第1話 十二年目の隣人
幼馴染の彼女が発育良すぎて目のやり場に困るが、本人は俺にだけ無防備すぎる件
─── 第1話 十二年目の隣人 ───
1
朝というものは、だいたい不意打ちでやってくる。
特に四月の朝は質が悪い。春の陽気が布団の中の温度をちょうどよく保ってしまうせいで、目覚ましが鳴っても「あと五分」が三回は続く。人類がスヌーズ機能を発明したのは、間違いなく四月のせいだ。
そして俺——和泉悠真にとって、四月の朝にはもうひとつ、逃れられない「不意打ち」がある。
ピンポーン。
……来た。
ピンポーン、ピンポーン。
「…………」
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン——
「うるっせえ!!」
布団を蹴飛ばしてリビングに駆け込み、インターホンのモニターを見る。
映っていたのは、栗色のゆるふわロングヘアに、柔らかそうな頬。少しだけ眠そうな琥珀色の瞳。そして——制服のブラウスが明らかに悲鳴を上げている、圧倒的な胸元。
朝日を浴びて微笑むその姿は、どこぞの美少女ゲームのヒロインが画面から出てきたかのようだが、残念ながら現実である。むしろ現実のほうがタチが悪い。だって画面越しなら目を逸らせるが、生身の幼馴染はそうもいかない。
「おはよう、ゆうくん。開けて」
天野千紗。
俺の隣の家に住む幼馴染であり、今年から同じ高校二年のクラスメイト。
幼稚園からの腐れ縁は今年で十二年目に突入する。
玄関を開けると、甘いシャンプーの香りがふわりと押し寄せてきた。
「おはよ……って、まだパジャマ?」
千紗が俺の格好を見て、呆れたように——でもどこか嬉しそうに笑う。
「お前がインターホン連打するから飛び起きたんだよ」
「だって、ゆうくんスヌーズ三回は押すでしょ。知ってるもん」
「…………」
反論できない。十二年の蓄積は恐ろしい。俺の生活パターンが筒抜けである。
「はいこれ、お母さんから。卵焼き多めに作ったからって」
千紗が差し出したのは、小さなタッパーに入った卵焼き。天野家特製の、少し甘めのやつ。ガキの頃からこの味で育った舌は、もはやこれなしでは朝が始まらない体になってしまっている。
「……サンキュ」
「えへへ」
千紗が笑うと、目元がくしゃっとなる。この笑い方は昔から変わらない。変わったのは——いや、やめよう。朝から意識するとこの先一日がもたない。
「着替えてくるから、リビングで待ってろ」
「はーい。あ、ゆうくん」
「ん?」
「寝癖、すごいことになってるよ」
千紗が手を伸ばして、俺の後頭部をぽんぽんと撫でた。その拍子に、制服の胸元の布地が引っ張られて——
「っ——」
「? どうしたの?」
「いや、何でもない。着替えてくる」
逃げるように自室へ戻る。
心臓がうるさい。
……朝から心拍数が上がるのは健康にいいんだろうか。たぶん良くない。
2
俺と千紗の関係を説明するには、少し時間を巻き戻す必要がある。
最初の記憶は、四歳のときだ。
隣に引っ越してきた天野家には、同い年の女の子がいた。おかっぱ頭で、泣き虫で、俺の後ろにいつもくっついていた。
「ゆうくん、まって——」
千紗はとにかく走るのが遅かった。公園で鬼ごっこをすれば真っ先に捕まり、べそをかく。そのたびに俺が「もう一回やろう」と言って、わざと遅く走ってやった。
「ゆうくん、やさしい」
「べつに。お前が遅すぎるだけ」
「えへへ」
あの頃の千紗は、ひょろひょろの体に大きな目がついた小動物みたいだった。
——それが、どうしてこうなった。
中学二年の夏あたりから、千紗の身体は明確に「変わった」。
最初に気づいたのは、夏祭りの浴衣姿だった。帯の上にはっきりとした膨らみがあって、俺は金魚すくいのポイを握ったまま三秒ほどフリーズした。千紗本人はまったく気にしていない顔で「ゆうくん、りんご飴買って」とか言っていた。
中三になる頃には、同級生の男子たちがざわつき始めた。
「なあ和泉、天野さんってお前の幼馴染だろ? 紹介してくんない?」
「天野さん、マジでスタイルやばくない? モデルとかやってんの?」
そのたびに俺は「知らね」と素っ気なく返した。何がスタイルだ。あいつは俺の前で鼻水垂らして泣いてた女だぞ。
——という理論武装は、高校に入ってから完全に瓦解した。
高校の制服はブレザーにブラウスなのだが、千紗が着ると、もはや別の衣服になる。ボタンとボタンの間に微妙な隙間が生まれ、ブレザーを羽織っても前を閉じると布地が悲鳴を上げる。本人は「また制服きつくなっちゃった……」と困った顔をしているが、周囲の男子は困った顔どころの騒ぎではない。
