第7話 悪くない、と思ってしまった
幼馴染の彼女が発育良すぎて目のやり場に困るが、本人は俺にだけ無防備すぎる件
─── 第7話 悪くない、と思ってしまった ───
1
六月になった。
梅雨の走りが街を灰色に染めて、じめじめした空気が教室に充満している。
俺と千紗が別れて三週間。日常は回っている。朝は一人で起きて、一人で登校して、購買のパンを食べて、一人で帰る。
千紗とは隣の席だが、会話はない。千紗は美術部の友人と昼食を取るようになり、俺は健吾と購買のパンを食べている。
痛みは消えていない。だけど、痛みのかたちが変わった。最初は胸に刺さったナイフだったものが、今は鈍い重石になって胃の底に沈んでいる。慣れたわけじゃない。痛みの置き場所を覚えただけだ。
ある日の放課後。
健吾に誘われて、久しぶりにフットサルの練習試合に参加した。中学サッカー部のOBが集まる月一の恒例行事で、別れてからは足が遠のいていた。
体を動かすと、少しだけ頭が空になる。ボールを追いかけているときだけ、千紗のことを考えなくて済む。
試合が終わって、グラウンド脇のベンチで水を飲んでいると、
「あの、すみません」
声をかけられた。
振り返ると、女子が立っていた。
最初に目に入ったのは——申し訳ないが、胸だった。
白いTシャツの下で主張するそれは、千紗と同等か、あるいはそれ以上の迫力があった。千紗がふわふわとした柔らかさなら、この子は服の上からでもわかる豊かな丸みで、Tシャツの生地がぴんと張っている。
顔を上げる。ウェーブのかかったセミロングの茶髪。丸い目。ぽってりした唇。全体的にふわっとした、甘い印象の顔立ちだった。
「水、余ってたらもらえませんか。自販機遠くて……」
「あ、ああ。未開封のやつあるから」
スポーツバッグからペットボトルを出して渡した。
「ありがとうございます」
女子がにっこり笑った。あ、と思った。この笑い方は——ちょっとだけ、千紗に似ている。目元がくしゃっとなる感じが。
「あの、隣のコートでバスケの練習してて、見てたんですけど——」
女子がペットボトルを両手で握ったまま、少し恥ずかしそうに言った。
「サッカー、すごく上手ですね」
「……まあ、昔やってたから」
「私、運動する男の人好きなんです」
唐突すぎて、二秒ほどフリーズした。
「あ、変なこと言ってすみません。私、桃井乃愛って言います。隣の藤咲高の二年で——って、いきなり名前言っても困りますよね。えっと、あの——」
桃井乃愛。もものい のあ。舌を噛みそうな名前だ。
乃愛は一人でしゃべり続けていた。緊張しているのか、早口で、話があちこちに飛ぶ。
「——ごめんなさい、私緊張すると喋りすぎちゃうんです。あの、迷惑じゃなかったら連絡先交換してもらえませんか。ダメなら全然いいんですけど。でもできたら嬉しいなって——」
必死だった。顔が真っ赤で、ペットボトルを握る手が震えている。
千紗が消しゴムを借りに来たときのことを、ふと思い出した。あれとは違う。千紗は静かに震えていたが、乃愛は全力で前のめりに震えている。不器用で、ストレートで、隠しごとができなさそうな子だった。
「……いいよ。交換しよう」
乃愛の顔がぱっと明るくなった。
「ほんとですか。やった。えっと、えっと——」
スマホを出す手がまだ震えていて、二回落としかけた。
この子、大丈夫か。
2
翌日から、乃愛のLINEが始まった。
【乃愛】昨日はありがとうございました!桃井です!
【乃愛】あ、乃愛って呼んでくれたら嬉しいです
【乃愛】お水もありがとうございました。美味しかったです
【乃愛】水に美味しいとか変ですよね。ごめんなさい
【乃愛】あの、今度の土曜ってお暇ですか?
【乃愛】駅前にパンケーキの美味しいお店があるんです
【乃愛】もちろん私がおごります!
【乃愛】あ、やっぱり割り勘で!
【乃愛】ごめんなさい、メッセージ多すぎですよね
【乃愛】減らします
【乃愛】減らすって言った直後にまた送ってる……
十一連投。
千紗の五連投を余裕で超えている。
読みながら、不覚にも笑ってしまった。久しぶりに、口角が上がった。
【悠真】土曜、空いてる
送信すると、既読が一秒でついた。
【乃愛】!!!!!!!!
