第4話 彼女になった幼馴染は、甘さの上限を知らない
幼馴染の彼女が発育良すぎて目のやり場に困るが、本人は俺にだけ無防備すぎる件
─── 第4話 彼女になった幼馴染は、甘さの上限を知らない ───
1
告白の翌朝。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。人生で初めてのことだ。
時計を見ると午前六時十二分。千紗が来るのは六時四十五分。余裕がある。余裕があるのに、なぜか二度寝できない。
昨日の記憶が、高解像度で脳内再生される。
夕焼けの教室。千紗の涙。俺の告白。繋いだ手。
——あれ、夢じゃないよな。
スマホを開いた。LINEのトーク画面。
昨夜、家に帰ってから千紗とやり取りした履歴が残っている。
【千紗】ゆうくん、今日はありがとう
【悠真】こっちこそ。遅くなって悪かった
【千紗】遅くないよ。十二年かかったけど、待ったかいがあった
【千紗】……えへへ、彼女って実感まだない
【悠真】俺もない
【千紗】でも嬉しい。すっごく嬉しい
【千紗】明日からよろしくね、ゆうくん
【悠真】ああ。よろしく
【千紗】だいすき
【千紗】……あっ今のは勢いで
【千紗】でも嘘じゃないから!
【千紗】おやすみ!!!!
最後の「おやすみ」のビックリマークが四つ。動揺が伝わってくる。
俺はあの「だいすき」にスタンプひとつで返した。言葉では返せなかった。付き合ってまだ数時間で、LINEの「だいすき」に文字で返すのは難易度が高すぎた。
だが今朝は——少しだけ、勇気が出る気がした。
【悠真】おはよう
送信。既読はまだつかない。千紗は六時半に起きるタイプだから当然だ。
——と思ったら、一秒で既読がついた。
【千紗】おはよう!!!!!
ビックリマーク五つ。昨夜から一つ増えている。
【千紗】ゆうくんからおはようが来た……
【千紗】起きてよかった
【千紗】実は四時から目が覚めてて
【悠真】寝ろよ
【千紗】寝られないよー!だってだって
【千紗】昨日のこと思い出すと心臓がばくばくして
【千紗】えへへ
【千紗】今日のお弁当、もう作り終わっちゃった
【悠真】四時から作ってたのか
【千紗】三段にした
【悠真】三段
【千紗】彼女の初弁当だもん。気合いが違うの
【千紗】あ、ゆうくん。今日迎えに行く時間、ちょっと早くしていい?
【悠真】なんで
【千紗】……早くゆうくんに会いたいから
【悠真】……六時半でいい
【千紗】やった!!!!!!
ビックリマーク六つ。インフレが止まらない。
スマホを置いて天井を見上げた。頬が緩んでいるのが自分でもわかる。鏡は見たくない。たぶんとんでもない顔をしている。
——付き合うって、こういうことなのか。
まだ何も始まっていないのに、朝のLINEだけで心臓が破裂しそうだ。この先どうなるんだ。生存できるのか。
六時二十五分。
インターホンではなく、玄関の前で待つことにした。靴を履いて外に出る。朝の空気が冷たくて気持ちいい。
隣の家の玄関ドアが開いた。
千紗が出てきた。
「あ——」
千紗が目を丸くした。いつもなら俺のインターホンを連打しに来る側なのに、今日は俺が先に外にいる。
「ゆう、くん……? え、なんで外に……」
「……たまには俺が迎えに来てもいいだろ」
千紗の顔が、みるみる赤くなった。耳まで。首筋まで。制服のリボンが揺れるほど、心臓が跳ねているのが見えた。
「……っ」
千紗が、弁当箱が入った紙袋を胸に抱えたまま、ぱたぱたと駆け寄ってきた。そして俺の目の前で立ち止まり、顔を上げて——
「……おはよう、ゆうくん」
くしゃっと笑った。目尻に薄く涙が滲んでいる。
「……泣くなよ。朝から」
「泣いてない。嬉しいだけ」
「嬉しいなら笑えよ」
「笑ってるもん。泣きながら笑ってるの」
「それは器用なのか不器用なのかわからん」
千紗がふにゃりと笑って、俺の腕に手を伸ばした。
——昨日までなら、ここで腕に抱きつく。いつものパターンだ。
だが今朝の千紗は、腕に抱きつく代わりに、おずおずと——俺の手に、自分の手を重ねた。
指先が触れる。
「……手、繋いでいい?」
