはできぬのじゃ。星の巡りを妨げるようなことをすれば、どんなことが起きるのか……我らは誰よりもそれを知っておるからのう。ゆえに、……覚悟はよいか? これから話すことは、策殿にだけ許されたことであり、どんな拷問を受けようとも、誰にも――たとえ上司の包拯殿や至高の御位に立つ王とて、話すことはまかりならぬ。そんな途方もない秘密を抱え続けることに、策殿は耐えられるかのう?」
その朔方の問いに、策はすぐさま答えを出すことができなかった。いや、絶句していたと言ったほうが正しい。
ここへきた理由は、ただ噂の真偽を確かめるためだけであった。にもかかわらず、一生己の中に背負い込まねばならぬ秘密を聞く覚悟はあるかと問われても、そんなものはあるはずもない。――だが、それは言い訳に過ぎぬとも知っていた。
ただ、策は怖かったのだ。秘密を漏らした先にある、死が。そして、今まで仕事のためならば、命をも懸けられると豪語しながら――実際、その場面になれば、逃げ出すことしか考えられぬ己の情けなさが。
「よいよい。そうすぐ決められるものじゃのうない」
朔方が黙り込んだ自分を慰めるように、最初に見せた穏やかな微笑みに戻る。策はぎこちなく笑い返しながら、朔方からその言葉が出て心底ほっとしていた。
「この問いに正解はのうない。儂は答えを与えてはやれぬし、決められるのは策殿だけなのじゃ」
「……少し、考える時間をいただけますか」
「星は変わり続けておる。ゆえに、それほど長く時を与えてやることはできぬ。……次の、望月までに答えを出してくれるかのう」
三日の時間を与えられたとて、答えが出る気はしなかった。そして、浮かぬ顔のまま退出の礼を取り、策は陰陽省を後にした。
だが、策はこの時決断を先送りにした己を生涯悔いることになる。
*
亘化二年文月二十七日。
紫苑は供もつけず、一人夜道を歩いていた。気だるげに見上げた空に月はない。
今宵は、新月。あれが事を起こすには、相応し過ぎる夜だ。
宣喜が放った殺人鬼は、今や制御不能の様相を呈していた。今の都でこんな新月の夜に出歩く人間はない。微かな復興の兆しを見せていた夜の都も、こうして人の姿が絶えれば、隠し切れぬ闇が浮き彫りになる。
伏せた瞳を路地の隅にやれば、それらはいくらでも目にすることができる。倒壊したままの家屋や乱雑に放り投げられた様々な滓。あばらが浮き出るほどに痩せ細った動物に、親を失った子どもの悲惨な末路。
光を失った世界は、ただどこまでも荒れ果ててゆく。まさにこの世は今失われている。希望という名の光が。
「……わたくしの背後を取るとは、大した度胸だな」
突如、紫苑に向けて伸びた手が結界に弾かれ、金切り声を上げながら影が後ろに吹き飛ぶ。ゆっくりと紫苑が振り返ると、影は見事に受け身を取って、何事もなかったかのようにぬらりと立ち上がっていた。
「ほう……。この程度ではびくともせぬか。では、これは耐えられるか」
短く言葉を唱えると、火焔を身にまとう大獅子が頭上に現れ、闇を劈くような咆哮をこだまさせた。紫苑の指がまっすぐ陰を指し示したとおりに、大獅子は一直線に影に襲いかかる。大獅子の獰猛な牙は影の肉に食い込み、腕を引き千切ろうとしたが、これで抵抗もできぬだろうと思われた影の右手が閃く。
大獅子が僅かに動きを止めたその瞬間、影の剣が大獅子の急所を違わず貫いた。大獅子の牙が緩んだ隙にそこから逃れ、鋭く伸びた爪で大獅子の目を潰し、完全に動きを止める。そして、あまりの躊躇いのなさで大獅子の首を一刀両断した。
「獅子の牙も効かず……、とな。一体、そなたは何者なのか。人間、であったはずだがな……。魂を売って、夜叉にでもなったか」
