神の一手
一
細くて、華奢な指だった。
おそらく、知らない人が見たら小学生の女の子と手だと勘違いしてしまうだろう。
とはいえ、きちんと切られてはいるものの、少しだけ雑な爪先が高校生の男の子らしさを感じさせてくれる。
子供の頃から知っている洋輔の指。
その指が、意外なほどの力強さでしなやかに踊る。
優奈は悔しさに声をあげそうになった。
優奈が守り続けてきた最も大切なものを、洋輔は力尽くで奪おうとしているのだ。
けれど、優奈は心の底で愉悦を感じてもいる。
洋輔がここまで本気になるのは自分だけだと言う優越感。洋輔の頭の中が、自分の大切なものを奪うことだけで埋めつくされているという陶酔感。
互いの前髪が触れるほど顔が接近しているのにもかかわらず、洋輔の瞳は優奈の大切なものを食い入るように見つめていた。どうしようもなく、欲しいのだろう。そんな様子が、ひとつ年下だとかそんなこと抜きにどうしようもなく可愛い。
突然、こちらに向けられる強い視線。
いよいよ決めに来るのだろう。洋輔の態度は一転して慎重になった。
細くて華奢な指は、優奈の大切なものが纏っていたものをはぎ取っていったときとは違って、ゆっくりと、優しく、それに触れた。
こんなときに優しくされても嬉しくなんかない。もっともっと荒々しく奪ってくれたらいいのに。そう思った。
が。気取られてはいけない。
自分はそんな女ではない。そんな女と思われたくない。
だから。さも無念そうに、口惜しそうに、抵抗をやめることを宣するための言葉を発する。身体の火照りに温められた吐息を、たっぷりと吐きだしながら。
「負けました。投了です」
「いや、王取られてから投了はねーだろ。フツーそこまでやるか? 俺以外の相手にやったら嫌われるぞ?」
洋輔はつまみ上げた優奈の王将を、食べ終わったアイスの棒でも捨てるかのように駒台へ放った。正座していた足も、すでに崩している。大切なものなんだからもっと丁寧に扱いなさいよ、と思いきり言ってやりたいが、自重する。洋輔の主張ももっともだからだ。
ルールを覚えたばかりの子供同士ならともかく、自分たちのように有段者の対局では勝敗がはっきりした段階でゲームを終了するのが普通だろう。少なくとも、ある程度優劣がはっきりした段階で、投了するタイミングを考えておくものだ。
もっとも、圧倒的に劣勢に陥って勝ちがないと思われるような局面でも、たった一手でそれをひっくり返すような手が浮かぶこともある。究極の逆転劇を呼ぶ妙手。対局のすべてが、その手のためだけに存在したかのような名手。言わば、神の一手だ。おそらく、将棋を指すものなら誰でもいちどは指したいと願うだろう。
「そろそろ美穂ちゃん来る頃でしょ? 感想戦する時間はなさそうだし、たまには最後まで指してみようかな、と」
美穂という名を出したとたん、洋輔がそわそわしはじめる。将棋を指しているときは、ほかのことをすべて忘れてしまう。好きな女の子ができてもそのあたりは変わらないらしい。
美穂は優奈と洋輔の近所に住んでいる子で、洋輔とは同い年だ。中学の頃から洋輔と仲良くなって、今は毎週土曜のお昼から同じバイト先に通っている。子供会などで顔を知っていたこともあって、優奈ともそれなりに仲がよかった。頭の後ろの低いところで髪を二つに結っていて、そのちょっと子供っぽい髪型が小柄な身体によく似合っている女の子だ。いや、小柄な体型を生かすためにそういう髪型にしているのだろうか。
いずれにしても、洋輔は背が高くて、ショートカットの自分よりも、そういうタイプに弱かったということだ。最近バイトの帰りが遅くなったし、バイト以外の日もふたりであちこち出かけているらしい。
「いや、まだ十分くらいあるし。それに、来たらメールよこすだろ」
洋輔は、言いながらも窓の向こうに見える自分の家にちらりちらりと視線をおくる。気にしているのが丸わかりだ。
「十分じゃたいした感想戦できないし、そろそろ家に戻って待ってたら?」
感想戦というのは、終わった対局をふり返って指した手の良し悪しを検討し、局面ごとの最善手を探す作業のことで、自分のレベルを上げるためには勝ち負けなんかよりよほど大切なことと言える。