【乃愛】ほんとですか!!!!
【乃愛】嬉しい!!すごく嬉しいです!!
【乃愛】じゃあ土曜の11時に駅前集合で!!
【乃愛】あ、私のこと見つけられるように目印つけていきますね
【乃愛】赤いカーディガン着ていきます!
【乃愛】楽しみです!!おやすみなさい!!
ビックリマークの数がインフレしている。この子は全力しか知らないのか。
スマホを置いて、天井を見上げた。
別の女の子と遊びに行く。千紗と別れてから初めてのことだ。
罪悪感が——あると思った。
だけど、なかった。
あったのは、小さな——本当に小さな、温かさだった。
3
土曜日。駅前。
赤いカーディガンはすぐに見つかった。というか、見つけないほうが難しかった。
乃愛は改札の前で、きょろきょろと辺りを見回していた。赤いカーディガンの下は白いワンピース。ウェーブのかかった茶髪がふわふわと風に揺れていて、赤と白の組み合わせが甘い印象をさらに甘くしている。
そして——ワンピースの胸元が、尋常じゃない仕事をしていた。
白い生地が張り詰めて、谷間の影がうっすら見える。歩くたびに揺れる質量感は、千紗と同等かそれ以上だ。本人は全く気にしていないのか、無防備にきょろきょろしている。
千紗と同じタイプの無防備さだ。ただし千紗が「俺にだけ」無防備だったのに対して、乃愛はたぶん全方位に無防備だ。
「和泉くん!」
乃愛が俺を見つけて、小走りで駆け寄ってきた。
——揺れる。
物理法則に忠実に、盛大に揺れている。
走らないでくれ、と心の中で祈ったが、乃愛はすでに目の前に到着していた。
「来てくれた。嬉しい。あ、早く着いちゃって三十分くらい待ってたんですけど、全然苦じゃなかったです。楽しみすぎて」
早口。情報量が多い。だが不快ではない。
「……三十分は早すぎだろ」
「だって遅刻したら印象悪いかなって。あ、印象って言うのも変ですよね。初めてのお出かけだし——お出かけ? デート? どっちですか?」
「……どっちでもいい」
「じゃあデートで!」
即決だった。迷いがない。
パンケーキ屋に入った。乃愛はいちごとホイップクリームのパンケーキを頼み、俺はメープルのやつを頼んだ。
パンケーキが来ると、乃愛は目を輝かせて写真を撮り、俺にも「はい、撮って」と自分のスマホを渡して、パンケーキと一緒にピースしている乃愛を撮らされた。
「わあ、美味しそうに撮れてる。和泉くん、写真上手」
「スマホのカメラが上手いだけだ」
「そういう返し好きです」
乃愛がけらけらと笑った。
パンケーキを食べながら、色々な話をした。乃愛は藤咲高のバスケ部で、ポジションはセンター。身長は165センチだがジャンプ力があるらしい。好きな食べ物はオムライスとプリン。苦手なものは辛いものと虫。弟が一人いて、家では犬を飼っている。
特別な話は一つもない。だけど乃愛は全部を楽しそうに話す。しゃべっている最中にパンケーキのクリームが鼻についたのに気づかず、俺が指摘するまでそのままだった。
「え、嘘。ずっとついてた? 恥ずかしい——」
顔を真っ赤にしてナプキンで拭く乃愛を見ながら、俺はまた笑っていた。
笑えている。自然に。
千紗のことを考えなかった——と言ったら嘘になる。パンケーキを食べながら、「千紗なら和風の甘味処を選ぶだろうな」と頭をよぎった。
だけどそれは痛みを伴う思考ではなく、ただの記憶だった。風景の一部のような、遠い記憶。
「和泉くん」
「ん」
「今日、来てくれてありがとうございます」
乃愛がフォークを置いて、両手を膝の上に揃えて、まっすぐにこちらを見た。丸い目が、真剣だった。
「私、実はすごく緊張してて。メッセージも送りすぎちゃうし、しゃべりすぎちゃうし、鼻にクリームつけるし——最悪ですよね」
「最悪じゃない」
「ほんとですか」
「ああ。……楽しい」
言ってから気づいた。これは社交辞令ではなく、本心だった。
乃愛の目がうるんだ。
「……私もです。すっごく楽しい」
乃愛がにっこりと笑った。あの笑い方。目元がくしゃっとなる笑い方。
似ている。千紗に似ている——と思った直後に、違う、とも思った。
似ているのは表層だけだ。千紗の笑顔の奥には、十二年分の文脈がある。乃愛の笑顔には、今日生まれたばかりの、まっさらな喜びがある。
どちらが良いとか悪いとかではなく——違うのだ。
そして、違うことが嫌じゃなかった。
4
乃愛の攻勢は、そこからさらに加速した。
翌週。
【乃愛】和泉くん!今日学校終わったら会えますか?
