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第3話 嫉妬なんかしてない、と言い切れなくなった日

幼馴染の彼女が発育良すぎて目のやり場に困るが、本人は俺にだけ無防備すぎる件

─── 第3話 嫉妬なんかしてない、と言い切れなくなった日 ───


1

あの夜のLINEのあと、何かが変わるかと思った。

だが翌朝、玄関を開けると千紗はいつも通りだった。

「おはよう、ゆうくん! はい、唐揚げ弁当!」

満面の笑み。桜色の風呂敷に包まれた弁当箱。甘いシャンプーの匂い。何ひとつ変わらない朝。

「……おう。サンキュ」

「今日のはね、下味を二時間漬け込んだの。にんにく醤油ベースにちょっとだけごま油入れて——」

「朝から唐揚げのプレゼンすんな」

「えへへ」

——何事もなかったように、笑っている。

昨夜の「幼馴染で、いいのかな」は、なかったことになったのか。それとも、千紗なりにこれが精一杯の対処なのか。

どちらにしても、俺が唐揚げで逃げたせいだ。

千紗の笑顔を見るたびに、胸の奥で罪悪感がちくりと刺さる。だが、それでも俺は何も言えなかった。

いつも通りの朝。いつも通りの通学路。いつも通りの、幼馴染の距離。

——その「いつも通り」が壊れたのは、その日の昼休みだった。


2

きっかけは、転校生だった。

四月の第三週。二年三組に転校生がやってきた。

「皆さん、今日から仲間になる桐島颯太きりしま そうたくんです」

担任の紹介で教壇に立ったのは、身長180センチ超え、整った顔立ちに軽くウェーブのかかった茶髪、人懐っこい笑顔の男だった。

「桐島颯太です。横浜から来ました。サッカーやってたんで、気軽に声かけてください」

爽やかな自己紹介に、教室がざわついた。女子は言うまでもなく色めき立ち、男子も「イケメンじゃねえか」「サッカーかよ、かぶるな」と反応している。

健吾が俺の背中をつついた。

「おい和泉。あれ、お前のポジション脅かすタイプじゃね?」

「俺にポジションなんかない」

「天野さんの隣っていうポジションがあるだろ」

「……意味がわからん」

だが健吾の勘は正しかった。

桐島の席は——千紗の斜め前だった。


3

異変は、その日の昼休みに起きた。

俺がいつも通り千紗の弁当を受け取り、席で食べ始めようとしたとき。

「天野さん、だっけ?」

桐島が千紗の席の横に立っていた。手には購買のパンと牛乳。転校初日で誰と食べるか決まっていないのだろう。

「この辺のこと全然わかんなくてさ。良かったら色々教えてくれない?」

爽やかな笑顔。嫌味がない。だからこそ厄介だ。

千紗が困ったように俺の方をちらりと見た。

「え、えっと……わたしでよければ……」

「マジ? 助かる! じゃあ隣いい?」

桐島が千紗の隣の空席——普段は誰も座らない、千紗が俺との間に確保しているスペース——に腰を下ろした。

は?

「あ、俺、桐島颯太。よろしくな」

「天野千紗です。よろしくね、桐島くん」

千紗がぺこりと頭を下げた。社交辞令の笑顔。俺にだけ見せるくしゃっとした笑顔とは明らかに違う。

——だが、桐島にはその違いがわからない。

「天野さんってさ、美術部なんだって? 絵、描くの?」

「うん、油絵をやってて——」

「へえ、すげえ。俺、絵とか全然ダメでさ。今度見せてよ」

「え、そんな……大したものじゃないよ」

「いやいや、謙遜すんなって。あ、このパンどれが美味いか教えてくんない? 購買のラインナップ全然わかんなくて」

桐島がぐいぐいと距離を詰める。コミュニケーション能力が高い奴特有の、自然で押しつけがましくない距離の詰め方。千紗も別に嫌がっている様子はない。普通に受け答えしている。