「優奈姉、今日は珍しくいい将棋指したから、時間かかったしな。オレに勝てる日も近いかもよ?」
洋輔の口ぶりは、少しさみしそうに、でもとても嬉しそうに聞こえた。実は、将棋を始めてから、優奈は洋輔に数えるくらいしか勝っていない。しかも、勝ったのは駒の動かし方を覚えた頃の話だ。
それが辛くて、強がってみせる。
「言ってくれるじゃない。あんたが強くなったのは誰のおかげだと思ってるわけ?」
「誰って、優奈姉の親父さんのおかげだろ。将棋を教えてくれたんだから」
「ふーん、とぼけるのね」
洋輔が動揺を隠そうと目をそらした。
たしかに子供の頃の優奈と洋輔に将棋のルールや勝つための考え方を教えてくれたのは父だ。だから父のおかげというのは間違いではない。しかし、洋輔に強くなろうという動機を与えたのが誰かと言えば、それは……。
「いいわ。美穂ちゃんに教えちゃおうかな。あんたが頑張ったのは、私にだっこしてもらうためだって」
「ば、ばかいえ。勝ち誇って優奈姉を椅子にしてただけだろ。それに美穂は関係ねぇし」
「じゃ、美穂ちゃんにもそう言い訳なさいな。信じてもらえるといいねー」
言いながらベッドの上の携帯を手に取る。
「ちょ、待て待て待てえ」
洋輔がのばしてきた手をスルリとかわし、立ちあがる。
「うそよ。でも、ホントになるのが嫌なら、片づけておいてね、駒と盤。私は喉が渇いたから下でジュース飲んでるから」
返事を待たずに自分の部屋を出て階下に向かう。後ろで洋輔がなにか言っているのが聞こえたが、知らぬふりをした。
いつからだったろう。洋輔がだっこを求めなくなったのは。もちろん最近のことではない。小学生高学年になる頃にはやめていたように思う。
はたして、今洋輔をだっこしたらどうなるだろう。シャレではすまないような気もするし、シャレにしかならないような気もする。
つまらないことを考えながら階段を降りると、窓のむこうに洋輔の家の玄関先に佇んでいる美穂が見えた。美穂は土曜のこの時間が、優奈と洋輔の将棋の時間であることを知っている。いつもはやめにむかえに来るのだが、それを邪魔しないために、携帯で到着を告げることもなくひたすら待っていたのだ。今日はいったいどのくらい前から来ていたのだろう。
胸が痛んだ。
こういう子なのだ。
好きな男の子が自分以外の女の子と部屋にふたりきりでいたとしても、なにも言わずじっと待っている。いい子だ。洋輔が惹かれたのは髪型でも小柄な身体でもない。人柄なのだ。なのに自分は。
みじめだった。
必死に粘って対局を長引かせたのは、なるべく洋輔を引き留めていたかったからだ。
昔と立場が逆転していた。
子供の頃は洋輔が優奈と一緒にいることを欲して強くなった。その結果、優奈は洋輔にもう何年も勝てていない。
今は自分が洋輔と一緒にいるために強くなる必要があった。簡単には負けないように。早く終わらせようとする強引な攻めを、いなし続けられるように。
けれど、今日の優奈の時間は終わりだ。
こちらは潔く投了を告げなくては。負けを認めたくなくとも、嫌われてしまうのは本意ではない。
重力の存在を存分に感じながら携帯を持ち上げ、美穂を呼び出そうとすると。
美穂が携帯を持ち上げるのが見えた。じっと、二階の美穂の部屋を見据えながら言葉を発している。真夏のソフトクリームのように、硬い表情がトロトロと緩んでいくのがわかった。
残念。投了を告げさせてはもらえなかったようだ。けれど、対局後に無言で立ち去ることは許されることではあるまい。リビングに移動してソファーに倒れ込むように腰を下ろしながら、手短にメールを打つ。
せめてもの意地を見せる形作りの手にもならないかもしれないが。
『終わったよ。遅くなってゴメン。バイト、頑張って』
送信すると同時に、携帯を重力にまかせた。
携帯はいちど軽く弾んで、ソファーの上に落ち着いた。
二
どこだろう。
悔しい思いを抑えながら、必死に記憶をまさぐる。
どこかにあったはずなのだ。自分が勝利者となる道筋が。
ひとり自室に戻って、洋輔が隅に片づけた盤と駒を部屋の中央に置く。
先手後手、両方の駒を丁寧に並べた。ひとり感想戦だ。
手合は平手。ここで有利不利があるはずはない。
先手は、自分。統計的に見て先手の勝率が若干高いのだから、当然これも不利なはずはない。
