夜行列車の向かう先
夜行列車に男が一人乗っていた。よほど遅い時間なのだろう、乗客はこの男ただ一人しかいなかった。
男の表情は暗い。疲れているというよりは、ひどくまいっているという感じだった。
実際この男は精神的に追い込まれていた。不況の波にのまれて仕事を失い、わずかの貯金で暮らしていたが、結局次の仕事に就くことはできなかった。
もうどうにもならないと思い、国に助けを求めたものの、『厳正な審査の結果』補助を受けることはできなかった。
そうなればもう男にどうすることもできない。男が途方に暮れていると汽車の音が聞こえてきた。
「思えば今まで生きる必死で、世界を眺めるなんてことは考えもしなかった。何もできなくなる前に、汽車に乗って世界を眺めて回るのも悪くないかもしれない・・・」
男はそう考えて朝早くに汽車に乗った。汽車に乗って何をする訳でもない、ただ流れて行く風景を眺めているだけ。どんどん変わる風景を眺めているのは意外と退屈しなかった。
しかし日が落ちて、あたりが真っ暗になると外を眺めても何も映らなかった。途端に自分がひどく孤独に思えてきた。このまま深い闇に一人で吸い込まれていくのではないか? そんな妄想に襲われた。
「お客様?」
男が何も見えない窓の外を眺めていると、乗務員が声をかけてきた。
「間もなく終点ですが、お客様はどちらまで行かれますか?」
何処まで行くかなど決めていない。もうすぐ終点だというならそこが目的地だ。しかしそのまま答えるのが気に食わなかったので、男は適当に答えた。
「天国まで」
「分かりました。間もなく到着いたします」
そう言って乗務員は去って行った。
普通に受け答えされたことに男は驚いたが、きっとそう言う地名があるのだろうと考え直した。漢字は『天国』とは書かずに別の字を書くのかもしれない。それか乗務員が聞き間違えたか。まあ大したことじゃない。
「前の席に座ってもいいですかな?」
今度は乗客らしい老人が声をかけてきた。
周りを見ても席はいくらでも空いている。何も男の前に座る必要はない。しかし、断る理由もないから、男は静かに頷いた。
「やあ、ありがとう。他に誰もいないので寂しかったのですよ。でも、こうして話し相手が見つかって私は嬉しい」
男はしまったと思った。この老人は話し相手が欲しかったのだ。男は誰かと話す気分ではない。でも一度了承したのに別の場所に行けとも言えない。仕方なく男は老人の話に付き合うことにした。
「どちらまで行かれるのですかな?」
「さあ・・・目的の無い旅ですので・・・」
「おや? 先ほど乗務員に天国まで行くと言っていた気がしましたが?」
男は小さく舌打ちをする。この老人は聞いていたのだ。それで興味がわいて話しかけてきたというわけだ。
(それならそれで別に良いか。今更隠す恥もない・・・)
「そうです。私の目的地は天国です。この世ではもはや私の幸せは得られないと判断しましたので、せめてあの世で幸せになろうと思ったのです」
「なるほど。私の友人もそんなことを言っていました。冗談だろうと思ったら、後日本気だったのだと思い知らされて驚きましたよ」
老人はそう言って寂しそうに微笑んだ。
「本気だったとは?」
「自殺したんです」
老人は躊躇なく答えた。
「遺書がありましてな。自分が自殺することによって迷惑がかかるだろうことを詫びてから、『俺は天国に行く』と一文書いてあって、それが非常に強く印象に残っているのです」
男は沈黙した。あまり聞いていて楽しい話しではない。
「失礼ですがあなたは自殺しないんですか?」
「・・・本当に失礼な質問だ」
「ですが当たり前の質問です。あなたは天国に行きたいのだという。しかし、天国には生身の人間は行くことはできません。ならば自殺しないのですか? と聞くのは当たり前のことでしょう?」
老人があまりに悪びれなくそう言うので、男は呆れて怒りがわいてこなかった。
「・・・怖いんですよ。純粋に死ぬのが怖い。どんな方法でも一瞬で苦しみなく死ねる方法なんてありません。首を吊るのだって、首を切り落とすのだって、毒を飲んだって、必ず苦しんで死ななければならない。私はそれが恐ろしい。でも・・・私は死ななければならないんです」
「死ななければならない? なぜです? あなたは何か犯罪をしたのですか?」
