最後の一曲を、あなたではない人と
一 悪女の足跡
「クラリス・ルヴェル。コレットを故意に転ばせた悪役令嬢である君と、王太子である私が結婚することはできない。君との婚約は、この場で破棄する」
最後のヴァイオリンが、細い悲鳴のような音を残して止んだ。
王立学院の卒業舞踏会。金の燭台が並ぶ大舞踏室の中央で、婚約者だったロラン殿下が私を指さしている。その隣では、桃色のドレスを着たコレット・マレ男爵令嬢が、痛めたという足首をかばいながら殿下の腕にすがっていた。
「クラリス様が、わたくしの前へ足を差し入れたのです。振り返るふりをして、わざと……」
すすり泣く声に、招待客の視線が私へ集まる。
視線の中には、憐れみも、好奇心もあった。七年間の婚約が終わる瞬間より、次の朝食で語れる醜聞を見つけた喜びのほうが多いように見えた。壁際には、私が半年かけて作った親善舞踏の進行図が飾られている。その作者が悪女と呼ばれても、誰ひとり図の下に私の名がないことを不思議には思わない。
けれど私は、彼らの顔ではなく床を見ていた。
磨かれた白い石の上で、私の靴の下に青い踵が二つ、きちんと並んで光っている。三歩ほど先には、コレットの舞踏札に割り当てられた桃色の足跡があった。指定された列に沿うのではなく、逆向きに三歩。それから私の前へ回り込む半円。
この床は誓歩石でできている。舞踏札を登録した者が、音楽の間にどこを、どちらへ、どの順で踏んだかを、夜明けまで色つきの光として残す。
一拍ごとに足跡の縁へ共通の明滅が刻まれるため、色が違っても同じ拍の動きを照合できる。
私の足は、彼女が転んだ一拍の間、揃ったままだ。
「何か言うことはないのか」
ロラン殿下の声に、私はようやく顔を上げた。
七年前、初めて彼と踊った時も、殿下はこうして右手を伸ばした。あの頃の私は、その手が未来へ連れていってくれるものだと信じていた。
今、その右手は私を悪女と決めるために使われている。
「ございます」
「なら、まずコレットへ謝罪を」
「いいえ。婚約の終了についてです」
殿下の眉がわずかに上がった。
「ロラン殿下が私との婚約を望まれないこと、承りました。正式な意思確認にも同意いたします。ですが、私がコレット様を転ばせたという告発は認めません」
「この期に及んで――」
「婚約と検分は別です」
私は背筋を伸ばした。姿勢を正せば、声まで震えない。そう教えたのは王立舞踏院の師だった。
「この床の光は夜明けに消えます。王立舞踏院の規則に基づき、扉を閉じ、舞踏札と誓歩石を保全してください」
コレットの泣き声が止まった。
誓歩石は人の心を読まない。嘘も悪意も裁かない。ただ、踏まれた場所を覚えているだけだ。
だからこそ、その沈黙を読み解くのが、舞踏師である私の仕事だった。
二 婚約と検分は別
「卒業舞踏会を中断しろと言うのか」
ロラン殿下の苛立った声が、静まり返った大舞踏室に響いた。
「親善舞踏まで、あと二時間もない。隣国の使節を待たせるつもりか」
「床を保全しなければ、二時間後には検分できる足跡が増えます。今夜の舞踏すべてを疑うことになります」
私は壇上脇に控えていたアルマン・レイ記録官へ向き直った。
「私の舞踏札は青、コレット様は桃色。登録時刻と開始位置の封印をお願いします」
私の青い舞踏札には、王家の金印とともに『相手:ロラン・セレスタ』『目的:二国親善舞踏』と記されている。個人の希望ではなく、公的な役割を指定する札だ。
アルマンは一度、ロラン殿下を見た。しかし、胸元の記録官章へ手を置くと、深くうなずいた。
「正式な異議申立てを受理します。検分が終わるまで、誓歩石への立ち入りを停止します」