夜叉は獅子に噛まれたにもかかわらず、傷一つ負っておらぬようだ。紫苑の言葉に反応したのか、夜叉は理解できぬ言葉を叫び、紫苑に向かって駆け出した。だが、再び結界によって阻まれ、弾き返される。
「言葉を交わすこともできぬか……、ふむ」
顎に手を当て思案する間に、夜叉は幾度となく向かってくるが、一度として紫苑に届くことはない。その間に東の空が明るみ始めた。再びの攻撃で弾き返された夜叉は、太陽に向かって呪いの言葉を吐くかの如く絶叫し、地にうずくまった。
「何やらようわからぬが……、今宵わたくしの前に現れたのも、そなたの運命ならば、一思いに殺してやろう。何に囚われ、何を失い、そなたを斯様に変えてしまったのか、……この世はどこまでゆこうとも無常だと……わたくしに思い知らしたいのか」
何をしようとも、すべてが無駄だと言うのか。この無常に溢れた世界を救うことなどできぬと言いたいのか。
「光、永久なれ。かの者に憑きし鬼よ、去ね。――縛」
夜叉の力を封じ込め、命を断つ。何に絶望したとて、今の紫苑にできることはそれだけであった。
夜叉は俄かに苦しみ始め、しきりに絶叫を繰り返した。地面の上でのた打ち回り、口からどす黒い血のようなものを吐き出す。あと僅かで術は完成した。だが、その刹那――響くのは、その場に似つかわしくない声。
『たすけ、て』
(え……?)
少女に似た声が紫苑の耳に届く。はっと息を呑んだ瞬間に僅かに意識が逸れ、その隙をついて、夜叉は姿を消した。
「逃がしたか……。わたくしもまだまだだな」
やれやれと髪を掻き上げる。手を目の前で一文字に横切らせると、夜叉が破壊していった通りが跡形もなく再生する。「破壊するのはいいが、誰が元に戻すと思っておるのだ」と悪態を吐くと、無意識に膝が震えた。
「紫苑様、大丈夫ですか!」
風を擦るような羽音が響く。一瞬にして、カラスの姿から人に戻った鴉に紫苑は倒れかかった。
「この件については私にお任せくださいと、何度も申し上げたではありませぬか! このようになるまでなぜ……」
「……ふ。鴉が……迎えにきてくれるゆえ、ついな……」
「つい、ではありませぬ! その言い訳もこれで何度目だと思っているのですか!」
見かけによらず力強い鴉は、片腕で紫苑の肩を抱き、もう片方の腕を膝の下に差し入れて、ひょいっと軽く抱き上げた。次いで鴉の背から、黒々とした立派な翼が生える。焦ったように、「あと少しだけ、耐えてくださいませ」と告げると、紫苑を抱きかかえたまま、鴉は明け方の空に飛び立った。
邸に戻ってくると、こうなることを予想していたのか、褥と体力を回復させるための術式がすでに用意されていた。すぐさま褥に横たえられ、空間を遮断するために格子戸に手をかける。
「……今日は閉じないでくれ。風を……」
「ですが……「完全に『閉めず』とも、鴉ならば問題ないであろう?」
疲れたように笑った紫苑に、鴉は溜息をつきつつも、閉めかけていた戸を逆に開け放った。
季節はうだるような夏ではあるが、ここはこの世界にあるようでいて、ない世界。停滞した時と太古のままの清浄な空気の中で、外の世界とは季節も時も何もかもが違う。
そよぐ風の音を聴きながら、鴉の唱える言葉を静かに受け入れていた。それと共に胸の辺りに熱い流れを感じ、それが身体の末端へゆっくりと広がってゆく頃には、死人のように冷たかった身体に再び熱が灯る。だが、それも一時のその場しのぎでしかないことは、お互いによくわかっていた。
それでも、鴉が何も言わずに言葉を紡ぐのは、希望なのかもしれぬ。最後の時を最期にしたくないことは、その顔を見るだけで容易に知ることができたゆえに。
「……鴉、そなた……夜叉に会ったことがあるか」