普通だ。何もおかしくない。転校生がクラスメイトに話しかけている。それだけの光景だ。

——それだけの光景のはずなのに。

「…………」

箸が止まっていることに気づいた。

千紗の手作り唐揚げを口に運ぶ。美味い。いつも通り美味い。にんにく醤油ベースにごま油。完璧な味付け。なのに——

「——味がしない」

「は?」

向かいの席で食べていた健吾が怪訝な顔をした。

「いや、何でもない」

「何でもなくないだろ。お前今『味がしない』って言ったぞ。明らかに桐島と天野さんの方ガン見しながら」

「してない」

「してた。めちゃくちゃしてた。目ぇ据わってたぞ」

「……してない」

健吾が呆れ顔で溜息をついた。

「和泉。お前それ、嫉妬っていうんだぞ」

「は? してねえよ」

「してるわ。教科書に載せたいくらい典型的な嫉妬の顔してるわ」

俺は無言で唐揚げを口に押し込んだ。咀嚼する。飲み込む。味は——やっぱり、しなかった。


4

放課後。

美術部のある千紗と別れ、俺は一人で帰路についた。

いつもなら千紗の部活が終わるのを待つか、先に帰っても特に何も感じない。だが今日は、歩きながら何度もスマホを確認している自分がいた。

千紗からのLINEは来ていない。当たり前だ。部活中にスマホは触らない。わかっている。

だが頭の中では、昼休みの光景がリピートされていた。

桐島が千紗の隣に座っている映像。千紗が桐島に向かって笑顔で話している映像。桐島が何か冗談を言って、千紗が小さく笑っている映像。

——別に、笑ってただけだ。愛想笑いだ。俺に見せる笑顔とは違う。

……違う、よな?

「……くそ」

自分の感情が制御できない。この苛立ちは何だ。桐島は悪い奴じゃない。転校初日で不安なのは当然だし、近くの席の子に話しかけるのも普通のことだ。千紗が応じるのも、千紗のやさしさを知っていれば当然の対応だ。

