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第6話 好きだったのか、寂しかっただけなのか

1

土曜日。

千紗からの「おはよう」がない朝は、これで二日目だった。

目覚ましで起きた。インターホンは鳴らない。当たり前だ。昨日の通学路で、千紗は泣いた。俺は「答えられない」と言った。そのあと千紗は一日中俺を見なかった。

朝食を一人で食べた。トーストとコーヒー。天野家の卵焼きはない。

窓の外を見た。隣の家の二階——千紗の部屋のカーテンが閉まっている。土曜の朝八時。千紗は休日でも早起きだ。いつもならカーテンを開けて、窓越しに手を振ってくる。

閉まったままのカーテンが、千紗の意思表示に見えた。

スマホを開いた。LINEのトーク画面。最後のやり取りは木曜の夜、千紗からの短いメッセージだった。

【千紗】明日のお弁当、ハンバーグにするね

たった一行。絵文字もない。ビックリマークもない。「えへへ」もない。

あの一行を打つとき、千紗は何を思っていたのだろう。翌朝、俺に「本当に好き?」と聞くと決めていたはずだ。それでも弁当のメニューを伝えた。聞いた答えがどうであれ、弁当は作ると決めていた。

その献身を、俺は「不誠実」だと思った自分の気持ちの言い訳に使っている。千紗が一方的に尽くしている。俺は受け取るだけだ。だから俺の好きは本物じゃないかもしれない。

——本当にそうか?

自分の心を覗き込もうとする。だが水面が揺れていて、底が見えない。

一つだけ確かなことがある。

千紗がいない朝は、こんなにも静かだということ。

その静けさが心地いいのか、耐えがたいのか。それすら判断がつかなかった。


2

日曜日。

何もしなかった。

課題もせず、本も読まず、ゲームもせず。ベッドに寝転がって天井を見ていた。

何度かスマホを手に取った。千紗のトーク画面を開いて、閉じて、また開いた。何を打てばいい。「ごめん」か。何に対する謝罪なのか自分でもわからないのに謝るのは、謝罪ではなく免罪符だ。