一通りの術式が終わり、鴉は薬湯を運んできた。上半身を起こし、それを受け取りながら問う。
「夜叉、ですか……私も名を聞くだけかと。紫苑様は、此度のあれを夜叉だと?」
「わたくしも確信は持てぬが……。夜叉とは、元は人であったな?」
乾いた喉に薬湯が染み渡ってゆく。様々な薬草や漢方が混ざっているにもかかわらず、鴉の作る薬湯は不思議に不味くない。呑み終わった器を鴉に返す。
「ええ、夜叉は人が魔道に堕ちた成れの果て。契約を経て力を得るという点では私と変わりませぬが……、天狗は人の限界の箍を外し、己の力を最大限発揮させることにより、その結果様々な知識を得、力を蓄えることができるのです。ゆえに、天狗は元々素質のある者にしか契約の機会は与えられず、たとえ契約が実ったとしても、契約を交わした天狗に手遊びに殺されることや、発揮した己の力に耐えられず、自らさらなる魔道に堕ちてゆく者もおります」
「では、その天狗の末路が夜叉だと?」
「似てはおりますが、少し違います。堕ちた天狗もいずれは夜叉になるのかもしれませぬが、夜叉になることを自ら望み夜叉になる者もいるのです。その者たちは天狗になれる者と違い、基となる力を持ちませぬ。ゆえに、契約によって返ってくる代償の意もわからずに契約を交わし、性急に力を得ようとします。しかし、天狗と夜叉の最大の違いは、その身に鬼や妖などを招き入れることにあります」
「身の内に、招き入れる……。では、代償とは」
「ええ、命です。力なき者たちは、鬼などを寄生させるのに己の命を糧にするしかありませぬ。しかし、契約の際、鬼たちがそれをその者に告げることはない」
「だろうな。それを知れば、契約をしようなどとは思わぬ」
ふむと顎に手を当て、考えを巡らす。もし、先ほどの者が夜叉なのだとしたら、あの時聞こえた声も、寄生された人間の微かに残った意識であるということなのか。
「契約をした夜叉が、人に戻ることはできるのか」
もう一杯の薬湯を器に注ぎ、鴉はかたんと急須を横に置いた。白く細い指が、妖しく器を捕らえる。
「契約は、――絶対なのです。戻ることは決してできませぬ。たとえ、紫苑様のお力以ってしても。……夜叉になる者たちには理由があるのです。命を失うことまでには考えが及ばずとも、少なからず何かがあるだろうくらいは皆わかっているでしょう。それでも、力を得るのです。……望むことを叶えるために」
「なれば、そなたは得たのか。その望むものとやらを」
鴉が持ち上げた器を満たす薬湯が小さく揺れる。それでも、鴉は上手に感情を隠した。
「得ることができなんだのなら、私の生に意などありましょうか」
強く言い切り、微笑みさえ浮かべて鴉は薬湯を差し出す。
どこまでもまっすぐでいて、揺らぎのない芯の一本通った強さ。鴉のその迷いなき強さを、私も、そして羅人もまた愛していた。
「そうだな。つまらぬことを聞いた。もう下がってよい」
薬湯を受け取り、鴉は一礼して下がる。再び身体に流れ込む温かさに、私は静かに瞳を閉じた。
*
亘化二年文月二十八日。
「羅刹殿、今日は随分と顔色がお悪いようですね。昨晩、いかがなされたのです?」
話があると高蓮に呼び出され、渋々ながらもきてみれば、開口一番にそれを指摘された。私が夜叉の件を知らぬとでも思っているのか、いやこの男に関してそれはあるまい。
「夜道を歩いていたら、何者かに襲われそうになっただけよ」
「それはいけません。護衛でもつけましょうか?」
高蓮は書きつけていた筆を置く。その白々しい態度はどうにも面白くないが、仕方なく私も縁側に腰を下ろす。
「斯様なものは無用だ。己の身くらい己で守れる」