赤い綱が大舞踏室を横切った。招待客たちは壁際へ下がり、楽師たちも楽器を抱えて退出する。
「大げさですわ」
コレットが唇を震わせる。
「クラリス様は、光る床の扱いにお詳しいのでしょう? ご自分に都合のよい説明をなさるに決まっています」
「ですから、王立舞踏院と記録官の立会いを求めました」
答えたところで、大広間の入口から杖の音がした。
「卒業生に規則を説明される前に呼びなさい、アルマン」
黒銀の髪を高く結ったベアトリス・ヴァンヌ舞踏院長が、赤い綱の内側へ入ってくる。私の師は床をひと目見ると、誰にも礼を急がず、まず四方の扉へ封印を命じた。
「クラリスの申立ては規則どおりです。殿下であっても、夜明けまでは足跡を消せません」
「ならば急げ。検分が済み次第、クラリスには予定どおり親善舞踏を踊らせる」
当然のように言われ、胸の奥が遅れて痛んだ。
今夜の親善舞踏は、セレスタとアヴェルナ、二国の学生と舞踏師を交換する協定のために私が作ったものだ。けれど招待状にも進行表にも、作者である私の名はない。「王太子殿下御考案」とだけ記されている。
三か月間、私は授業が終わるたび大舞踏室へ残った。背丈の違う踊り手がぶつからない間隔、外国式の靴でも滑らない回転、初心者が拍を失った時に戻れる位置。書き直した紙は机の高さになった。ロラン殿下は完成した譜面を一度眺め、「さすが私の婚約者だ」と笑った。その言葉を褒め言葉にしようとしたのは、私自身だった。
「その件も、検分とは別です」
「君は未来の王太子妃として作ったのだ。王家の舞踏だろう」
「未来の王太子妃ではなくなると、たった今、殿下がお決めになりました」
ざわめきが起きた。
ロラン殿下の顔が赤くなる。
「今夜の責任を果たせば、婚約破棄は考え直してもよいと言っている」
「お断りいたします」
自分の声が、思ったより静かだった。
「婚約を戻すことを報酬に、作者名のない舞踏を踊るつもりはございません」
「セレスタ王太子殿下」
初めて聞く低い声が、私たちの間へ入った。
赤い綱の向こうに、金褐色の髪をした青年が立っていた。アヴェルナの第二王子、テオドール殿下。親善協定の使節を率いる方だ。私が礼を取ろうとすると、彼は床を見たまま片手を上げ、動かないよう制した。
「検分前の床なのでしょう。その礼は、そこからで結構です」
それから私に尋ねた。
「この石が記録するものと、記録できないものを教えていただけますか」
「足の位置、爪先と踵の向き、踏んだ順番です。心や善悪、手の動きまでは記録しません」
「では、私の国は結論を求めません。記録できる範囲を、資格のある方に調べていただきたい」
無実だと請け合うのでも、私を救うと宣言するのでもない。
ただ、私の説明を聞き、私が必要だと言った時間を守る。
テオドール殿下は自国の使節へ退室を命じると、自分も赤い綱の外へ下がった。
閉じられた扉の内側で、床いっぱいの光だけが残った。
三 床に残った順番
大舞踏室には、色とりどりの足跡が幾重にも重なっていた。
知らない者には、こぼれた星屑に見えるだろう。けれど舞踏譜師にとって、足跡は文章より雄弁だ。
「最初の曲は学院円舞曲。三十二小節、右回り。コレット様の開始位置は東列の五番です」
アルマンが封印された舞踏札を読み上げる。
私は綱の外から細い指示棒を伸ばし、桃色の一歩目を示した。
「ここまでは指定どおりです。二歩目で列の外へ爪先が向いています。三歩目は進行方向と逆。四歩目で半回転し、私の列へ入っている」
ベアトリス先生が別の角度から確認する。
「桃色の右踵が先に滑っているわね」
「はい。私の青い足跡との距離は、まだ半歩あります」
