第2話 雨の日と体操着と、近すぎる距離
幼馴染の彼女が発育良すぎて目のやり場に困るが、本人は俺にだけ無防備すぎる件
─── 第2話 雨の日と体操着と、近すぎる距離 ───
1
四月の第二週。天気予報は「午後から雨」と告げていたが、朝の空は嘘みたいに青かった。
「ゆうくん、傘持った?」
玄関先で千紗が首を傾げる。今朝もインターホン連打で起こされた。もはや俺の目覚まし時計は千紗である。家電メーカーはそろそろ幼馴染型アラームを開発するべきだ。需要は俺一人だが。
「いらねえだろ、この天気」
「天気予報では午後から雨だよ?」
「降ったら降ったとき考える」
「もう……」
千紗が呆れ顔で、自分の鞄から折りたたみ傘を取り出した。薄いピンク色の、明らかに女物の傘。
「はい、これ貸してあげる」
「いや、お前が濡れるだろ」
「わたしはもう一本あるから大丈夫」
千紗が鞄のサイドポケットから、もう一本の折りたたみ傘を見せた。
「……なんで二本持ってんだよ」
「ゆうくんが持ってこないと思ったから」
——読まれている。完全に読まれている。
十二年の蓄積は伊達じゃない。俺の行動パターンは千紗のデータベースに完全にインデックスされている。プライバシーもへったくれもない。
「……サンキュ」
「えへへ。でもそれ、ちゃんと返してね? お気に入りなんだから」
「わかったわかった」
ピンクの折りたたみ傘を鞄に突っ込む。男子高校生がピンクの傘をさす姿を想像して、少し気が重くなった。
2
午前の授業は平和に過ぎた。
問題は三限目——体育だった。
四月の体育はまだ体力測定の期間で、今日は体育館でのシャトルラン。俺は着替えを済ませて体育館に向かいながら、隣を歩く健吾と他愛のない話をしていた。
「にしてもお前、毎朝天野さんと登校ってマジでうらやましいんだが」
「うらやましがる要素がどこにある」
「どこって——全部だよ全部。お前さあ、天野さんのスペック理解してる? 顔面偏差値70、スタイルは言わずもがな、性格は天使、料理もできる。そんな子が毎朝迎えに来て弁当作ってくれるとか、ラノベかよ」
「ラノベじゃなくて現実だから困ってんだよ」
「困ってるって言えるのがもう贅沢なんだよなあ……」
健吾が遠い目をした。知らん。
体育館に入ると、女子はすでに準備体操を始めていた。
——そして俺は、入口で足を止めることになる。
千紗が、体操着を着ていた。
当たり前だ。体育なんだから体操着を着る。何もおかしくない。おかしくないはずなのだが——
白い半袖の体操着は、千紗の身体のラインをこれでもかと拾っていた。制服のブラウスやブレザーが覆い隠していたものが、薄い生地一枚を隔てただけの状態で、そこにある。重力に従って微かに揺れるそれは、走ったら大変なことになると本能的に理解できた。
しかも千紗は、体操着の裾をハーフパンツの中に入れている。律儀な性格が、逆に身体のラインを強調する結果になっている。本人は校則を守っているだけなのだろうが、結果として男子生徒の精神を削る凶器と化している。
「おう和泉、固まってんぞ」
「……固まってない」
「いや完全に固まってたわ。シャトルラン始まる前に心肺停止すんなよ」
健吾の軽口を聞き流しながら、俺は意識的に視線を逸らした。天井を見る。体育館の照明は蛍光灯だ。うん、蛍光灯だな。何の発見もない。
「ゆうくーん!」
——来た。
千紗が小走りでこちらに向かってくる。
揺れる。
揺れている。
物理法則に忠実に、正確に、盛大に揺れている。
「ゆうくん、シャトルラン頑張ろうね!」
千紗が俺の前で立ち止まった。小走りの余韻で、肩で息をしている。体操着の胸元が上下に動くたび、俺の精神も上下する。主に下方向に。
「わたし、去年58回だったんだけど、今年は60回目指すんだ」
「……おう」