そして何より困るのは——千紗が、俺に対してだけ異常に無防備だということだ。
隣に座れば肩が触れるほど寄ってくる。
寝癖を直すと言って顔を近づけてくる。
「ゆうくん暑くない?」と言いながらブレザーを脱いで、ブラウス一枚になる。
俺だけがこの世界の難易度をハードモードに設定されている。
3
通学路。
四月の桜が八分咲きの並木道を、俺と千紗は並んで歩く。これも十二年来の日課だ。
「ねえゆうくん、今日から新しいクラスだね」
「ああ」
「同じクラスだといいなあ」
「去年も一緒だっただろ。さすがに二年連続は——」
「えー、やだ。ゆうくんと違うクラスとか考えられない」
千紗が俺の腕にしがみつく。
——柔らかいものが、腕に、当たっている。
物理法則に従って変形するそれの存在感は、制服越しでも圧倒的だった。
「ちょ、千紗。離れろ」
「やだ」
やだ、じゃない。
「なんで? 昔はずっと手ぇ繋いでたじゃん」
「昔と今は違うだろ」
「なにが違うの?」
——何が違うか言えるわけないだろ。
俺が黙ると、千紗は不思議そうに首を傾げた。そのとき、朝の風が桜の花びらを巻き上げて、千紗のロングヘアをふわりと揺らした。
花びらが一枚、その髪にとまる。
「……ゆうくん? どうしたの、ぼーっとして」
「……花びら、ついてる」
手を伸ばして、千紗の髪から桜の花びらを取る。指先が耳に触れた瞬間、千紗の頬がほんのりと赤くなった。
「……ぁ」
「ん、取れた」
「…………ありがと」
さっきまでの勢いはどこへやら、千紗は急にうつむいて、俺の腕から手を離した。
——こういうところが、困るんだ。
無防備に距離を詰めてくるくせに、ふとした瞬間に照れる。そのギャップに俺の心臓が対応しきれない。たぶん年間の心拍数でいえば、俺は同年代の平均を大幅に上回っている。幼馴染手当を請求したいくらいだ。
4
教室。クラス発表の掲示板の前は、すでに人だかりができていた。
俺は人混みの後ろからつま先立ちで覗き込む。二年三組——和泉悠真。あった。
「ゆうくん! ゆうくん!!」
背後から千紗が飛びついてきた。背中に、柔らかくて重みのある感触がダイレクトに伝わる。
「わたしも三組!! やったあ!!」
千紗が俺の背中に顔をうずめて、ぎゅうっと腕を回す。周囲の視線が一斉にこちらに集まるのがわかった。
「おい、離れ——」
「やだ、嬉しいんだもん。ゆうくんと一緒がいいってお願いしたのが通じたのかな」
「誰にお願いしたんだよ」
「神様」
「……」
その「神様」が叶えたのは願いではなく、俺の試練だと思う。
「おーおー、朝からイチャついてんなぁ」
声の方向を見ると、中学からの友人・柳瀬健吾がニヤニヤしながら立っていた。
「イチャついてない」
「天野さんがお前の背中に張り付いてる状態を、世間ではイチャつくと言います」
「……千紗、いいから離れろ」
「もうちょっとだけ……ゆうくんの背中、あったかい」
健吾が「はいはい、ごちそうさま」とわざとらしく手を合わせた。殴りたい。
5
新学期初日のホームルームが終わり、昼休み。
俺が購買でパンを買って教室に戻ると、自分の机の上に弁当箱が置いてあった。桜色の風呂敷に包まれた、二段重ねの弁当箱。
「千紗」
「なに?」
隣の席(当然のように隣を確保している)から千紗が顔を上げた。
「……これ」
「お弁当だよ。ゆうくんの分も作ったの」
さらっと言うが、その弁当箱はけっこう大きい。明らかに男の量を想定して作っている。
「お前、自分の分だけでいいって言っただろ」
「だって、ゆうくんいつも購買のパンばっかりじゃん。栄養偏るよ?」
「……」
「それに——」
千紗が少しだけ声を小さくした。
「ゆうくんに美味しいって言ってもらいたくて、朝四時半に起きて練習したの。……迷惑、だった?」
上目遣い。潤んだ琥珀色の瞳。
勝てるわけがない。十二年間、俺はこの目に一度も勝ったことがない。
「……いただきます」
「! やった!」
千紗が満面の笑みで自分の弁当箱を広げる。
風呂敷をほどくと、中には色とりどりのおかずが詰まっていた。唐揚げ、だし巻き卵、ほうれん草のおひたし、タコさんウインナー、ミニトマト——そしてご飯の上に、海苔で「ゆ」の文字。
「…………」
「えへへ、ゆうくんの『ゆ』だよ」
「見ればわかる」
恥ずかしさを誤魔化すように唐揚げを口に入れる。