柱にもたれかかりながら、束の間息を吐く。今日はそれほど気温が上がっておらぬためか、日陰が心地よく、意に反して瞼が重く伸しかかる。しばらくすると床が軋み、高蓮が立ち上がったのがわかった。
「私の目の前で、そんな無防備な姿を晒してもよいのですか」
驚くほどに冷たい手が私の首を這う。弄ぶかのようなそれに、私は重い瞼を押し上げた。
「……少しくらい怯えた瞳をしてもよいものを。つまりませんね」
「いざとなれば、そなた一人くらい塵も残さず滅せるからな……。恐れるものなど何もない」
「あなたの容色は、どんな女人とて敵う者はないのに、残念なのはその気性でしょうか」
「わたくしの言葉に嘘偽りがないことを、今ここで試して欲しいようだな」
熱が移ることもなく、冷たい手が名残惜しげに離れてゆく。胸元に零れていた髪の一房を掬い上げると、触れるだけの口づけを落とす。
「なにゆえわたくしに触れる? そなたにとって、わたくしは葬るべき敵であろう」
「あなたが見るのは一つの事実であって、それが真実とは限りません。……確かなことなど、あなたは何一つ知らぬのです」
「では、わたくしは何を知らぬというのだ?」
高連は、口づけをした髪を戯れで指に巻く。実に愉しげに。
「……たとえば、私が今あなたの前にいる理由」
「そなたがわたくしを呼んだからであろう」
「それはあなたの見る事実。私の知る事実は、あなたの声を聴くため」
高蓮の冷たい手が再び私の頬に触れる。ゆっくりと壊れものを扱うかのようなその仕草が、どうも高蓮と結びつかず眉をひそめる。
「聴いてどうする? 声など、今までいくらでも聴いたことがあろう」
「見極めるため、ですよ」
「何を見極め「……――結末を」
高蓮は握っていた髪を突然引き、私は抗う間もなく高蓮に捕らえられた。頭を掴まれ、強制的に上を向かされる。
「いっそ、あなたをここで手にかけられたなら、私はやっと……誰にも手に入れられぬといわれていたあなたを、手に入れることができるのかもしれません。……そう、永遠に」
「それがそなたのいう結末か。わたくしをここで殺すことが」
怖れることもなく、不敵に笑い返す。高蓮の薄茶色の瞳を間近で覗き込むように。だが、その色は、妙に懐かしさを覚えさせた。遠い過去が蘇るような気がしたが、それを高蓮の声が遮る。
「いいえ……、やはりやめにしました。あなたの声が聴けなくなるのは惜しいですから。……私は、ただあなたの声に魅せられたのですよ。強く、気高く、誰にも曲げられぬ信念を持った、あなたそのもののような、その声に」
「それがそなたの下心か」
力なく高蓮は首を横に振った。
「さて、私にもよくわかりません。女性にこんな感情を抱いたのは、初めてのことですから」
「まったく、そなたも物好きよの。わたくしのような者に……初めて言われたわ」
微かに嬉しそうな色を浮かべた高蓮の瞳は、やはりどこか覚えがあるような気がした。だが、その答えは霞がかった記憶の向こうで、どうしても思い出すことができぬ。
「ならば、その声はただ私だけのものです。誰にも渡さない。――あなたをこの手で殺めても」
その声には、珍しく高蓮の感情が籠もっていたように思えた。静かに燃える焔のような、そんな熱い何かが。だが、その意味をこれ以上知りたいとは思わぬ。
「……なんと傲慢な。女は、皆そなたのような嫉妬深い男につき合うてやれるほど寛容ではないぞ」
「人は皆傲慢ですよ。だからこそ、あれもあなたを狙うのです」
突き放されるように高蓮の身体が離れる。その間際ですら、完璧なほどに表情を張りつけたままで。
「羅刹殿。あなたのその傲慢さで、あれを救ってやることができるのでしょうかね」
高蓮が何を指し示しているのかは、なんとなくわかっていた。柱から背を離して、立ち上がる。
