第8話 大人になっても、隣の家の明かりが気になる
1
高校を卒業した。千紗は東京の美大に進んだ。桐島とは高二の冬に別れたと聞いた。俺は都内の大学の経済学部。乃愛とは——続いていた。
穏やかで、温かい関係。文句のつけようがない。
なのに——ときどき、ふとした瞬間に胸の奥がざわつく。テレビで油絵の展覧会のニュースを見たとき。街中で甘いシャンプーの匂いがしたとき。
桜が咲くと思い出す。あの通学路を。梅雨が来ると思い出す。相合傘の帰り道を。
千紗と最後に会話をしたのは、卒業式の日だった。
「元気でね、和泉くん」
「和泉くん」のまま。俺だけが「千紗」と呼んだ。そのアンバランスが、最後の刺し傷だった。
2
大学三年の秋。同窓会。
居酒屋の個室に入った瞬間——いた。千紗が、窓際の席に座っていた。
四年ぶりの千紗。髪が腰近くまで伸びていた。顔つきが大人びて、だけど目元の柔らかさは変わらない。ブラウスの胸元は——相変わらず存在を主張していた。
「……久しぶり、和泉くん」
「……ああ。久しぶり」
それだけの会話で、胸の巨木が盛大にざわめいた。
席替えで千紗の隣になった。千紗のシャンプーの匂いがした。四年前と——同じ匂い。
「……元気だった?」
「まあ、それなりに」
「……絵、続けてるんだな」
「うん。もう戻れない場所を描いてる」
千紗がギャラリーの案内状を差し出した。受け取るとき、指先が触れた。千紗の指は——冷たかった。
「……展覧会、行くよ」
千紗がほんの一瞬だけ、くしゃっと笑った。あの笑い方。一瞬で消えた。
3
駅への帰り道。千紗と並んで歩く。
「……彼女さん、大事にしてる?」
「……ああ。大事にしてる。つもりだ」
「そっか。よかった」
その優しさの中に、かつての傷が透けていた。許されて、祝福されるほうが——何倍もきつい。
「千紗は、今——誰かいるのか」
「……いないよ。何人かに告白されたけど——どれも、うまくいかなかった」
「なんでだろうね。自分でもわからない」
——嘘だ。千紗はわかっている。俺もわかっている。
4
帰宅後。窓の外を見た。隣の家の千紗の部屋のカーテンに、明かりが灯っていた。
その明かりを、しばらく見ていた。見ていただけだ。何もしない。何もできない。
ただ、隣の家の明かりが灯っているだけで、こんなにも胸が締めつけられるのだと——二十一歳になって、初めて知った。
5
十一月。表参道のギャラリー。千紗の作品は、奥の壁に三枚。
一枚目——「春の通学路」。桜並木。二つの影。
二枚目——「放課後」。夕暮れの屋上。二つのジュース。
三枚目——「隣の家」。窓から見える、カーテン越しの淡い光。
息が詰まった。千紗は、描いていた。俺たちの記憶を。
「——来てくれたんだ」
千紗が後ろに立っていた。白いブラウスに黒いスラックス。
「三枚目。……隣の家」
千紗の肩が、ぴくりと動いた。
「……見たまま描いただけだよ。自分の部屋の窓から見える景色」
俺の部屋の、窓の明かり。千紗もまた、カーテン越しの光を見ていた。
「千紗の絵——すごくよかった。俺は絵のことはわからない。でも——千紗の絵を見て、胸が苦しくなった。それは事実だ」
千紗がカップを握る手が微かに震えていた。
「……和泉くんにそう言ってもらえるのが、一番——」
千紗が口を噤んだ。最後まで言わなかった。一番嬉しい、と。
カフェを出た。表参道の通りで千紗が手を上げた。
「また、会えるよ。隣の家なんだから」
千紗が雑踏に消えていった。
スマホを取り出して、乃愛にLINEを送った。
【悠真】来週の土曜、パンケーキ食いに行こう
三秒で既読。
【乃愛】行く!!!!!!
二つの温度が、指先に残っていた。




