第四幕:英雄の野望と歴史の辞書
第7章:ナポレオンと消えた戦略辞書
1798年、エジプト. ナイルの熱風がピラミッドの威容を削る中、カインはフランス軍の遠征に随行していた。 この時の彼は、灼熱の日差しを避けるための質素な茶色の旅人外套を羽織り、頭には砂に汚れた二角帽子を深く被っていた。その風貌は、軍人というよりは、戦場を彷徨う放浪の哲学者のようだったが、その背筋はどの若手将校よりも真っ直ぐに伸びていた。
「将軍、貴方の運命は非常に興味深いバグを抱えている. それはあまりに輝きすぎていて、周囲の歴史を焼き尽くしかねない. あまりに鋭い剣は、鞘だけでなく持ち主の手まで切り落とすものですよ」
若き日のナポレオン・ボナパルトは、ピラミッドの巨大な影の中でカインを鋭く睨みつけた。ナポレオンは背が低く、しかしその全身から溢れる野心は、周囲の砂漠の熱気さえも圧倒するほど濃密だった。
「貴公、預言者か? 私の運命を知っているというのか. それとも、英国のスパイか?」 「いいえ、私はただ、君がこの砂の中から持ち出そうとしている『それ』を回収しに来ただけです. それは君が扱うには、少々OSが古すぎるか、あるいは新しすぎる. 分不相応な力は、栄光ではなく破滅を呼び寄せます」
カインが指し示したのは、ナポレオンがピラミッド内部の隠し部屋で見つけたという「ホルスの目」の彫刻が施された黒い石板だった。それは実際には、24世紀の戦術シミュレーターの一部であり、自律的に勝利への最適解を弾き出す量子コンピュータの断片だった。それが起動すれば、ナポレオンは文字通り不敗の神軍を手に入れ、ヨーロッパ全土は数世紀早く、冷徹な全体主義国家へと変貌してしまう。歴史の整合性が、個人の野心によって崩壊してしまう。
「これは私の勝利の鍵だ. エジプトの神々が私に授けたものだ. 渡すわけにはいかない. 予はこの石板と共に、アレクサンドロスを超えるのだ」 ナポレオンは剣の柄に手をかけたが、カインは微動だにしなかった。 「勝利の鍵? いいえ、これは君の人生をあまりにも早く燃やし尽くす着火剤ですよ、ボナパルト. 君には自分の力で、自分なりの辞書を編纂する才能があるはずだ. 他人の遺したカンニングペーパーなど必要ないでしょう?」
カインはナポレオンが部下の報告で目を離した刹那、その石板を量子的に抜き取った。その代わりに、彼はナポレオンが大切にしていた革表紙の「百科事典」をこっそり持ち去った。実はその事典の余白には、カインが昨夜ワインの勢いで書き殴った「19世紀以降の戦術理論の予測データ」がびっしりと書き込まれていたのだ。 翌朝、ナポレオンは石板が消えたことに発狂したが、偶然手元に残った「改竄された事典」を読み込み、そこに記された奇策の数々に狂喜した。
「……私の辞書をどこへやった! 伯爵、あの辞書には私のすべてが詰まっていたのだ! 私の、私の不可能を可能にするはずの記録が!」
ナポレオンは激昂したが、カインはすでに砂嵐の中に消えていた。ナポレオンが後に「私の辞書に不可能という文字はない」と言い放ったのは、実際にはカインにそのページごと辞書を盗まれたという屈辱を、強がり混じりの皮肉で塗り潰した結果だったという事実は、どの歴史教科書にも載っていない。




