14話 誰かの幸せのうえに……
小夜の手の傷も疲労もすっかり癒え、日常生活に戻ったある日のこと。
昼頃、小夜は惟明に連れられて、馬車で銀座の煉瓦街へと向かった。
これから牛鍋屋に行くのだ。
店に着くと、小夜と惟明は二階にある個室に通された。
「小夜、先日は悪かった。父と母が調子に乗って」
この時、初めて小夜は義父の名前が忠正で、母の名前が清子だと知った。
「いえ、お二人ともとてもよくしてくださいましたから。でもあの、正直混乱しています。本物の石本さんと八重さんとはあの日が初対面なのでしょうか?」
二人とも全く態度が変わらないので、小夜にはさっぱりわからなかった。
「いや違う。父も母も暇なとき入れ替わっていただけだ」
それを聞いて少しほっとする。
「そうだったんですね。全然気づきませんでした」
「私と一緒に、四谷に向かってくださったのは、お義父様と石本さんどちらでしょう?」
「あれは本物の石本だ。父は本部にいた」
ということは石本も陰陽師ということになる。それも腕のいい陰陽師だ。
「では帰った時に手当てをしてくださったのは」
「母だ。八重は眠りが深くてね、あの時刻は寝ている」
「そうだったんですね」
小夜が頷いたとき、目の前にアツアツの牛鍋が運ばれてきた。ぶつ切りの大きな牛肉が入っている。それを見た小夜は目を丸くした。
「まあ、大きなお肉がこんなにたくさん」
「小夜は、もう少し太ったほういい」
「はい、旦那様、頑張ります」
小夜の言葉に惟明が口元をほころばせる。
「頑張らなくて、小夜は少しはのんびりしろ。結婚してから働きづめだと聞いたぞ」
「まさか、朝餉の支度をする以外にやることなくて、困ってしまいます」
暇になれていない小夜は、少ししょんぼりとする。
「毎日、庭掃除をしていたと聞いている」
「あれは掃除というより、散策でした。お庭は気持ちがいいし、季節の花々も美しいです。それに鯉に餌をやるのも楽しかったです」
小夜は嬉しそうに話す。
「それはよかった。今まで実家や婚家で大変な目に合ってきたんだ。うちではのんびりとするがいい」
「はい、ありがとうございます」
不思議だった。霧生家は杉本家よりも旧家でずっと家格がうえなのに、家のしきたりだとか、堅苦しいことは全く言わない。
惟明の父母も二人そろって驚くほど気さくで、義母に限っては時おり江戸弁がでる。
彼女は神田の育ちだと言っていた。
「多分、小夜ちゃんのご実家の方が、私の実家より家格がうえよ」
そんな話を聞かせてくれた。
「小夜、熱いうちに食べたらどうだ?」
惟明の言葉に、もの思いにふけっていた小夜は我に返る。
鍋の肉は驚くほど柔らかく、小夜はアツアツのお肉を一つ口に入れる。八重の作る繊細な味付けとは違うが、味噌の味がきいていて美味だ。
「そういえば、旦那様は、お酒はのまないのですか?」
「俺はどれだけ飲んでも酔わないから、めったにのまない」
初めて聞く話だ。
「ちょうどいい、霧生の家についてはなそう」
「はい」
小夜は箸をおいて姿勢を正す。
「小夜、そんな真剣に聞くような話ではない。鍋でもつつきながら、ゆっくり過ごそう」
「はい」
微笑む惟明の姿に、小夜の頬は緩む。小夜は再び箸をとり、今度は長ネギを口に入れる。
くたりと煮込まれた長ネギの甘さが口いっぱいに広がる。
夫は端正で凛々しい顔立ちをしているせいかともすると冷たく見える。だが、とても優しい人なのだと小夜は知っている。
「うちは陰陽師の家系ではあるが、血筋には鬼がいるんだ」
さらっととんでもないことを言われて小夜は目を見開いた。鬼は強い妖魔だ。
「それほど、驚くこともないだろう。お前もその神通力の強さを考えれば、狐か何か妖の血がまじっているはずだ」
確かに、小夜の母は見た目は人であったが、妖狐ではないかという噂もあった。
「もう知っていると思うが、俺の母方の家系には妖狐がいる。霧生家は同じ血筋で結婚する者が多いが、母は違う筋から嫁いで来たんだ。父が石本に化けられたのも母の力だ。陰陽師の血筋に妖がいることはよくあることだ。毒を持って毒を制すということなのだろう。小夜も母親も妖狐の血を継いだ巫女の家系なのだろう」
「はい、母は梓巫女だと言っていました。突然ふっつりと消えてしまいましたが」
「いつか、会えるといいな」
小夜は惟明の言葉に頷いた。
しかし母はきっと鬼道にでも飲み込まれたのだろう。ある日を境に彼女の気配がぷっつりと消えてしまったのだ。
「それで、旦那様。小夜はずっと霧生家の本家のことが気になっておりましたが、何か揉めているのですか?」
「ああ、そのことか。大したことではない。本家の跡目が家族を残して失踪したんだ」
小夜はその話にびっくりした。
「残ったのはまだ幼児。それで一族間で一番大きな分家であるうちが、本家に繰りあがったらどうかという話が出た。それで本家の当主が小夜が石女だと話を聞きつけて、俺にあてがったんだ」
小夜は、ふと敏子を思う。
彼女の心には恋心があったのではないかと。
祝言の席で、敏子から強い恨みを感じだ。
許嫁に対しての恋心には小夜にも覚えがある。
実は杉本に淡い恋心を抱いた時期があった。
あの辛い実家から連れ出してくれる人。
大人の男性である杉本に憧れていた。
もちろん結婚して、すぐにそのような淡い恋心は無残に砕け散った。
それに対して惟明は、とても頼りになる。
仕事は忙しく、少々危険ではあるが……。
しっかりとした優しい人だ。さぞや敏子は無念だったろう。
もしかしたら惟明の中にも敏子に対する思いが残っているかもしれない。
だとしても惟明は絶対にそれを小夜の前では見せないだろう。
惟明は優しいから、行き場のない小夜を憐れんで一緒にいてくれるのかも……。
ふと小夜の胸にそんな思いが膨れ上がる。
「小夜。どうした? 箸が進んでいないが、口に合わなかったか」
気遣うような目で小夜を見る。
小夜はかぶりを振り、微笑んだ。
「いえ、とっても美味しいです」
誰かの犠牲の上にある己の幸せに、小夜の胸はちくりと痛んだ。