「……さて、それを叶えてやるほど殊勝な者にわたくしが見えたのなら、そなたの目は案外節穴なのやもしれぬな」
戯れの会話にしては、妙に真実味を帯びた高蓮の物言いに微かに怒りを覚える。私に救えというのか。数知れず人を殺めてきた――この、私に。
嫌気がさして、乱雑な音を立てて羽織を翻し立ち去ろうとするが、冷たい声が引き留める。
「またいらしてください。その声を聴かせに」
まったくの悪気もなさそうな笑顔で、のうのうと告げた高蓮に怒りを通り越して呆れてしまう。この男は、諦めるという言葉を知らぬのかと溜息をつく。
「わたくしは、人と馴れ合うことはせぬと申したはずよ。……そなたの首は、いずれわたくしが貰い受ける。その時に情が移ったら困るからな」
「その程度で、手を止めるあなたではないでしょう?」
ふんと鼻で嗤いながら、紫苑は高蓮に背を向け歩き出した。
確かに、私を立ち止まらせるものはもう何もないと、嘲笑って。
*
亘化二年葉月四日。
「いつまでそうしているのだ! 陰陽省から帰ってきてからというもの、元気がないぞ」
手に一杯の資料を抱えて、策の自室に入ってきた浩然は、見るからに気力のない策を見て脱力した。始めは放っておくつもりであったが、一月経とうというにもかかわらず、腑抜けのままではどうにも扱いに困る。
「陰陽省で、変なものにでも当てられたか?」
わざと茶化しながら言ってみても、策の意識は思案の先に飛んでいったきりだ。溜息をついて、いつかのお返しといわんばかりに丸めた書で頭をしこたましばく。若干、強めだった気もするが、正気に戻すためには仕方がないとすぐに開き直る。
「痛っ!! 何をするのだ!」
「やっと正気に戻ったか? 戻ったなら、さっさと聞き込みにいくぞ。時間がない」
「……聞き込み?」
浩然は自分が持ってきた資料の山から、目ぼしいものを何点か引っ張り出すと、それを策に投げつけた。
「陰陽省からの収穫は期待できなさそうだからな、他を当たるしかないだろう」
陰陽省という単語が出た途端、策は再び顔を曇らせたが、浩然が強引に腕を引いて立たせてやった。下手に悩んでも答えが出ぬのなら、外で身体を動かすに限る。
「お前のお悩み相談は後でだ。最近の羅刹は何も行動を起こしてないが、逆にそれがきな臭い。新たな行動を起こされる前に、こっちも切り札を用意しないと」
「……それも、そうだな……」
朔方に言われたことが未だ頭の中でぐるぐると回って、それ以来何も手につかぬ状態であった。約束の三日はゆうに過ぎていたが、それでも陰陽省に向かう気になど到底なれぬ。自分はここまで弱かったのかと思うと共に、何かがちくりと己の胸を刺す。
だが、うじうじとそんなことばかり考えていると、再び浩然に頭を叩かれた。
「だから、何度も言わせるな! 悩んでいる暇などないぞ。その女は、羅刹の側仕えをしていた女だ。もしかすると、大ネタを持っているかもしれん」
「お前、なぜそんなに暴力的なんだ……!」
叩かれたところを擦りながら、先ほど浩然から投げつけられた資料を改めて見る。二人分の資料であったが、どれも紫苑の側近くにいた者ばかりだ。よくこの短期間で、それだけの情報を探せたものだと不覚にも驚く。そんな策を見て、ふふんと浩然は得意げに笑った。
「幸運なことに、あちらさんにお友達がいてね。情報収集はお手のものさ」
僅かに顔を引きつらせる。
(お友達って……。絶対、相手はそう思っていないと思う……)
文字どおり適当な男であるゆえ、相手はそれにつられてうっかり警戒を緩めてしまう節がある。確かに内偵に打ってつけではあるのだが、なんか胡散臭さが抜けぬのは、やはりその性格のせいに違いない。