——美味い。外はカリッと、中はジューシー。下味がしっかり染みていて、冷めてもちゃんと美味い。四時半起きの努力が、ちゃんと味に出ている。
「……美味い」
「ほんと!?」
千紗が身を乗り出した。乗り出した拍子に、机の上に乗ったそれが——いや、もう言うまい。
「ほんとにほんと? お世辞じゃなくて?」
「お世辞でこの唐揚げの味は出ない」
「えへへへへ」
千紗が両手で頬を押さえて、くにゃりと笑った。幸せが顔から溢れている。
——これは。
毎日作ると言い出すパターンだ。俺にはわかる。
「じゃあ明日も作っていい?」
ほらな。
「……好きにしろ」
「やった! 明日はハンバーグにするね。ゆうくん、デミグラスと和風どっちがいい?」
「…………和風」
「了解! あ、じゃあ大根おろし多めにするね。ゆうくん、大根おろし好きでしょ? 小学校のときの給食で——」
「覚えてんのかよ、そんなこと」
「ゆうくんのことは何でも覚えてるよ?」
——何でもない顔で、とんでもないことを言う。
健吾が遠くの席から双眼鏡のジェスチャーをしてこちらを見ている。あとで蹴る。
6
放課後。
部活のない俺は、そのまま千紗と一緒に帰ることになった。これもいつものことだ。千紗は美術部だが、初日はミーティングだけで終わったらしい。
夕暮れの通学路。朝とは違う色に染まった桜並木を、二人で歩く。
「ねえ、ゆうくん」
「ん」
「今日のクラス、どうだった?」
「まあ、普通だな。健吾もいるし、やっていけるだろ」
「……わたしは」
「ん?」
千紗が立ち止まった。夕陽が横顔をオレンジに染めている。
「わたしは、ゆうくんがいるだけで最高のクラスだよ」
真っすぐな目。
冗談でも、軽口でもない。本気の温度が、その言葉には込もっていた。
「……なんだよ、急に」
声が上ずった。
「急じゃないよ。いつも思ってることだもん」
千紗がまた歩き出す。半歩先を歩くその背中は、夕陽のせいか、少しだけ寂しそうにも見えた。
「ゆうくんは……わたしと同じクラスで、嬉しくなかった?」
背中越しの声が、かすかに震えている。
俺は、一歩大きく踏み出して千紗の隣に並んだ。
「嬉しいに決まってんだろ」
声に出してから、自分でも驚いた。思ったより素直な言葉が出た。
千紗が振り返る。目が大きく見開かれていて、夕陽を反射した琥珀色の瞳がきらきらと輝いている。
「……ほんと?」
「嘘ついてどうする」
「えへへ……えへへへ」
千紗がくしゃっと笑って、俺の腕に再びしがみついた。柔らかい感触が腕全体を包む。だがもう、振りほどく気にはなれなかった。
「じゃあ、今年も隣にいていい?」
「……いつも勝手にいるだろ」
「勝手じゃないもん。ちゃんと許可がほしいの」
千紗が俺の腕をぎゅっと抱き締めた。その力は、小さかった頃に手を握ってきたときと同じ、必死さがあった。
「……ああ。いていいよ」
千紗の指が、俺の袖をきゅっと掴んだ。
「……ずっと?」
「……ずっと」
桜の花びらが、二人の間を風に乗って流れていく。
千紗が俺の肩に頭を預けた。さらさらの栗色の髪から、甘いシャンプーの匂いがする。
——こうやって歩くのは、何百回目だろう。
同じ道。同じ並木。同じ隣。
なのに今日は、何かが違う気がした。
いつもの帰り道が、いつもより長く続けばいいと、初めて思った。
7
帰宅後。
自室のベッドに倒れ込んで、天井を見上げる。
千紗の顔が、何度もフラッシュバックする。
朝のインターホン越しの笑顔。
桜の花びらを取ったときの、赤くなった頬。
弁当の「ゆ」の海苔文字。
夕陽の中で「ゆうくんがいるだけで最高」と言ったまっすぐな目。
——やばい。
自覚はしていた。たぶん、ずっと前から。
千紗は幼馴染だ。家族みたいなもんだ。そう言い聞かせてきた。だけど家族に対して、こんなに心臓は鳴らない。家族の制服姿に目のやり場を失ったりしない。家族が他の男と話しているのを見て、腹の奥がざわついたりしない。
——気づかないふりにも、そろそろ限界が来ている。
スマホが震えた。LINEの通知。
【千紗】明日のお弁当、和風ハンバーグ!大根おろしたっぷりにするね
【千紗】あと、玉子焼きは甘いのとしょっぱいの、どっちがいい?
【千紗】ゆうくーん?寝ちゃった?
【千紗】寝てたらいいよ!甘い方にするね。ゆうくん甘いの好きだもんね
【千紗】おやすみ、ゆうくん。また明日ね
——五連投。
「…………好きだよ、ばか」
天井に向かって呟いた言葉は、誰にも届かないまま、四月の夜に溶けていった。