コレットが転んだのは、その次の拍だ。桃色の爪先が内側へ折れ、踵が不自然に跳ねている。
一方、私の青い足跡は二つとも定位置にあった。右も左も、床から離れていない。次の青い一歩が始まるのは、コレットが倒れた後。私が助けようと踏み出したものだ。
桃色の滑った踵と青い揃った踵には、同じ拍を示す細い光が明滅している。見間違えようのない照合だった。
「これだけで、コレット様がわざと転んだとは言えません」
私は先にそう告げた。
ベアトリス先生が、私を見てわずかに笑う。
「ええ。誓歩石は意図を記録しないもの」
「ですが、『私がコレット様の前へ足を差し入れた』という告発とは両立しません。私はその拍に、一歩も動いていませんから」
アルマンが検分記録へ線を引いた。
嘘を魔法で見抜いたのではない。語られた動きと、残された動きが違った。それだけで十分だった。
私たちは次に、親善舞踏の足跡を確認した。夕方の最終練習で、ロラン殿下と私が踏んだものだ。
王家の深紅は、曲が変わるたびに半拍遅れている。その直前には、私の青い爪先がわずかに外を向いていた。長年の練習で身についた、次の方向を殿下へ知らせる合図だ。
「ロラン殿下は、今夜の舞踏をお一人で再現できますか」
先生の問いに、私はすぐ答えられなかった。
できない。私が袖や爪先で合図を出す前提で、殿下は順番を覚えなくなっていた。
アルマンが保全した登録原稿を広げる。表紙には『二国親善の環舞――王太子殿下御構想』。けれど裏の作者欄は空白で、権利譲渡欄に私の署名はなかった。
「提出時、作者確認を求めました」
アルマンは申し訳なさそうに言った。
「殿下の側近から、婚約者の仕事ゆえ後日でよいと」
私は頁をめくった。
終結部の八小節。人数が一人欠けても、左右へ分けて組み直せるよう作った部分だ。筆名『白雲雀』で発表した舞踏譜にも、同じ考え方を使っている。
白雲雀の名を使ったのは、侯爵令嬢や王太子の婚約者という肩書を外して、譜面だけを読んでほしかったからだ。最初の冊子は二十部しか売れなかった。それでも、遠い土地から一通だけ届いた質問状が嬉しくて、私は夜更けまで返事を書いた。誰かが私の一小節を読み、なぜこの歩幅なのかを知ろうとしてくれた。それだけで、自分の仕事が存在してよいと思えた。
王太子妃になるのだから、名前など要らないと思っていた。
思おうとしていた。
婚約者の役に立つことと、自分が消えることを、いつから同じにしてしまったのだろう。
「先生」
私は空白の作者欄に触れず、手を引いた。
「正式検分まで、この原稿も封印してください」
取り戻すべきものは、婚約だけではなかった。
むしろ婚約が終わったからこそ、ようやく見えたものがあった。
四 白雲雀の読者
検分記録が整うまでの間、私は控えの小広間へ移った。
窓の外は深い藍色だった。夜明けまで、あと何時間あるだろう。親善舞踏を中止すれば、協定そのものは後日にできる。けれど今夜のために来た学生や舞踏師の前で、セレスタ王家が外国使節を招いて争いを始めた事実は残る。
責任を背負うな、と自分に言い聞かせても、譜面の続きが頭の中で回っていた。
扉が二度、控えめに叩かれる。
「テオドール・アヴェルナです。入室を断ってくださって構いません」
名乗り方まで、断る余地を残している。
「どうぞ」
入ってきたテオドール殿下は、従者も連れていなかった。手には、青い布張りの譜面集がある。
「先ほど、終結部を八小節に分けると聞きました。もしやと思いまして」
開かれた頁を見て、私は息を止めた。
筆名『白雲雀』で一年前に出した、小さな舞踏譜。余白には几帳面な文字で質問が並び、その下に、出版元を通して私が返した答えが貼られている。
