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第14話 三月の引力

1

三月。千紗とりんと乃愛。三つの温度が、それぞれの軌道で俺の周りを回っている。

最低だとわかっている。だけど——最低と幸福は、こんなにも静かに共存する。

2

千紗との夜。

梅の匂いがした。窓を少し開けると、外の冷気が薄いカーテンを揺らした。

千紗が俺の腕に頬を当てて、目を閉じている。

「ゆうくん」

「ん」

「この匂い、好き」

「梅か」

「違う。ゆうくんの匂い」

千紗は欲しいものを正確に言語化する。遠慮も、飾りもない。そのまっすぐさが——時々、息苦しいほど愛しい。

「……また描くのか、俺のこと」

「描かない」

「なんで」

「今は持ってたい。描いたら、外に出ちゃう気がして」

千紗が俺の胸に指を這わせた。文字を書くように。今夜は五文字だった。

「……何書いた」

「秘密。でも——正解を知りたければ、ずっとここにいること」

千紗が笑った。少し意地悪な、大人の笑顔。

「……ずるいな」

「ゆうくんに教わった」

部屋の電気が消えた。梅の匂いと、千紗の体温だけが残った。

3

乃愛の部屋。日曜日の午後が夜に変わる境目。

乃愛がホットミルクを二つ持ってきて、俺の隣に座った。肩が触れる。

「ねえ、和泉くん」

「ん」

「私ね、幸せだよ。今」

乃愛がカップを両手で包んで、俺の肩に頭を乗せた。

「就職したら忙しくなるかな」

「そうかもな」

「……それでも会いに来てくれる?」

「来る」

「絶対?」

「絶対」

乃愛がカップを置いて、俺の手を両手で包んだ。小さな手のひら。温かい。

「……和泉くんの手、好き」

「手か」

「うん。この手に握られると——安心するの。ずっと前から」

ホットミルクが冷めていく間、乃愛はずっと俺の手を放さなかった。

夜が深くなった。乃愛が「泊まってって」と言った。声が小さかった。いつもの全力とは違う、かすかな声で。

部屋の明かりが落ちた。

乃愛は暗闇の中でも「好き」と言い続けた。眠りに落ちる瞬間まで。

4

りんから荷物が届いた。二月の終わり。京都の老舗の茶葉と、一枚のメモ。

「面倒なことを思い出したくなったら飲んでください。/りん」

茶を淹れた。香りが部屋に広がった。

スマホを開いた。

【悠真】届いた。美味かった

【瀬戸内】よかった。私も今飲んでる

【悠真】同じ時間に飲んでるな

【瀬戸内】……そうね。面倒だ

しばらくして、もう一通。

【瀬戸内】次に東京に来るの、四月かもしれない。面倒なことになりそう。

俺は返信を打ちかけて、止めた。消した。もう一度打った。

【悠真】待ってる

送信した。

三秒後、既読。返信はなかった。でも——それが、りんの答えだった。

5

三月の最後の夜。

千紗の部屋の明かりが見えた。乃愛から「おやすみ」のLINEが来た。りんの茶葉の香りがまだ部屋に残っていた。

三つの光が——それぞれの場所で灯っている。

近くて遠い光。遠くて近い光。

手を伸ばせば届く光。届かないとわかっていて伸ばす手。

俺はまだ、答えを出していない。

出せないのではなく——今はまだ、出さないことを選んでいる。

それが誠実なのか、臆病なのか。

三月の夜は、その答えを教えてくれないまま、静かに終わった。

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