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へんな怪談集

こいこい

作者: 夏野 篠虫

 息子が3歳の時なのでもう20年以上前のことですが、臭いと記憶は強く結びついているんですよね。魚の臭いがすると今でも思い出します。


 夫は○○県の出身なんですけど少し山の方、川沿いに田畑と家が連なる谷間の□□□町の生まれでした。結婚前の挨拶で初めて訪れたんですが、観光地や特産品みたいな特別なものは何もない普通の田舎町ですがとても長閑で人の温かい土地です。今は仕事があるから難しいけど、子供が巣立ったら老後はこっちに引っ越してもいいかなと話していました。今もその気持ち自体に変化はありませんが、自分の中で今も理解しきれていない、胸に引っかかって残るものがあるんです。


 GWの5月5日、子供の日でした。夫はIT系でカレンダー通りの休みとはいきませんが、看護師の私は当時育休を取得していて夫も珍しく有休を取ったので、夫の実家へ1泊2日の帰省をしました。

 息子と私は後部座席で、車を運転する夫を見ていました。

 夫は出発前から妙に気合が入っていて普段は冷静なタイプなんですけどこの時は口数が多く、前日も、

「明日は良い日だ。めでたいなあ。俺は嬉しいよ」なんて、何度もめでたいとかありがたいと口にするんです。思い当たるのは端午の節句のくらい。でも息子が生まれてからこんなに祝いを口にしたことはありません。何がそんなにめでたいの?と聞いても要領を得ず、はっきり答えてくれませんでした。久しぶりの家族全員のお出かけにしてもちょっと変な盛り上がり方だなぁとは思っていたんですが、結局その理由は実家に着くまでわかりませんでした。


 渋滞に巻き込まれながら数時間かけてたどり着いて車を降りた瞬間から鼻を衝く強烈な臭いがしました。しっとりした生臭い空気が辺り一帯に漂っていました。私は咳き込みましたし息子はぐずり出しましたが夫は鼻がつまっているのかと思うほど気にしません。

 初めは畑の多い田舎特有の肥料の臭いかと思いました。昔嗅いだことある鶏糞肥料などはかなり臭かったので。

 でも記憶にある肥料類の臭いとは一致しません。そもそもここには何度も来たことありますが臭かったことは一度はありません。ただ臭いの種類はよく知っているものに近かったんです。

 臭いは明らかに魚系の腐敗臭でした。

「何この臭い……あなた平気なの?」

「平気さ。いい匂いじゃないか」と夫は大きく深呼吸しました。私は呆れて言い返しませんでした。

 夫はスタスタと玄関へ行ってしまうので、仕方なく息子を抱きかかえて追いかけました。

 駐車場から門扉を抜けて母屋に近づくと一層臭いがひどくなりました。同時に原因の位置もわかりました。

 玄関の左横の縁側、その軒下に鯉が3匹ぶら下がっていたんです。エラに縄を通して軒に結ばれた鯉は数日は放置されているようで丸々太っていた身はカラカラに干からび、体長が見た目1メートル、70センチ、30センチくらい、大中小のサイズが並んでいました。臭いに引き寄せられた無数の黒バエが鯉に止まっては離れ、飛んで止まってを繰り返していました。

 この時点で私はもう帰りたかったんです。家族みんなの休みとかどうでもよくなってこの場から離れたかった。

 でも異常なテンションの夫を見ると何も言いだせませんでした。息子をあやすので精一杯でした。


 家の中に入ると臭いはマシになりました。ただそれは少しずつ私の鼻が鈍感になっていったせいでもあります。

 満面の笑みで出迎えてくれた夫の両親へ簡単に挨拶を済ませ、私たちの帰省に合わせて集まった親戚一同と食事を共にしました。会話はあまり覚えていません。ただ彼らも口々に「めでたいめでたい」と言っていました。目線は息子の方へ向けて。それに、

