第一章
第一章
一年前。
教会の屋根は、すすけた赤銅色のかわらが規則正しく波うち、ゆるやかに地上へ裾を広げている。
屋根の上からは、遠くに黒々と森の影が、怪物のコブのように盛り上がるのが見える。
ララ以外の人間たちは、とうの昔に眠りの精に導かれ、柔らかな毛布の端をにぎりしめたまま、夢の世界へ旅立っているだろう。
こうして満天の夜空の下、目を醒ましているのは、夜に生きる獣とララ、そしてルーンだけだろう。
ルーンと会うときは、いつもこの屋根の上だった。
「ララ、あなたはやがて五感を失くすでしょう」
ある日、ルーンは世間話をするように、この話を持ち出した。
淡々とそう告げる口調は、いつにもまして深い静けさに満ちていた。
「覚悟しなければならないのです。五感は肉体を持つ人間のものです。肉体のない、つまり精霊の機能ではありません」
そう言ってルーンは、少し哀れむような目をララに向けた。ララの頭においたルーンの手先がゆるやかに動き、栗色のくせ毛の中で指が絡んだ。
ララはこのルーンの突拍子のない話に戸惑ったが、改めて言葉の意味を確かめねばならなかった。
「それはグミの実のすっぱさも、ニオイスミレの優しい香りも、清水の流れの冷たさも、朝を告げる鳥のさえずりも、いつか見たいと思っている海の青さもわからないという事?」
ルーンは銀河の輝きを放つ瞳でララを見つめたままゆっくりと頷いた。
静かな夜だった。屋根で腰をおろす二人の頭上には、覗き込むように大きな満月が輝いていた。
「ララ。私は人間に憧れています。この美しい世界を享受するあなた達を、心底羨ましいと思うのです。
ただ、ララ、そうだからと言ってそれほど、がっかりするわけでもありません。精霊には五感の代わりとなる「感応能力」があるのです。だから、ときおりは、こうして今のように、人間と身近に関われば、多少はララを通じて世界を感じられるのです」
「それでルーンは、突然私の前に現われて弟子にしたの?」
「そうですね。ララがいつも私を呼んでいましたから」
ララはルーンを仰ぎ見た。心の内は満足と感謝でいっぱいだった。胸が熱くなり思わず精霊のその仮の体に抱きついた。
「ルーンありがとう。ほんとうに来てくれるなんて、思ってもみなかった」
ルーンはしがみつかれたまま、何も言わず、じっとしていた。どうやらララが離れる気になるまで、そのままでいるつもりのようだった。
精霊に気づく人間はまれである。まして、傍でまじかに接することなど、ほとんどありえない。
ルーンは「風使い」と呼ばれる風を操る精霊である。
しなやかで流麗な姿形。憂いを帯びた輪郭に、新月を摸したような黄金の瞳が輝やき、長く深いまつげが黒々と影を落とす。
髪は、そぼ降る春雨のように細くプラチナ銀に輝き、そのかなりの長身を、覆うように包み込み、足首までも垂れている。だがその美しさは男でもない、女でもない。そもそも姿かたちなど無いはずの精霊である。それでもララの前に現われる時こうして「人間の姿」を好むのは、ルーンの人間への限りない憧れが、そうさせるのだ。
「多くの人間が、風になりたいと願っています」
ルーンは突然真剣な顔で、ララと相対した。
すでに幼子におとぎ話を語るような遠い視線は、その目から消失していた。
ふいに膝で組んだララの小さな手を、細く長い指を持つルーンの手が包み込む。そして真直ぐで、ためらいのない目がララを見つめる。まるですべてを見通すかのような老齢な賢人の目だ。
ルーンはさらに話を続ける。
「だが本当に風の弟子になろうと決意するものは、めったにいません。何故なら人間は、心の底では自分を本当に捨てたいなどとは、思っていないからです。実際、人間は自らの未来を創造する力を持ちます。それを明確に知る人間は少ないですが、多分、漠然と己の持つ力に気づいているのでしょう。ララあなたも真に望めば、出来ないことなど何一つないのですよ」
ララは自分でも驚くほどの声で叫んだ。
「わたしは自分を捨てられるわ!」
ララの抗議するような上目遣いに、ルーンの口元がほころんだ。
「ああ、愛らしいララ。あなたはまだ、たったの十四歳です。今朝降りた朝露のように純粋だから、信じたのでしょう。「風使い」となることが一番の幸せだと。でも、これから私と一年を共にし、あなたはたくさんの疑問を神に投げかけるでしょう。もしララがその経験の真の意味を理解するならば、あなたは宇宙の絶対的な法則に気づくことになる。果たしてその時にララが、私の役割を引き継いでゆくのか。それはとても難しい選択になると思います」
「そんなことないわ! わたしはルーンをがっかりさせない!」
ララはその憤りを抑えきれぬように、激しく頭を左右に振った。栗毛のカールが可愛らしく跳ねまわった。
心底憧れてきたのだ。ララは思った。毎日毎日、牢獄のような孤児院で、自由に吹く風をどれほど追ってきたことか!この湧き上がり胸焦がすほどの熱い想いをルーンは、わかってくれないというのか?
ララは半ば哀願するように、ルーンにしがみついていた。
「なりたいの。この肉体から抜け出して、自由になりたい!」
思わず、はるか頭上の月にさえ届かんばかりの声で叫んだララは、きっとこの想いはルーンを揺さぶり、ルーンは、ほだされるだろうと自ら確信するほどだった。
だがルーンの心の内は、まったく違っていた。この人間のとんでもない錯覚、大いなる勘違いを発見して驚くと同時に、人間の自分勝手さを哀れむのであった。
ルーンはララを異様な生き物を見るような目で覗き込み、不満を吐き出すように言った。
「自由に? たとえば無垢な子供の自由? それとも制約のない大人の自由? そういう具合に私と比べているのですか? ああ! あなた達人間は、こんなにも自由なのに、もっと自由になりたいという。そして皮肉なことに、私を見て自由だと言うんですね」
「ルーンの言っていることは、わからない」
ララは始めて見るルーンの底知れぬ冷淡さに震えた。
ルーンは、はっとして興奮を抑えた。
罪はどちらにあるのだろう? 人の心から「思い込み」という熱望を取り出したのは、自分ではないか? その責任の重さに気づいてルーンは、ララに当たったことを後悔した。
そして、数秒後には、ふたたび冷静さを取り戻していた。そうなのだ、自分で気づくしかないこともある。精霊も人間も。
「そうですね。とりあえずは、私についていらっしゃい。ララはララの言う自由を満喫していればいい。代わりに私は人間と親密に関わることが出来る。それは、あなたを通して五感を楽しめるという事です」
つづく