夕方、母親が部屋に来た。

「まもる——じゃなかった、悠真。千紗ちゃん来ないけど、喧嘩でもした?」

「……別に」

「そう。千紗ちゃんのお母さんから聞いたんだけど、千紗ちゃん昨日からずっと部屋にいるらしいよ。ご飯もあんまり食べてないって」

胸が詰まった。

「余計なお世話かもしれないけど——千紗ちゃん、あんたのことすごく大事にしてるからね。小さい頃からずっと」

母親が部屋を出ていった。

千紗が部屋にこもっている。ご飯を食べていない。

——俺のせいだ。

わかっている。わかっているのに、動けない。動くためには、千紗の問いに答えなければならない。

「本当に好き?」

好きだ——と思う。思うのだが、その「好き」を構成しているものが何なのかを分解すると、醜いものが混じっている気がしてならない。

朝起こしてくれるのが嬉しいのは、千紗に起こされるのが嬉しいのか、誰かに起こしてもらえることが嬉しいのか。

弁当が美味いのは、千紗の弁当だから美味いのか、手作り弁当という行為に感動しているだけなのか。

千紗が他の男と話すのが嫌なのは、千紗を失いたくないからなのか、自分のテリトリーを侵されるのが嫌なだけなのか。

どこまで掘っても、「純粋な好き」の底に「自分の都合」が沈んでいるような気がする。

俺が千紗を好きなのは——千紗が、俺を好きでいてくれるからじゃないのか。

千紗が俺に向けてくれる無条件の愛情。それに包まれていることの心地よさ。失いたくないのは千紗ではなく、千紗が与えてくれるもの。

だとしたら——俺が好きなのは千紗じゃない。千紗に愛されている自分だ。

最低だ。

吐き気がするほど最低だ。

だけど、否定しきれなかった。


3

月曜日。

教室に入ると、千紗がすでに席に座っていた。

いつもなら俺の方が先に来る。千紗が先にいるのは珍しい。つまり——玄関で俺と鉢合わせたくなかったということだ。

「……」

「……」

目が合った。一瞬だけ。千紗がすぐに視線を逸らした。

横顔を見る。顔色が悪い。目の下にうっすらとくまがある。唇の色も薄い。週末ろくに食べていなかった、という母親の話が裏付けられた。

だけど千紗は、前を向いて座っていた。背筋を伸ばして、教科書を広げて。折れそうなのに折れない。その姿が余計に痛かった。

千紗の机の上に、弁当の紙袋はなかった。

俺の分を作ってこなかったのではない。千紗は自分の弁当も持ってきていなかった。

昼休み。千紗は購買でパンを買って、一人で食べていた。

俺の知る限り、千紗が購買のパンを食べたのは初めてだった。千紗は料理が好きで、中学の頃から自分の弁当は自分で作っていた。高校に入ってからは俺の分まで。

千紗が購買のパンをかじっている姿は、どこか別人のようだった。

食べ終わったパンの袋を丸めて、千紗がゴミ箱に捨てに立った。俺の席の横を通る。

「……千紗」

呼んだ。声が掠れた。

千紗が立ち止まった。俺を見なかった。

「……弁当箱、洗ったやつ。返したいんだけど」

言ってから、自分の言葉の薄っぺらさに吐き気がした。弁当箱。俺が最初に発した言葉が、弁当箱の返却。

千紗が、ようやくこちらを見た。

表情は穏やかだった。穏やかすぎた。感情を全部奥にしまい込んで、表面だけ丁寧に整えた顔。接客業の笑顔に似ている。千紗が俺に向ける顔ではない。

「……放課後でいいよ。ありがとう」

それだけ言って、千紗は席に戻った。

ありがとう。

千紗が俺に「ありがとう」と言った。丁寧な、他人行儀な「ありがとう」を。

いつもの千紗なら「えー、洗ってくれたの? ゆうくんやさしい」と笑うはずだ。その笑顔が消えたのは、俺が消したのだ。

健吾が何か言いたそうにこちらを見ていたが、俺は目を合わせなかった。


4

放課後。

千紗は美術部に行かなかった。

ホームルームが終わると、千紗が俺の席に来た。

「弁当箱、もらっていい?」

事務的な声。俺は鞄から布巾に包んだ三段の弁当箱を取り出して渡した。

千紗が受け取る。指が触れた。ほんの一瞬。

千紗の指が、氷のように冷たかった。

「ありがと——」

「千紗。話がある」

千紗の手が止まった。

教室にはまだ数人の生徒が残っていた。俺は立ち上がって、鞄を持った。

「屋上、行こう」

千紗が一瞬、揺れた。目が揺れた。屋上は——最初に千紗と特別な会話をした場所だ。期末テスト最終日の、あの昼休み。千紗がジュースを持ってきて、「ゆうくんの隣だと、飲み込まなくていい気がする」と言った場所。