昨日の帰り道で繋いだばかりなのに、今朝はまた許可を求めてくる。その初々しさが、心臓に刺さった。
俺は何も言わず、千紗の手を握った。
千紗の指が、きゅっと絡んでくる。昨夜と同じ、でも朝の光の中で繋ぐ手は、また違う温度があった。
「……えへへ」
「……行くぞ。遅刻する」
「うん」
四月の朝。桜並木の通学路。
十二年間歩いた同じ道を、今日は手を繋いで歩く。
たったそれだけのことが、世界の色を変えた。
2
問題は、学校に着いてからだった。
正門の前で、千紗と手を離す。さすがに学校内で手を繋いで歩くのは——
「……ゆうくん、手、離さないで」
「いや、学校だぞ」
「……やだ」
千紗が俺の手をぎゅっと握り締めた。離す気がない。目がうるうるしている。仔犬か。
「見られるだろ」
「見られてもいいもん。わたし、ゆうくんの彼女だもん」
——それを堂々と言えるお前がすごい。
結局、正門をくぐるところまで手を繋いだまま歩いた。
昇降口で数人のクラスメイトとすれ違った。全員が二度見した。
「え——和泉と天野さん、手ぇ繋いでる……?」
「マジ? マジじゃん」
「ついに……ついにか……」
ざわめきが背中を通り過ぎる。千紗は気にする様子もなく、にこにこしている。
昇降口で靴を履き替えるとき、さすがに手を離した。千紗が名残惜しそうに俺の指先を滑らせた。その仕草だけで心拍数が二十は上がった。
教室に入ると、健吾が待ち構えていた。
「よう和泉——って、おいおいおい」
健吾が俺と千紗を交互に見た。何かを察したらしい。長年の勘だ。
「お前ら……まさか」
「……」
「……えへへ」
千紗が俺の横で照れ笑いをした。それが答えになった。
「っしゃああああ!!」
健吾が両拳を突き上げた。朝の教室に奇声が響き渡る。
「やっとかよ!! 十二年だぞ十二年!! 俺が中学からどんだけお前らの間でやきもきしてたと——」
「うるせえ声がでかい」
「でかくもなるわ!! おい、これ賭けの対象になってたの知ってるか? 『和泉と天野がくっつくのはいつか』って。俺は高二の夏って賭けてたから惜しかったな——」
「賭けんな」
健吾が上機嫌で俺の背中をバンバン叩いた。痛い。
教室中にあっという間に噂が広まった。「和泉と天野が付き合った」。予想通りではあったが、反響は予想以上だった。
女子たちが千紗の周りに集まってきた。
「千紗ー! 和泉くんと付き合ったってほんと!?」
「きゃー! やっぱりー!!」
「いつから!? ていうか告白はどっちから!?」
千紗が質問攻めにされている。「昨日で」「ゆうくんから」と答えるたびに黄色い歓声が上がった。千紗は恥ずかしそうにしながらも、どこか誇らしげだった。
男子の反応は二極化した。
「おめでとう和泉! お前らお似合いだよ」派と、「和泉を殴りたい同盟の活動を開始します」派。後者は健吾曰く「天野さんファンクラブの残党」らしい。知らんがな。
そして——桐島が、俺の席に来た。
「和泉」
「……おう」
一瞬、空気が張り詰めた。だが桐島は、あの爽やかな笑顔を崩さなかった。
「天野さんと付き合ったんだって? おめでとう」
嫌味は、一切なかった。
「昨日の件、悪かったな。知ってたら誘わなかった」
「……いや、お前は何も悪くない。むしろ——」
俺は少し迷ってから、頭を下げた。
「——お前のおかげで、踏み出せた。ありがとう」
桐島が目を丸くして、それからにかっと笑った。
「はは、なにそれ。俺は当て馬かよ」
「そういうわけじゃ——」
「冗談だって。まあでも、天野さんがあんだけお前のこと見てたら、俺の入る隙なんかなかったよ」
桐島が肩をすくめた。
「大事にしろよ、和泉」
「……ああ」
桐島が自分の席に戻っていく。その背中を見送りながら、俺はこいつが転校してきてよかったと思った。こいつがいなかったら、俺はまだ逃げ続けていた。
——ラブコメの当て馬は不遇な扱いを受けがちだが、現実の桐島は爽やかに去っていった。イケメンの格が違う。
3
昼休み。
俺の机の上に、見たことのない弁当箱が鎮座していた。
三段。
