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第5話 ねえ、わたしのこと、本当に好き?

幼馴染の彼女が発育良すぎて目のやり場に困るが、本人は俺にだけ無防備すぎる件

─── 第5話 ねえ、わたしのこと、本当に好き? ───


1

付き合い始めて二週間が過ぎた。

五月の連休が明けて、制服は冬服から夏服に切り替わった。半袖のブラウスに薄手のスカート。千紗の夏服姿は、冬服以上に俺の精神を削ったが、もうそれは日常の一部だった。

毎朝、千紗が迎えに来る。手を繋いで通学する。弁当を食べて、放課後は一緒に帰る。日曜日にはカフェに行ったり、本屋に寄ったりした。

なにも変わらないように見えて、全部が変わっている。手を繋ぐ温度。目が合ったときの心拍。名前を呼ぶときの声の質感。幼馴染だった頃には気づかなかった——いや、気づかないふりをしていたものが、輪郭を持って立ち上がってきた。

幸せだった。

間違いなく、幸せだった。

だから気づくのが遅れた。

千紗の笑顔の奥に、少しずつ影が差していたことに。


2

最初の違和感は、五月の第二週の月曜日だった。

放課後、千紗を美術室まで迎えに行った。ドアを開けると、千紗がキャンバスに向かっている。その横に、女子が二人。美術部の友人だろう。

「——だからさ、天野って和泉くんのどこが好きなの?」

聞き覚えのない声。俺は反射的にドアの影に隠れた。盗み聞きするつもりはなかった。ただ、千紗の名前と俺の名前が聞こえて、足が止まった。

「え、どこって……全部、だけど」

千紗の声。照れを含んだ、柔らかい声。

「全部って言うけどさあ、ぶっちゃけ和泉くんってそんなに愛情表現するタイプじゃないでしょ。デートとかちゃんとしてんの?」

「してるよ。日曜にカフェ行ったり——」

「カフェって、それ付き合う前からやってたやつじゃん。特別感なくない?」

千紗が沈黙した。

「あと、天野っていつも和泉くんのほう見てるけど、和泉くんが天野のほう見てるのあんま見たことないんだよね」

「そう……かな」

「告白も天野が押したんでしょ。和泉くんって、なんていうか——天野が好きっていうより、天野がいるのが当たり前になってるだけなんじゃないの?」

心臓が冷たくなった。

盗み聞きしている自分が最低だと思った。だが足が動かない。

千紗の返事を——聞きたかった。聞きたくなかった。

「……そんなことないよ。ゆうくんは、ちゃんと好きって言ってくれたもん」

千紗の声は、明るかった。いつもの千紗の声だった。

——だけど、俺にはわかった。

その明るさが、少しだけ無理をしている明るさだということを。

十二年の蓄積は、声のわずかな震えまで拾ってしまう。

俺は音を立てないように昇降口へ戻り、スマホを取り出した。

【悠真】今日は先に帰る。課題溜まってるから

送信してから、校門を出た。

五月の風が、妙に冷たく感じた。


3

その日から、俺は千紗の言葉を反芻するようになった。

いや、正確には千紗の友人の言葉を。

『和泉くんって、天野が好きっていうより、天野がいるのが当たり前になってるだけなんじゃないの?』

当たり前。

俺自身が千紗に言った言葉だ。手を繋ぐのは当たり前。一緒にいるのは当たり前。

それを——肯定的な意味で使ったつもりだった。ずっと一緒にいる。ずっと変わらない。だから当たり前。

だけど「当たり前」には別の意味もある。

慣れ。惰性。特別じゃないということ。

千紗は——俺の「当たり前」を、嬉しいと言ってくれた。あの日のLINEで。

だけどそれは、本当に嬉しかったのか。

それとも——嬉しいと思い込もうとしていたのか。

俺は千紗に、何をしてやれている?

毎朝迎えに来るのは千紗だ。弁当を作るのも千紗だ。「好き」を先に言うのも、手を繋ぎに来るのも、いつだって千紗のほうから。

俺がしたことは何だ。

「俺も」と返しただけだ。

千紗が差し出すものを、ただ受け取っていただけだ。

告白だって、桐島に追い詰められて、千紗に「諦める」と言われそうになって、ようやく——ようやくだ。

自分から動いたことが、一度でもあったか?