【乃愛】駅前で30分だけでも!
【乃愛】手作りのクッキー焼いたんです
【乃愛】ちょっと焦げちゃったやつもあるんですけど
放課後、駅前で待ち合わせた。乃愛はリボンのかかった小さな紙箱を差し出してきた。
「はい、これ。昨日の夜焼いたんです」
開けると、ハート型のクッキーが並んでいた。確かに何枚かは端が焦げている。
「……ハート型」
「あっ、やっぱり重いですか。型がハートしかなくて——嘘です、星型もあったけどハートにしました。ごめんなさい」
嘘をついてすぐ訂正する。この子は本当に嘘がつけない。
クッキーを一枚食べた。バターの風味がちょっと強くて、甘さは控えめ。焦げた部分はほろ苦い。お世辞にもプロの味ではない。
だけど——
「美味い」
「え、ほんとですか」
「ほんとに」
嘘じゃなかった。不格好で、焦げていて、ハート型で。だけど誰かが自分のために夜更かしして作ってくれたものは、それだけで美味い。
乃愛が両手で口元を押さえた。目がきらきら光っている。
「よかった……嬉しい……実は三回失敗して四回目でやっとマシになったやつで……」
「四回……」
「一回目は炭になりました」
「炭」
「二回目は生焼けでした」
「両極端だな」
「三回目はなぜか塩と砂糖を間違えて」
「それはもう別の料理だろ」
乃愛がけらけら笑って、俺もつられて笑った。
笑いながら、ふと気づいた。千紗の弁当を食べていたとき、俺は「美味い」の一言で終わらせていた。千紗が四時半に起きて作ってくれた弁当に、それだけ。
乃愛のクッキーは千紗の弁当の足元にも及ばない。だけど俺は今、乃愛のクッキーに「四回目」のエピソードを聞いて、焦げた部分まで味わって食べている。
この違いは——何だ。
千紗の料理が当たり前になっていた。もらうことに慣れていた。千紗の努力を、日常の一部として消費していた。
乃愛の不格好なクッキーは、まだ当たり前じゃない。だから一枚一枚が新鮮で、一つひとつのエピソードが面白い。
千紗に対して、俺はこういう受け取り方ができていなかった。
その気づきが、胸の奥にちくりと刺さった。
5
三回目のデートは水族館だった。
乃愛はペンギンの前で十五分動かなくなり、クラゲの水槽では「きれい」と呟いて涙ぐみ、サメの餌やりショーでは興奮して俺の腕を掴んだ。
掴まれた腕に——柔らかいものが、押し付けられた。
千紗のときと同じ構図だ。だが圧力の方向が違う。乃愛は興奮すると前のめりに体ごとぶつかってくるタイプで、結果として腕が完全に胸元に埋まる。
「すごい! サメってあんなに大きいんですね!」
「……おう」
「和泉くん? 顔赤いですよ?」
「……サメが興奮させるタイプだった」
「サメって興奮させるタイプとかあるんですか?」
天然だ。この子は天然で無防備なのだ。
水族館を出たあと、隣の公園のベンチに座った。夕焼けが海を染めている。
乃愛がお土産ショップで買ったペンギンのぬいぐるみを膝に乗せて、ふにふにと触っている。
「今日、すっごく楽しかったです」
「ああ。……俺も」
「和泉くん、最近ちょっとだけ笑うようになりましたよね」
「……そうか?」
「最初に会ったとき、全然笑ってなかったから。目が死んでるなって思いました」
「直球すぎないか」
「あ、ごめんなさい。でもほんとに心配だったんです。この人、何か辛いことがあったんだなって。だから——」
乃愛がペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。
「笑ってくれるようになって、嬉しいなって」
乃愛がこちらを向いた。夕陽に照らされた丸い目が、まっすぐに俺を見ている。
「和泉くん。私のこと——どう、思ってますか」
似たような問いかけを、前にも聞いた。
だけど乃愛の問いは、千紗の「本当に好き?」とは違った。千紗の問いには十二年分の切実さと恐怖が詰まっていた。乃愛の問いには、新品の勇気がぶるぶると震えている。
「……正直に言っていいか」
「はい」
「好きか嫌いかで言ったら——嫌いじゃない。むしろ、かなり好きだ」
乃愛の目が丸くなった。
「ただ——俺には、まだ整理がついてないことがある。前に付き合ってた子のことで。それを隠して付き合うのは、お前に対して不誠実だと思う」
前回、千紗に「好きかわからない」と正直に話して、千紗を壊した。あのときの俺は、正直であることを自分の免罪符にしていた。
