33話 異変
翌朝、小夜が鏡台の前に座り髪をすいていると、ぱきんと硬質な音を立てて櫛が二つに割れた。
呆然として己の手元を見る。
昨日、惟明と浅草に行ったときに買ってもらったばかりのもので、小夜のお気に入りだ。
落としたこともなくぶつけた覚えもない。大切に扱っていたのにと小夜は悲しくなった。
しかし、これから朝餉の手伝いがある。
小夜が落ち込んでいると八重に心配をかけてしまうので、小夜は気持ちを切り替えて台所に向かった。
いつも通り惟明とともに朝餉をとる。
小夜が、櫛が割れてしまったことを素直に詫びると、惟明は「また買ってやる」と言ってくれた。
しかし、その直後、惟明は少し難しい顔をして小夜にお守り袋を渡した。
「小夜、身についておくといい」
どうやら惟明は櫛が割れたことを不吉なことの前兆と考えたようだ。
「ありがとうございます」
小夜はお守りを懐にしまった。
「小夜は良いものも悪いものも引き寄せやすい体質なのだろう。神通力は得てしてそういうものだ。十分に気を付けるように」
真剣な面持ちでそう告げると惟明はいつものように出勤していった。
その日もいつも通りに玄関を庭を掃き、小猫のタマと遊び、八重や石本と大矢とおしゃべりを楽しみ、縁側で浅草土産のまんじゅうを食べる。
何の変哲もない平和な日だと思っていた。
異変が起きたのは夜更けのこと――。
小夜は腹に鈍痛を感じて目を覚ます。
季節は秋に変わり涼しくなっているというのに、小夜はひどく寝汗をかいていた。
「なんだか、恐ろしい夢を見た気がするわ」
手拭で汗を拭き、再び布団に横になるが、あまり眠ることが出来ず、うつらうつらしているうちに朝を迎えた。
小夜は朝に強いタイプなのだが、その日は妙に体がだるくてたまらない。
(きっと寝不足のせい)
身繕いを終えて部屋を出ると、廊下にタマがいて小夜を出迎えた。
「タマ、おはよう」
白猫がにゃあんと鳴いて小夜の足に体を摺り寄せてくる。
「お腹がすいているの? ちょっと待っていてね」
小夜はタマを撫でて台所へと向かう。
惟明と朝餉を食べても掃除をしても、その日は一日体のだるさがとれることはなかった。
(たぶん、いっぱい眠れば大丈夫)
その晩小夜は早くに寝た。
しかし、夜中に腹にひどい痛みを感じて目を覚ます。
痛みにうめいていると、にゃあとタマの鳴く声が聞こえてきた。
タマは小夜を心配するように体を摺り寄せてくる。
「ありがとう、タマ」
翌朝台所に行くと八重がすぐに小夜の異変に気付いた。
「奥様、もしや眠れていないのでは?」
八重が惟明を呼び、小夜はすぐに床につくように言われた。
惟明は仕事がるので、後ろ髪をひかれながらも出勤していったが、石本の手配ですぐに医者が来た。
結局、医者には過労と診断された。
小夜は疲れるようなことは一切していない。
それどころか惟明とデエトに行ったりとここ数日楽しい思いをして美味しいものばかり食べている。
心当たりが全くなかった。
小夜が床につき夜更けになると再び異変が起こる。
黒い影が小夜の名を叫び、強い力で彼女の胸を打つ。息がとまりそうになり、小夜は目を覚ました。
シャーという猫の警戒するような鳴き声が襖の向こうから聞こえた。
小夜は衰弱する体を引きずるように襖をあけて廊下に顔を出す。
するとタマが逆毛を立てて虚空を睨み何かを威嚇していた。
「タマ、いったいどうしたの?」
いつもは大人しいタマが怒っている。
小夜はびっくりしてタマをなだめるように撫でた。
すると廊下の向こうからばたばたと足音が聞こえてきた。
寝巻姿の惟明と石本がやって来たのだ。
「小夜、どうした?」
「旦那様、夜中にお騒がせしてすみません」
小夜はタマを庇うように抱いて頭を下げた。
「小夜、タマを叱っているわけではない。それは賢い猫又だ。主人の異常をさっしたのだろう」
「ご当主これは尋常ではございません」
石本の言葉に惟明は頷く。
「ああ、だが妖魔の気配もないし、この家には結界が張られている。小夜、俺が渡したお守りは持っているか」
小夜は寝るときも身に着けていたので、懐から出した。
惟明は受け取るとすぐにお守り袋を開く。中から、真っ黒に焦げた紙が出てきた。
「くそ、呪詛だ!」
「すぐに香を焚きましょう」
そう言って、石本が足早に部屋から出て行った。
八重もおきだして塩や酒を準備したりと、夜更けの霧生家はにわかに騒然とした。
その後、惟明に刀を体の上に置いて寝るように指示された。
小夜が横になる布団の周りにお札が配置される。
タマは耳を立て、ときどき毛を逆立てて警戒し、小夜のそばを離れようとはしない。
「タマは何も食べていないようですが、大丈夫でしょうか?」
「こいつは猫又だ。食事などしなくても数年は生きていける。そんな事より、小夜。銀座の洋食屋から出た時、視線を感じたと言っていたろ? 誰だか見当はつかないか?」
「一瞬のことだったので。それに相手は暗がりにいて」
「男か女かわかるか?」
「すみません」
小夜は力なく首を振る。
「お前が謝ることではない」
自分が呪詛をかけられるのは恐ろしいことだが、同時に小夜はそれほど人に恨まれているとことだ。
呪詛をかけられるほど、小夜が誰かを傷つけたということなのだろう。
(人は知らず知らずのうちに誰かを傷つけるもの……)
小夜はそのことがつらい。
翌朝、惟明が出勤することはなかった。
彼はずっと小夜についていることを決めたようだ。
小夜は呪詛を受けるほど恨まれていると言うのに、心当たりがないことが残念でならない。
(また、ご迷惑をかけてしまった)