「……ない」

自室の天井を見上げて呟いた。

ないのだ。十二年間、一度も。

千紗がいなくなりそうになって初めて動く。それは「好き」ではなく「失いたくない」だ。その二つは似ているようで、まったく違う。

千紗の友人の言葉が、正鵠を射ていたのかもしれない。

俺は千紗が好きなんじゃない。千紗がいる日常が好きなだけなんじゃないか。

その疑念が、じわじわと胸の中に根を張り始めた。


4

火曜日。

朝、インターホンが鳴った。千紗だ。

玄関を開ける。いつもの笑顔。いつもの「おはよう、ゆうくん」。いつもの弁当の紙袋。

「はい、今日は肉じゃが弁当だよ」

「……サンキュ」

手を伸ばした。弁当を受け取る。

——千紗の手に、触れなかった。

意識したわけではない。ただ、昨日の思考がまだ頭の中でぐるぐると回っていて、手を握ることに後ろめたさがあった。

受け取るだけの自分。返すことができない自分。その手で千紗に触れる資格があるのか。

千紗の指先が、一瞬だけ宙を泳いだ。いつもなら俺が握るはずの手が、行き場を失って、鞄の持ち手を掴んだ。

「……行こっか」

千紗の声のトーンが、ほんの僅かに下がったことに、俺は気づいていた。

気づいていて——何もしなかった。

通学路を並んで歩く。いつもの桜並木。葉桜に変わった木々が、五月の風に揺れている。

二人の間に、手のひら一つ分の距離がある。

たったそれだけの距離が、十二年で一番遠く感じた。


5

水曜日。

異変は、少しずつ大きくなった。

昼休み。千紗が弁当を広げながら、いつものように聞いた。

「美味しい?」

「……ああ。美味い」

「えへへ」

千紗が笑った。だが俺は、いつもならその笑顔に返す「めちゃくちゃ美味い」の一言が出なかった。「美味い」の二文字だけ。素っ気ない。自分でもわかっている。

千紗の箸が、一瞬止まった。

「……ゆうくん、最近疲れてる?」

「……いや、別に」

「そっか」

千紗はそれ以上聞かなかった。代わりに、自分の弁当箱に目を落として、黙々と食べ始めた。

俺は千紗の横顔を見ていた。

睫毛が伏せられている。口元は笑っているのに、目が笑っていない。いつもの千紗を完璧に演じている。だけどそれは演技だと、俺にだけはわかってしまう。

わかってしまうのに——言葉が出ない。

何を言えばいい。「ごめん」か。何に対してのごめんだ。「大丈夫」か。何が大丈夫なんだ。「好きだ」か。その言葉に、嘘がないと言い切れるのか。

口を開けば何かが壊れそうで、口を閉ざせば何かが静かに死んでいくような。

そんな昼休みだった。


6

木曜日の放課後。

美術室に千紗を迎えに行くと、廊下で桐島とすれ違った。

「よう和泉。天野さん迎え?」

「……ああ」

「仲いいな。大事にしろよ」

桐島がいつもの爽やかな笑顔で去っていく。悪意は一切ない。だがその「大事にしろよ」が、胸に刺さった。

大事にしている——のか?

