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第16話 乃愛が知る日

1

四月の終わり。乃愛から着信が来たのは、平日の昼間だった。

「……もしもし」

「和泉くん、今どこにいる?」

声のトーンが違った。全力じゃない。静かで、平らな声。

「会社の近く。どうした」

「……今日、時間ある?」

待ち合わせは、いつもと違う場所だった。駅から遠い、人通りの少ない公園。乃愛がベンチに座って俺を待っていた。赤いベレー帽をかぶっていない。いつもの乃愛じゃない。

「……乃愛」

「座って」

乃愛がまっすぐ前を見たまま言った。

「……千紗さんと、会ってるよね」

心臓が一拍、止まった。

「幼馴染だから——」

「違う。そういう話じゃない」

乃愛が俺を見た。泣いていなかった。だから——余計に怖かった。

「先週の土曜日。和泉くんが『一人で家にいる』って言った日」

「……千紗さんちから出てくるところ、見た」

2

沈黙が続いた。公園の鳩が、のんびりと地面をついばんでいた。

「……ごめん」

「謝らないで」

乃愛の声が、わずかに震えた。

「謝られたら——泣いちゃうから」

乃愛がベンチの端を両手で掴んだ。白くなるくらい、強く。

「ずっと、気づかないふりをしてた。LINEの返事が遅いのも、デートのとき少し遠いのも——就活が忙しいからだって、自分に言い聞かせてた」

「でも——」

乃愛の声が、一度だけ詰まった。

「でも、知ってた。ずっと前から、知ってたんだと思う」

3

「好きだった、和泉くんのこと」

過去形だった。

「好きだよ、今も。だから——聞かせて」

乃愛が俺を見た。泣きそうな顔で、泣かなかった。

「千紗さんのこと——好きなの?」

言い訳が喉まで来た。でも——乃愛の目を見たら、全部飲み込んだ。

「……好きだ」

乃愛が小さく息を吸った。

「私より?」

答えられなかった。答えられないこと自体が、答えだった。

乃愛がゆっくりと前を向いた。

「……そっか」

その「そっか」は、今まで聞いた中で——一番重かった。

4

「別れよう、とは——まだ言えない」

乃愛が立ち上がった。

「和泉くんが好きだから。三年間、ずっと好きだったから。そんなに簡単に言えない」

「でも——このままでもいられない」

乃愛が俺を見下ろした。目が赤かった。泣かなかった。泣かないでいるために、全力を使っていた。

「少し——一人で考えさせて」

「……ああ」

「連絡、しないで。私から連絡するまで」

乃愛が歩き出した。三歩進んで、止まった。

「——和泉くん」

振り返らなかった。

「三年間、楽しかった。それだけは、本当だから」

乃愛が歩き出した。今度は止まらなかった。

赤いベレー帽のない後ろ姿が、公園の出口に消えた。

5

その夜。帰宅した。

千紗の部屋に明かりが灯っていた。

窓を開けなかった。LINEも送らなかった。

ソファに座って、スマホの画面を見た。

乃愛とのトーク画面。最後のメッセージは三日前。

【乃愛】おはよう!!今日も頑張ろうね!!

ハートの絵文字が三つ。

三年間のトーク履歴をスクロールした。ハートだらけだった。おにぎりのスタンプ。たこ焼きの写真。「あと六日」のカウントダウン。

全部——全力だった。

乃愛は一度も、手を抜かなかった。

スマホを伏せた。

窓の外に、千紗の部屋の明かりがある。

あの光が好きだった。ずっと前から、好きだった。

だけど今夜は——その光が、こんなにも眩しくて、こんなにも苦しい。

好きなものを手に入れるために、別の大切なものを傷つけた。

それが——俺の選んだ結果だ。

最低だ。

だけど、最低であることから目を逸らさないことだけが——今の俺にできる、唯一の誠実だった。

6

三日後。千紗が肉じゃがを持ってきた。

ドアを開けたら、千紗の顔を見た瞬間——何かが溢れそうになった。

「……どうしたの、ゆうくん」

千紗が俺の顔を見て、すぐにわかった。鍋をそっと置いて、俺の前に立った。

「乃愛ちゃん?」

「……見られた」

千紗の顔が、一瞬だけ歪んだ。痛みと、罪悪感と——それでも消えない何かが混じった表情。

「……ごめん」

「千紗が謝ることじゃない」

「でも——」

「俺が選んだことだ。全部」

千紗が俺の胸に額を当てた。

「……私は、ゆうくんの隣にいたい。それだけは変わらない」

「……わかってる」

「でも——乃愛ちゃんを傷つけたくなかった。私も」

千紗の声が震えた。

「きれいごとだって、わかってる。でも——本当のことだから」

俺たちはしばらく、そのまま立っていた。

千紗の体温が伝わってきた。

炎のような体温。

この温かさが好きだ。ずっと前から、好きだった。

だけど今夜は——この温かさの代償を、初めてはっきりと感じていた。

誰かを愛することは、誰かを傷つけることと——こんなにも近い場所にある。

肉じゃがが、冷めていった。

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