『左脚に古傷のある者が相手でも、この回転は可能か』
『三拍目を歩みに替えれば可能です。ただし、相手へ先に伝えること』
何度も読み返したやり取りだった。質問者の署名は、いつもT・A。
「あなたでしたの」
「白雲雀が、あなたでしたか」
同時に言って、二人とも黙った。
殿下は咳払いをした。
「私は、もっと年配の舞踏院教授だと思っていました」
「私は、地方の舞踏教師だと」
「王子であることを伏せた点は謝罪します。肩書で回答を変えてほしくなかった」
「私も侯爵令嬢であることを伏せました。同じ理由です」
初めて、彼の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「あなたの返事で、私の妹がまた踊れるようになりました」
「左脚に古傷のある方ですか」
「ええ。速い回転を諦めていましたが、三拍目を歩みに替えれば、相手へ迷惑をかけずに済むと知った。実際には、迷惑などではなかったのですが」
彼は余白の一文を指した。私が最後に書き足した、『相手へ先に伝えること。舞踏は一人で完成させるものではありません』という注意だ。
「妹は、自分の脚を隠すのをやめました。舞踏会の前に相手へ説明し、自分から歩幅を決めるようになった。あの一文へ礼を言いたかった」
私は譜面の頁をそっと撫でた。王太子の隣で目立たず合図を送ることしかできない自分の言葉が、知らない場所で誰かの一歩を変えていた。
「こちらこそ。質問をいただかなければ、古傷のある方の歩幅を考えないままでした」
「では、互いに半分ずつですね」
功績を丸ごと贈るのでも、奪うのでもない。その言い方が、ひどく心地よかった。
「今夜の親善舞踏について、お願いがあります。ただし、これはアヴェルナ王子としての命令ではありません。中止を選ばれても、協定は後日に延ばせます」
彼は、協定の概要を短く説明した。成立すれば国境都市に二国共同舞踏院が開かれ、今夜の親善舞踏が最初の教材になる。設立準備を担う主任舞踏譜師は両国の舞踏院が作品審査で選ぶため、彼一人に任命する権限はない。ただし、作者本人の名で譜面を審査へ出す道は、まだ開いているという。
「お願いとは?」
「白雲雀の舞踏を、作者の名で見たい」
胸の奥で、何かが一拍遅れた。
「私が相手として足りるなら、踊りたいとも思っています。ですが、あなたの作品です。必要な人数も、歩幅も、あなたが決めてください」
王子が女性を導く。それが宮廷舞踏の慣例だ。ロラン殿下も、形の上ではいつも私の手を引いた。
けれど実際には、次の一歩を教えていたのは私だった。誰にも見えないように、小さな合図で。
テオドール殿下は、最初からそれを隠そうとしない。
「殿下のご希望は、協定のためですか」
慎重すぎる問いだと分かっていた。それでも聞きたかった。
「半分は」
「残りの半分は?」
彼は譜面へ視線を落とした。
「一年間、余白の向こうにいた方と、一度くらい同じ曲を聞いてみたい」
儀礼文のように整っていた声が、最後だけ少し低くなった。
私を婚約から救うとは言わない。無実を証明するとも言わない。ただ、私がどんな舞踏を作ってきたかを知り、その続きを望んでいる。
「正式検分が終わるまで、お返事は待っていただけますか」
「もちろんです」
彼は譜面を私へ預け、扉の前で振り返った。
「待つ場所は、この外でよいでしょうか」
私は初めて、少し笑った。
「はい。今は、そこが一番ありがたいです」
五 名前を書く
テオドール殿下と入れ替わるように、ロラン殿下が小広間へ入ってきた。
