01.心と信次
西山心は大学の一限目の時間を大きく寝過ごした後で目覚めた。
心は体中に汗をかき、悲壮な面持ちで起き上がる。
心のそんな姿を誰一人知らない。
心の生活の中で夢に脅える彼と、日常を過ごす彼は全くの別人なのだ。
心はグループの中では必然的に中心にくるようなタイプで、皆から愛されていた。
彼の人柄と率直さは他に類をみないものであり、また彼は何より悪を憎んだ。
しかし彼はそんな自分と、夢に脅える自分の境目があいまいになっていくのを感じていた。
「俺は何かに脅えて暮らすようになるかもしれない」
心は彼の友人である信次にそう打ち明けたことがある。
「女に恨みでも買うようなことをしたのか?色男め」
あのとき信次はそう答えた。
話はそこで途切れ、心は今まで二度とそのことを口にすることはなかった。
時計はAM10:00を示す。
心は見るわけでもないテレビをつける。
そして台所に移動しコーヒーを作る。
今日はまだ優しい悪夢だった。
心はコーヒーを入れながらそう思った。
彼の悪夢には大きく分けて2種類のものがある。
一つ目は彼自身が大きく傷つけられる夢。
そして二つ目は彼の精神が大きく傷つけられる夢だ。
悪夢の中で彼自身が傷付けられるとき、その痛みは現実よりも強いものだ。
彼は日常的に腕を折られ、爪をはがれ、喉を切り裂かれる痛みを経験していた。
悪夢の中で彼の精神が傷つけられる時、夢で涙を使い果たし、現実ではその欠片も見付からないほどだ。
彼は日常的に恋人を奪われ、成功を失い、友に裏切られる人生を経験していた。
勿論それらは夢だ。
しかし現実と夢を区別するときに、鮮明さ、リアリティを引き合いに出すなら彼の夢は夢でなく、彼の日常は夢となる。
悪夢から解放され、コーヒーを飲むとき、彼の心は安らぐ。
ここで彼の悪夢について語るのはやめよう。
なぜならそれは呼吸することと同じ様に、心の人生に当たり前にあるものだからだ。
いつか呼吸についてを語るとき、心の悪夢も語られるだろう。
AM10:32
信次から電話がかかってくる。
一限の授業が終ったのだろう。
心はゆっくりとした動作で携帯電話に出、今まで寝ていたようなフリをした。
「おはよう寝ぼすけ!!代返しておいたぞ!」信次は言う。
「ありがとう、お前こそ俺の親友だ」心は本心からそう言った。
「しかし心、人生とは無情なものだ…往々にして与えられるだけの人生とは長く続かない。そうだろ?」信次は芝居がかったセリフを一気に言うと続けて言った。
「俺も心の親友でいたい。親友とは助け合うものだ。そうだろ?」いつもと変わらない会話。心はここが現実だと強く実感する。
「実にその通り。そしてお前は回りくどい。さぁ用件を言え」心は話の要点を真っ先に知りたがる性格だ。
それ故、信次は日常的に周りくどい話し方をし、心をからかっている節がある。
しかし信次はそれ以上もったいぶらずに用件を言った。
「今夜、心の家に泊めてほしい」
用件を率直に言ったことも、信次の言葉も心にとって予想外だった。
「全然構わないぞ。しかしどうしたんだ?何かあったのか?」心はいつもと違う様子の信次を心配した。
「まぁそれは追い追い話すよ。これからそっちに向かうけど何か買っていこうか?」信次は話をそらす。
心も追い追い話すと言ったことを追求するほど野暮ではない。
「じゃあミネラルウォーターと弁当買ってきてくれるか?」心は言う。
「了解。弁当は適当でいいな?水はナントカ還元水がいいか?」
「ワァオ」心は大袈裟に反応する。
「水はエヴィアンを頼むよ」
「了解。しかし水を買うなんて贅沢なやつだ」信次はあきれた声を出す。
「今時水道水を飲むやつなんているのかね?」
「ワァオ。どっかで聞いたセリフだ。ともかく昼飯時にはそっちにつくからな。よろしく!!」そう言うと信次は電話を切った。
「さて…。今夜は徹夜だな」
心は誰に言うでもなく呟く。
つけっぱなしのテレビからまだ捕まらない連続殺人犯についての報道が流れる。
ありきたりの悲劇。
隣人トラブル。
親が子を殺し。
子が親を殺す。痴情のもつれ。
イジメ、ジサツ、キョウキ、ダレカノサケビ…
僕達の日常はありふれた異常から隔離されている。
誰もがそう思っている。
ありふれた悲劇はありふれた日常には介入してこないと。
何故だろう。心はそのときニュースを見てそう思った。
それはとても嫌な予感だった。