文字通りの三段重ねだ。一段目はご飯、二段目はおかず、三段目は——デザート。いちご大福と、手作りらしきプリンが入っている。
「……千紗」
「なに?」
「これ、弁当じゃなくてフルコースだろ」
「えへへ。彼女の初弁当だから、張り切りすぎちゃった」
千紗が頬を染めて笑う。弁当箱の蓋には、小さなハートのシールが貼ってあった。
「……このシール」
「あっ、それは——忘れて。朝テンション上がりすぎてつい——」
「……」
「は、剥がす?」
「……いい。そのままで」
千紗の顔がぱあっと明るくなった。ハートのシール一つでこの笑顔が見られるなら、安いものだ。
一段目の蓋を開ける。ご飯の上には——海苔で「だいすき」と書いてあった。
「…………」
「…………」
「……千紗」
「は、恥ずかしくなってきた……見ないで……」
千紗が両手で顔を覆った。遅い。もう見た。
「前は『ゆ』一文字だったのに、一気にだいすきまで進化したな」
「だ、だって昨日までと立場が違うもん……彼女なんだもん……」
彼女という単語を自分で言って、千紗がさらに赤くなった。耳まで真っ赤で、手の隙間から覗く目が潤んでいる。
健吾が向かいの席で白目を剥いていた。
「甘すぎて糖尿病になりそう」
「見るな」
「見えるんだよ。海苔の『だいすき』が俺の席からばっちり見えるんだよ」
俺は弁当箱の角度を変えて、健吾の視線から隠した。千紗の「だいすき」は俺だけのものだ。
——と思ったこと自体が、すでに末期だった。
二段目のおかずは、昨日以上に気合いが入っていた。鶏の照り焼き、エビフライ、ポテトサラダ、きんぴらごぼう、ブロッコリーのチーズ焼き。色彩のバランスまで計算されている。
「……すげえな、これ」
「えへへ……どれから食べる?」
「エビフライ」
「あ、それね、しっぽまで食べられるように二度揚げしたの」
食べた。
衣はさくさく、海老はぷりぷり。冷めてもこの食感を維持しているのは、相当な技術だ。
「美味い」
「ほんと!?」
千紗が身を乗り出した。以前ならここで圧倒的な胸元の存在感に動揺していた。いや、今も動揺しているのだが——彼女になった今、その動揺の質が変わっている。
「あ——ゆうくん、ほっぺにご飯粒ついてる」
「ん? どこ」
「ここ」
千紗が手を伸ばして、俺の頬に触れた。指先でご飯粒を取る。
——近い。顔が、近い。
千紗の指が頬から離れない。ご飯粒はもう取れているのに、指先が頬を撫でるように触れている。
「……取れたぞ」
「うん……わかってる」
千紗の目が、潤んでいた。指先が微かに震えている。
「……触りたかっただけ」
小さな声。俺にしか聞こえない声。
——今までの千紗は無防備だった。だが、今の千紗は無防備の上に自覚がある。自分が何をしているかわかった上で、それでもやっている。
これが——「彼女」の破壊力か。
「おい千紗、ここ教室だぞ」
「わかってるもん……でもゆうくんの顔が近くにあると、つい……」
「つい、じゃない」
「……えへへ」
千紗が手を引いて、自分の弁当を食べ始めた。だが頬は真っ赤なままだ。
健吾がいつの間にか席を移動して、教室の隅で別のクラスメイトと食べていた。机の上に「お幸せに」と書いた付箋が残されていた。
……あとでちゃんと礼を言おう。
4
五限目の授業中。
ノートを取っていると、左手に何かが触れた。
見ると、千紗の指が、机の下で俺の手に伸びていた。
授業中だぞ、と目で訴えたが、千紗は黒板を真面目に見たまま、しれっと俺の小指に自分の小指を絡めた。
恋人繋ぎ——ではなく、小指同士。ゆびきりげんまんの形。
ちらりと千紗を見ると、横顔が薄く紅潮していた。耳の先が赤い。黒板を見ているふりをしているが、明らかにノートに何も書いていない。
俺も書けなくなった。左手が使えない。右手でシャーペンを持っているが、意識が全部左手の小指に集中している。
千紗の小指が、きゅっと力を込めた。
——何の約束だよ。
聞きたかったが、聞いたら授業中に声を出すことになる。
仕方なく、俺も小指に力を込め返した。
千紗の口元が、かすかに綻んだ。
五限目は世界史だったが、その日の授業の内容は一ミリも記憶に残っていない。小指の温度だけが、やけに鮮明に刻まれた。
