第10話 女の子は気づく、いつだって
1
千紗の距離の詰め方は加速していた。
就活の不採用が続いた夜。隣の家から千紗が小鍋を持って出てきた。
「はい。豚汁。作りすぎちゃったから」
食べた。——美味い。千紗の味だった。疲れ切った体に染み渡る。
翌朝、鍋を返しに行った。中にスーパーで買った苺のパックを入れて。
「……苺」
「礼。受け取れ」
「……ありがとう。和泉くん、覚えてるんだね。私が苺好きなの」
「忘れるわけないだろ」
豚汁の一件から、千紗の「おすそ分け」が常態化した。肉じゃが、カレー、グラタン。理由は毎回「作りすぎた」。
千紗はそのことに気づいているのか、いないのか。気づいたら、やめなければならないから。
2
七月。千紗がビキニでビニールプールに水を張っていた。白い布地は覆いきれていない。
「和泉くん、こっち来て水浴びしなよ」
「いい。遠慮する」
「えー。昔はよく一緒にプールで遊んだのに」
「それは五歳の話だろ」
千紗がパーカーを脱いだ。水しぶきが太ももを濡らした。
「……和泉くん、顔赤いよ」
「日焼けだ」
3
河川敷でスケッチの付き添い。ベンチに並んで座った。十センチの距離。
千紗が振り返った。距離が三十センチもない。汗で額に張り付いた前髪。琥珀色の瞳。
二人とも動けなかった。
「……和泉くん」
「ん」
「絵、見てくれる?」
そのあと十分間——千紗の筆は一度もキャンバスに触れなかった。
4
日曜日。乃愛とのデート。アウトレットモール。
「ねえ、和泉くん」
「ん」
「最近、なんか——遠い気がして」
乃愛がスプーンを置いた。
「会ってるときは普通なの。優しいし、楽しいし。でも——LINEの返事が少し遅くなった、とか」
「……気のせいかな」
乃愛が笑った。自分の不安を否定するための笑顔。
「……ごめん。最近、就活でいっぱいいっぱいで」
半分は本当だ。もう半分は言えなかった。
「大好きだよ、和泉くん」
乃愛がまっすぐに言った。三年間、一度もトーンが下がったことのない「大好き」。
「……ああ。俺も」
5
乃愛の変化は具体的になっていった。
デートの日、さりげなく聞いてくる。
「昨日は何してたの?」
「特に何も。家にいた」
「ふうん。一人で?」
ある日、俺のスマホに千紗からのLINE通知が表示された。
【千紗】今日のスケッチ、いい感じにできた。見てほしい
乃愛がゆっくりと顔を上げた。
「……天野さんから?」
「……ああ。高校の同級生」
「幼馴染の、天野千紗さんでしょ」
知っていた。最初から知っていた。
「最近、よく連絡取ってるんだ」
「絵の感想を聞かれるくらいで——」
「そっか」
あの「そっか」。疑問符を飲み込んだ「そっか」。
帰り道、乃愛が腕を組んだ。——しがみつくのではなく、掴んでいた。
「私のこと、好き?」
「……好きだよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
「……じゃあ、目見て言って」
「好きだ、乃愛」
乃愛が五秒見つめて——
「……信じる」
信じる。疑いがあるから出てくる言葉だ。
乃愛の全力の中に、俺は初めて——必死さを見た。
全力なのではなく、全力でいなければ不安に飲まれるから全力でいるのだと。