「ゆうくんは?」
「……しらん。適当にやる」
「えー、そんなこと言って去年96回だったくせに。すごいよね、ゆうくんは」
千紗が無邪気に笑う。体操着の襟元から、鎖骨のラインが覗いている。首筋にうっすらと汗が光っている。
視線の置き場がない。顔を見れば目が合って心臓が跳ね、身体を見ればもっとまずいことになる。結局、俺はまた天井を見上げた。
「……ゆうくん、さっきから天井ばっかり見てるけど、何かあるの?」
「蛍光灯の数を数えてる」
「……え、なんで?」
「趣味」
「ゆうくん、変な趣味増えたね……」
千紗が不思議そうに首を傾げた。頼むから気づかないでいてくれ。気づかれたら俺は社会的に死ぬ。
3
シャトルランが始まった。
電子音に合わせて体育館を往復する、あの地獄のテストだ。最初はゆっくりだが、徐々にペースが上がっていく。
俺は淡々と走っていた。体力には自信がある。中学時代はサッカー部で鍛えたおかげで、この手の持久系は得意だ。
問題は——千紗だった。
千紗は運動が得意ではない。昔から足が遅く、持久力もない。それでも真剣な顔で走っている姿は、四歳の頃の鬼ごっこと重なった。あの頃も、遅いくせに一生懸命だった。
40回を過ぎたあたりで、千紗の顔が赤くなってきた。息が荒い。足がもつれかけている。
45回。千紗が電子音にぎりぎり間に合う。
48回。足が止まりかける。
50回——千紗が体育館の端で膝に手をつき、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「天野、大丈夫か?」
体育教師が声をかけるが、千紗は手を振って「大丈夫です」と答えた。だが明らかに顔色が悪い。
俺は——まだ走っていた。78回目。余裕はある。だが、千紗の方が気になって集中できない。
数回後のターンで千紗の近くを通ったとき、ちらりと様子を見た。千紗は壁際に座り込んで、目を閉じている。顔が真っ青だ。
「——」
80回目の電子音を聞き流して、俺は走路を外れた。
「和泉、どうした?」
教師の声を背中で聞きながら、千紗の元へ向かう。
「千紗、おい。大丈夫か」
しゃがんで千紗の顔を覗き込む。近い。だがそんなことを気にしている場合じゃない。
「ゆう……くん。大丈夫、ちょっとくらくらしただけ——」
「大丈夫じゃねえだろ。顔真っ白だぞ」
「でも、ゆうくんまだ走ってたのに——」
「んなもんどうでもいい」
言ってから、しまった、と思った。
周囲の目が一斉にこちらを向いているのがわかる。女子たちがざわめき、健吾が遠くでサムズアップしている。やめろ。
だが千紗は——そんな周囲の視線なんか見えていないかのように、俺の顔を見上げて、ふにゃりと笑った。
「……ゆうくん、やさしい」
「やさしくない。お前が無茶するから——」
「やさしいよ。昔から、ずっと」
四歳の頃と同じ言葉。同じ笑顔。
だけど四歳の頃とは違って、その笑顔に胸が締めつけられるような感覚がある。
「……保健室行くぞ。立てるか」
「うん……あ、でも、ちょっとふらふらする……」
千紗が立ち上がろうとして、ふらついた。反射的に手を伸ばして支える。
俺の腕の中に、千紗の身体が倒れ込んできた。
——やわらかい。
全身の体温、シャンプーの残り香、汗の匂い、心臓の鼓動。全部が、密着した身体から伝わってくる。
「……ごめん、ゆうくん。重い、よね」
「軽いわ」
実際、千紗は見た目の印象よりずっと軽い。出るところは出ているのに、腰は細くて骨格は華奢だ。支えるのに力はいらない。
「……ゆうくんの心臓、すごいドキドキしてる」
——聞こえてんのかよ。
「走ったあとだからな」
「……ふふ。そういうことにしておくね」
千紗が俺の胸に顔をうずめたまま、くすりと笑った。
——こいつ、わかっててやってないか?