にぎやかな浩然に急かされ御史台を出ると、外は夏のじめっとしたいつもの午後であった。だが、その刹那、吹き抜けていった風はどこまでも冷たく、策の背筋を凍えさせたのである。
資料にあった邸は、女の一人住まいにしてはそれなりに立派なものであった。
身寄りもなく天涯孤独と聞いていたが、植栽も美しく、家全体が妙に手入れが行き届いている。女の邸に訪れたことなど皆無に等しいため比較対象がないが、これほどまでに片づいているものなのだろうかとふと思う。
ほどなくして中から出てきたのは、小柄な若い女だった。おずおずと二人を見上げ、明らかに警戒している。
「怪しい者ではありません。御史台の公孫策と申します」
「『御史台』の……」
女の声色が妙に引っかかるような気がしたが、構わず策は話を続けた。
「捜査にご協力願いたいのです。調べによると、あなたは羅刹の側仕えをしていましたね? その過程で何か見聞きしたものはありませんか」
僅かに女が後ろに引いた足が砂利を引き摺る。その音が女の動揺を表していた。
「……知りません。私は、何も「そんなはずはないでしょう?」
すかさず追求しようとした策を浩然が止める。一瞬視線が交差し、その意図を悟って、策は一歩後ろに下がる。途端に元からへらへらした浩然の顔に、さらにへらへらとした胡散臭い笑みが浮かぶ。こうして、いつも情報を取ってきているのかと思うと、策は渋面にならざるを得ぬ。
「側仕えなんてものをしていると、主人の普段とは違う一面を見たりすることもあるだろう? 俺もな、仕えてくれている女がいるのだが、ある夜しこたま酔って帰ってきた俺は、親父の大事な壷を落としてぶっ壊してな、それを運悪くその女に見られて以来……、どうにもこうにも頭が上がらないのさ。あんたの主人にも、そんな面白い話の一つや二つあるだろう? 俺はそれが聞きたいねえ」
くだけた口調で話す浩然に、女は少し警戒心を緩めたのか、ようやくぼそぼそと話し始める。
「私は……羅刹、の傍仕えをしておりましたが、羅刹は……必要な時に突然現れることが多く、私も含め他の何人かの女官も、側仕えと申しましても、普通の側仕えのように用事を申しつけられることは稀でした」
「なるほど……。では、あんたはいつもどんな仕事をしていたのだ?」
「羅刹……から、の用事がほとんどないので、もっぱら呉陽様のお世話を……。ですから、私は何も知らぬと始めに申し上げたのです」
女は、やけに『羅刹』という言葉でつっかかった。話を聞きながら策は何か違和感を覚え、眉をひそめたが、その違和感が形を取ることはなかった。言葉では言い表せぬ、もやもやとした感情が胸の中で渦巻く。
「じゃあ、羅刹はあんた以外にも、どこかに側仕えを置いていたのかねえ」
その言葉は、冷静を装っていた女を僅かに揺り動かした。
動揺か。――いいや、その瞳に宿る感情は嫉妬だ。静かに燃え上がる高温の青い焔ような。だが、なぜそんな感情を抱く? 側仕えなど、この女の他に何人いても不思議ではないだろうに。
「……なんですって?」
「だってそうだろう? 羅刹もそれなりの地位についていた女だ。そういう奴が身の回りの世話を己でするわけがないだろう」
「羅刹は……人が嫌い、なのです。不必要に近寄らせるわけがありません……あの不思議な力で、どうにかしていたのでは」
それが、この場限りの嘘なのは明らかであった。浩然が呆れたように大げさに肩を竦めてみせる。
「まあ……知らないのなら別にいいさ。そうだろ? あんたは羅刹を何一つ、『知らない』」
「私は、ただ……!」
――引っかかった。
浩然は何一つ表情を変えることなく、女を揺さぶり始めた。
