第三幕:欧州の狂乱 ―― ルネサンスから啓蒙時代
第4章:レオナルドの左手と、ヘリコプターの挫折
15世紀末、フィレンツェ。カインはレオナルド・ダ・ヴィンチの雑然とした工房で、絵具を混ぜ、解剖用の死体を運び、若い弟子たちの恋愛相談に乗る「年配の助手」として働いていた。 この時の彼は、顔中に煤をつけ、ペンキの汚れた質素な革のチュニックを纏い、腰には自作の精密なノギスを下げていた。レオナルドは恐ろしい男だった。彼はカインの額の刻印――普段は巧妙な前髪の編み込みで隠されているが、鋭い観察者の前では隠しきれない量子的歪み――を、鏡を使ってじっと見つめ、「これは非常に効率的な黄金比と、私がまだ発見していない多次元的な幾何学によって構成されている。まるで天体の運行図を皮膚に閉じ込めたようだ」と、こともなげにスケッチしようとした。
「レオ、あまり深追いするな. 君のその好奇心は、時として人類の歩みを千年も早めてしまう。それは進化ではなく、単なる脱線だ。君はまだ、火薬と馬車の時代に生きていることを忘れるな. オーバースペックは、ユーザーを混乱させるだけだ」
レオナルドは自作の飛行機械の模型を動かしながら、カインに意見を求めた。動力源には、彼が夢想した「凝縮された雷」――つまりは電力を使いたいという、あまりに早すぎる着想を語った。
「やめておけ. ルネサンスの美しい空が、制御不能な火の海になる. 君が今設計すべきなのは、せいぜい水力揚水機か、効率的なパスタの製麺機だ. 人類には飛行機よりも先に、完璧なアルデンテのカルボナーラと、ペストを防ぐための衛生的な下水道が必要なんだ. 技術の飛躍は、時として倫理の死を招く. 君が描いた『モナ・リザ』の微笑みの謎を解明する方が、空を飛ぶよりよほど価値がある」
カインはレオナルドが寝静まった隙に、ヘリコプターの設計図の端にこっそりと「理想的なパスタの茹で時間と塩分濃度」を緻密な数式でメモし、肝心な回転翼の迎角を少しだけ修正して「理論上は飛ぶが、実際には一回転もできない」ようにしておいた。歴史を適切な速度に保ち、天才の暴走を食い止めるのも、管理者属性を持つ彼の重要な、そして孤独な任務だった。レオナルドは翌朝、首を傾げながら「計算が合わぬ……やはり神の許しが必要か」と呟き、代わりに見事な『最後の晩餐』に取り掛かった。