扉を閉めた彼は、先ほどより声を落としていた。
「大ごとにする必要はなかった」
「私が申立てなければ、悪女という告発だけが残りました」
「コレットも混乱していたのだろう。君が彼女を許し、事故だったことにすれば丸く収まる」
私が許す。私が事故ということにする。私が舞踏を仕上げる。
いつも主語は私なのに、決めるのは殿下だった。
「足をかけられたと訴えたのはコレット様です。撤回するのも、彼女であるべきです」
「強情になるな。今夜さえ乗り切れば、婚約破棄はなかったことにしてやれる。君の評判も、私が守る」
「私が無実なら、守っていただく評判などございません」
殿下は目を見開いた。
その顔に、七年前の少年を探してしまう。初めての舞踏で緊張していた私に、「間違えても一緒に笑えばいい」と言ってくれた人。私は確かに、彼を好きだった。
いつから変わったのだろう。王太子教育が忙しくなった頃、私は彼の練習時間を減らすため、次の動きを袖の向きで知らせ始めた。殿下が会議に遅れないよう、譜面の難しい部分を一人で直した。感謝された日は嬉しかった。やがて感謝はなくなり、合図が遅れれば不機嫌な顔だけが返るようになった。
私もまた、頼られるほど愛されているのだと思い込んだ。踊れる相手ではなく、転ばないよう支える床になろうとしていた。
だからこそ、今の彼のそばへ戻っても、あの日には戻れない。
「王太子妃でなくなれば、君に何が残る」
鋭い言葉だった。
少し前の私なら、答えられなかっただろう。
私はテーブルに置かれた親善舞踏の登録原稿を開いた。空白の作者欄が、白いまま待っている。
「私が作った舞踏が残ります」
ペンを取り、そこへ書いた。
クラリス・ルヴェル。
婚約者の名でも、筆名でもない。自分の名が、思っていたより広い場所を占めた。
「王太子妃教育の一環で作ったものだ。王家に権利がある」
「権利譲渡欄に、私の署名はありません」
「なら、国のために署名しろ」
「使用条件へは署名します」
別紙に、ひとつずつ書いた。
作者名をすべての進行表と記録へ載せること。正規の舞踏譜師として報酬を支払うこと。今夜の人数変更に伴う改作権を私へ認めること。婚約の手続と、この舞踏の契約を分けること。
さらに、二国共同舞踏院の作品審査へ、この譜面を私の本名で提出することも加えた。採用を約束させるのではない。誰の作品かを隠されず、同じ基準で見てもらうための条件だった。
「殿下との婚約は終了させます。そのうえで条件が認められるなら、舞踏譜師として一曲だけお引き受けします」
「相手は私でなければならない」
「いいえ。今夜、殿下は私の作品を一人で踊れません」
初めて口にすると、悲しみよりも静かな納得があった。
私が合図を出し続けたから、殿下は覚えなくなった。私が名前を求めなかったから、殿下は作品が最初から自分のものだと思った。
それを愛と呼ぶのは、もうやめよう。
ロラン殿下が荒い足取りで出ていった後も、私はしばらく椅子に座っていた。
怖くないわけではない。王太子妃の席を失えば、社交界で笑われるだろう。父は落胆し、家へ戻れば「もう少し我慢できなかったのか」と問われるかもしれない。
扉の外には、外国の王子が待っている。
けれど彼の国へ逃げ込むために踊るのではない。
私は、自分の名で作ったものを、自分の選んだ相手と届けたい。
それが今、初めて認めた私の望みだった。
六 私の手を取る人
午後十一時。大舞踏室に、限られた立会人だけが戻された。
ロラン殿下、コレット、両国の儀礼官、ベアトリス先生、アルマン記録官。そして赤い綱の外にテオドール殿下がいる。
私は青と桃色の足跡を、最初の位置から順に示した。