5
掃除の時間。
俺は教室の掃き掃除、千紗は窓拭きの担当だった。
千紗が背伸びをして窓の上部を拭いている。腕を上げるたびに、ブラウスの裾が持ち上がって、腰のラインがちらりと覗く。加えて、背伸びの姿勢が胸元のシルエットを強調して——
「和泉ー、ちゃんと掃けよ。同じとこ三回掃いてるぞ」
掃除当番の別のクラスメイトに指摘された。面目ない。
千紗が振り返った。俺と目が合うと、千紗は何かを察したのか、いたずらっぽく笑った。
「ゆうくん、ちゃんとお掃除しないとダメだよ?」
「……してる」
「どこ見てたの?」
「窓」
「窓じゃなくて、窓を拭いてるわたしでしょ?」
——バレている。完全にバレている。
千紗が窓拭きの雑巾を手にしたまま、俺の近くに寄ってきた。声をひそめて、耳元で囁く。
「……ゆうくんが見てると思うと、なんかどきどきしちゃう」
甘い息が耳に触れた。鳥肌が立つ。物理的に、腕の産毛が全部逆立った。
「……っ、掃除中だっつの」
「えへへ。ごめんね」
全然ごめんと思ってない顔で、千紗が窓に戻っていった。背を向けたまま、くすくす笑っている。
——こいつ、彼女になってからリミッターが完全に外れていないか。
幼馴染時代の千紗は「無自覚に無防備」だった。だが彼女になった千紗は「自覚した上で攻めてくる」ようになった。進化の方向性が完全に肉食獣のそれだ。
俺はほうきを握り直して、黙々と床を掃いた。同じ場所を四回目。もうどうにでもなれ。
6
放課後。
千紗は美術部があるので、いつもなら俺は先に帰る。だが今日は違った。
「ゆうくん、今日は部活ないの?」
千紗が鞄を持ちながら聞いてきた。
「帰宅部に部活はない」
「じゃあ、待ってて。一時間で終わるから」
昨日と同じ台詞。だが千紗の表情が、昨日とは違う。甘えるような、期待するような、少し不安そうな——全部が混ざった顔。
「待ってなくてもいいよ。先帰っても——」
「待ってる」
即答した。自分でも驚くくらい、迷いがなかった。
千紗の目がきらりと光った。
「……ほんと?」
「彼女の部活終わりを待つくらい、普通だろ」
言ってから、自分の台詞の破壊力に気づいた。「彼女」を自然に使ってしまった。
千紗の顔が、段階的に赤くなっていく。耳、頬、首。順番に紅潮が広がる様は、まるで夕焼けが空を染めていくようだった。
「……っ、ゆうくんが自分から『彼女』って言った……」
「……言ったな」
「……もう一回言って」
「何回言わせんだよ」
「何回でも聞きたい。一生聞きたい」
千紗が弁当の紙袋をぎゅっと胸に抱えて、ぷるぷる震えている。嬉しさが体に収まりきっていないらしい。
「……早く部活行け。一時間で戻ってこい」
「うん! うんっ! 絶対待っててね!」
千紗が廊下を小走りで去っていく。途中で一回振り返って手を振り、角を曲がるところでもう一回振り返って手を振った。
「……子犬かよ」
苦笑しながら、俺は教室に戻った。
一時間。課題でもやって過ごすか。
机に教科書を広げて、数学の問題を解き始める。だが集中できない。千紗の顔がちらつく。さっきの耳元の囁き。小指の温度。海苔の「だいすき」。
結局、一時間で問題を三問しか解けなかった。偏差値が急降下する。千紗と付き合った代償が学力低下だとしたら、割に合うのかどうか微妙なところだ。
——割に合う。全然割に合う。偏差値の十や二十くれてやる。
末期だ。自覚がある。
7
午後五時半。
美術室から千紗が戻ってきた。制服の上にエプロンをつけたまま、手に絵の具が少しついている。
「お待たせ、ゆうくん!」
「おう。……エプロンのまま来たな」
「あっ、忘れてた」
千紗が慌ててエプロンを外す。その仕草が妙に生活感があって——なぜかドキッとした。
「手、絵の具ついてるぞ」
「え、どこ?」
「右手の薬指。あと、頬にも」
千紗が自分の頬を触って、指先に青い絵の具がつくのを確認した。
「わ、ほんとだ。恥ずかしい……」
「何描いてたんだ?」
「えっと……秘密」
千紗が照れ隠しのように笑った。何を描いていたか聞きたかったが、秘密と言われると追及しづらい。
