はにーすいーと
年に一度だけ誰かに想いを届け、誰かと誰かをつなげる特別な日がある。
来る二月十四日は甘い想いを受け取る予定の人間にとっては楽しい一日であろうが、貰う予定のない人間にしてみればいつもと変わりない日常の続きだ。
これからの長い人生にとって、漢語やら数字の羅列が物の役に立つのか……退屈を押し固めた学び舎を後にした土井高志に心躍る予定があるわけでもない、当然にして普通の日であった。
自宅までの帰宅時間を三十秒ほど縮めるためだけに公園を横切り、ジョガーやら犬の散歩を楽しむいつもの面子を脇目に、程よく整備された遊歩道を辿っていた高志は遊歩道の脇に点在するベンチに目を向けた。
数日前になるが、高志と歳も近い学生が暴漢に襲われた。暴漢は程なくして逮捕されたが、学生の運命は人通りの絶えた夜の公園で終わった。
日を追うごとに花束が増えていく。
親近感というわけではないが、決して他人事ではないその光景に高志も思うところはある。
等しくあるはずの生を突如として奪われた学生の絶望はいかばかりか、と。
花束の並ぶ一角を通り越した高志は、一際異様を放つベンチに目を奪われた。
別に不審を前面に押し出した輩が鎮座しているわけではなく、学生服にコート、厚手のマフラーを巻いた、ごくごく普通の女子高生だった。
首に巻かれたマフラーのせいで横顔の半分は隠れていたが、正面を睨むような真っ直ぐな視線が酷く強張っていた。
端的に言えば近寄り難い。
高志は心持ち距離を開けて通り過ぎた。
「あの……」
高志の背後から遠慮がちな声が降ってきた。ついでに女子高生が立ち上がる気配を感じつつも、ここで立ち止まって振り返るのも、自意識過剰である。
高志はなおも歩き続けた。
「あの……すみません! 土井高志さんですよねっ!」
下手をすれば少し離れた場所にある遊具に戯れる子供と、無邪気を見守る母親たちの耳にも届いてしまうのではないか、それほどの大声で名前を呼ばれた高志はえらい勢いで振り返るのを余儀なくされた。
混乱を持て余す高志は振り返るなり、思いの外近くにいた女子高生に驚きを隠せず飛退いた。
「な! なんっすか……いや、なんでしょうか」
見ず知らずの相手から名前を呼ばれるという、形容しがたい羞恥と不安が同時に押し寄せた。
「これ! 受け取ってください!」
鼻先に突き出されたなにかを判じる前に咄嗟に両手を出して受け取ってしまった高志は、女子学生の後ろ姿が木立の向こうに消えてもなお、そのままの姿勢で固まっていた。
詰まる所、絵に描いたように呆気に取られていたわけだ。
まるで台風一過。状況を整理してみよう。
手の平に収められた四角い箱は丁寧にラッピングされ、おまけにこれでもかと言わんばかりのリボンに包まれていた。極めつけは、リボンの間に挟まれたハート型のカード。
「これは……いわゆる……いや、見間違い……えぇっ?」
高志に驚天動地をもたらした相手の姿はもうない。
壊れ物を扱うようにカードを引き抜き、慎重に開いた高志は沈黙の中でカードを閉じてから元の場所に戻した。
この喜びをありきたりな言葉で表すことなどできない。じんわりと染み出してくる幸福という熱に包まれたままその身を浸し、彼女の名前とケータイのアドレスをぼんやりと思い返していた。
滅多に得ることはできないであろう至福を噛みしめつつ、天上を仰いだ。生憎と夕暮れ間近の曇天であったが、高志としては快哉を叫びたいところだった。
「チョコのひとつや二つ、喜び過ぎだっつーの」
公園の直中で諸手を上げて大声を出すのは非常にまずい。なので、小さくガッツポーズを決めて、ささやかなる喜びに満たされていた高志の背後から、まさに冷然とした言葉が水を差した。
我に返った高志が背後を見るも、人影はおろか、近くに人らしい気配もなかった。