千紗が美術室から出てきた。俺を見て、ぱっと顔が明るくなる。

「ゆうくん、来てくれたんだ」

「……おう」

「嬉しい。最近忙しそうだったから、今日は先に帰るかなって思ってた」

千紗が俺の隣に並んだ。手が伸びかけて——止まった。

月曜日から、千紗のほうから手を繋ぎに来なくなっていた。

俺が握らなかったあの朝から、千紗は自分から手を出すことをやめた。いつも俺にべったりだった千紗が、手のひら一つ分の距離を保っている。

俺が作った距離を、千紗が受け入れている。

「……帰るか」

「うん」

並んで歩く。手は繋がない。

夕暮れの校庭を横切るとき、千紗がぽつりと言った。

「……ゆうくんさ」

「ん」

「最近、なんか遠い」

足が止まりかけた。

「……遠い?」

「うん。隣にいるのに、遠い。……気のせいかな」

千紗が笑った。自分の言葉を冗談にしようとする笑い方。失敗している。声が震えていた。

「……気のせいだろ」

最低の返答だとわかっていた。千紗が勇気を出して口にした言葉を、俺は二度目の嘘で塗り潰した。

千紗は何も言わなかった。ただ、歩く速度が少しだけ遅くなった。

俺は合わせなかった。半歩、千紗より先を歩いた。

背中越しに、千紗が小さく息を吸う音が聞こえた。泣きそうな呼吸。だけど振り返れなかった。振り返って千紗の顔を見たら、俺のほうが先に壊れそうだった。

家の前で、「じゃあね」と言った。

いつもなら「また明日」なのに、「じゃあね」と言った。自分でも理由がわからない。

千紗が一瞬、息を止めた。

「……うん。じゃあね」

千紗の声は平坦だった。感情を全部しまい込んだ、空っぽの声。

玄関のドアが閉まる音が、いつもより大きく聞こえた。


7

金曜日。

朝、インターホンが鳴った。

出ると、千紗がいた。弁当の紙袋を持って、笑顔で立っている。

——いつもと同じだ。

何も変わらない。千紗は毎朝来る。弁当を作ってくる。笑顔で「おはよう」と言う。俺がどれだけ素っ気なくしても、距離を置いても、千紗は来る。

その事実が——たまらなく苦しかった。

「おはよう、ゆうくん」

「……おはよう」

弁当を受け取る。今日も手は触れない。

通学路。無言が続いた。月曜までは千紗がずっと話しかけてくれていた。火曜から、千紗の言葉が減った。水曜にはもっと減った。木曜には、ほとんどなくなった。

金曜の今日。千紗は黙って歩いている。

俺も黙って歩いている。

葉桜の並木道。五月の風。二人の足音だけが、不揃いに響く。

「……ゆうくん」

千紗が立ち止まった。

振り返ると、千紗が俺を見ていた。

表情が——なかった。

笑顔でも、泣き顔でも、怒り顔でもない。何の感情も浮かべていない、真っ平らな顔。千紗のこんな顔を、俺は見たことがなかった。

「ひとつだけ聞いていい?」

「……何」

千紗が、一呼吸置いた。

朝の光が千紗の横を通り過ぎていく。栗色の髪が風に揺れて、琥珀色の瞳が真っすぐに俺を射抜いた。

「ねえ、ゆうくん。わたしのこと——本当に好き?」

世界が、止まった。

車の音も、鳥の声も、風の音も。全部が遠ざかって、千紗の声だけが鼓膜に張り付いている。

「わたしのこと、本当に好き?」

もう一度。今度はさっきより小さく、震える声で。

千紗の目が潤んでいた。だけど泣いていない。泣くのを必死にこらえている顔だった。唇を噛んで、拳を握って、全身で涙を押し込めている。

「好きだって言ってくれたの、嬉しかった。世界で一番嬉しかった。十二年間で一番幸せだった」

千紗の声がかすれた。

「でも——あれから、ゆうくん変わったよ」

「……」

「手、繋いでくれなくなった。目、合わせてくれなくなった。『美味い』はくれるけど、『めちゃくちゃ美味い』はくれなくなった」

——気づいていた。全部、気づいていた。

「わたしの話、前は最後まで聞いてくれたのに、最近は途中で『ああ』って流すようになった。帰り道で隣歩いてくれなくなった。LINEの返事が一行になった」

千紗が一つひとつ数え上げるたびに、俺の胸にくさびが打ち込まれた。

全部、俺がやったことだ。自覚がある。理由も——ある。だけどそれを説明する言葉が見つからない。