「ティッシュ出せ。拭いてやる」
「え、いいよ自分で——」
「いいから」
千紗の鞄からティッシュを出して、頬についた絵の具を拭いた。
柔らかい頬。至近距離の琥珀色の瞳。睫毛の影。微かに上気した肌。
「……」
「……」
指先が、絵の具を拭き終えても止まらなかった。
頬に触れている。触れたまま、動かない。
昨日の告白のときと同じだ。あのときは涙を拭った。今は絵の具を拭っている。だけど千紗の頬に触れている感覚は同じで——
「……ゆうくん」
千紗が囁いた。
「絵の具、もう取れてるよ」
「……わかってる」
千紗が、俺の手首をそっと掴んだ。頬に触れている俺の手を、離さないように。
「……わたしも、触りたかっただけって言ったでしょ」
「……覚えてる」
「ゆうくんも同じ?」
「……同じだ」
千紗が——目を閉じた。
俺の手のひらに、頬を預けるように。猫が甘えるときの仕草に似ていた。
「……すき」
閉じた目のまま、千紗が呟いた。
教室には俺たちしかいない。窓の外では部活動の掛け声が遠くに聞こえる。夕方の光が斜めに差し込んで、千紗の髪を金色に染めている。
「……俺も」
言えた。昨日の「好きだ」よりも小さな声だったけど。
千紗がゆっくりと目を開けた。潤んだ瞳が、俺を映している。
「……ゆうくんが『俺も』って言ってくれるの、初めてかも」
「……たぶん初めてだ」
「……えへへ。どうしよう。嬉しすぎて帰りたくない」
「帰るぞ。日が暮れる」
俺は千紗の頬から手を離した。名残惜しかったが、これ以上この空間にいたら何かが決壊する。
千紗が立ち上がって、鞄を持った。教室を出て、廊下を並んで歩く。
昇降口で靴を履き替えて、校門を出た。
千紗の手が、自然に俺の手に伸びてきた。指が絡む。もう許可はいらない。
「……ゆうくん」
「ん」
「今日、最高の一日だった」
「まだ終わってないだろ」
「終わってもいいくらい幸せってこと」
夕暮れの通学路。桜はもう半分以上散って、花びらが道に積もっている。その上を、二人で歩く。
「ねえ、ゆうくん」
「ん」
「明日のお弁当、何がいい?」
「……千紗が作るなら何でもいい」
千紗が足を止めた。
「……今、すごいこと言ったの気づいてる?」
「何がだよ」
「『千紗が作るなら何でもいい』って——それ、プロポーズじゃん」
「どこがだよ」
「一生のお弁当担当に任命されたってことでしょ?」
「拡大解釈がすぎる」
「えへへ。でもわたし、受諾します」
千紗がにこにこしながら俺の腕にしがみついた。いつもの感触。いつもの柔らかさ。だけど今は、振りほどく理由がない。
「ゆうくん、重くない?」
「軽い」
「……体重の話じゃなくて。わたしの気持ちが、重くない?」
「……」
千紗の声が、少しだけ不安を帯びた。
「わたし、好きって気持ちが溢れちゃうタイプだから……昔からゆうくんには全力で甘えちゃうし、お弁当も三段にしちゃうし、海苔でだいすきって書いちゃうし……重い、かな」
千紗の手が、ほんの少し緩んだ。
俺は——その手を、上から握り直した。しっかりと。
「千紗」
「……ん」
「十二年分待たせた俺が、お前のことを重いなんて思うわけないだろ」
千紗の目が見開かれた。
「好きなだけ甘えろ。弁当は三段でも四段でもいい。海苔は好きに書け。お前の好きが重いなんて、一度も思ったことない」
言い切った。さすがに恥ずかしい。顔が熱い。前を向いて歩いているから千紗には見えていないはず——
ぎゅう。
千紗が、俺の腕に顔をうずめた。
「……泣くなよ」
「泣いてないもん」
嘘だ。腕が濡れている。
「泣いてないってば。嬉しい汁が出てるだけ」
「嬉しい汁て」
「……うぅ」
千紗がぐすぐすと鼻を鳴らしながら、俺の腕にしがみついて歩く。
夕焼けの通学路。桜の絨毯。手を繋いで歩く帰り道。
十二年目の春。
俺たちの関係が変わって、まだ一日しか経っていない。
なのにもう、この手を離す未来が想像できなかった。
8
夜。自室。
風呂上がりにスマホを開くと、千紗からLINEが来ていた。
【千紗】ゆうくん、お風呂出た?