今は違う。隠さないのは免罪符じゃなく、乃愛に判断材料を渡すためだ。
乃愛がぎゅっとペンギンを抱き締めた。数秒の沈黙のあと——
「知ってますよ」
「……え?」
「天野千紗さんでしょ。同じ高校の」
「なんで——」
「フットサルのとき、同じチームの人が話してたの聞こえちゃって。『和泉、幼馴染と別れたらしいぞ』って」
乃愛が照れ笑いをした。
「それでも話しかけたの、私です。知った上で来てます」
この子は——自分から飛び込んでくるタイプだ。リスクを承知で、全力で。
「だから、整理がついてなくても大丈夫です。急がないです。私、和泉くんの隣にいるだけで十分なので」
千紗と同じ言葉。
だけど俺の受け止め方が、前とは違った。
千紗のとき、俺は「隣にいてくれるならいいか」と甘えた。受け取るだけで、何も返さなかった。
今度は——ちゃんと返さなきゃいけない。
この子の全力に、ちゃんと応えなきゃいけない。
「……わかった。じゃあ——付き合おう」
乃愛の目が、限界まで見開かれた。
「え」
「付き合おう。ちゃんと」
「え、えええ? いいんですか? えっ?」
「……いいから」
「う、嬉しい——嬉しいです——えっ、どうしよう——」
乃愛がペンギンのぬいぐるみに顔をうずめた。「嬉しい」「どうしよう」「え、ほんとに」と、ぬいぐるみに向かってぶつぶつ言っている。
ぬいぐるみから顔を上げた乃愛の頬には、涙の跡があった。
「……ありがとうございます。大事にします。和泉くんのこと」
「……おう」
大事にします、と言われた。
大事にする側ではなく、大事にされる側。
また同じなのか——と思いかけて、首を振った。
今度は俺も、大事にする。
6
乃愛と付き合い始めて、日常が色を取り戻していった。
乃愛は千紗とはあらゆる意味で違った。
料理は壊滅的で、弁当は出てこない代わりに、会うたびにコンビニの菓子パンやシュークリームを持ってくる。「これ美味しいって口コミで見た!」と目を輝かせるたびに、俺は菓子パンの新商品に異様に詳しくなった。
千紗が静かに寄り添うタイプなら、乃愛は正面から体当たりしてくるタイプだった。
デートのたびに腕を組んで歩きたがるのだが、乃愛の場合、腕を組むと物理的にすごいことになる。胸元の圧が半端ではなく、腕全体が柔らかい質量に包まれる。本人はまったく気にしていない。
「和泉くん、こっちこっち。あのお店入ろう」
「……おう」
「あれ、顔赤い。暑い?」
「……暑い」
「じゃあアイス買ってあげる!」
天然と無防備の合わせ技。攻撃力は千紗と同等か、ベクトルが違う分だけ対処しづらい。千紗は意識的に距離を詰めて照れていたが、乃愛は無意識のまま密着してくるのでこちらだけが動揺する。
だけど——悪くなかった。
悪くないどころか、乃愛と過ごす時間は、確かに楽しかった。
乃愛は俺の暗い部分に触れようとしない。聞かない。詮索しない。ただ隣にいて、全力で笑って、全力でしゃべって、全力でクリームを鼻につける。
その明るさが、鬱陶しくなかった。むしろ——救われている、と感じた。
乃愛が好きか、と聞かれたら。
好きだ、と答えられるようになっていた。
千紗への好きとは違う。千紗への好きは井戸の底のように深くて暗くて、覗き込むと自分が落ちそうになる。乃愛への好きは日向のベンチで日差しを浴びているときの感覚に近い。温かくて、穏やかで、怖くない。
どちらが本物か、なんて比較は意味がない。
どちらも本物だ。ただ種類が違うだけだ。
千紗への感情を「整理がついていない」と言ったが、正確には整理のしようがないのだ。あれは十二年かけて俺の中に根を張った巨木だ。抜くことはできない。
だけど、巨木の横に新しい花を植えることはできる。
乃愛は——その花だった。
7
七月。期末テストの一週間前。
千紗に変化があった、と知ったのは健吾からだった。
「天野さん、桐島と付き合い始めたらしいぞ」
放課後の教室。健吾がさらっと言った。
「……そうか」
平静を装った。声は震えなかった。
だけど、胸の奥で巨木が揺れた。風が吹いたように、ざわざわと。
「桐島のほうから告白したらしい。天野さん、最初は断ったけど、二回目で受けたって」
二回目で受けた。つまり最初は断った。
最初に断った理由は何だ。桐島に興味がなかったから? まだ俺のことを——
やめろ。