「誓歩石は意図を読みません。ですから、コレット様が故意に転んだとは申し上げません」
「ほら、ご覧なさい!」
コレットが勢いよく顔を上げる。
「ですが、コレット様の告発は『私が前へ足を差し入れた』というものでした」
青い二つの踵を指した。
「転倒の拍、私はここから動いていません。コレット様の足跡は指定列を離れ、逆向きに三歩。私の前へ入る半回転。その後、私と接触する前に右踵が滑っています」
ベアトリス先生が、同じ歩順を床の外で再現した。アルマンが拍を数える。三歩、半回転、踵の滑り。私の位置まで、まだ腕一本分の距離がある。
「クラリス様が、怖い顔でこちらを見たから……。避けようとして」
「先ほどは、私が振り返るふりをして足を差し入れたと仰いました」
「それは、転んで混乱していたのです」
「ならば、『足をかけられた』という告発を撤回してください。私が求めるのは、それだけです」
沈黙が落ちた。
ロラン殿下がコレットの肩を抱いた。
「小さな言い違いだ。クラリスも無傷なのだから、これ以上責める必要はない」
「私が責めているのではありません。記録を正しているのです」
アルマンがコレットへ確認文を差し出す。
しばらくして、彼女は震える手で署名した。クラリスに足をかけられたという申告を撤回する。指定列を外れた理由は、ロラン殿下の近くで踊りたかったため――そこまで書くと、インクが一滴落ちた。
胸が晴れるような快感はなかった。ただ、私の足が私のものへ戻ったと思った。
「これで済んだな」
ロラン殿下が言う。
「クラリス、親善舞踏を始めろ。相手は私が務める」
「婚約の意思確認が先です」
アルマンが別の書面を出した。
「ロラン・セレスタ殿下は婚約破棄を宣言されました。クラリス・ルヴェル嬢は、その終了に同意されますか」
「同意します」
「待て。告発が誤りなら、破棄の理由はなくなった」
「理由がなくなったのではありません。私が殿下のもとへ戻る理由が、なくなったのです」
ロラン殿下が言葉を失う。
私は親善舞踏の使用条件を、両国の儀礼官へ渡した。作者名、報酬、改作権、婚約との分離。ベアトリス先生が署名し、アヴェルナ側の儀礼官も確認する。
「妥当です」
テオドール殿下は、内容を読んだ後でそう言った。それ以上、彼の地位から何かを足そうとはしなかった。
私は赤い綱の前まで歩いた。
相手を選ぶために手を差し出すのは、これが初めてだった。
「テオドール殿下。人数を二人へ組み直します。最初の十六小節、私が先導してもよろしいでしょうか」
「私からお願いしたい」
彼は綱の外で一礼し、私の手へ触れる直前で止まった。
「あなたが導いてくださるなら」
「では、私の一歩を見てください」
彼の手が、今度こそ私の手を取った。
強く引くのではなく、私が動き出せるだけの余白を残して。
七 最後の一曲
深夜を告げる鐘とともに、楽師たちが戻った。
招待客も壁際へ入り、息を潜めている。誓歩石には検分の足跡がまだ残っていたが、中央だけは、これから踏む者を待つように白かった。
私は青い舞踏札を、テオドール殿下は金色の札を開始石へ置いた。
「八小節目で、右ではなく左へ」
「三拍目を歩みに替える」
「覚えていらしたのですね」
「先生がよかったので」
最初の弦が鳴る。
低い弦が夜の底を作り、その上へ笛の音が一本の道を引く。何百もの燭台の炎が、開いた扉から入る夜風に揺れた。青と金の光は一歩ごとに生まれ、古い足跡の間を縫って伸びていく。今夜ここで語られたどの言葉よりも、私たちの位置は明確だった。
