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カパコチャについて


 では、もう少し掘り下げて。


 この物語の大きなテーマとなっている『カパコチャ』について、その解説と、私の見解をここに記したいと思います。


 カパコチャとは……


『インカ帝国において、皇帝の即位、戦争、天変地異などの重大事が起こったさい、異変が治まり国が安泰になることを願って、高山の頂上に子どもを埋めるという人身供儀のこと』



 スペイン人の記録にあったこの儀式の存在が、実在したものと証明されたのは、1995年、人類学者ヨハン・ラインハルトによって、ペルー南部、標高6300mの火山、アンパト山の頂上付近で氷漬けの少女のミイラが発見されたことがきっかけです。



 高山の万年雪の中で凍っていたミイラは、落石によって転がり落ち、顔の部分が日に晒されて乾いてしまっていましたが、身体はみずみずしいまま冷凍保存されていたのです。

 このミイラはその後、『フワニータ』と名付けられ、インカの風習を紐解く貴重な研究対象となりました。



 1999年、ひきつづきラインハルトは、アルゼンチンのユヤイヤコ山(標高6700m)にて、推定13歳の少女、推定6~8歳少年、少女の三体のミイラを発見します。

 この三体は、フワニータよりも状態が良く、生きて眠っているかのようです。


 この三体もまた、新たな研究対象となり、今日も研究が続けられています。




 童話版を公開していた昨夏、突如『カパコチャ』というキーワードに話題が集まり、本作品にもアクセスが集中したときがありました。


 ユヤイヤコ山の三体のミイラの体内成分の分析結果が出て、いずれも多量のアルコールとドラッグが検出されたとの記事が発表され、一気に世間から『常軌を逸した残酷な儀式』として注目されたのでした。


 この研究結果により、子どもたちはアルコールなどの多量摂取により神経を侵され、命を落としたが、神経が麻痺していたため、その表情が苦痛に歪むことはなかったのではないかと結論づけられたのです。

 そこで、『子どもの身体を麻痺させて命を奪うとはなんて残酷なんだ』という非難が集中したのでした。


 早速私は、このことについての反論をエッセイに認めました。

 それが、『カパコチャについての見解 ―童話カントゥータの赤い花に籠めた思い―』です。



 もちろん、子どもを犠牲にするというこの儀式の存在を始めて知ったとき、私も衝撃を受けました。


 高山の頂上で命を奪われ埋められた子どもたちは、どんなに恐怖を抱いて、どんなに孤独だったのだろうと。しばらく恐ろしくて『フワニータ』というキーワードを目にするのも躊躇われたほどです。


 しかし、その後いろいろと調べていくうちに、考え方が変わり、この神秘的な儀式に魅力を感じるようになっていました。



 フワニータは何年か前に来日しており、直接ご覧になった方もいらっしゃるかと思います。


 その頃も、そして昨年上記の記事が話題を集めるまで、カパコチャを否定的に捉える傾向はほとんどなかったと思います。

 むしろ、神秘的で美しいミイラのフワニータと、古代の謎めいた慣習に魅力を感じている人が多かったのではないでしょうか。

 この変化は何故でしょうか。



 執筆にあたり、インカ関連の事柄について多方面から調べ、講演会などで最新の見解などを聴くことができました。

 そこで、インカを含むアンデス一帯の文明の世界観が現代人が考るようなスケールではないことが分かりました。


 アンデスの人々は世界のあらゆる要素が循環しているものと考えていたのです。

 それは、宇宙から地球へ、人間や動物の体内へ、そして排泄物からふたたび空、宇宙へといったものです。


 具体的にいうと、


『天の川に流れる水は雲となり、雨になって地上に降り注ぎます。雨が地上の川、池、湖、そして海に溜まったり、流れたりしていきます。

 それらの水を植物が吸って生長します。動物や人間はその水を飲んだり、植物を食べたりします。動物や人間の体内から出た排泄物も、地上にある水もやがて、また天に昇って天の川を流れます』


 人の排泄物さえもすべてに循環する重要な要素だったのです。

(マチュピチュの王の間にある『水洗トイレ』は、この考え方から設置されたものでしょう)


ちなみに『コチャ』という単語は、すべての世界を行き来する『水』のある神聖な場所を指します。



 ここからは、私の憶測になりますが、人の魂も同じように捉えられていたのではないでしょうか。

 アンデスでは、『死』とは永遠の別れという概念ではなく、ミイラの姿で生者の身近に生き続けるものとされていました。

 おそらく現世を生きる人間と死者とは絶えずつながりを持ち続け、やがて循環するものと考えられていたのではないかと思います。


 地上に生きる人や動物や自然環境とのつながりも同じく、水平方向に大きく循環しているものと信じられていたのではないでしょうか。


 つまり、循環する大きな歯車の一端が乱れるとき、すべての循環が狂ってしまうわけです。


 しかし、自然災害や人間同士の対立など避けては通れない事態も発生します。

 そのとき、純粋な魂をより天に近い場所に捧げることで、大きな歯車をまた正常に戻そうとしたのではないでしょうか。


 この時代に生きた人々は暴力的で傲慢だったのではなく、まったく逆に、非常に臆病で繊細だったのでしょう。それは大自然というものがあまりにも壮大で、到底人智の及ぶものではないと熟知していたからなのでしょう。




 カパコチャの犠牲者が穏やかな表情をしているのは、アルコールとドラッグの成分による影響ばかりでなく、この子たちが、いえ、この世界に生きていた人びとが、現代人のような人間社会中心の矮小な視点ではなく、宇宙までも含む広い視野で世界を考えていたからではないかと思うのです。


 人の命を犠牲にするというその方法自体は、間違っていなかったとはいえません。


 しかし、すべてを安定させることを願い、この世でもっとも純粋で貴重なものを捧げるという覚悟が、当時の人々の誠意の表れなのではないでしょうか。


 現代は、人間にはとても都合の良い環境です。

 わたしたちは、すべてをコントロールできているように錯覚します。


 そういった『奢り』が、こうした昔の慣習を軽視し、単純に『厭悪すべきもの』として一蹴してしまうのでしょう。

 さらにネットの普及によって、言葉尻や強烈なインパクトのある単語だけに極端に反応するという傾向も加速しているのでしょう。


 私たちも、ときに大自然の猛威や、細菌の脅威などの前には、まったく為す術がない事を思い知らされます。同じ人間同士の争いも絶えることをしりません。


 人間の存在が非常に危ういものであると考え、自然のサイクルの中の一環として謙虚に、そしてその壮大な歯車を動かしている一端を担う者としての責任を果たすべく努力を惜しまなかった当時の人々から、私たちが学ばなければならないことは、多くあるのではないでしょうか。




                          2014.8

                                  作者拝

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