「せ、先生。天野を保健室に連れていきます」
「おう、頼んだぞ和泉。……仲いいなお前ら」
教師の余計な一言を背中に受けながら、俺は千紗を支えて体育館を出た。
4
保健室への廊下は、しんと静かだった。
授業中の校舎は人気がなく、二人の足音だけが反響する。千紗は俺の肩に手を置いて、ゆっくりと歩いていた。体操着の薄い布越しに、千紗の手のひらの体温が伝わってくる。
「……ねえ、ゆうくん」
「ん」
「シャトルラン、80回で止めちゃったでしょ」
「……別に、疲れたから」
「嘘。ゆうくん、まだ全然余裕だったもん」
千紗が俺の横顔を覗き込んできた。琥珀色の瞳が、見透かすように俺を見ている。
「……わたしのために止めてくれたんでしょ」
「……」
「嬉しかった。すごく」
千紗がぎゅっと俺の腕を掴む力を強めた。
「でもね、ダメだよ。ゆうくんの記録が下がっちゃう」
「記録なんかどうでもいい」
「……」
「お前が倒れてるのに走ってられるかよ」
言葉が、自分でも驚くほどすんなり出てきた。
千紗が黙った。数秒の沈黙のあと、俺の肩に預けた手が微かに震えていることに気づいた。
「千紗?」
「……ごめん。なんか、泣きそうになっちゃった」
「え、泣くなよ。どこか痛いのか?」
「痛くないよ。嬉しくて泣きそうなの」
千紗が空いた手で目元を拭った。
「……ゆうくんがさ、昔から変わらないなって思ったら、なんか——ぐっときちゃって」
鬼ごっこでわざと遅く走ってくれた男の子。
十二年経っても、自分の記録を投げ出して駆けつけてくれる。
千紗にとって、それはきっと同じ延長線上にあるのだろう。
俺にとっても——たぶん、そうだ。
「泣くほどのことじゃないだろ」
「泣くほどのことだよ。わたしにとっては」
千紗の声は小さかったが、芯がこもっていた。
保健室の扉が見えた。俺はドアを開けて、千紗をベッドに座らせた。保健の先生は不在で、ホワイトボードに「職員室にいます」とだけ書いてあった。
「……先生いないな。水だけ飲んどけ」
保健室の冷蔵庫からスポーツドリンクを出して千紗に渡す。千紗はペットボトルを受け取りながら、何かを言いたそうに口を開いた。
「……ゆうくん」
「ん」
「隣、座って」
ベッドの横を、千紗がぽんぽんと叩く。
「いや、俺は——」
「お願い。もうちょっとだけ、隣にいて」
その声が、朝のインターホンみたいな元気さとは程遠い、小さくて柔らかいものだったから——
「……わかった」
隣に座った。
パイプベッドが軋む。保健室特有の消毒液の匂い。窓の外では、天気予報通り、空に灰色の雲がかかり始めていた。
千紗がスポーツドリンクを一口飲んで、ぽつりと言った。
「……ゆうくんの隣って、安心する」
「……」
「小さい頃からそうなの。ゆうくんの隣にいると、なんでも大丈夫な気がするの」
千紗が俺の肩に頭を預けた。さらさらの髪が首筋に触れる。
「……わたしね、ゆうくんに迷惑かけてばっかりだよね。朝は起こしに行くし、お弁当は押しつけるし、今日はシャトルランの途中で倒れるし」
「迷惑なんて思ったことない」
「……ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、明日もお弁当作っていい?」
「おう」
「明後日も?」
「ああ」
「……ずっと?」
——また、その言葉。
昨日の夕暮れの通学路でも、千紗は「ずっと」と言った。その言葉に込められた意味を、俺は正確に理解している。理解した上で、気づかないふりをしている。
ずるいのは、俺のほうだ。
「……ずっと作ってくれるなら、ずっと食う」
精一杯の誠実。自分の本音にも嘘をつかず、かといって千紗を傷つけないぎりぎりの返答。
千紗は数秒黙ったあと、小さく笑った。
「……ゆうくんのそういうとこ、ずるい」
「……わかってる」
「わかっててやってるの、もっとずるい」
千紗が俺の肩から頭を上げて、真正面から俺の顔を見た。
近い。
鼻先が触れそうな距離。琥珀色の瞳に、俺の顔が映っている。まつげの一本一本が数えられる。唇がうっすらと開いていて——
「——っ」
俺が息を飲んだ瞬間、保健室のドアがガラリと開いた。
「あら、誰かいるの?」
保健の先生が戻ってきた。
俺と千紗は、弾かれたように距離を取った。
「す、すみません! シャトルランで気分が悪くなって——」
「あらあら、大丈夫? ちょっと見せてね」
先生が千紗の脈を測り始める。俺はベッドの横に立ったまま、自分の心臓の暴走を必死に鎮めていた。
——あと三秒、先生が遅かったら。