「……うん」

千紗が頷いた。

屋上へ続く階段を、二人で上った。足音が反響する。無言のまま、階段を上る。

ドアを開けると、五月の風が吹き込んできた。

放課後の屋上。部活動の掛け声が遠くに聞こえる。空は高く、雲が流れている。

フェンスにもたれて、向かい合った。

千紗が弁当箱を胸に抱えて、俺を見ている。風が栗色の髪を揺らしていた。

「……話って?」

千紗の声は、静かだった。

俺は深呼吸した。

言わなければならないことがある。千紗に。そして自分に。

「金曜に聞かれたこと。答える」

千紗の瞳が微かに揺れた。だが何も言わず、黙って待っている。

「お前に『本当に好きか』って聞かれて、俺は答えられなかった。あのあとずっと考えてた。土曜も日曜も、ずっと」

風が吹いた。千紗の髪が舞う。

「考えた結果——正直に言う」

息を吸う。吐く。

「俺は——自分の『好き』が、本物かどうかわからない」

千紗の表情が、固まった。

「千紗が毎朝迎えに来てくれること。弁当を作ってくれること。『好き』って言ってくれること。手を繋いでくれること。それが全部嬉しかった。それは本当だ」

「でも——」

ここからが、血を流す部分だ。

「——嬉しいのが、千紗だからなのか。千紗がしてくれることが嬉しいだけなのか。その区別が、俺にはつかない」

千紗の顔から、最後の色が消えた。

「千紗が俺を好きでいてくれるから、俺も千紗を好きなんじゃないかって。千紗の愛情に——甘えてるだけなんじゃないかって。それが消えたら俺の中に何が残るのか——」

「やめて」

千紗の声が、鋭く空気を切った。

顔を上げると、千紗が唇を噛んでいた。目が赤い。だけど涙は流れていない。流さないように、全力で堪えている。

「やめて。そんなの聞きたくない」

「千紗——」

「ゆうくんは今、わたしに何を言ってるかわかってる?」

千紗の声が震えていた。怒りなのか悲しみなのか、本人にも区別がついていないような声。

「わたしがしてきたこと全部——朝起こしに行ったのも、お弁当作ったのも、好きって言ったのも——それが、ゆうくんの『好き』を歪めた原因かもしれないって言ってるんだよ?」

「違う。そういう意味じゃ——」

「じゃあどういう意味?」

千紗が一歩、踏み込んだ。

「わたしが何もしなかったら、ゆうくんはわたしを好きにならなかったってこと? わたしの好きが重すぎたから、ゆうくんは自分の気持ちがわからなくなったってこと?」

「——」

言葉が出なかった。

否定したかった。そうじゃないと言いたかった。だけど——千紗の言葉は、俺が考えていたことの別の角度からの翻訳だった。

俺の自己分析は、千紗の献身を加害に変換していた。

千紗が愛を注いだから、俺の「好き」が本物かわからなくなった。そう言っているのと同じだ。十二年間、千紗がくれたもの全部を、俺は自分の弱さの言い訳に使っている。

「……最低だ」

俺の口から、自分に向けた言葉が漏れた。

「最低だよ」

千紗が言った。俺に向かって。初めて。

「最低だよ、ゆうくん」

涙が、ついに溢れた。

「わたしは——ゆうくんに見返りがほしくてやってたんじゃない。好きだから、そうしたかったからやってたの。お弁当を作るのが嬉しかった。ゆうくんが『美味い』って言ってくれるのが嬉しかった。それだけでよかったの」

千紗の涙が、風に散った。

「なのに——それを、ゆうくんの口から『俺の好きを歪めたかもしれない』って言われたら——」

千紗が弁当箱を抱える腕に力を込めた。ぎゅっと、爪が白くなるほど。

「わたしの十二年は何だったの」

声が、割れた。

「ゆうくんの隣にいた十二年。全部、ゆうくんの負担だったの?」

「違う——」

「じゃあ何!?」

千紗が叫んだ。屋上に声が響いた。部活の掛け声が止んだ気がした。

「わたしね、ゆうくんに告白されたとき、やっと報われたって思ったの。十二年かかったけど、やっと届いたって。ゆうくんの『好きだ』が世界で一番嬉しかった。人生で一番幸せだった」

