第9章:神智学の追っかけと、ジャズ時代のスパイ
19世紀後半、ブラヴァツキー夫人という、想像力が異常に逞しすぎる女性が彼を「アセンデッド・マスター」として祭り上げ始めた。 この時のカインは、灰色のツイードのスーツを完璧に着こなし、ロンドンやパリの裏通りを素早く移動していた。髪は短く整えられ、知的な眼鏡をかけたその姿は、一介の大学教授か、あるいは熟練の新聞記者にしか見えなかった。 「誰が高次元の指導者だ. 私は今、パリの屋根裏部屋で蓄音機のノイズを消すのに没頭しているんだ. ヒマラヤよりパリのカフェの方が、コーヒーがうまいし、議論も活発だ. そもそも私は進化などしていない. 数千年前からずっとバグを抱えたままの旧型だよ. 神智学だのアセンションだのと、私の私生活を勝手にファンタジーに書き換えるのはやめてもらいたいものだ」
20世紀に入ると、彼は夜な夜な場末のバーで安煙草の煙に巻かれながら、即興でピアノを叩くジャズ奏者になり、あるいは戦時中の緊迫した空気の中で暗躍する情報屋になり、歴史の影で絶え間ないゴミ拾いを続けた。ある時はベルリンの地下壕で、ある時はロンドンの暗号解読センターで、彼はただ「早すぎる技術」がこの未熟な時代を焼き尽くさないように見守っていた。 第二次世界大戦中、ナチスの科学者が古代兵器の再現として開発しようとした「超重爆撃機」の設計図が、実は数百年前に彼が落とした「古代の農業用灌漑システムのポンプ設計図」を、彼らが都合よく誤解したものだと突き止めた。彼はその設計図を、深夜の司令部に忍び込み、こっそりと「超高級ドイツソーセージの秘密の配合表」へと書き換えた。結果として、戦場の最前線には恐ろしい爆弾の代わりに、とてつもなく美味いソーセージの香りが漂うことになった。それは、歴史の清掃員としての彼なりの、ささやかな、そして最高に美味しい平和への貢献だった。
また、1905年のスイス。彼は特許庁の片隅で、一人の風変わりな若者アインシュタインと出会った。 「時間とは、実は神が書類整理を楽にするために作った、ただのインデックス・ラベルに過ぎないんだよ」 彼が何気なく囁いたその一言が、相対性理論の最後の一ピースとなった。カインは自嘲気味に笑った。自分という存在が時間の外側にいるせいで、誰よりも時間の本質を知り尽くしてしまっている。歴史をデバッグするということは、時として天才の背中をそっと押すことでもあるのだ。




