第1話 :『東屋の声』
午前五時三十五分。黄昏の光に包まれた公園には、誰の姿もなかった。
風で揺れる枝葉の音。ブランコの錆びた鎖が軋む、乾いた音。それだけが、静かに響いていた。
薄闇に沈むその東屋に、彼女は座っていた。真っ黒なワンピース。年齢不詳の、どこかぼんやりとした顔。目だけが、異様に大きく、まるで深淵を覗き込むようにこちらをじっと見ている。
「……本当に、いたんだ」
乾いた喉からそう呟いたのは、高校生くらいに見える少年だった。彼はスマホを掲げ、震える指でシャッターを切ろうとする。だが、その瞬間、画面は激しい砂嵐になった。同時に、スマホから発せられていたかすかな電波音も、ノイズに掻き消された。
「やめときな。あれは“見てはいけないもの”だよ」
背後から、静かに、しかしはっきりと声が響いた。振り返ると、そこに立っていたのは、少年と同じ制服姿の少年。細身で、少し神経質そうな顔立ち。彼こそが、匿名掲示板でこの都市伝説を投稿したアカウント“アユミ”のIPアドレスを辿って、ここまで辿り着いた、霧野ユウだった。
「どうして……お前がここにいるんだ?」
少年は、警戒するようにスマホを胸に抱きしめた。砂嵐はまだ止まらない。
「簡単なことだよ。君は“自分が見たこと”を書いているようでいて、本当は“見てほしいこと”だけを書いていたから」
ユウの言葉に、少年の顔がみるみるうちに蒼白になる。
「……本当は、最初から“何もいなかった”んだろ」
ユウは一歩、少年に近寄った。公園の黄昏は、既に深い藍色に変わろうとしていた。
「君は、誰かに気づいてほしかっただけなんだよ。あの東屋に“何かいる”と書いて、誰かに“そうですね”って言ってほしかった。寂しかったんだろ? だから、ありもしない“誰か”をそこに座らせて、自分を慰めたかった」
突き刺すような言葉だった。少年の目が揺れる。否定の言葉は、彼の喉の奥にへばりついて、出てこなかった。
「その都市伝説は、君自身の“悲鳴”だ。違うか?」
ユウはそう言い放ち、再び東屋に目を向けた。闇が一段と深まり、そこに座る“彼女”の姿は、もはや影絵のようだった。
その時だった。
東屋の、最も深い闇の中から――カチリ、と、乾いた、何かの音がした。
それは、まるで古い写真機のシャッターが切れるような、あるいは誰かがポケットに入れたライターの蓋を閉じるような、ごくごく微かな音だった。だが、公園の静寂の中で、その音は異様なまでに響いた。
ユウの視線が、東屋の“彼女”に固定された。彼の鋭い分析眼が、その音の発生源を、そしてその意味を、必死に探ろうとする。
彼がここまで追跡してきたのは、この都市伝説が「誰かの孤独」の上に築かれた、虚構の産物だと信じていたからだ。この東屋に「何か」がいるはずがない、と。
だが、今、確かに聞こえたその音は、ユウの胸に小さな、しかし無視できない違和感を残した。
そこに“誰もいない”ことを、霧野ユウもまた――信じ切ることができなかった。
静寂が、再び公園を支配した。闇に溶けゆく東屋は、相変わらず黙したまま。
しかし、ユウの耳には、まだあの“カチリ”という音が、まるで幻聴のように響いていた。
それは、彼の理性が、そしてこれまでの全てを解き明かしてきた「嘘を見抜く力」が、ほんのわずか、揺らぎ始めた音だったのかもしれない。
そして、この小さな綻びが、彼をこれから始まる“死者の真実”を巡る旅へと誘う、最初の扉となるのだった。