論理的には、何ひとつおかしくない。

なのに、腹の奥がざわつく。胸の中に冷たい塊があって、それが呼吸のたびにごろごろと転がっている。

これが嫉妬だと認めたら——俺と千紗の関係が「幼馴染」では済まなくなる。

済まなくなったら、どうなる。

「……考えるな」

首を振って、イヤホンを耳に突っ込んだ。音楽を流す。だが何を聴いても、千紗の声が割り込んでくる。

『ゆうくんのことは何でも覚えてるよ?』

『幼馴染で、いいのかな』

——ああ、もう。

ダメだ。全然ダメだ。


5

翌日から、桐島は急速にクラスに馴染んでいった。

元来の社交性に加えて、サッカーの実力もあるらしく、体育の授業で見せたプレーは確かに上手かった。昼休みにはグラウンドでボールを蹴り、男子の輪にもすぐに入った。

そして——千紗との会話も、日に日に増えていった。

「天野さん、これ昨日のノート。休んだ分コピーしといたよ」

「え、わざわざ? ありがとう、桐島くん」

「天野さん、今日の購買のおすすめは?」

「今日はね、焼きそばパンが美味しいよ。ソースが特製で——」

「じゃあそれ買ってくる! 天野さんの分も買おうか?」

「え、いいよそんな——」

いちいち距離が近い。いちいち気が利く。いちいち爽やかだ。

そして千紗は、持ち前のやさしさで桐島にも分け隔てなく接する。それが千紗の良いところだ。誰にでもやさしい。困っている人を放っておけない。小さい頃からそうだった。

——わかっている。わかっているのだ。

だが「わかっている」と「平気でいられる」は、まったく別の話だ。

木曜日の昼休み。

俺がいつも通り千紗の弁当を食べていると、桐島が弁当箱を覗き込んできた。

「うわ、和泉の弁当すげえな。手作り?」

「……ああ」

「誰が作ってんの? 母さん?」

「——」

答えに詰まった。

千紗が隣で「わたしだよ」と言うかと思ったが、千紗もなぜか黙っている。ちらりと見ると、千紗は自分の弁当箱を見つめたまま、耳を赤くしていた。

「……自分で作ってる」

「マジで!? 男子力たけーな!」

桐島が感心している。嘘をついたことへの罪悪感と、千紗の弁当であることを知られたくないという感情が混ざり合って、胸の中がぐちゃぐちゃになった。

千紗は——何も言わなかった。

ただ、箸を動かす手が少しだけ遅くなっていた。


6

金曜日。事態が動いた。

五限目の休み時間。俺がトイレから戻ると、教室の入口で足が止まった。

千紗の席の前に、桐島が立っていた。いつもの爽やかな笑顔で、だが声はいつもより少し低い。

「天野さん、今度の日曜日さ——」

心臓が跳ねた。

「駅前に新しいカフェできたの知ってる? アートギャラリー併設のやつ。天野さん美術部だから好きかなって思って」

「あ、うん。気になってた——」

「じゃあ、よかったら一緒に行かない?」

——誘っている。

桐島が、千紗をデートに誘っている。

時間が止まったように感じた。教室の雑音が遠ざかり、桐島の声と千紗の声だけが鮮明に聞こえる。

千紗が一瞬、視線を動かした。教室の入口に立つ俺を見た——ように見えた。だが一瞬のことで、確信は持てなかった。

「え、えっと……」

千紗が困ったような、戸惑ったような顔をしている。

答えを聞く前に、俺は教室に入った。何食わぬ顔で自分の席に座る。鞄から教科書を出す。まるで何も聞こえていなかったかのように。

「……ちょっと考えさせてもらってもいい?」

千紗の声が聞こえた。

「もちろん! 急がないから、気が向いたらでいいよ」

桐島が笑顔で自分の席に戻っていく。

千紗が俺の方を向いた。視線がぶつかる。

「……」

「……」

千紗が何か言いたそうに口を開きかけたが、チャイムが鳴って五限目が始まった。

授業中、教科書の文字が一文字も頭に入らなかった。

シャーペンを持つ手に、無意識に力が入る。ノートには意味のない直線が何本も引かれていた。

隣の席で千紗がちらちらとこちらを見ているのがわかる。だが俺は一度も視線を合わせなかった。

合わせたら——何を言ってしまうかわからなかったから。


7

放課後。

千紗が美術部に行く前に、俺の袖をつまんだ。

「ゆうくん」

「……何」

「今日、部活終わったら待ってて」

「……別にいいけど」

「お願い。話したいことがあるの」

千紗の目が、真剣だった。いつもの甘えた表情でも、無邪気な笑顔でもない。何かを決意した目。

「……わかった」

「ありがとう」

