表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/10

第9話:『母の歌』

ユウの脳裏に広がる、幼い頃の記憶の断片。白い病室。点滴のチューブ。そして、ベッドに横たわる、顔色の悪い母親。彼女は、力なく、しかし愛おしそうに、あの童謡を口ずさんでいた。その歌声は、東屋から響く、AIによって再構築された童謡の音源と、完全に一致した。


「母さん……」


ユウの瞳から、とめどなく涙が溢れ落ちた。幼すぎた彼は、母親が病に侵されていることを理解できなかった。ただ、いつも楽しそうに歌っていた母親の歌声が、日ごとに弱々しくなっていくのを感じていた。そして、ある日、その歌声が、永遠に聞こえなくなった。


両親の離婚、母親との別離。彼の父親は、幼いユウを傷つけまいと、母親の死を曖昧に語り、その記憶を彼の中から遠ざけようとした。だが、東屋の装置が発する童謡は、科学の力でその記憶の封印を解き、彼自身の最も深い悲しみと対峙させたのだ。


ユウは、自身の解析が、個人的な領域にまで踏み込んでいることに気づいた。この都市伝説は、単なる社会病理や人間の孤独の象徴ではなかった。それは、彼自身の「死者」、つまり母親との、切断された絆を再構築しようとする、誰かの意図的な試みだった。


彼は、東屋の地下に埋められた装置の設置者、「電子工学に詳しい匿名ユーザー」のプロファイルをさらに掘り下げた。その人物の行動パターン、過去の研究テーマ、そして彼が関与していた「子供の遺族が集う匿名フォーラム」での書き込み。すべての情報が、ある一点に収束していく。


その人物は、ユウの母親が闘病していた病院で、かつて医療機器の開発に携わっていた研究者だった。彼は、病に苦しむ子供たちと、その家族の悲しみを見てきた。そして、ユウの母親が亡くなる際、彼女が最期まで口ずさんでいた童謡を耳にしていたのだ。


「あの人は……母さんを知っていたのか」


ユウは震えた。あの研究者は、母親の死後、その「声」と「記憶」を永続させる研究に没頭し、今回の東屋の装置を開発したのだ。桜ちゃんの母親の願いは、彼の研究の、あくまで一例に過ぎなかった。彼の最終的な目的は、失われた子供たちの、そして愛する人々の「声」を、科学の力で「残響」として残し、生き残った人々を癒すことだったのかもしれない。


しかし、その「癒し」は、あまりにも一方的で、そして痛ましいものだった。彼は、自身の研究によって、人々の記憶を呼び覚まし、場合によっては幻影を見せることで、死者との間に「擬似的な交流」を生み出そうとしていたのだ。


ユウは、東屋から流れ出る童謡を、今度は耳を澄まして聞いた。そこには、桜ちゃんの歌声と母親の声だけでなく、微かに、そして本当に微かに、ユウの母親の歌声も含まれているように感じられた。それは、AIによる再構築されたものではなく、彼の記憶が、聴覚情報によって補完され、再構成された結果だった。


「これは……悲しみじゃない。もっと、深い……」


ユウの脳裏に、母親の笑顔が浮かんだ。彼女は、どんなに苦しい時も、ユウのために歌い続けてくれた。その歌声は、彼を包み込み、守ってくれる、温かいものだった。


だが、今、東屋から響く歌声は、温かさだけでなく、深い悲しみと、そしてどこか、取り戻せないものへの「執着」を孕んでいた。


ユウは、ポケットから小さなナイフを取り出した。彼の目的は、装置を破壊することではない。だが、この歪んだ「愛」と「科学」の結晶を、このまま放置しておくことはできなかった。


「守りたかったのは、母さんの歌。だけど、これは……」


彼のナイフの切っ先が、東屋の柱の根元、地下の装置が埋められていると思われる一点に向けられる。


その時、東屋の奥から、優しい、しかしどこか諦めを含んだ声が聞こえた。


「――やめなさい、ユウ君」


振り返ると、そこに立っていたのは、一人の老年の男性だった。白衣を着ていたと思われるが、今は汚れた作業着のような服装をしている。彼の目は、疲れているが、深い悲しみを湛えていた。


「君は、知りすぎた。そして、私と同じように、この歌に囚われてしまった」


その男性こそが、東屋の装置を設置し、都市伝説の裏で暗躍していた、元児童心理学の研究者だった。


ユウは、ナイフを構えたまま、彼を見据えた。彼の顔には、怒りも、憎しみもなかった。ただ、深く、深い悲しみが宿っていた。


「あなたは、何をしようとしたんですか?」


ユウの問いに、研究者は静かに答えた。


「私は、大切なものを失った人々の心を、癒したかった。彼らが、二度と孤独を感じないように……」


彼の視線は、東屋に向けられた。そこには、彼の愛する子供たち、そしてユウの母親の「声」が、永遠に響き続けているかのように見えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