涙が止まらない。言葉も止まらない。

「でも——その『好きだ』が、ゆうくん自身にとって嘘かもしれないって言われたら」

千紗が泣きながら笑った。第3話の告白のときとは違う。あれは幸せの泣き笑いだった。今のは——壊れかけの笑みだった。

「わたしの幸せ、全部なくなっちゃう」

「千紗——」

「……ねえ、ゆうくん」

千紗が涙を拭わなかった。頬を伝うままにして、俺を見た。

「ゆうくんは、自分の気持ちがわからないって言ったよね」

「……ああ」

「じゃあ——わかるまで、離れよう」

心臓が、止まった。

「離れ——」

「付き合うの、やめよう」

千紗の声は、静かだった。さっきまでの叫びが嘘のように、凪いだ水面のような声。

泣きながらの、穏やかな声。

それが一番怖かった。

「ゆうくんが自分の気持ちをわからないまま、わたしの隣にいても——二人とも苦しいだけだよ」

「待て。俺は別れたいなんて——」

「わたしも別れたくないよ」

千紗が微笑んだ。涙で濡れた、透明な笑顔。

「別れたくない。ゆうくんの隣にいたい。明日も弁当作りたい。手を繋ぎたい。『好き』って言いたい。全部、全部したい」

声が震えていた。

「でもね——わたしが隣にいたら、ゆうくんは永遠にわからないと思う」

「……」

「わたしがいなくなって初めて、ゆうくんは自分の気持ちに向き合える。わたしがいたら、ゆうくんはまたわたしの愛情に甘えて、考えるのをやめちゃう。それは——ゆうくんのためにも、わたしのためにもならない」

正しい。

正しすぎて、何も言い返せなかった。

千紗は俺のことを十二年見てきた。俺の弱さも、ずるさも、臆病さも、全部知っている。だから千紗の分析は正確だ。残酷なほど正確だ。

俺がこのまま「別れたくない」と言えば、千紗は受け入れるだろう。千紗はやさしいから。俺がすがれば許してくれる。それは千紗の強さではなく、千紗の弱さだ。俺への愛情が判断を鈍らせる。

——それを利用するのか?

千紗の愛情を人質にして、自分の弱さを温存するのか?

それこそ、千紗が指摘した構造そのものだ。

「…………」

長い、長い沈黙。

風が吹いている。屋上のフェンスが微かに音を立てている。夕方の光が斜めに差して、千紗の涙の跡を光らせていた。

俺は——口を開いた。

「……千紗の言う通りだ」

千紗の肩が、小さく震えた。

否定してほしかっただろう。「別れない」と言ってほしかっただろう。引き止めてほしかっただろう。千紗が自分から「離れよう」と言ったのは、俺に引き止めてほしかったからかもしれない。