千紗が小走りで教室を出ていく。そのあと、俺は空っぽの教室で一人、机に突っ伏した。

「……話したいこと、ねえ」

桐島の誘いを受けるという報告か。それとも、どうすればいいか相談されるのか。

どちらにしても、俺に何が言える。

千紗は俺の「幼馴染」だ。俺がそう決めた。俺がその距離を維持してきた。千紗がどれだけ踏み込んできても、俺はいつもはぐらかしてきた。唐揚げで逃げた夜のように。

それなのに、千紗が他の男と出かけることにこんなに動揺するのは——矛盾している。

自分で蓋をしておいて、他の誰かがその蓋を開けようとすると怒る。これほど身勝手な話があるか。

「……お前に怒る資格なんかないだろ」

自分に言い聞かせる。だが感情は理屈に従わない。

頭ではわかっている。心がついていかない。

窓の外を見た。夕焼けが近づいている。空がオレンジに染まり始めていた。


8

午後六時。教室の窓から見える空は茜色に変わっていた。

美術室のある校舎の方から、ぱたぱたという足音が聞こえた。千紗が教室に駆け込んでくる。

「ごめん、ゆうくん。ちょっと片付けに時間かかっちゃった」

「……いや、別に」

千紗が俺の向かいの席に座った。机を挟んで、向かい合う。

夕陽が斜めに差し込んで、千紗の横顔を染めている。制服の上にカーディガンを羽織って、ロングの栗色の髪がふわりと肩にかかっている。

「……あのね、ゆうくん」

「ん」

「桐島くんに、カフェに誘われたの」

「……聞こえてた」

千紗が目を丸くした。

「え……聞こえてたの?」

「五限前にトイレから戻ったとき。全部聞こえた」

千紗が息を飲んだ。数秒の沈黙。

「……じゃあ、聞くけど」

千紗が俺の目をまっすぐに見た。琥珀色の瞳に、夕陽のオレンジが溶けている。

「ゆうくんは——わたしが桐島くんと出かけたら、どう思う?」

直球だった。ど真ん中の、直球。

俺の思考が一瞬止まった。

この質問に対する「正しい答え」は何だ。

幼馴染として答えるなら——「別にいいんじゃないか」だ。友人として千紗の交友関係を応援する。それが「正しい」態度だ。

だが。

「……」

口が動かない。

「別にいいんじゃないか」と言おうとして、喉の奥でその言葉が詰まる。

嘘だからだ。

別によくない。全然よくない。千紗が桐島と二人で出かけるところを想像するだけで、腹の中が煮えたぎるような感覚がある。

それを認めたら、もう——

「……ゆうくん」

千紗の声が、静かに教室に響いた。

「嘘はやめて。お願いだから」

見透かされている。十二年分の蓄積が、俺の嘘を許さない。

「……」

長い沈黙。窓の外で、カラスが鳴いた。

そして俺は、ゆっくりと口を開いた。

「——嫌だ」

声が、震えていた。自分でも驚くくらい、弱くて小さな声だった。

「お前が桐島と二人で出かけるのは——嫌だ」

言ってしまった。

取り消せない。もう取り消せない。

「桐島は悪い奴じゃない。わかってる。千紗が誰と仲良くなろうが俺がどうこう言う立場じゃないのもわかってる。でも——」

言葉が止まらない。一度蓋を開けてしまったら、中身が全部溢れ出してくる。

「この一週間、お前が桐島と話してるのを見るたびに、ずっと——」

息を吸う。吐く。

「——ずっと、苦しかった」

教室が静まり返った。自分の心臓の音が聞こえるくらいの静寂。

千紗が——泣いていた。

声を立てずに、大粒の涙が頬を伝っている。

「え……ちょ、なんで泣いて——」

「ばか」

千紗が涙声で言った。

「ばか。ゆうくんのばか」

「は——」

「やっと言ってくれた」

千紗が目元を手の甲でぐしぐしと拭った。だが涙は止まらない。次から次へと溢れてくる。

「わたし、ずっと待ってたんだよ。ゆうくんがそう言ってくれるの、ずっと」

嗚咽混じりの声。泣き顔。鼻先が赤くなっていて、目尻に涙が溜まっていて——四歳の頃の泣き虫の千紗と、目の前の千紗が重なった。

「十二年だよ? 十二年も隣にいて、お弁当作って、毎朝迎えに行って——」

千紗が泣きながら笑った。泣き笑いだ。世界で一番下手くそで、世界で一番可愛い泣き笑い。

「——それでもゆうくんは『幼馴染だから』って言うから。唐揚げで話をそらすから。わたしのこと、どう思ってるのか全然わからなくて——」

「千紗——」

「桐島くんに誘われたとき、正直ちょっとだけ嬉しかったの。——違うの、桐島くんが好きとかじゃなくて。ゆうくんがどうするかなって。それで何も変わらなかったら、もう諦めようって——」