その先を想像して、首を振った。想像するな。想像したら戻れなくなる。
千紗がちらりとこちらを見て、耳まで真っ赤にしながら、ぷいっとそっぽを向いた。
——お前もかよ。
5
四限目が終わる頃、窓の外は土砂降りだった。
千紗は保健室で休んだおかげで元気を取り戻し、昼休みにはいつも通り弁当を広げていた。今日のメインは予告通り和風ハンバーグ。大根おろしがこれでもかと乗っている。
「どう? 美味しい?」
「……美味い。めちゃくちゃ美味い」
「えへへへ」
千紗が幸せそうに笑う。この笑顔を見るためだけに「美味い」と言いたくなる。末期だ。
昼休み、健吾が弁当を持って近づいてきた。
「よう和泉。今日の保健室イベント、学年中に広まってるぞ」
「……は?」
「『和泉が天野さんのためにシャトルラン棄権して保健室にお姫様エスコート』って。女子のグループLINEが火を噴いてるらしい」
「大げさすぎるだろ……」
「事実じゃん」
健吾がニヤニヤしている。千紗は「え、そうなの?」と目をぱちくりさせている。
「ちなみに男子からは『和泉を殴りたい同盟』が結成されつつある」
「物騒すぎるだろ」
「天野さんレベルの子にあの距離感で接してるお前が悪い。自覚しろ」
自覚はしている。だからこそ困っているんだ。
6
放課後。雨は一向に止む気配がない。
千紗が美術部のミーティングに出ている間、俺は教室で課題をやりながら待っていた。——待っていた、という表現は正確ではない。単に課題をやっていたら千紗のミーティングが終わる時間になった。断じて待っていたわけではない。
「ゆうくん、お待たせ!」
千紗が教室に戻ってきた。鞄を持ち上げて、窓の外を見る。
「すごい雨だね……」
「ああ。朝の予報、当たったな」
「だから言ったのに。傘、持ってきた?」
「……お前にもらったやつがある」
「よかった」
千紗が自分の折りたたみ傘を取り出す。
俺も千紗から借りたピンクの傘を出す。
「……」
「……」
二人して、折りたたみ傘を見つめた。
折りたたみ傘というのは、基本的に一人用だ。二人で入るには小さすぎる。
だが外は土砂降り。ちゃんとした傘を持っている生徒はとっくに帰っており、昇降口には折りたたみ傘すら持っていない生徒がたむろしていた。
「じゃ、行くか」
俺がピンクの折りたたみ傘を開く。千紗が自分の傘を開く。
二人並んで校門を出た。
だが、折りたたみ傘は小さい。風が横殴りの雨を運んでくると、肩がびしょびしょになる。
「っ——冷た」
「千紗、もっとこっち寄れ」
「え、でもゆうくんの方が濡れちゃう——」
「いいから」
俺は自分の傘を千紗の方に傾けた。当然、俺の右半身が雨にさらされる。
「ダメだよ、ゆうくんが濡れてる!」
千紗が慌てて自分の傘を俺の方に寄せた。結果として、千紗の左半身が雨にさらされる。
「おい、お前が濡れてどうすんだよ」
「ゆうくんが濡れるよりいいもん」
「よくねえよ。さっきまで保健室にいた奴が雨に打たれてどうする」
堂々巡りだ。お互いに相手を濡らすまいとして、結局二人とも中途半端に濡れている。
千紗が立ち止まった。
「……ゆうくん」
「ん」
「一本にしよ」
「……は?」
千紗が自分の傘をぱさりと閉じた。
「一本にして、くっついて入ったほうが濡れないよ」
理屈は、正しい。折りたたみ傘一本では二人は入れないが、身体を密着させればぎりぎり肩まで入る。合理的な判断だ。
——合理的な判断のはずなのに、心臓がまったく合理的じゃない反応をしている。
「いいから、ほら」
千紗が俺の左腕に自分の右腕を絡めた。ぴったりと密着する。体操着のときとは比べものにならない。制服越し、至近距離、しかも雨のせいで互いの体温がやけに鮮明に感じ取れる。
「……近くない?」
「近くないと意味ないでしょ」
正論だ。正論なんだが。
千紗の胸が、俺の腕に押し付けられている。柔らかさの質量がダイレクトに伝わる。雨で少し湿ったブラウスは普段より薄くなっていて、体温と鼓動まで感じ取れそうだ。
「……ゆうくん、顔赤いよ?」
「雨で冷えたから血行が——」
「嘘。耳まで赤い」
千紗がくすくす笑った。濡れた前髪が額に張り付いて、いつもと違う色っぽさがある。
「ゆうくんって、こういうとき絶対素直にならないよね」
「何の話だ」
「照れてるの、バレてるよって話」
——わかってるなら離れてくれ。
だが千紗は離れるどころか、さらにぎゅっと腕を抱き締めた。
「わたしも照れてるから、おあいこね」
照れてる割には攻めてくるな、お前。
雨の中、二人で一本の傘に入って歩く。