「あんたはさっき自分で言っただろう? 羅刹のことは何一つ知らないと。だったら、羅刹もあんたを信用しちゃいなかったのだよ。主人を平気で裏切るような女だとね!」
「ち、違うわ……そんな、……」
「いいや、何も違わないね! あんたは薄情で、薄汚い溝鼠みたいな女だよ。羅刹も賢明だ、そんな女は傍に置いておく価値すらない」
「そうじゃないわ……! 羅刹は、私を……!」
「これ以上、裏切り者と話していても時間の無駄だ。あんたは一生ここで楽して遊んで暮らしているがいい。この裏切り者の「違う!! 紫苑様の邸は、私のような普通の人間が入れるようなところではないのです! それに私は紫苑様を裏切ってなど……――っ!!」
女は己が口走ったことの重大さに気づいて、咄嗟に口を手で覆った。だが、発された言葉を取り消すことは、もはや不可能である。
満足げに伸びをした浩然が、よっこいせと言いながら立ち上がる。
「……だってさ、策」
「嗚呼、ご協力感謝する。香蘭殿」
「い、いいえ……! 今申したことは、嘘で……!」
ぼろぼろと零れゆく言葉は、否定の意をなしはせぬ。むしろ、さらに肯定するのと同じである。自らの失言に動揺し、瞳に涙を溜めた香蘭をその場に置いて、二人は無情にもその場を立ち去ろうとした。だが、最後に策が振り返る。決して良心ではない、私心で。
「私の履行が、あなたの名誉を辱めるような言動をしたことを深くお詫びします。何か言いそびれたことでもあれば、どうぞ御史台へ」
「誰が……、行くものですか……!」
睨みつけるように吐き捨てた香蘭の姿は、どこか紫苑を彷彿とさせるものがあった。彼女が紫苑の傍にいたのはそれほどの長き時ではないが、やはり主と似るものなのか。それとも、似ていたからこそ、紫苑は彼女を救ったのか。
「最後に一つ。……最近、羅刹はここを訪れましたか」
なんでもないことのように訊ねるが、先ほどから感じていた違和感の正体に気づいての問いであった。整えられた植栽の影に隠れて、小さな小さな紫の花がその存在を主張する。
「いいえ。――誰も」
だが、今度の香蘭は、小揺るぎもしなかった。精巧に作られた人形の如く、人の感情そのものを消している。見事、だと思う。その強さを、きっと紫苑も愛したのだろう。
「……そうですか。では、失礼します」
香蘭の瞳を射抜くように見つめてから、策は小さく会釈をし、その場を立ち去った。
「最後の問いはどんな意味だったのだ?」
「あの邸は綺麗過ぎた。綺麗好きといわれればそれまでかもしれないが、来客があったと考えるほうがずっと自然だ」
通りで待たせていた軒に乗り込みながら、浩然が何かに閃いたのかぽんと手を叩く。
「なるほど、それが羅刹か」
「嗚呼、そうだ。お前とのやり取りを聞いて、香蘭は未だ羅刹への忠誠心を失ってはいないと見た。そうでなければ、お前の言葉にあれほどの感情をぶつけはしないからな。ならば、そんな香蘭が邸を異常なまでにも磨いて出迎える客としたら……、まず十中八九羅刹しかいない」
「だが、香蘭はきていないと言った。……あの女、まだ他にも嘘をついているはずだな」
「それがどんな嘘かはわからないが、その内容は私たちの知らない事実に違いない。どうにかして聞き出せるといいが……あの様子ではな、お前やり過ぎだ」
浩然は頭を掻きながら、ぺろっと舌を出す。その態度に反省の色はまったくない。
「すまんな。苛め甲斐のありそうな可愛い娘だったからなあ……つい」
「ついで済ませられる問題か!」
「そうかっかするなって。俺のおかげでいいネタが取れただろう?」
そのとおりゆえに、面白くなくて策は黙り込む。浩然に負けた気がするのは、気のせいであって欲しい。