だけど——ここで引き止めることが、千紗への誠実さだとは思えなかった。

自分の気持ちがわからないまま千紗の手を掴むのは、愛ではなく依存だ。

「……時間が、ほしい」

声が震えた。

「自分の気持ちに、ちゃんと答えを出す。だから——」

言葉が喉で詰まった。

「——待っていてくれ、とは言わない。そんな資格はない」

千紗の目が大きく見開かれた。

「ただ——答えが出たら、伝えに行く。それだけは約束する」

千紗が唇を噛んだ。長い沈黙のあと、小さく頷いた。

「……うん」

一言。

千紗が弁当箱を抱え直した。きちんと胸の前で。両手で。

「……弁当箱、ありがとう。きれいに洗ってくれたの、わかったよ」

「……」

「蓋の裏のやつ——見た?」

心臓が鳴った。

「……見た」

「そっか」

千紗が笑った。泣きながら。

「あれ、高一の最初に書いたの。ゆうくんに弁当作るようになった日に。毎朝あれ見て、よし今日も頑張ろうって思って——」

声が途切れた。

千紗が俯いて、弁当箱をぎゅっと抱き締めた。

「……もう、この弁当箱使うことないかもしれないんだなって思ったら——」

最後は声にならなかった。

ただ肩が震えていた。

俺は手を伸ばしかけた。千紗の肩に触れようとした。だけど——触れる権利を、さっき自分で手放したことを思い出して、手が止まった。

伸ばした手が、行き場を失って、下ろされた。

千紗がそれを見ていたかどうか、わからない。

「……じゃあね、ゆうくん」

千紗が背を向けた。

「じゃあね」ではなく「また明日」でもなく。ただの「じゃあね」。

終わりの合図のような、始まりの合図のような、曖昧な三文字。

千紗が屋上のドアに向かって歩いていく。一歩、一歩。その背中を、俺は見ていることしかできなかった。

ドアに手をかけたとき、千紗が立ち止まった。振り返らなかった。

「——わたしの十二年は、嘘じゃないよ」

静かな声。風に乗って、俺の耳に届いた。

「ゆうくんを好きだったこと。隣にいて幸せだったこと。全部、本当だよ」

ドアが開いて、千紗が中に消えた。

ドアがゆっくりと閉まる。金属が噛み合う音。それが最後の音だった。

俺は屋上に一人残された。

五月の風が吹いている。空は明るいのに、世界が暗い。

フェンスにもたれて、しゃがみ込んだ。

膝を抱えて、顔を埋めた。

泣いてはいない。泣けなかった。泣く資格がないと思った。千紗が十二年分の涙を流したのに、三週間しか向き合わなかった俺が泣くのは筋が通らない。

だけど——何かが、胸の中で壊れる音がした。

鈍い音。取り返しのつかない音。

千紗が最後に言った言葉が、頭の中でリフレインしている。

「わたしの十二年は、嘘じゃないよ」

それは——俺に向けた言葉であると同時に、千紗自身に言い聞かせた言葉だったのかもしれない。

俺の「好きが本物かわからない」という言葉は、千紗の十二年を否定したのだ。千紗にとって、俺に愛されていたという事実が唯一の報酬だった。その報酬が偽物かもしれないと言われたら——千紗は、十二年をどう受け止めればいい?

俺は自分を掘り下げようとして、千紗を生き埋めにした。

「正直に話す」ことが誠実だと思っていた。自分の弱さを曝け出すことが、千紗への真摯な態度だと。

違う。

あれは誠実じゃない。自分の不安を千紗に丸投げしただけだ。

「俺の好きは本物じゃないかも」という言葉は、内省のふりをした暴力だ。自分が楽になるために、千紗を傷つけた。

最低だと千紗に言われた。

最低以下だ。

「……千紗」

名前を呼んだ。もう誰もいない屋上で。

風だけが応えた。


5

翌日から、俺と千紗の日常は変わった。

変わった、というのは正確ではない。巻き戻った。十二年前の他人に。いや、他人よりもひどい。他人なら何も感じない。俺たちは——感じすぎる距離にいて、触れられなくなった。