「犯罪なんてしてません! 犯罪は最も憎むべき、社会風俗を乱す行為です。私はそれ自体も、それをした者も許すことはできない! ・・・前まではそう思っていました」
「前までは? では今は違うと?」
「今だってそう思っています。でも、私はこのままでは必ず将来犯罪をしなければいけなくなる。それが悪いことと分かっていても、それをしなければ生きていけなくなる状況に陥ると思います」
男はすでに金が尽きている。残された男の道は路上で暮らすしかない。だが、路上で暮らしても金が手に入る訳ではない。生きるためにはきっと物を盗まなければならなくなる。そうなったら立派に男は犯罪者だ。
「犯罪はしたくない。でもそれをしなければ生きていけなくなったら、きっと私は犯罪をすると思います。そうなったら私は犯罪者を責められない。だから私は死ななければならないんです。それが一番誰にも迷惑がかからなくて済む・・・」
「・・・きっとあなたは善良な人なのでしょう」
「善良? 私が!?」
男は老人の言葉に激昂する。
「気休めはよしてください! 多くの人が犯罪をしなくても生活ができるのに、私はそれをしなければ生きていけなくなるような状況に陥るんです! 善良だというなら、私は今頃首を吊って死ぬ道を選んでいる! それができないような状況に陥っている私はクズだ! カスだ! 社会不適合者だ!」
「善良であることと裕福であることはイコールではありません。むしろ善良な人間ほど、悪知恵の働く者の餌食になって苦しい思いをすることになる。悪いことをして金を儲けている人達は多い」
「気休めや慰めはよしてください! それは弱者の言い訳でしかない! この世は能力がすべてだ! 評価されない人間は総じてクズ扱いを受ける世界なんですよ! だったら見苦しく言い訳せず、甘んじて『クズ』の称号を得る方が潔いというものです! だいたい・・・え?」
老人は立ち上がって男の頭を撫でてきた。
「あなたは真面目な人だ。それ故に傷つきやすい。それ以上自分を貶す必要はないんです。強がらずに一言『苦しい』と言ってもいいんですよ。誰もあなたを責めたりしません。あなたは今苦しんでいる。それが真実です」
老人と男は親子と言っても通じるほど歳が離れている。だから、老人が男の頭を撫でてやるというのはおかしいことではないのかもしれない。
「今の状況を作り出したのは私の怠惰が原因です」
「あなたに怠惰が無かったとは言わない。しかし、みんなどこかで力を抜くものなんですよ。最後まで全力で行動しきれる人はごく少数です。あなたはただの犠牲者に過ぎないんですよ」
気付けば男の視界は歪んでいた。男自身が流した涙によって・・・。
男は今苦しい、つらい。それは本当だ。しかしそれを言うのは泣きごとだ。だから男はそれを口にしなかった。誰に対してという訳ではない。一人でいる時でも『これは自分の責任なのだ』と責め続けていたのだ。
それを今日初めて会った老人に見透かされ、慰められたことによって一気に体の中から噴き出した。男はしばらく恥を忘れて泣いた。
「申し訳ありません。みっともないところを見せてしまいました」
しばらく経った後、男はやっと泣きやんでそう言った。男が顔をあげると、老人は相変わらず優しく微笑んでいた。
『間もなく終点です。お客様はお忘れ物の無いよう・・・』
終点を告げる放送が流れた。男の夜行列車の旅もここまでだ。
男は荷物を持って汽車の出口に向かう。当然ながら老人も席を立つ。
「本当にみっともないところを見せてしまって・・・」
男は汽車の出口にまで来ると老人を振り返って最後の言葉をかける。
「あなたはこれから少し休んだ方がいい。今までがあまりに自分を責めすぎていましたから・・・」
「はい、参考にします」
老人の言葉に男はそう答えた。
男はドアの窓から外を眺めた。するとそこには不思議な光景が広がっていた。
『終点に着きました。『天国』です。本日は御乗車いただきまして誠にありがとうございました』
汽車が止まると同時に扉が開いてその放送が流れた。ドアの向こうに広がっているのは確かにこの世の光景ではない・・・例えるならそう・・・。
「天国で少し休んで行かれるといい。また生きる気力が戻ったなら、また生まれ落ちて頑張りましょう」
後ろからそう声をかけてきた老人に、「はい・・・」と言って男は答えた。




