序章
序章
「風使い」の領域とは
空間と時間への関与
精霊は無限の時と何も持たない
人間は有限の時と肉体を持つ
人間は未来を選択する
精霊はただ、なりゆきを見守る
人間は精霊を恐れ敬う
精霊は人間に恋焦がれる
赤い石造りの家々が並んでいる。しっくいは剥がれ落ち今にも崩れ落ちそうである。
その建物の間をくねくねと小道が、海に向かって延びている。
水平線に溶け落ちようとする太陽が、晩秋の午後の光をカナリアの羽のように輝かせ、黒々とした長い影を作り出す様はまるで切り絵のようだ。
そのとき一陣の風が、怠惰な睡眠をかき乱すように駆け抜けた。
ララのこころは、いたずらを抑えきれないわんぱく小僧のようだった。裏庭のアヒルたちのど真ん中で、小さなつむじ風を起こしてみる。のんびり羽を繕っていたアヒルたちはパニックを起こし土けむりの中、つぶれたさけび声を上げて走り回った。
ララはそんなアヒルの柔らかな羽毛に覆われた尻を撫でると、その場から離れた。
次に目に入ったのは、銀ねず色のヒゲを持つ老人だった。
緑に塗られたドアのある玄関先の椅子に、半分ズレ落ちるように座っている。
老人はララの舞い上げた土ぼこりにも動じず、頑固なまでにシェスタをやり通していた。
ララは老人の年月から学んだ不動の姿勢に敬意を表して、眠り込む男の体を一回りすると、その色褪せてぐしゃぐしゃのヒゲに軽くキスをした。
キスをした瞬間、そのヒゲからくすぶった煙草の匂いがした。
だが老人は夢見心地のままヒゲを整えている。良い夢を! ララはそうつぶやくと老人に別れを告げ、さらにスピードを上げた。
もうすぐ海だ。
いっきに心臓の鼓動が高鳴る。ララはあらためて思った。自分は風だが、まだ人間でもあるのだと。
そうこうする内に街はずれに出た。
街門の半分壊れた扉がララの勢いで、いっきに開かれた。
ララの目に覚めるような紺碧の青が飛び込んできた。
そしてその青は世界の半分を支配していた。
ああ! この広がりが大海原と呼ばれるものなのね
ララの鼻腔に芳醇な潮の香りが広がった。
なんというこの色! なんというこの膨大なる水の量。
ララの知っている一番大きな池の何倍、いや何十万倍あろうか!
ララの胸にたまらないほどの、大きなよろこびが膨れあがり飽和した。
波の砕ける音が秋の冷えた空気をはらんで、海岸線上にあまねく響きわたる。
盛り上がったうねりが極限に達し、争うように崩れ落ちさらに砕けちる。その様をララは目を丸くして眺める。
なんという力強いエネルギー! この水を動かすパワーはどこから来るのだろう?
細かい砂の感触に触れながら、すれすれに地面を越える。身を切るような波しぶきを甘んじて受けながら、莫大な水量を湛えた海に出た。
水。水。どちらを向いても水だった。これがルーンの言っていた海なのだ。
初めて見る広大な水の陸。この世界はなんて広いのだろう。あまねく吹き渡る風さえも、ちっぽけに感じる。ララは拠り所のない孤独を感じて小さくふるえた。
眼下で海はどこまでもエメラルドグリーンに揺れている。
ああ、この色だ!
かつて母の胸元を飾ったであろう形見の宝石の色。そしてララの瞳の色。
初めて見る海が同じ色だったとは!
ララは震えるような感動をおぼえると同時に深く神に感謝した。
海原を堪能したあと、さらに半回転し天空を仰ぐ。
高さを持たない青い空間に吸い込まれていく。
空を切る。思いきり立ち上がった目前に、巨大な入道雲がせまる。その純白の輝きの厚みへ、ララは思いきって突っこんだ。とたんに雲は明けの浅き夢のように霞となって四散した。
さらに高度を上げる。空気が谷底の急流のように流れていく。凍えた空気の粒が、ララの肺胞で渦巻き、毛細血管へと流れ込み、身体の中で膨れあがる。
ジェット気流は、ララをはるか彼方、丸い曲線の果てへと連れて行く。その得も言われぬスピードに視界が蒼く滲んでぼやける。
そして、ちぎれ雲の間からは、数百もの波の角が、晩秋の長波長を反射するのが見えた。
その宝石のような光の角は、きらめきながら世界の終わりまで広がっているのだった。
水平線の輝き。
気流の冷たさ。
潮の香り。
波の砕ける音。
そして海水の塩辛さ。
そう、これが五感なのだ。今ならわかる。これこそが「人間」の持つ稀少な力。
ララはあらためて人間へ贈られた神の恩寵に驚嘆していた。
五感という人間の特権は――風の精霊の力を拝借しているとはいえ――いまだ十分機能しているのだ。
ララの耳にルーンの穏やかで優しい声が蘇る。
ララの師である「風使い」の声が。