俺は乃愛と付き合っている。千紗が誰と付き合おうが、俺が考えることじゃない。
翌日の昼休み。
教室で乃愛と一緒にシュークリームを食べていると——視界の端に、千紗と桐島が並んで弁当を食べているのが映った。
千紗が弁当を食べている。一段の弁当箱。中身は見えないが、彩りがきれいなのは遠目にもわかる。千紗の弁当だ。
桐島が何か言って、千紗が笑った。小さく、控えめな笑い。
俺に見せていた笑顔とは違う。社交辞令ではないけれど、全開でもない。慎重に、少しずつ心を開いているような笑い方。
桐島が千紗の弁当のおかずを指して何か言った。千紗が「食べる?」とおかずを差し出した。桐島が「いいの?」と聞いて、千紗が頷いた。
——千紗が桐島にお弁当のおかずをあげている。
胸の巨木が、大きく揺れた。
「和泉くん?」
乃愛の声で我に返った。
「シュークリーム、溶けてるよ」
見ると、手の中のシュークリームからクリームがはみ出していた。握る力が強すぎたらしい。
「……ああ、悪い」
乃愛はにこにこ笑いながらティッシュを差し出してくれた。俺の視線がどこに向いていたか、気づいていないのか——あるいは気づいていて、あえて触れないのか。
どちらにしても、乃愛の笑顔に嘘はなかった。
千紗のことを考えていた数秒間を、乃愛のティッシュが優しく拭き取ってくれた。
8
八月。夏休み。
乃愛と花火大会に行った。
浴衣姿の乃愛は、予想通りすさまじい破壊力だった。紺地に白い花柄の浴衣。帯の上で強調される豊かな胸元。うなじ。下駄のかかとから覗く足首。全方位からの攻撃に、俺の防御力は瞬時に崩壊した。
「わあ、きれい——」
花火が上がるたびに、乃愛が空を見上げて声を上げた。火花が乃愛の丸い目に映って、きらきらと光っている。
「和泉くんも見て、あれすごい」
「……見てる」
花火ではなく乃愛を見ていることには、触れないでおいた。
ひときわ大きな花火が上がった瞬間、乃愛が「わあ」と声を上げて、俺の腕にしがみついた。浴衣越しの柔らかい感触が腕全体に伝わる。
「……っ」
「ねえ和泉くん、今の見た? すっごくきれいだった」
「ああ……見た」
「和泉くんと一緒に見られてよかった」
乃愛が俺の腕にしがみついたまま、空を見上げた。花火の光が消えて、夜空が一瞬暗くなる。
その暗闇の中で、乃愛がそっと俺の手を握った。
「……来年も、一緒に来てくれますか」
小さな声。花火の音にかき消されそうな声。いつもの元気な乃愛ではなく、不安と期待が半分ずつの声。
「……ああ。来年も来よう」
乃愛の手がきゅっと力を込めた。
「えへへ」
——その瞬間。
頭の中で何かが火花のように弾けた。
えへへ。
千紗の口癖。乃愛も同じ笑い方をする。
似ている。似ているけど違う。千紗の「えへへ」はもっと控えめで、目を伏せがちだった。乃愛の「えへへ」は明るくて、目がきらきらしている。
違うのだ。全然違う。
乃愛は千紗の代わりじゃない。乃愛は乃愛だ。
そのことを確認するたびに、千紗の輪郭が鮮明になる。忘れようとしているわけじゃない。忘れられないことを、もう受け入れている。
花火が夜空いっぱいに広がった。
乃愛が隣にいる。手を繋いでいる。温かい。
千紗のことを思い出しても、乃愛への気持ちは消えない。乃愛の手を握っても、千紗の記憶は消えない。
二つの気持ちが、胸の中に同居している。
矛盾しているのかもしれない。だけど——これが、今の俺の本当だった。
9
千紗と桐島も、順調なようだった。
九月。文化祭の準備が始まった。二年三組の出し物はカフェで、俺と千紗は同じクラスだから当然同じ準備に参加する。
別れてから四ヶ月。さすがにもう、同じ空間にいるだけで動悸がするようなことはない。会話も最低限はするようになっていた。
「和泉くん、机こっちに移動してもらっていい?」
「ああ」
「ありがとう」
敬語ではないが、名前は「ゆうくん」から「和泉くん」に戻っていた。それが正しい距離だと、二人とも暗黙に了解していた。
文化祭準備の合間に、千紗と桐島が校庭を一緒に歩いているのを窓から見た。桐島が何か言って、千紗が笑っている。控えめだった笑い方が、少しだけ自然になっていた。
嫉妬——と呼ぶほど激しくはない。だけど、胸の奥がきゅっとなる。あのきゅっとしたものの正体を、俺はもう知っている。
知っているけど、蓋をする。
蓋をして、乃愛にLINEを送る。
【悠真】文化祭、来るか?