本来なら、セレスタの王太子と婚約者、アヴェルナの代表二名、四人で輪を作る舞踏だった。私は輪をほどき、二本の線へ変えた。片方が命じ、片方が従う形ではない。離れた二人が同じ拍を聞き、近づき、また離れ、それぞれの場所へ戻る。
最初の十六小節、私が先へ出た。
宮廷では珍しいことだ。けれどテオドール殿下は一瞬もためらわず、私の爪先が示す向きを追った。回転の直前、彼の歩幅がわずかに大きい。私は指先で一度だけ合図し、彼はすぐ半歩狭めた。
青の足跡の隣に、金色が重なる。
次の十六小節では、彼が先へ出る。私の手を引きすぎず、曲線の終わりで待つ。こちらが追いついた時だけ、指を閉じる。
完璧だから信じられるのではなかった。
合図を受け取って、直せる。私の一歩を、勝手に別の意味へ変えない。
それが、こんなにも踊りやすい。
テオドール殿下が一度、難しい交差で拍を早めた。私が眉を上げると、彼は踊りながら小さく「失礼」と言い、次の拍で直した。王子の失敗をなかったことにするため、私が合図を隠す必要はない。間違いを間違いのまま受け取り、二人で次へ進めばよかった。
終結部の八小節。
白雲雀の譜面で、何度も余白越しに話した部分だ。
右、左、半回転。いったん手を離し、二人で反対方向へ三歩進む。以前の私なら、離れる動きの後には必ず戻る形を置いた。離れたままでは、不安だったから。
今夜は一拍、空白を加えた。
戻るかどうかを、それぞれが選べる時間。
テオドール殿下はその場で待った。私を迎えに踏み込まず、手だけを差し出す。
私は自分で一歩を選び、その手へ戻った。
青と金の足跡が交差し、床の中央に開いた門のような図形を描く。王家の紋章ではない。二本の道が、それぞれの形を失わず並ぶ印だった。
最後の音が消えた後、一瞬の静寂があった。
それから拍手が、大舞踏室を満たした。
夜明け前、親善協定には予定どおり署名された。舞踏の作者欄には、クラリス・ルヴェル。略されず、誰かの補佐とも書かれず、私の名だけが残った。
私への告発はその場で正式に撤回された。ロラン殿下との婚約は双方の終了意思を記録し、朝の王室会議で解消が登録された。殿下は親善行事の代表から外れ、王太子教育を再審査されることになった。コレットは王立学院の卒業認定を保留され、宮廷舞踏への参加資格を一年停止されたという。
それを聞いても、胸は躍らなかった。
代わりに私の手元には、舞踏譜の正規報酬があった。さらに両国の舞踏院長は、登録原稿、白雲雀名義の既刊譜、今夜の二人用改作を審査し、二国共同舞踏院の設立準備を担う主任舞踏譜師として私を採用した。差し出された契約書には、最初から私の名が印刷されていた。
「よい舞踏だったわ」
ベアトリス先生が契約書を覗き込み、私の肩を抱いた。
「ただし、次に作者欄を空白で持ってきたら、卒業生でも一から記譜試験を受け直させます」
「二度と空けません」
「よろしい。名前とは、褒められるためだけに書くものではないもの。間違いがあれば引き受け、直すためにも必要です」
先生の言葉に、私はうなずいた。名前を取り戻すとは、功績だけを抱えることではない。自分が選んだ一歩の続きを、自分で引き受けることなのだ。
「次も踊っていただけますか」
朝日が窓へ差し始めた頃、テオドール殿下が尋ねた。
「仕事として?」
「まずは」
慎重な答えに、私は笑った。
「では、次の譜面ができましたら」
恋の約束を急がなくてもよかった。
私たちはもう、次に会うための理由を、誰かの婚約に借りなくていい。
八 印のない舞踏札
三か月後。
セレスタとアヴェルナの国境都市に、二国共同舞踏院が開いた。