心臓を鷲掴みにされた気がした。

諦める。千紗が。俺のことを。

その可能性を初めて突きつけられて、頭の中が真っ白になった。

失う。

このまま何もしなかったら、この距離を——千紗を——失う。

「——諦めんな」

気づいたら立ち上がっていた。机の角に太ももをぶつけたが、痛みなんか感じなかった。

千紗の前に立つ。泣いている千紗を見下ろして、それから——

手を伸ばした。

千紗の頬に触れた。涙で濡れた、温かい頬。

「諦めんなよ、千紗」

声は震えていたが、目は逸らさなかった。

「俺が——臆病で、ずるくて、十二年もお前を待たせた。全部俺が悪い」

千紗の涙が、俺の指を伝って落ちた。

「嫉妬なんかしてないって、ずっと自分に言い聞かせてた。幼馴染だからって。昔からの付き合いだからって。でも——」

千紗の目を見た。涙で揺れる琥珀色。そこに映る自分の顔は、情けないくらいに必死だった。

「——嘘だ。全部嘘だ。俺は、お前のことが——」

唇が震える。十二年分の臆病が、最後の抵抗をしている。

だけど千紗が——泣きながら、小さく頷いた。

その一つの頷きが、俺の背中を押した。

「——好きだ。幼馴染とか関係なく。お前が好きだ、千紗」

言えた。

やっと、言えた。

十二年かかった。馬鹿みたいに遠回りして、傷つけて、逃げて、それでもやっと——

千紗が、声を上げて泣いた。

小さい頃と同じ、わんわん泣き。堰を切ったように涙が溢れて、体を震わせて、それでも——笑っていた。

「ずるい……ずるいよゆうくん……こんな泣いてるときに言うなんて……」

「泣かせたのは俺だろ」

「そうだよ……ゆうくんのせいだよ……全部……」

千紗が椅子から立ち上がって、俺の胸に飛び込んできた。

腕の中に、千紗の全部がある。温もりも、涙も、震えも、シャンプーの匂いも、柔らかさも。全部。

「わたしも好き……ずっとずっと、ゆうくんが好き……」

千紗が俺のシャツを掴んで、顔をうずめたまま泣いている。俺は千紗の頭をぎこちなく撫でた。さらさらの栗色の髪が指の間をすり抜ける。

「……泣きすぎ」

「泣くよ……十二年分だもん……」

十二年分の涙。十二年分の想い。

俺がずっと蓋をしていたものと、千紗がずっと抱えていたもの。それが今、夕焼けの教室で一つになった。

千紗の嗚咽が少しずつ収まっていく。だが、俺のシャツを掴む手は離さない。

「……ゆうくん」

「ん」

「もう一回言って」

「……好きだ」

「……もう一回」

「好きだよ、千紗」

「…………もう、一回」

何回でも言ってやる。十二年分の遅れを取り戻すには、全然足りないくらいだ。

「好きだ。ずっと前から。たぶん——ずっと前から」

千紗が顔を上げた。

泣き腫らした目。赤い鼻。ぐしゃぐしゃの泣き顔。

——今まで見たどの顔よりも、きれいだと思った。

「えへへ……ひどい顔でしょ」

「ひどい顔」

「否定してよ!」

「世界で一番可愛いひどい顔」

「……なにそれ」

千紗がくしゃっと笑った。涙の跡が頬に光っている。

「ゆうくん、こういうとき急に口うまくなるのずるい」

「お前に鍛えられた」

「わたしのせいなの!?」

千紗が笑って、また泣いて、笑って。忙しい顔が、愛しくてたまらなかった。

窓の外で夕陽が沈みかけている。教室がオレンジから藍色に変わっていく。

「……ゆうくん」

「ん」

「桐島くんには、断るね」

「……」

俺が何も言えずにいると、千紗がいたずらっぽく笑った。

「なに、まだ嫉妬してるの?」

「……してない」

「嘘。顔に書いてある」

「……」

「ふふ。嫉妬してるゆうくん、ちょっと可愛い」

「うるせえ」

千紗が俺の腕にしがみついた。いつもの感触。いつもの距離。

だけど今日から、その意味が変わった。

「ねえ、ゆうくん」

「ん」

「わたしたち——もう、幼馴染じゃないよね?」

千紗が上目遣いで見上げてくる。潤んだ琥珀色の瞳が、答えを待っている。

俺は千紗の髪をくしゃりと撫でた。

「……ああ。幼馴染じゃない」

千紗の目が、ぱあっと輝いた。

「じゃあ——何?」

知ってるくせに聞くな。

俺は深呼吸した。顔が熱い。耳まで燃えている。だがもう逃げない。

「——彼女」

一言。たった二文字。なのに声に出すのにこれほどの勇気が必要だとは思わなかった。

千紗が息を飲んだ。

そして——満開の桜みたいな、とびきりの笑顔を咲かせた。

「えへへ……彼女かあ……えへへへ」

「お前、語彙力どこいった」

「だって嬉しすぎて言葉出てこないんだもん……えへへ」

千紗が俺の腕をぎゅうっと抱き締めた。いつもより強い力。柔らかさと温もりが全身に伝わってくる。

十二年間、ずっと隣にいた。

これからも、ずっと隣にいる。

ただ——呼び方が変わっただけだ。

幼馴染から、彼女へ。

たったそれだけのことに、十二年もかかった。

「ゆうくん」

「ん」

「明日のお弁当——彼女が作る弁当だからね。気合い入れるからね」

「今までと何が変わるんだよ」

「愛情が五割増しになります」

「今までが百だったら百五十かよ。弁当箱爆発するだろ」

「爆発してもいいもん。ゆうくんへの愛は弁当箱に収まらないの」

「……なにそれ」

千紗がくすくす笑って、俺の肩に頭を預けた。

夕陽が完全に沈んで、教室は薄暗くなっていた。窓からは、一番星が見えている。

「……帰るか」

「うん」

二人で席を立つ。鞄を持って、教室を出る。

昇降口で靴を履き替えて、校門を出た。夜の匂いがする風が吹いている。

千紗の手が、俺の手に触れた。指先が絡む。ためらいがちに、だけど確かに。

俺はその手を、握り返した。

千紗の指が、きゅっと力を込める。

幼馴染だった頃は、手を繋ぐのに理由が必要だった。

今は——いらない。

「ゆうくん」

「ん」

「手、あったかい」

「お前の手が冷たいんだよ。美術室、寒かったんじゃないか」

「……違うよ。嬉しくて、緊張して、手が冷たくなったの」

「……」

「ゆうくんは、緊張してないの?」

「……してるに決まってんだろ」

「えへへ。じゃあおんなじだね」

繋いだ手を、千紗がぶんぶんと振った。小さい頃と同じように。

帰り道の星空の下、二人の影が一つに重なっていた。

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