浮かれすぎて幻聴でも聞いたか。
この喜びを誰に邪魔されるいわれもない。高志はチョコレートの包みを鞄に押し込み、一路自宅へと駆け出した。
公園を抜けた通り沿いに整然と建ち並んだ住宅街の一角に高志の自宅はあった。庭先に母親の自転車がなかったので、買い物にでも出かけているのだろう。
扉をしっかりと閉めることで一先ずはひとりの空間を得た高志は、改めて取り出した箱をまじまじと眺めた。
これはやはり、どこからどう見ても……。
「ただのチョコだろ」
振り返った高志の視線の先には見慣れた自室のベッドが映し出されており、そのベッドの縁に年の頃は高志と変わらない、紺色のブレザーを着た学生が我が物顔で座っていた。
舞上がっていたことは認めるが、盲目になるほど浮かれてはいない。扉を開けた瞬間に人影があれば気づくだろうし、そう広くはない自室なのだから部屋に潜んでいる何者かを見落とすはずもないのだ。
「だあぁぁー! だっ! 誰だ?」
その場で飛び上がった高志は、学生に向かって鞄を突き出した。武器というよりも、自分の身を守る盾の意味合いのほうが強い。
「通りすがりの学生です。下手に騒げば――」
なんということだ。言うに事欠いて居直り強盗か。
「近所迷惑だよ。別に止めはしないけどな。ところでそのチョコ、俺にくれない?」
学生の形をした強盗は、部屋の主である高志を差し置いて悠然と腰を据えたまま、まるで退屈なテレビに向ける視線のままに高志の挙動を眺めていた。
混乱の極みにある高志が学生の言葉を理解できるわけもなく、沈黙だけが部屋を満たした。
「今、なんて……?」
「およそ時間を無駄にした返事がそれ?」
鷹揚に足を組んだ学生は、呆れたと言わんばかりに肩を竦めてみせた。
「ギブミーチョコレート」
学生はついに両手を差し出した。
「ぎぶ、みー……? バカにすんな! 一体なんなんだよ、お前は! どうやって俺の部屋に……そんなことはどうでもいい! とにかくここから出てってくれ!」
「出てくよ。チョコを貰ったらね」
学生の目的はあくまでもチョコレートであるらしいが、それがためだけに犯罪をも厭わない姿に呆れた。
「なに考えてんだ!」
「いいじゃん、くれたって。傍から見てて実に分かり易い反応だったけど、その手の物を初めて貰ったわけ?」
ますます混乱した。盗み見されていた? したらば、今となっては恥ずかしいばかりのガッツポーズも目撃されていたわけで、高志の顔面は真っ赤に熟れ上がった。
しかしである。あの場には高志と女子高生しかいなかったはずである。隠れられる場所なんてどこにもない。
高志は学生に対する明らかな違和感に戸惑っていた。その出所がなんなのか、互いを見比べたところで違いを見出すことも難しい。普通を自負する高志から見ても、目の前の学生も平凡を良しとする、どこにでもいる学生だった。
「いいね! 分かり易い! で、早くくれよ」
「さっきからくれ、くれって、やるわけねーだろ! とにかく、このまま大人しく出ていくなら許してやる。チョコを貰いたいがために、警察を呼ばれるなんて、あんたも望んでないだろ?」
できれば高志も七面倒なことはご免被りたい。
「呼びたきゃどうぞ、ご勝手に。奇行を咎められるのは君のほうだから」
「お前が言うな!」
「こういう不毛な掛け合いも懐かしいな。少しばかり感傷に浸っていたいが、俺には時間がない。なんで時間がないかって? お迎えの時間が迫ってる。
期限は今日まで。最後のワガママってことで、今日までなんとか引き伸ばしてもらった。
で、理由は簡単。チョコが欲しかったんだよ。お供えを期待してたんだけど、やっぱ花しか貰えないんだよな……仕方ないとは言え、いかにも寂しい。