桜の花びらが雨に打たれて散り、濡れたアスファルトに張り付いている。
「……ねえ、ゆうくん」
「ん」
「わたしたちって、傍から見たらどう見えるのかな」
「……さあ」
「カップルに見えるかな」
「……知らん」
「わたしは——見えたらいいなって、思うけど」
小さな声。雨音にかき消されそうなくらいの声。
だけど、聞こえた。俺の耳は、千紗の声だけはどれだけ小さくても拾ってしまう。
「……」
「……聞こえなかった?」
「……聞こえた」
「……そっか」
千紗はそれ以上何も言わなかった。
ただ、腕を抱く力が少しだけ強くなった。
7
家に着いた。
隣同士の二軒の家の前で、俺と千紗は向かい合った。二人ともそれなりに濡れている。千紗の栗色の髪が雨で重たく垂れ、制服のブラウスが肌に張り付いていた。
——見るな。見るんじゃない。
「ゆうくん、お風呂先に入りなよ。風邪ひくよ」
「お前こそ。さっきまで保健室にいたんだから」
「あはは、お互いに心配し合ってる」
千紗が笑って、自分の家の門に手をかけた。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ」
「……ゆうくん」
「ん?」
千紗が振り返った。濡れた睫毛の奥で、琥珀色の瞳が揺れている。
「今日、ありがとう。シャトルランのことも、傘のことも、保健室のことも」
「……大したことしてない」
「大したことだよ。ゆうくんにとっては普通でも、わたしにとっては全部特別なの」
雨が、二人の間に降り続ける。
「……また明日、迎えに行くね」
「ああ」
「お弁当は何がいい?」
「……任せる」
「じゃあ、ゆうくんの好きなもの全部入れる」
「全部って、弁当箱に入りきらないだろ」
「入れる。二段にする。三段でもいい」
千紗がにっと笑った。雨に濡れているのに、その笑顔はどこまでも明るかった。
「……じゃあな」
「うん。おやすみ、ゆうくん」
千紗が家の中に消えていく。
玄関のドアが閉まる音を聞いて、俺はようやく息を吐いた。
濡れた制服が冷たい。だけど千紗が腕に触れていた場所だけが、まだ温かい気がした。
8
風呂から上がって、自室のベッドに転がる。
髪を拭きながら天井を見ていると、スマホが震えた。
【千紗】ゆうくん、お風呂入った?
【悠真】今出た
【千紗】よかった ちゃんと髪乾かしてね
【悠真】はいはい
【千紗】あのね、ゆうくん
【千紗】今日のこと、ずっと考えてた
【悠真】どのこと
【千紗】全部
【千紗】シャトルランで走ってきてくれたこと
【千紗】保健室で隣に座ってくれたこと
【千紗】傘を寄せてくれたこと
【千紗】ぜんぶ
【千紗】わたし本当に幸せだなって思った
俺はスマホを持つ手が震えるのを感じた。
【悠真】大げさ
【千紗】大げさじゃないよ
【千紗】ゆうくんがわたしの幼馴染で、本当によかった
【千紗】……幼馴染、で、いいのかな
最後の一行。
「幼馴染で、いいのかな」。
その五文字に込められた意味を、読み取れないほど鈍くはない。
千紗は聞いている。俺たちの関係に、名前をつけてもいいのか、と。
指がスマホの画面の上で止まった。何を打てばいい。何を返せば——
長い沈黙のあと、俺が返したのは。
【悠真】明日の弁当、唐揚げがいい
逃げた。
完全に逃げた。
三秒の間があって、千紗からの返信。
【千紗】……了解
【千紗】唐揚げ、世界一美味しいの作るからね
【千紗】おやすみ、ゆうくん
絵文字の笑顔が、泣いているように見えたのは——気のせいだと思いたかった。
スマホを枕元に置いて、布団を頭まで被る。
「——くそ」
俺は、ずるい。
千紗がこんなにも真っすぐに気持ちを伝えてくれているのに、俺はいつも逃げる。幼馴染という便利な肩書きの後ろに隠れて、心地いい距離を壊すのが怖くて、一歩が踏み出せない。
変わらない関係が心地いいんじゃない。
変わることが、怖いんだ。
十二年かけて積み上げたものが壊れるのが。
もし気持ちを伝えて、この距離が——なくなってしまったら。
だけど。
千紗の「幼馴染で、いいのかな」という言葉が、頭の中でリフレインしている。
あの言葉を打つのに、千紗がどれだけ勇気を使ったか。
俺はそれに、唐揚げで返した。
「……最低だな、俺」
四月の雨が、窓を叩いている。
明日もきっと、千紗は笑顔で迎えに来る。何事もなかったような顔で、弁当を差し出して、「えへへ」と笑う。
そのやさしさに、いつまでも甘えていていいのか。
答えは——わかっている。
わかっているのに、動けない。
それが、十二年目の春の、俺のすべてだった。