初手7六歩。ごくありきたりの手。プロでもアマチュアでも、よく指される第一手はせいぜい二、三通りだ。ここでも形勢は不明。
でも、もし将棋の神様がいるとしたら、この手を敗着と指摘したりするのだろうか。だとしたら残酷だ。はじまりの瞬間から、負けを運命づけられているなんて。その後の指し手は負けるための道筋をたどっていくだけになるのだから。
意味のないことだ。そんな結論は出ていない。
優奈は目を瞑って首を大きく横に振って雑念を振り払う。
第二手。後手洋輔の手番。8四歩。居飛車党の洋輔としては自然な手と言える。
第三手。6六歩。飛車を振るための準備。優奈の得意戦法だ。
しばし、定跡どおりの手が続く。マンネリだが、気を抜いていいわけではない。どちらかが定跡をはずした攻めを仕掛けることもある。
「こうしたら、どうする?」「このタイミングは使い古されてるよ?」といったかんじで、相手の知識や経験を探るのだ。もっとも、優奈と洋輔の場合は相手を知りすぎているから、定跡外しをやるときはマンネリ脱却という意味あいが強い。
やがて、駒がぶつかりあう。
まずは小競りあい。
「ここで一気にいくか……も?」「じゃあ、正面から受けとめてあげようか……な。でも、そんな正直な攻めをとおすのもちょっとしゃくな気もするね」無言の会話だ。強気にいくふりをして、すっと退いてみたり、誘いの隙をつくって自分のペースに引きこもうとしてみたり。主導権を握ろうと、虚々実々の駆け引きが続く。優勢劣勢の天秤は一手ごとに小さく揺れ動いて、とどまることはない。
そして、中盤から終盤へ。これといった悪手はみあたらない。それでも、いつのまにか形勢は思わしくない方向へと傾いていく。それも、急速に。
わからない。どこ? どこがいけなかったの?
洋輔の玉将を手に入れることができなかった以上、どこかで敗着を指しているはずなのだ。むろん、それを知ったところですでに終わった一局の勝敗をひっくり返すことはできない。けれど。
それがわからなければ、自分を責めることもままならないではないか。
終盤、優奈はこれ以上ないと言うほどの粘りを見せるが、洋輔が決め手を放ってからは一本道だ。もう手を変えようがないし、無理矢理変えたところで終局をはやめるだけでしかない。
結局、どの手が悪くて負けたのか、わからなかった。
どこも、いけないところなんてなかったってこと?
あり得ない、けれどとても甘美な可能性を思い浮かべながら、その結論に溺れたい自分に気づく。
ばかげている。
勝利へと続く糸は、どちらにも垂らされていたはず。手繰っていたはずの糸をどこかで手放したからこそ、こうしてひとりで感想戦などしているのだ。
自問自答の末、ある答えにたどり着く。
自分に敗着があったことを認めたくない? いや違う。負けたこと自体を認めたくないから、無意識に敗着を探さないようにしている?
認めたくないが、それは正着のように思えた。
三
次の土曜も、優奈と洋輔は盤をはさんで対峙していた。
カレンダーで言えば夏服から冬服に衣替えする時期だというのに、よく冷えたアイスティーが恋しくなるような暑い日だった。
ぱちり。
どこか、刺々しい駒音が響いた。
洋輔が指した駒音だ。
原因はわかっている。
優奈のとった戦法が、穴熊と呼ばれる、堅く王を囲って簡単には負けないものだからだ。簡単には王手がかからないし、攻略に時間がかかるから、どちらかと言えば嫌われる陣形だ。まして、今朝は洋輔が寝坊したために、差し始める時間が遅くなった。それを考えればとるべき戦法ではない。
優奈は時間をかけずに次の手を指す。
美穂がむかえに来るはずの時間から、五分が過ぎていた。
どうしてそれほど経験のない穴熊を、こんなときに指してしまったのか、後悔の念が優奈を苛んでいた。
洋輔は、長考に入っている。
「もう時間だよ」
先ほど、恐る恐る洋輔にそう告げたが、最後まで指す、と抑揚のない声で返された。
自分勝手だとわかっているが、まだ途中のこの対局をやめたいと思った。
隠れて、おしりの後ろで携帯を操作する。
洋輔の家の前で待っているだろう美穂にかけるのだ。
ここに来て、洋輔を止めてくれるよう。
呼び出し音が鳴っているはずの携帯を、そろりそろりと耳にあてた。
