第1話_砂浜に描く青写真
四月七日、朝六時十五分。
海から吹き上げる潮風が頬に触れた。春とはいえ、灯凪島の浜辺はまだ肌寒い。それでも、結香は手を止めなかった。軍手の上から指の感覚が鈍っても、砂に埋もれたプラスチックや流木の山を黙々と拾い上げていく。
砂浜には、まだ朝日が差し込む前の青白い光が広がっていた。波打ち際から少し離れたところに、ひときわ大きな錆びついた鉄骨が横たわっている。かつて海上ステージ〈潮風デッキ〉と呼ばれた施設の、残骸の一部だ。
その前に、少年がひとり立っていた。背中を丸めて、ぼんやりと鉄骨の向こうを見つめている。
「……翔斗?」
結香はゴミ袋を手に近づく。少年――翔斗は、結香のクラスメイトで、昨日の入学式で初めて同じ教室に並んだ相手だった。まだ言葉を交わしたこともない。
彼は声に反応し、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……ああ。早いんだね」
「島の朝は早いよ」
そう言って、結香は翔斗の隣に立った。二人の間に、風がひとつ吹き抜ける。鉄骨の赤錆が、ほんの少し舞い上がった。
「君も、これ見に来たの?」
「見に来たっていうより……確認しに、かな」
翔斗の声には、少しだけ熱があった。
「壊れてても、まだ残ってる。思ったより、ちゃんと形してる」
「そうだね。台風で崩れたって聞いてたけど、基礎は意外と丈夫そう」
二人の視線が、同じ場所に重なる。舞台の中央部分。かつて照明とスピーカーが設置されていた枠組みの骨だけが、まだしがみつくように残っていた。
「小学生の頃、毎年ここでフェスやってたんだ。『灯凪サンセットフェス』って知ってる?」
「うん。母が昔、踊ってたって言ってた。浴衣姿の写真、家にある」
「俺も。親父が、トビ職でさ。照明つけてる写真が残ってる」
翔斗は、小さく笑った。その口元に、結香は一瞬だけ、まだ残っていた少年の面影を見た。
「でも、今は……ただの鉄くずだ」
翔斗がつぶやく。
「……フェス、やってみない?」
結香の声に、翔斗がぴくりと動いた。
「は?」
「この場所で。もう一回、フェスをやってみない?」
「いやいや、無理だろ。こんな錆びた舞台、どうしようもないし。そもそも、島にそんな予算も人もいない」
「でも、やらなかったら、ずっとこのままじゃない?」
翔斗は言葉を詰まらせた。
「できない理由を挙げるのは簡単。でも……できる理由を探してみたい」
それは、ただの思いつきではなかった。結香の声には、行動を前提とした強さがあった。
「誰がやるの? 町も協力してくれないと思うよ」
「私がやる」
結香は即答した。
翔斗は絶句した。その目に浮かぶのは、呆れでも侮りでもなく、ただ――興味だった。
「なんで、そこまで?」
「ここで、何か始めたいんだ」
「何か?」
「誰かを呼び戻すとか、大きなことは分からない。でも……この島に、もう一度“灯り”をともしたい。そんな気がした」
沈黙。風が、また一つ、波の音を運んでくる。
翔斗が口を開いたのは、それから数秒後だった。
「もし……仮に、やるとしたら。どうやって?」
「それを今から考えるの。誰が、いつ、何のために、どこで、どんなふうに。5W1H全部ね」
「……フェスの再建を、本気で考えるってこと?」
「うん」
翔斗は、しばらく空を見上げた。朝日がようやく雲間から顔を出し、舞台の鉄骨を黄金色に照らした。
「じゃあ、俺も乗るよ」
その返事を聞いて、結香は静かに笑った。
「じゃあ、掃除から始めよう。まずは、目の前のゴミを全部拾うところから」
言って、彼女はしゃがみ込む。
翔斗も苦笑しながら、隣にしゃがんだ。
「行動から、か」
「うん。言葉よりも、ね」
ふたりの手が、黙々とゴミを拾い始める。朝の光が、ゆっくりと海面を染めていく――。
(続く)