【悠真】今出た
【千紗】えへへ。おつかれさま
【千紗】あのね、今日一日のこと思い出してたんだけど
【千紗】朝、ゆうくんが外で待っててくれたこと
【千紗】お昼の三段弁当
【千紗】授業中の小指
【千紗】掃除のときの耳元
【千紗】放課後の「俺も」
【千紗】帰り道の手つなぎ
【千紗】全部、全部、宝物にする
【悠真】大げさ
【千紗】大げさじゃないよ。わたしにとっては全部奇跡みたいなものなの
【千紗】だって昨日まで、ゆうくんがこんなに素直になってくれるなんて思ってなかったもん
【悠真】……昨日までの俺が素直じゃなさすぎた
【千紗】ふふ。そうだね
【千紗】でもそんなゆうくんも好きだったよ
【千紗】素直じゃないゆうくんも
【千紗】蛍光灯の数を数えるゆうくんも
【悠真】それは忘れてくれ
【千紗】忘れない。一生からかう
【悠真】……
【千紗】ねえ、ゆうくん
【悠真】ん
【千紗】明日も、手つないでいい?
【悠真】当たり前だろ
【千紗】……っ
【千紗】ゆうくんの「当たり前」が、わたしには一番嬉しい言葉かもしれない
【千紗】昨日までは当たり前じゃなかったから
【千紗】ゆうくんの隣を歩くのは当たり前だったけど
【千紗】手をつなぐのは当たり前じゃなかった
【千紗】好きって言ってもらえるのは当たり前じゃなかった
【千紗】それが今日から当たり前になったの
【千紗】こんなに幸せなことある?
【悠真】……ある
【千紗】え、なに?
【悠真】明日も明後日もその先も、ずっとそうだってこと
【千紗】……………
【千紗】……ゆうくん
【千紗】今の保存した。スクショ撮った。永久保存
【悠真】やめろ
【千紗】やめない。額に入れて飾る
【悠真】飾るな
【千紗】えへへへへ
【千紗】……だいすき、ゆうくん
【悠真】……俺も
画面を見つめた。
「俺も」。
昨日までなら絶対に打てなかった二文字が、今日は打てた。
千紗からの返信。
【千紗】!!!!!!!
【千紗】スクショした!!!!
【千紗】ゆうくんの「俺も」スクショフォルダ作る!!!!
——相変わらず全力だ。
スマホを枕元に置いて、天井を見上げた。
昨日もこうやって天井を見た。あのときは「好きだよ、ばか」と呟いて、誰にも届かないまま夜に溶けた。
今日は——届いている。
ちゃんと届いて、ちゃんと返ってきている。
スマホが震えた。最後のメッセージ。
【千紗】おやすみ、ゆうくん。明日も迎えに行くね。大好きな彼氏のところに
——「大好きな彼氏」。
「…………やべえ」
布団を頭まで被った。顔が熱い。心臓がうるさい。十二年の幼馴染期間で培った耐性が、まったく役に立たない。
彼女になった千紗は、甘さの上限を知らない。
そして——俺もたぶん、これから知ることになる。
上限なんか最初から、なかったのだと。