「なにやってんだ?」
洋輔が、怒気を孕んだ声で咎める。
「美穂ちゃんを呼ぶの」
「やめろ。バイトはまだ間にあう。最後まで指す」
「でも……」
「やめろって言ってるだろ」
強い視線が、優奈を射すくめる。
凍りついたようなふたりの間を、時は忍び足で通り過ぎていく。
その間も、呼び出し音は続いていた。
震える呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
呼び出し音はまだ続いている。
おかしい。
携帯を耳から離し、携帯のモニターを確認する。
目で確認せずにキーを押したから、何か操作を間違えたかと思ったが、そうではない。きちんと美穂の名前が表示されていて、呼び出していることを示している。
異変に気づいたのか、洋輔も膝立ちでこちらに歩いてきて、携帯をのぞき込む。
それでも、呼び出しは止まらない。
ふたりして目を見あわせ、弾かれたように立ちあがって窓に駆けよった。
目に入ったのは、洋輔の家の玄関先でしゃがみ込んでいる美穂の姿だった。
四
「ごめんなさい。対局、途中だったんでしょう?」
ベッドに横たわった美穂が、ぽつりとつぶやく。
声と呼ぶのがためらわれるような、消え入るような語調だった。
じっと顔を見つめていなければ、気づかなかったかもしれない。
申し訳ないという気持ちが痛いほど伝わってくる声音に、胸がえぐられる。
もしかしたらじっと見ていたことが、美穂を追いつめていたのだろうか。
あわてて視線を逸らすが、もう意味をなすまい。後悔は、自分の登場が最大限の演出効果を発揮するよう、出番が回ってくるまではひっそりと舞台裏に身を潜めているものなのだろう。
洋輔の家の玄関先で熱中症を起こしていた美穂を病院に運んだのがほんの一時間前。症状が重ければ点滴を受けたり入院したりという処置が必要になることもあったが、幸い症状が軽かったことから水分などの補給によってすぐに回復した。運が良かったのだろう。それでも、医者から言い渡された安静の言いつけを守り、美穂は自宅のベッドで体を休めているのだ。洋輔は病院まで付き添ったが、心配がいらないことを知ると、後のことを優奈にまかせてバイトに向かった。今頃は美穂の分まで仕事に励んでいることだろう。
タオルにくるまれた保冷剤を、美穂のわきの下から持ち上げる。大したことではないが、少しでも罪滅ぼしになればと思った。
「ごめん。謝らなきゃいけないのは、わたしのほう。待ち合わせしてるって知ってたのに、洋輔に持久戦を仕掛けた。美穂ちゃんが待ってるって……始めるのが遅れたから時間がないってわかってたのに……」
「そんな……あれは使っちゃダメ、これは使っちゃダメとか言ったら、将棋にならないじゃないですか。わたしのことは……気にしなくていいんです」
言葉とはなんて偉大なのだろう。
考えや気持ちは、言葉にすることで誰かに伝えることができる。その上、言葉と言葉の間に存在する刹那の無音が、言葉以上の雄弁さを持ちうるのだ。たとえ本人が必死に隠そうとしたことでも。
「ごめんね。本当にごめん。でも……もうすぐ勝てそうだから」
「え?」
美穂が、怪訝そうにこちらを伺う。
「洋輔に勝つのが……わたしの当面の目標だったから」
嘘だ。
「……はい」
美穂にはそれがわかったのだろう。ゆっくりとうなずいて、続ける。
「勝ったら、どうするんですか?」
「洋輔と指す意味はなくなるかな」
息を呑む音が、聞こえた。
「でも、でも勝ったからって急に指さなくなったら、洋輔、変に思うんじゃないですか?」
「まあ、勝ち逃げはずるかもね。たまーに指すことはあるかもしれないな」
「やめてください!」
突然の大声。美穂が上半身を起こして、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「わたし……将棋指せないから……将棋指せる優奈さんがうらやましくて……だから、いつもはやめにひゃう――」
美穂の言葉が中断したのは、むき出しの保冷剤を首筋に押しつけてやったせいだ。タオルから取りだした保冷剤は、美穂の体温で柔らかくはなっていたが、驚かせるには充分な冷たさが残っていた。
