第11話 境界線は、とっくに溶けていた
1
九月の終わり。内定が出た。
母親に報告して、乃愛に電話して。窓の外を見た。千紗の部屋に明かりが灯っている。
【悠真】内定出た
窓がコンコンと鳴った。千紗がスウェット姿で隣の窓から身を乗り出していた。
「おめでとう、和泉くん!」
「……ああ。ありがとう」
「お祝いしなきゃ。明日——うちでご飯作るよ。うちの両親、明日は旅行でいないから」
千紗がふっと笑った。今までとは違う笑い方。大人の女の、少し妖艶な笑い方。
「……今日は、作りすぎたじゃないよ。和泉くんのために作る」
声のトーンが、低かった。
2
翌日。天野家。千紗がエプロン姿で出迎えた。下は黒のワンピース。膝上丈のVネック。
テーブルにはローストビーフ、アクアパッツァ、カプレーゼ。ワインが一本。
ワインが進んだ。千紗の頬が紅潮している。唇が赤ワインで濡れて光を反射している。
千紗が立ち上がろうとして、ふらついた。俺の腕の中に倒れ込んできた。至近距離。
「……ゆうくん」
千紗の手が、俺のシャツの胸元を掴んだ。
「……ずっと、我慢してた」
「友達でいいって思おうとした。でも——全然よくない。料理を持っていくたびに、窓越しに話すたびに——もっと近づきたいって思うのが止められない」
「彼女がいるってわかってる。でも——和泉くんのスーツ姿を最初に見たいのは私なの。和泉くんに豚汁を作りたいのは私なの」
「……ごめん。全部、和泉くんに会いたかっただけ」
俺は——千紗の頭に手を置いた。
「……千紗は最低じゃない。最低なのは俺だ。わかっていて、全部受け取った」
「俺は——お前のことが好きだ。乃愛のことも好きだ。消せないものを消すふりをするのは——もうやめる」
千紗が手を握り返してきた。
「……ゆうくん、って——呼んでいい?」
六年ぶりの、その名前。
「……ああ」
「……ゆうくん」
その二文字が耳に届いた瞬間、胸の中で何かが決壊した。
気づいたとき、俺は千紗を抱き締めていた。唇が重なった。
「……触って。逃げないで」
俺は——逃げなかった。
3
その夜、俺たちは線を越えた。
千紗は——静かだった。時折漏れる吐息が、部屋の静寂に溶けていく。俺の名前を何度も呼んだ。
「……もっと、近くに」
二十二年分の距離をゼロにしても、まだ足りないのだ。
事のあと、千紗は俺の胸に頬を当てて、心臓の音を聞いていた。
「……ゆうくん」
「ん」
「好き」
「……好きだ。千紗」
「……何回聞いても、慣れない」
「慣れなくていい」
4
翌朝。千紗が作った目玉焼きは、完璧な固焼きだった。
「私ね、今の状況がどういうものかわかってる。ゆうくんには彼女がいる」
「だから——今すぐどうこうしてほしいとは言わない」
「ただ、私は嘘はつかない。もう友達のふりはしない。私はゆうくんが好き。それだけ」
千紗は強くなっていた。自分の感情を飲み込まない。相手に依存しない。ただ自分の気持ちを伝えて、あとは待つ。
「……朝飯、ごちそうさま」
「はい。お粗末さま」
千紗が見送りに出てきた。ドアが閉まる前に、千紗の唇が動いた。声にならない声。
読み取れた。「好きだよ」
ドアが閉まった。
スマホが震えた。乃愛から。
【乃愛】おはよう!!今日のデート楽しみ!!
正しくない場所にいることはわかっている。だけど正しくないことと、幸せなことは、残酷なほど両立する。