千紗は朝、俺より先に家を出るようになった。

通学路ですれ違うことはない。時間をずらしている。俺が六時四十五分に出ることを知っているから、六時半には家を出ているのだろう。

教室では隣の席にいる。物理的な距離は一メートルもない。だけど千紗は俺を見ない。俺も千紗を見られない。

弁当はない。千紗は購買のパンか、コンビニのおにぎりを食べている。俺も購買のパンを買うようになった。

千紗が作らなくなったから、ではない。俺が千紗の弁当を受け取る資格を失ったから、千紗が作る理由がなくなったのだ。

健吾が、ある日の昼休みに言った。

「……お前ら、別れたのか」

「……ああ」

「……そうか」

健吾は何も聞かなかった。何も言わなかった。ただ自分のカツ丼弁当を食べながら、「購買のパン、チョコチップが一番マシだぞ」とだけ言った。

健吾のやさしさが沁みた。だけどそのやさしさに甘えることすら、今の俺には後ろめたかった。


6

一週間が過ぎた。

千紗のいない日常に、体が慣れ始めていることに気づいた。

朝は目覚ましで起きる。一人で朝食を食べる。一人で通学する。一人で弁当を食べる。一人で帰る。

千紗がいなくても、一日は回る。

その事実が——俺を打ちのめした。

千紗がいなくても生きていける。日常は続く。世界は何も変わらない。

やっぱり俺は千紗がいなくても大丈夫なんじゃないか。千紗のことを好きなんじゃなくて、千紗がいる便利さに慣れていただけなんじゃないか。

——そう結論づけかけた、水曜日の夕方。

帰り道。いつもの桜並木——今は葉桜の並木道を一人で歩いていた。

木漏れ日が地面に影を落としている。風が吹いて葉が揺れる。きれいな五月の午後。

ふと——目の前の影に違和感を覚えた。

自分の影が一つしかない。

当たり前だ。一人なんだから。

だけど今まで、この道で影が一つだったことがあっただろうか。記憶を辿る。幼稚園の頃から、この道にはいつも二つの影があった。大きさが違って、片方はいつも俺のすぐ隣にあって——

足が止まった。

千紗の影がない。

十二年間、当たり前のように隣にあった影がない。

その不在が、突然、物理的な重さを持って胸に落ちてきた。

当たり前すぎて見えなかった。空気みたいに。呼吸みたいに。

空気がなくなって初めて、息ができないことに気づくように。

目の奥が、熱くなった。

視界が滲んだ。木漏れ日がぐにゃりと曲がった。

「……あ」

涙だ。

泣いている。

通学路の真ん中で、一人で、泣いている。

止められなかった。一度溢れた涙が、堰を切ったように流れ出した。

「——ちさ」

名前を呼んだ。途中で声が詰まって、最後まで言えなかった。

もう一度。

「千紗——」

呼んだ。誰もいない葉桜の並木道で。返事はない。

だけど——わかった。

千紗がいなくても一日は回る。日常は続く。世界は変わらない。

変わらないのに、こんなに苦しい。

これが答えだ。

千紗のいない世界は回る。だけど、俺が回らない。

千紗がくれたものが嬉しかったんじゃない。千紗がいることが嬉しかったんだ。弁当が美味いんじゃない。千紗が作った弁当だから美味いんだ。誰かに起こしてもらうのが嬉しいんじゃない。千紗の声で起きるから嬉しいんだ。

千紗が俺を好きだから好きなんじゃない。千紗が千紗だから好きなんだ。

俺が恐れていた「千紗がいる日常が好きなだけ」という仮説は——千紗がいない日常を知って、初めて否定された。

千紗がいない日常は、日常の形をした空洞だ。

何もかもが揃っているのに、真ん中に穴が空いている。

千紗の形の穴だ。千紗以外の何をもってしても埋められない、千紗だけの穴。

涙が止まらなかった。

立ち尽くしたまま、泣いた。声を殺して、肩を震わせて。通りすがりの人が不審そうに見ていたかもしれないが、どうでもよかった。

泣きながら思った。

千紗は、これを十二年やっていたのだ。

俺の隣にいて、俺に好きだと伝えて、俺に応えてもらえなくて。それでも隣にいることを選んで。毎朝弁当を作って。笑って。

十二年間、ずっと。

その重さを——俺はようやく、ほんの少しだけ理解した。

ほんの少しだ。十二年には遠く及ばない。

だけど、このほんの少しが——たぶん、俺に足りなかったものだ。

千紗を失う痛みを知らなかった。失ったことがなかったから。

今、知った。

遅すぎるのかもしれない。取り返しがつかないのかもしれない。

だけど——

「……伝えに行く」

屋上で千紗に言った言葉。答えが出たら、伝えに行くと。

答えは出た。

だけど今日じゃない。

涙で濡れた顔で「好きだ」と言っても、それは感情の勢いだ。千紗が求めているのは、勢いではない。

俺がちゃんと自分の足で立って、自分の言葉で、自分の「好き」を定義して。

それを千紗に届けなければならない。

もう「俺も」じゃなく。

もう「お前のおかげで」じゃなく。

俺の中から生まれた言葉で。

「——まだ、だ」

涙を拭って、歩き出した。

帰り道は長い。千紗のいない帰り道は、果てしなく長い。

だけど、歩かなければならない。

一人で歩く、この道を。

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