第13話 三つの体温
1
十二月。千紗との夜。
天野家のリビング。ソファ。千紗が俺の肩に頭を預ける。
「……泊まっていって」
千紗がニットの裾をゆっくりと持ち上げた。
「……目、逸らさないで。高校のとき、ゆうくんはいつも目を逸らしてた。だから今は、見て」
「……きれいだ」
「……ゆうくんに、きれいって言ってもらいたかった。ずっと」
千紗との夜は静かだった。溢れるものをそっと手のひらで受け止めるように。俺の名前を何度も呼んだ。「ゆうくん」と。そのたびに声が震えて、時おり涙が混じった。
「……もっと、近くに」
二十二年分の距離をゼロにしても、まだ足りない。
事のあと、千紗は俺の胸に頬を当てて心臓の音を聞いていた。
「……好き」
「……好きだ。千紗」
「……朝まで、いてくれる?」
「いる」
「……えへへ」
千紗が笑って、そのまま眠りに落ちた。
2
日曜日。乃愛の部屋。ワンルーム。ココアを飲んで、ベッドの縁に並んで座った。
「ねえ、和泉くん」
「ん」
「最近、私のこと可愛いって言ってくれないね」
「……可愛いだろ。いつも」
「いつもは言ってくれないじゃん」
「……乃愛は可愛い。めちゃくちゃ可愛い。世界一可愛い」
乃愛の顔がぱあっと赤くなった。
「な、なに急に全力で。自分で言わせたくせに」
乃愛がティッシュを取ろうと身を伸ばして、バランスを崩した。俺の上に倒れ込む。
「……和泉くん」
「ん」
「……このまま、でいい?」
「……キス、していい?」
三年付き合っていて、まだ許可を求めてくる。
乃愛との夜は賑やかだった。千紗が静けさの中で吐息を溢すのに対して、乃愛は感情がそのまま声になる。
「和泉くん、好き」
「和泉くん、もっとくっつきたい」
事のあと、乃愛は俺の腕にしがみついたまま離れなかった。
「……和泉くんがいなくなったらどうしよう」
「……いなくならないよ」
「……じゃあ、ぎゅってして」
乃愛が俺の胸に手のひらをぴたりと当てた。心臓の位置。
「……ここにいて」
「いるよ」
「……ずっと?」
「ずっと」
「……えへへ」
寝言のように呟いて、乃愛は眠りに落ちた。
3
一月。インターン最終週。瀬戸内と最後の残業。
「二ヶ月、早かったな」
「うん。もう少し長かったらよかったのに」
瀬戸内が眼鏡を外した。
「忘年会のとき言ったこと——嘘じゃなかった。この二ヶ月で——もっと、深くなった」
「面倒だって思ってた。人を好きになるの。でも——こういうことかって、やっとわかった」
「和泉くんには彼女がいる。知ってる。だから——何も求めない。ただ——最後に一つだけ」
「キスしてもいい? 一回だけ。それで区切りをつけるから」
唇が触れた。軽く。乾いた、控えめな触れ方。確認するようなキスだった。
「……ああ、やっぱり。面倒だ。すごく面倒」
目の縁にうっすらと涙。
「泣かないよ。私、泣くの下手だから」
「でも——面倒なことがわかった。面倒だけど、悪くないって」
りんが眼鏡をかけ直した。
「じゃあ、おやすみ。二ヶ月間ありがとう」
ドアが閉まる前に、りんが振り返った。
「——面倒を教えてくれてありがとう、悠真くん」
4
りんが京都に帰った。
【瀬戸内】和泉くんがどんな答えを出しても、私は大丈夫だから
【瀬戸内】P.S. 眼鏡は外さないことにした。和泉くんがいない世界では必要だから。鎧として
5
二月のある夜。千紗の部屋で。
「……ゆうくん」
「ん」
「私たちって何なんだろうね。恋人じゃないし、友達でもないし」
千紗が俺の胸に指で文字を書いた。ひらがなで。ゆっくりと。
「……何書いてる」
「秘密」
指の動きで読めた。四文字。「ずっと」だった。
「名前なんかなくていいよ。ゆうくんがここにいてくれるなら」
「……それでいいのか」
「よくないよ。本当は。全部ほしい。ゆうくんの全部がほしい。名前も、時間も、未来も」
千紗が俺の手をぎゅっと握った。
「でも——全部もらえないなら、もらえる分だけもらう。……大人になるって、そういうことでしょ」
千紗が笑った。穏やかで、少しだけ切ない笑顔。
「……千紗は強くなったな」
「ゆうくんが弱いから、強くなるしかなかったんだよ」
千紗が俺の胸に顔を戻した。しばらくして、寝息が聞こえ始めた。
俺は千紗の髪を撫でながら、窓の外を見た。俺の部屋の窓。暗い部屋。
千紗の部屋と俺の部屋。隣同士。壁一枚。
近くて、遠い。
その距離が——今の俺たちの、名前のない関係そのものだった。
三つの温度が胸の中にある。
千紗の炎。乃愛の陽だまり。りんの月明かり。
千紗がくれたのは深さだ。乃愛がくれたのは温かさだ。りんがくれたのは静けさだ。
どれかが欠けたら——今の俺は、成り立たない。
最低な結論だ。だけど嘘じゃない。
嘘じゃないことだけが、俺に残された最後の誠実だった。