諦めかけたその時に、目の前でチョコを受け取ってる奴がいるじゃないか。なんたる偶然。こうなったら背に腹は代えられない、是が非でもチョコを貰わねば! ってわけ。お分かり?」
頭痛がする。
相手にそれと分かるようにこめかみに指を当て、ついでに眉間のしわも深く刻み込まれた。
弁舌を極める学生には悪いが、全く理解できない。
「もう少し勘がいい奴かと思ったけど仕方ない、俺の見込み違いだった。学校の行き帰りに目にする花束に心を痛めていただろう? 俺はあんたのその心根を信じて、ここまでやってきた次第だ」
「花束って……」
真っ先に思い当たるとすれば、公園の一角くらいのものだ。ベンチ脇は故人を偲ぶために設けられた簡易の献花台でもあり、ささやかな祈りの数だけ花束もあった。
高志は不意に思い至った。「まさか……」認めたくはないが、つい先日、不遇の死を遂げた学生の……。
「ビンゴォ!」
学生は陽気に指を差した。
「この世に未練を残して幽霊やってます」
前言を撤回しよう。一瞬でも信じた自分の短絡を悔やんだ。
「帰れ! あのな、いくらなんでも冗談が過ぎる。不謹慎だろ」
「いいじゃん。俺がその本人なんだもん」
バカなのか? だからって本気で信じてもらえると思っているのだろうか。
改めて確認するが、どこからどう見ても普通の学生なのだ。
幽霊と豪語するが、本来であれば暗闇に紛れて出るのが常であり、すすり泣きの効果音などの演出は大事だ。しかも今は真冬だ。真っ当な幽霊は夏に出るものだ。
高志の持ち得る幽霊像とは精々これくらいだが、その手の経験がないのだから致し方ない。
自分を幽霊だと信じて疑わない相手にどれだけ言葉を重ねても埒が明かない。正体不明の学生に屈するのは癪だが、チョコをやってお引き取り願うのが得策ではないか。
高志は渋々とリボンに手をかけた。上蓋を開いて中を覗き込むと、くすぐったいほどに可愛らしいチョコが並んでいた。
この一時は何物にも代え難いものだ。が、無遠慮に割り込んできた学生の横顔に邪魔された。
「おお! これが世に言う手作りか!」
その貴重な一粒を訳の分からない奴に奪われるのだ。
「もってけ泥棒!」
半ば自棄を起こした高志は学生に向かってチョコを投げた。
しっかりと受け取った学生は、なんの余韻もなく大口を開けてチョコを放り込んだ。
「美味い」
「ただのチョコなんだろ」
高志の悔し紛れの言葉は、学生の笑顔を前にあっさりと飲み込まれてしまった。
「今日貰うから特別なんだよ。彼女に礼を言っといて、美味かったって」
高志はカードを見つめた。やはり今日中にお礼のメールを送るべきだろうか。
「君にも感謝するよ。これで思い残すことはなにもない」
幽霊を演じている学生の台詞としては申し分ない。憤然と顔を上げた高志は睨むべき相手を探した。
いない。目を離したのはほんの一瞬であったが、真横に立っていたはずの学生の姿がどこにもなかった。高志は頭を振りつつ、開いた気配のないドアを見つめ、施錠されたままの窓を凝視した。
高志は意味もなく部屋を歩き回り、クローゼットの中を掻き分け、あり得ないと知りつつもベッド下まで覗き込んだ。
姦しいばかりの学生がもたらした騒動は、突然に終わりを告げた。
「なんだってんだよ」
行き着く先のない視線を漂わせたまま、高志はその場に座り込んだ。
どれ位ぼんやりしていたのか、気がつけば辺りは薄闇に包まれていた。のろのろと立ち上がった高志の目は、自然と机の上に向けられていた。
解かれたリボンも箱も色あせて見えるのは部屋が暗いからか。中身がひとつ減ったチョコを摘んで口に入れた。
意図せず笑み割れた高志はテーブルスタンドを灯した。精彩を欠いていたリボンが光りを受けて鮮明な色を取り戻した。
誰かの受け売りではないが、今日しか得られない特別な一粒もある。
「美味い」
おわり