「羅刹の邸かー、きっとお宝情報がわんさかあるのだろうが……絶対入れないだろうな。そもそも香蘭さえ、どこにあるのかもわからなそうだったし」
「それに関してはもう諦めるしかないだろうな。それよりも、香蘭が最後に言いかけた……羅刹を裏切ってはいないということと、そして『紫苑様』と呼んだことだ」
それまでの会話で、やたら『羅刹』で引っかかるなとは思っていたが、言い慣れぬせいであったのだ。人は咄嗟の瞬間に素の自分が出る。『紫苑様』と呼んだのが素だとすれば、『羅刹』と呼ぶのは偽りということになる。だが、なぜそんな偽りを言う必要があるというのか。
「浩然……、次の人物は誰だ?」
「次の? ええっと、嗚呼……これだ。羅刹に拾われて、宋鴻様の護衛長になった男だ。名を祥然という」
「羅刹に拾われて、か……。浩然も、最低なところを突いてくるものだな」
呆れて肩を竦める。
紫苑に対する恩が大きければ大きいほど、その感情を操るのは楽だ。少しでも揺さぶってやれば、こちらが思った以上の情報を相手は落とす。決して褒められた手段ではないが、今はそんなことを論じている時ではない。
「そこから引き出される情報を得ようとするお前も大概だよ」
にやりと笑い返した浩然も、なんら罪悪感を抱いてはいなかった。そんなものを一々抱いていたら、御史などという職業をやってはいられぬ。
「それに……どうやら、こちらから出向く必要はなくなったようだしな」
「な、何を言って……――っ?!」
がくんと軒全体が大きく揺れる。何が起きたのかを確かめようと、軒についている小窓に張りつくが、そこから見えたのは策らが連れてきた従者たちが、一人残さず薙ぎ倒されている様であった。
「なんだ、何が起きているっ?! 浩然、お前知っていたのか!」
またもへらへらした笑みを浮かべている浩然に、必死になって詰め寄る。
情けない話だが、ここにいる我ら二人は文官だ。当然、武術のぶの字も知らぬ。万が一を考え、包拯が付けてくれた護衛すらも倒されてしまったのだとすれば、自分たちは文字どおり死ぬしかないではないか。
「大丈夫だって。御史である俺らに手を出したら、どうなるかわからないような馬鹿を、羅刹が傍に置くはずがないだろう? ……なあ、祥然さんよ」
「なんだと?!」
浩然を放り出して、再び小窓に張りつく。だが、そこに人の姿はない。どこにいるのだと目を凝らすが、その声は唐突に頭上から降ってきた。
「……これ以上、紫苑様を傷つけないでください」
静かで渋みのある声だ。その声からは、一瞬で従者数人を昏倒させるほどの覇気は感じられぬ。
何を言いにきたのかと思えば、策は呆気に取られた。紫苑を傷つけるな? 宋鴻や他の人間を傷つけているのは、むしろ紫苑のほうではないか。
「先に宋鴻様を裏切ったのは、お前の主のほうだ。そんな馬鹿げたことを言うためだけに、我らの軒を襲ったというのか」
「あなた方は何も知らない。紫苑様がどれほど傷つき、どれほど苦しまれて、今の道を選ばれたのか……。背負うべきものも決めかねたあなたに、紫苑様を虐げる権利があるというのですか」
一瞬、言葉を失う。朔方との会話が唐突に蘇って、息が詰まる。
「ならば、あんたもわかっているな? あんたのこの行動は羅刹を追い詰めるものであることを」
珍しく真面目な表情をした浩然が天井を向いて、言葉を失った策の代わりに続ける。だが、その浩然の問いに答えは帰ってこぬ。
「……そういうこと、か。それほどまでに羅刹は愛されているのか……」
開け放った小窓の向こうに、翻る黒い衣が見えた。己の命の危険すらも省みず、祥然がここへきたその意味――彼が最後に呟いた言葉が、複雑に絡み合った事件の最初の紐を解くのかもしれなかった。
『私は、あの御方を守りたいだけなのです』