それ以上のことは言わせる必要はない。
いや、言わせてはいけない。
「ちゃんと寝てなきゃダメでしょ? 新しい保冷剤、もってくるね」
立ちあがってドアへ向かい、いちどふり返る。
「ずっといい友達でいようよ、ね?」
美穂の目から、光るものがこぼれ落ちるのが見えた。
五
「オレに勝つとか言ってたらしいな」
少し違うと思うが、まあかまわない。
「うん。そのつもり」
次の土曜、いつもと同じように対局は始まっていた。
「勝ったらもうオレとは指さないって?」
「うん。そのつもり」
表情を変えず、同じ言葉を繰り返す。
勝負事は表情を読まれたらダメだ。
「なんでさ?」
業を煮やした洋輔が、少しとげのある声で聞いてくる。
「自分より弱いのと指しても仕方ないじゃない?」
「ふん、言うねぇ。けど、まだオレには勝てないと思うぜ?」
たしかに、今日の洋輔の指し手はいつも以上に厳しい。一手一手が、刃物で切りつけられるような鋭さを持っていた。中盤、すでに洋輔が相当指しやすい局面になっている。
「美穂に、なにか言われたのか?」
「なにも言われてないよ。美穂ちゃんは、わたしと洋輔の将棋に口出しするような子なの?」
洋輔は、一瞬強い視線をこちらに向けたが、すぐに盤面に目を落とした。
「優奈姉は、これからもずっと、オレと将棋を指したいんだと思ってた。だから、オレはずっと優奈姉の相手をしてやろうと思ってたのに」
まっすぐな言葉。正直すぎて、どこかにオチがあるのかと探してしまいたくなるくらいだ。優しいんだか馬鹿にしているんだかわからない。そんな洋輔だからこそ、ずっと将棋を指したかったのだ。そう。将棋を。
負け続ければ、ずっと指せるかな? ちらりと不埒な考えが頭をよぎるが、意を決して振り払う。それは最善手ではない。
焦らず、洋輔の攻めをじっと受ける。
たしかに洋輔が指しやすい局面で、どちらの手番を持ちたいかと言われたら、大抵の将棋指しは洋輔側と答えるだろう。
けれど。
自分は最善手を指している自信があった。
自分にとっても、洋輔にとっても、美穂にとっても。
不思議と負ける気はしなかった。
パチーン。
洋輔が叩きつけるように駒を盤面に打ち下ろした。
いよいよ決めに来たのだ。
洋輔の責め駒が、優奈の王将に迫っていた。
守りの駒もほとんど剥がされて、優奈には攻めを打ち払う手立ては残されていなかった。後は逃げるしかないが。逃げるにも、後ろは狭く、追い詰められるだけだろう。
一手空けば……優奈に攻めの手番がまわってくれば、逆転できるのに。
全身全霊をかけて、逃げ道を探す。
退がれない。
そう。現実に向きあわず、退がってばかりだったから、今まで負け続けてきたのだ。
前に。
前に。
その時、電撃のような衝撃が、優奈の身体を貫いた。
一本の道筋が見えた。
洋輔の責め駒の脇をすり抜けて、前へと進む道。それをすることで、働いていなかったすべての優奈の駒が守りに攻めに、効いてくる。
確信と、勇気を持って、前へ。
パチ。
静かに王将を盤面に置いた。
洋輔の呻き声が聞こえた。
「こんな手が……」
勝負が決まった瞬間だった。
六
「妙手だな。普通は気づかないぞ?」
感想戦での洋輔の声は悔しそうではあるが、どこか爽やかな響きを含んでいた。
「ただの妙手じゃないでしょ?」
「じゃあ、なんだよ?」
「神の一手よ」
たまゆらの沈黙の後、洋輔は大声で笑いだした。けれど、これは間違いなく神の一手だ。優奈と洋輔と美穂。みんなが勝ちをおさめるための一手なのだから。
「言い過ぎだと思うけどなぁ。でも、優奈姉が勝つにはこの手しかないよな」
「うん」
「これで、土曜の朝、優奈姉から解放されるわけか」
「うん。だから、はやく美穂ちゃんを迎えに行きなさい?」
そう。
今週からは、洋輔が美穂を迎えにいくのだ。
優奈は、名残惜しそうにしている洋輔の背中に、平手を思い切り打ちつけた。
<了>
作中に矛盾した記述があったため、応募作品に一部修正を施しました。
将棋の番勝負(タイトル戦のように複数回の対局で勝敗を決める勝負)を恋愛に例えた棋士がいるそうです。二人きりの世界にひたれるところとか、かけひきとか考えると、そういう感じもしますね。
平成29年2月16日、さらに誤字脱字等を修正しました。