第一幕:はじまりのバグ
第1章:人類最初の「やっちまった」事件
「死ぬというのは、実は膨大な事務手続きを伴うものなのだよ。現代の官僚機構の煩雑さも大概だが、天界のバックエンド・エンジニアたちの仕事の遅さに比べれば、地上などまだ効率的で可愛いものだ。彼らは一度発行したパス(通行許可)を無効化するのに、数千年単位の閣議決定を必要とするらしい。私の額にあるこの『印』が、その終わらない審議の証拠だ」
サン・ジェルマン伯爵は、1758年のヴェルサイユ宮殿、鏡の間から少し離れた、金糸の壁紙が剥げかかった薄暗い小部屋で、最高級のトカイワインをクリスタルグラスの中で転がしながら独りごちた。窓の外では、何も知らない貴族たちが、明日には消えてしまう流行と愛について熱心に語り合っている。彼らが「永遠」と呼ぶのは、せいぜい三代続く相続権のことだ。本物の永遠を前にすれば、彼らの愛も宝石も、一瞬の火花のような、儚いノイズに過ぎない。
この時の彼の姿は、当時の社交界の頂点にふさわしい、目に眩いほどの豪華さだった。深紅のベルベットのコートには、銀の刺繍が血管のように細かく、そして多次元的な幾何学を描いて張り巡らされている。首元には雪のように白いレースのジャボが幾重にも重なり、胸元には自身の技術で磨き上げた巨大なダイヤモンドが、ろうそくの光を吸い込んで青白く輝いていた。 カツラはあえて着用せず、自身の地毛を完璧なパウダーで整えていたが、その前髪の奥には、時折不規則に明滅する、量子的で目には見えない幾何学的な紋様が隠されていた。それが彼という存在の「管理者権限」であり、同時に「削除不可」の呪いでもあった。
彼の本名はカイン。苗字はない。強いて言えば「アダムの長男」だ。 数千年前、人類がまだ言葉よりも泥の匂いに親しみ、神の気配が風の中に生々しく残っていた頃、彼はエデンの東の荒野で、史上最悪の「システム・エラー」を引き起こした。嫉妬という名のショートが生じ、弟アベルの頭を岩で叩き割ったその瞬間、彼が期待していたのは、血の報復か、あるいは神の怒りによる即座の物理的な消去だった。しかし、天から降りてきたのは雷鳴ではなく、頭の中に直接響く、システムメッセージのような無機質なエラー音だった。
神が彼の額に刻んだ「印」は、後世の神学者が想像したような禍々しい刺青や傷跡ではない。それは量子的な、通常の人間の網膜には映らないが、宇宙の物理法則そのものに介入する「特権ユーザー用QRコード」に近いものだった。このコードが書き込まれた瞬間、カインという存在は宇宙のメインデータベースにおいて「削除不可(Read-Only)」属性が付与されてしまったのだ。
「誰もお前を殺すことはできない。お前を傷つける者には七倍の報いがあるだろう」
神の声は、怒りに満ちた審判というよりは、あまりに重大なセキュリティ事故を起こしたユーザーに対し、アカウントの削除すら拒否して永続的に監視下に置くという、冷徹なシステム管理者の通告のように響いた。 その日から、カインの人生は「終わらない行列に並ぶこと」と同義になった。絶望して崖から飛び降りれば、着地の瞬間に周囲の空気密度が勝手に変更されて綿毛のようにふんわりと着地し、鋭利なナイフを喉に当てれば金属の原子構造が一時的に液体へと変質する。
「つまり私は、冥界の役所から『提出書類の形式不備』を理由に永久に追い返され続けているわけだ。死ぬための許可証が、私の額にあるこの忌々しいコードのせいで、永久に受理されない。人生という名の、望まぬバカンスが無理やり延長され続けている。何千年も、だ。君なら、この無限に続く日曜日の午後をどう料理する?」
彼はヴァイオリンを手に取り、まだバッハもモーツァルトも生まれていないはずの時代に、宇宙の深淵を覗き込むような、数学的に完璧でいて、この世の誰よりも孤独な旋律を奏で始めた。