「鯉の準備は大丈夫か」

「そりゃあもうばっちりだ」

「そーかそーか」と大口開けて笑っていました。

 いつもは優しく感じる彼らの表情や言動一つ一つから居心地の悪さをひたすらに感じていました。

 このときには勘の鈍い私も端午の節句――こどもの日に鯉とくれば、鯉のぼりのことだろうと気づきました。

 でも本物の鯉を使うなんて聞いたことがありません。しかも完全に腐ってます。掲げても風にたなびくわけがない。

 夫や親戚に聞きたくても聞けませんでした。家を出たらまたあの臭いを浴びなければいけないしやることもない私は息子をあやして平穏を保っていました。


 その日の夜、息子とお風呂を済ませ客間の襖を開けると腐臭が放たれました。目に染みるくらいの臭い。家の中なのになんで、と思いましたが部屋の中央に敷かれた真っ白な布団の上に軒下に吊るされていた3匹の鯉が並んでいるのを見つけました。

 夢じゃないかと思いました。

 干からびた大中小の鯉が綺麗に洗濯された布団に川の字で寝ているのです。間違いなく現実でしたが悪夢に変わりありません。

 後ろから夫がやって来ました。

「今日はここで寝るんだぞ」

「は、何言ってるの? 寝れるわけないでしょ!?」

「違う。別にお前は寝なくていい」

 夫はそう言うと立ち尽くす私を避け息子を抱えて客間に入り、暴れ嫌がる息子を布団に押し込みました。

「ちょっと! なにするの、やめて!」

「大事なことなんだ。邪魔しないでくれ」

「嫌がってるでしょ! なんてそんなことするの」

「……俺たちの子供が、無事に大きくなるためだっ」

 絞り出すような声で振り返る夫の目は鋭く、顔は悲痛に歪んでいました。

 いつの間にか背後に夫の両親や親戚たちが集まっていました。

「あとは任せなさい」

 昼間酔っ払っていた彼らの表情も真剣そのものでした。誰一人として笑っていません。

 夫の肩を借りて私は客間から離れました。息子は身動き出来ないように鯉ごと布団で簀巻きにされていくのが横目に見えました。



 翌日の帰宅途中の車内で夫は少しだけ昨夜のことを教えてくれました。あれは3歳を迎えた男児に必ず行うものだと。どうやら客間の中は親戚一同が交替制で夜通し見張りに立っていたようです。彼らは(まじな)いを唱える役割があると聞きましたが何を言うのかは教えてくれませんでした。

 日の出を迎えると、縁側には扇型に広がる泥の足跡がベタベタと張り付き、襖には同じく水掻きのある泥の手型が無数に押されていたそうです。

 不安で眠れなかった私が朝いち早く客間に向かうと、息子は何もなかったような様子でよく眠れたと欠伸をしていました。

 部屋の中は縄が解け中綿が溢れた布団と空間に染み付いた腐臭、そして粉々に砕けた鯉の残骸が散乱していました。

 居間では夫もその両親も親戚たちもまるで憑き物が落ちたかのように穏やかな顔で朝の挨拶を交わしていました。

 こうして短い帰省は終わりました。



 私は帰りの車内のこと以上を今でも夫に何も聞けていません。夫は冗談を言う人ではないとよく知っています。ふざけて息子を危険な目に合わせることもありません。

 だからこそわからないんです。

 どうしてあんなことをしたのか。きちんとした理由を知りたいとずっと心の中で思っています。図書館などで自分なりに調べてみましたが○○県の□□□町にあんな風習がある、という情報は見つかりませんでした。

 ですが多分夫や親戚たちは悪気は決してなかったとも思います。息子と腐った鯉を一晩過ごさせるあの儀式をやらなければならない、逼迫した理由があったに違いないのです。

 なんの根拠もない、私がそう思いたいだけかもしれませんが……


 情報をお持ちの方がいればご連絡ください。



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