私が借りた家は舞踏院から歩いて十分、小さな噴水広場のそばにある。朝は自分で時間を決めて起き、窓辺で新しい譜面を書く。夜会へ呼び出されない夕食が、最初の一週間は落ち着かなかった。今では、スープが温かいうちに食べ終えられることを、ささやかな幸福だと思う。
「作品には、必ず自分の名を書いてください」
初等科の教室で、私は十六人の生徒へ新しい舞踏帳を配った。
「高い身分の方に献じる譜面でも、誰かと一緒に作った譜面でも同じです。共同なら、全員の名を。まだ決めたくないなら空白でも構いません。でも、他人に勝手な名前を書かせないこと」
生徒たちが真剣な顔でうなずく。
私の譜面集の表紙にも、クラリス・ルヴェルと印刷されている。主任舞踏譜師として決めた時間に教え、改作には許可を出し、その対価を受け取る。
王太子妃になるはずだった娘、と噂する者はいなくならなかった。けれど、その後に「光の足跡を読んだ舞踏師」と続くようになった。
それなら悪くない。
授業を終えると、廊下の窓から見慣れた金褐色の髪が見えた。
テオドール殿下は月に二度、舞踏院の視察へ来る。私たちは新しい譜面を挟んで何度も話し、二度踊った。どちらも仕事として。彼は一年前と同じように余白へ細かな質問を書き、会えば、書くより少しだけ不器用に笑った。
仕事の後に一緒に茶を飲むことも増えた。彼が考え事をする時は砂糖壺の蓋を三度回すこと。私が難しい譜面に詰まると無意識に肩を正すこと。そんな、舞踏札には記録されない小さな癖を、私たちは少しずつ知った。
一度、私が熱を出して打合せを断った時、彼は見舞いに押しかけず、返事の要らない短い手紙と、予定を三つ書き直した表だけを届けた。空いた日を選ぶのも、会わないままにするのも私へ任せる、と。私は元気になった翌日、自分から四つ目の日付を書き足して返した。
今日は譜面を持っていない。
「視察は来週では?」
「今日は視察ではありません」
彼が差し出したのは、一枚の白い舞踏札だった。
王家の金印も、舞踏院の契約番号もない。相手と目的を書く欄だけが、空白で残されている。
「これは私個人からの申し込みです。断られても、舞踏院の契約も、次の譜面の採用も、何ひとつ変わりません」
「はい」
「そのうえで、仕事ではない一曲を、私と踊っていただきたい。できれば、その次の散歩と、その次の食事も」
そこまで一息で言い、彼は珍しく視線をそらした。
「交際を申し込んでいるのですが、儀礼文にすると長すぎますね」
「余白へ質問を書かれるほうが、お得意ですものね」
「今回は、あなたの答えを先に決めたくなかった」
白い札を受け取る。
相手の欄には、テオドール・アヴェルナ。目的の欄は、本当に空白だった。
私はペンを取り、「交際の始まりの一曲」と書いた。その下へ、自分の名を署名する。
「実は、視察ではない日に来てくださるのを、少し待っていました」
彼が目を見開く。
「それなら、もっと早く来るべきでした」
「いいえ。私も、待つだけでなく誘えばよかったのです。ですから次の食事は、私からお誘いします」
「では、その次の散歩は私から」
「順番にいたしましょう」
「クラリス」
初めて、彼が役職も家名もつけずに呼んだ。
「はい、テオドール」
私から手を差し出すと、彼は今までで一番きれいな礼をした。
「最初は、どちらが導きますか」
「一小節ずつ、交代で」
音楽のない舞踏室で、私たちはゆっくり歩き始めた。私が一歩を示し、彼が続く。次は彼が向きを選び、私がついていく。窓から入る午後の光の中で、靴音だけが同じ拍を刻んだ。
舞踏室には、あの夜のような誓歩石はない。私たちがどこを踏んだか、朝まで覚えていてくれる光もない。
それでも構わなかった。
朝になれば消える足跡さえ、今度は私が選んだ道だった。