「最初は、忙しいのかなって思った。疲れてるのかなって思った。でも——」

千紗の声が、限界に近づいていた。

「——一週間も続いたら、さすがにわかるよ」

涙が一筋、頬を伝った。千紗が慌てて手の甲で拭う。

「ごめん、泣かないって決めてたのに——」

「千紗——」

「待って。最後まで言わせて」

千紗が手のひらを上げて、俺を制した。

「わたしね、ゆうくんに嫌われるの、死ぬほど怖い」

声が震えている。体も震えている。五月の朝なのに、寒さに凍えているみたいに。

「嫌われるくらいなら、幼馴染のままでよかった。手を繋がなくていい。好きって言ってくれなくていい。隣で笑ってくれるだけでよかった」

——やめてくれ。

「でも、今はそれすらなくなって——」

千紗の目から、堰を切ったように涙が溢れた。

「隣にいるのに、ゆうくんがどこにもいない」

通学路の真ん中で、千紗が泣いていた。声を殺して、肩を震わせて、涙だけが音もなく落ちていく。

四歳の頃のわんわん泣きとは違う。声を出すことすらできないほど、追い詰められた泣き方だった。

俺は——動けなかった。

手を伸ばせば届く距離に千紗がいる。抱きしめれば止められる涙がある。「好きだ」と言えば救える心がある。

なのに、足が鉛みたいに重い。

——本当に好きなのか、と聞かれた。

その問いに、今の俺は胸を張って答えられない。

好きだと思う。好きなはずだ。だけど「はず」という留保がついている時点で、千紗の問いに対する答えとしては不誠実だ。

千紗は「本当に」と聞いた。「本当に」好きかと。

「本当に」の意味を、俺はまだわかっていない。

わからないまま「好きだ」と言うのは——あの告白を、嘘にすることだ。

「……ごめん」

絞り出した声は、自分でも聞き取れないくらいかすれていた。

「……今は、答えられない」

千紗の肩が、びくりと震えた。

沈黙。

五月の風が、二人の間を吹き抜けていった。

千紗が涙を拭った。何度も、何度も、手の甲で拭った。そして、赤くなった目で俺を見上げた。

「……そっか」

一言。

それだけ。

それだけだった。怒りもしない。責めもしない。泣き叫びもしない。

ただ——「そっか」と言って、微笑んだ。

涙で濡れた顔で、震える唇で、それでも笑おうとした。その笑顔が、今まで見たどんな千紗の表情よりも痛かった。

「……弁当、食べてね」

千紗が紙袋を俺に押しつけて、背を向けた。

「千紗——」

「先に行くね。ちょっと顔洗いたいから」

千紗が小走りで去っていく。

背中が小さくなっていく。追いかけなければ、と思った。思ったのに、足が動かない。

やがて千紗の姿が角を曲がって見えなくなった。

俺は通学路の真ん中に立ち尽くしていた。

手の中には、千紗が朝四時半に起きて作った弁当がある。その重さが、今日はどうしようもなく重い。


8

一限目。

千紗は始業のチャイムぎりぎりに教室に入ってきた。目元が少し腫れていたが、ファンデーションで隠しているのか、遠目にはわからない。

席に着いた千紗は、俺の方を見なかった。教科書を開いて、黒板を見て、ノートを取る。いつも通りの動作。だけどそこに、俺は含まれていなかった。

授業中、千紗の小指が伸びてくることはなかった。

当たり前だ。

昼休み。千紗は弁当を自分の席で食べていた。俺の分は朝渡したから、千紗が来る理由がない。

いつもなら隣に座って「美味しい?」と聞いてくる。今日は来ない。

弁当の蓋を開けた。ハンバーグ弁当。デミグラスソースが別添えの小さな容器に入っている。付け合わせのポテトサラダ。ほうれん草のソテー。ミニトマト。ご飯の上には海苔の飾りはない。

——いつもの「ゆ」も、「だいすき」もない。

白いご飯が、ただ白いままそこにあった。

食べた。

美味かった。いつも通り美味かった。千紗の料理の腕は変わらない。丁寧な下ごしらえ。計算された味付け。冷めても美味いように工夫された調理法。

——これを作っているとき、千紗は何を思っていたんだろう。

俺に「本当に好き?」と聞くと決めた朝。それでもこの弁当を作った。泣きたかったかもしれない。作りたくなかったかもしれない。それでも四時半に起きて、俺のために包丁を握った。