三秒で既読。
【乃愛】行く!!!!絶対行く!!!!!
【乃愛】和泉くんのカフェ服姿見たい!!!
【乃愛】何時から行っていいですか?
【乃愛】開始の一時間前から並んでいいですか?
【乃愛】並びます!!
この子は本当に全力だ。
スマホを閉じて、窓の外を見た。
千紗と桐島の姿は、もう見えなかった。
10
文化祭当日。
乃愛は宣言通り、開始一時間前から正門に並んでいた。赤いカーディガン。初めてのデートと同じ服。それが彼女なりの気合いの入れ方なのだと、今ならわかる。
「和泉くん! カフェ服かっこいい!」
「ただの白シャツとエプロンだぞ」
「それがいいの!」
乃愛が腕を組んで、クラスのカフェに入ってきた。他校の制服と赤いカーディガンの組み合わせは目立つ。加えてこのスタイルだ。クラスの男子が二度見三度見している。
「ゆ——和泉くん、彼女さん?」
クラスメイトに聞かれた。乃愛が満面の笑みで「はい!」と答えた。堂々としている。
千紗は——別のシフトでカフェの接客をしていた。猫耳のカチューシャをつけた千紗のメイド風の姿は、クラスの企画として当然のことだが、破壊力が凄まじかった。男性客の注文が明らかに千紗のシフトに偏っている。
乃愛と並んでカフェの席に座っていると、千紗がオーダーを取りに来た。
一瞬だけ——千紗の視線が、俺の隣の乃愛に向いた。
乃愛が俺の腕に自然にしがみついている姿。笑っている姿。
千紗の表情は変わらなかった。接客用の穏やかな笑顔のまま。
「ご注文はお決まりですか?」
「コーヒー二つ」
「かしこまりました」
千紗がメモを取って去っていく。
その背中を見送った乃愛が、小さく言った。
「……天野さんって、きれいな人だね」
「……そうだな」
「和泉くんの元カノ、だよね」
驚いて乃愛を見た。乃愛はにこにこしていたが、目の奥に小さな翳りがあった。
「……ああ」
「知ってたよ。最初から。……やっぱりきれい」
乃愛がコーヒーカップを両手で包んだ。
「私にないもの、たくさん持ってる感じ。料理上手そうだし、おしとやかだし。……ちょっと嫉妬しちゃう」
「……」
「でもね」
乃愛がぱっと顔を上げた。いつもの笑顔。太陽みたいな笑顔。
「今の和泉くんの隣にいるの、私だから」
強がりではなかった。乃愛の目はまっすぐだった。不安はある。だけどそれ以上に、自分の立っている場所を信じている目だった。
「……ああ。そうだな」
俺は乃愛の手に、自分の手を重ねた。
カウンターの向こうで、千紗が別の客にコーヒーを運んでいた。猫耳のカチューシャが揺れている。
目が合った——ように見えた。
一瞬。ほんの一瞬。
千紗の目が、俺と乃愛の重なった手を見た。それからすぐに逸らした。
千紗の表情は穏やかなままだった。何も変わらない。
だけど——コーヒーカップをソーサーに置くとき、かちゃん、と小さな音を立てた。いつもの千紗なら、音を立てずに置く。
あの音が、千紗の本音だったのかもしれない。
あるいは——ただの偶然か。
俺には、もうわからなかった。