箸が止まった。

ハンバーグが、滲んで見えた。

「……おい和泉、大丈夫か?」

健吾の声が聞こえた。顔を上げると、健吾が心配そうにこちらを見ていた。

「お前と天野さん、なんかあったのか。今日全然話してないだろ」

「……なんでもない」

「なんでもない顔じゃないぞ。お前——」

「なんでもない」

強い口調で遮った。健吾が口を閉じた。

「……わかった。でも、一つだけ言っとく」

健吾が椅子の背にもたれて、天井を見上げた。

「天野さん、昼休みに一人で弁当食ってる。お前と付き合ってから、あの子が一人で飯食ってんの、俺は初めて見た」

胸が、軋んだ。


9

放課後。

千紗は美術部に行った。俺を振り返ることなく、教室を出た。

「待ってて」とは言われなかった。

俺は——待たなかった。

鞄を持って教室を出る。昇降口で靴を履き替える。校門を出る。

一人の通学路。隣に千紗がいない帰り道。

この道を一人で歩くのは、いつ以来だろう。千紗が引っ越してきてからの十二年間、ほとんど記憶にない。千紗が風邪で休んだ日くらいか。

並木道の葉桜が風に揺れている。木漏れ日が地面にまだら模様を作っている。きれいな五月の午後だ。

だけど全部が灰色に見えた。

自分が何をしたかったのかわからなくなっていた。

千紗を傷つけたくなかった。だから距離を置いた。自分の気持ちに確信が持てないまま千紗に触れることが、不誠実に思えたから。

だけど距離を置いた結果、千紗を傷つけた。

千紗を守ろうとして、千紗を壊している。

何をやっているんだ、俺は。

家に着いた。隣の天野家の玄関を見た。千紗はまだ学校だ。明かりはついていない。

自分の家に入る。リビングを通って、自室に入る。ベッドに座って、弁当箱を鞄から出した。

空になった三段の弁当箱。千紗に返さなければならない。

洗おう、と思った。いつもは翌朝千紗に返すとき、洗って返していた。それくらいは——俺にもできるから。

台所に立って、弁当箱を洗った。スポンジで丁寧に洗って、すすいで、布巾で拭いた。

三段の弁当箱。一段目のご飯の蓋の裏に、小さなシミがあった。油性ペンで書かれた、かすかな文字。

「ゆうくんへ」

いつ書いたものかわからない。最初からあったのか。気づかなかった。蓋の裏なんて、見ることがなかったから。

千紗は——いつからこの弁当箱を使っていたんだろう。俺にばれないように、蓋の裏にメッセージを書いて。毎朝それを見て、弁当を詰めて。

弁当箱を布巾で包んで、テーブルに置いた。

自室に戻って、ベッドに倒れ込んだ。

天井を見上げる。

いつもそうだ。何かあると天井を見る。千紗に「好きだよ、ばか」と呟いた夜もそうだった。あのときは誰にも届かなかった言葉が、今なら届けられるはずなのに。

スマホが震えた。

千紗からではなかった。

健吾からだ。

【健吾】一個だけ言わせろ。天野さんは十二年お前のこと想ってきた。お前がどんだけ悩んでるか知らんけど、あの子を一人にしていい理由にはならんぞ

返信できなかった。

正論だから。何も言い返せない正論だから。

スマホを伏せた。

天井を見る。

千紗の泣き顔が浮かぶ。通学路で、涙を拭いながら微笑んだ顔。「そっか」と言った声。震えていた肩。小さくなっていく背中。

あの背中を追いかけなかった自分を、一生後悔する気がした。

——だけど。

後悔しているのに動けないのが、今の俺だ。

千紗の問いに答えるには、俺はまず自分自身に答えなければならない。

千紗が好きなのか。

千紗がいる日常が好きなだけなのか。

千紗を失いたくないだけなのか。

その三つの区別がつかない限り、俺の「好きだ」は千紗に届かない。

窓の外が暗くなっていく。

千紗からのLINEは——来なかった。

付き合ってから初めての、千紗からの「おやすみ」がない夜だった。

布団を被った。目を閉じた。

閉じた瞼の裏に、涙で濡れた笑顔がある。

「……千紗」

名前を呼んだ。

届かない。壁一枚隔てた隣の家に、千紗がいるのに。

十二年間で最も近くて、最も遠い夜だった。

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