10話予感
惟明と結婚して、ひと月が過ぎた。
この家に嫁いできて、小夜は実母がいなくなって以来、始めて穏やかな生活を送っている。
しかし、惟明が寝所を訪れないのはそのままで……。
(やはり、離縁も時間の問題かしら)
不安や寂しさをおぼえることもある。
小夜はそれほどこの屋敷での生活が気に入っていた。
だが、惟明が優しいことはわかっている。
きっとここの使用人として雇ってくれることだろう。
小夜は、心の準備だけはしておくことにした。
桜の季節が終わり、霧生家の庭にはつつじが咲き始めた。
小夜はのんびりと庭を掃き清め、季節の移ろいを実感する。
あれ以来、惟明とは一度も町へ出ていない。
彼は仕事でほとんど家にいないことが多いのだ。
非番の時も呼びだされることもままある。
「なぜ、これほど旦那様は、お忙しいのでしょう」
玄関先で、いつものように切り火をして惟明を送り出した後、小夜はぽつりとつぶやいた。
「雨が多くなる季節が近づくにつれ、鬼道がひらき妖魔が増えるのですよ」
石本が教えてくれた。
長雨は作物も育てるが、その反面行き場のない水が澱みを作る時期でもある。
穢れ多く、澱んだ場所に鬼道がひらき、そこから妖魔がわいてくるという。
「旦那様が、心配です」
小夜は忙しい惟明が体を壊さないかと心配になるが、石本や八重によると惟明はとても頑強でここ数年病気一つしていないのだそうだ。
◇
その日は久しぶりに惟明と朝餉を共にした。
向かい合って食事をして、何かを話すわけではないが、彼と同じ空間にいるのは心地よかった。
忙しいにも関わらず、惟明に疲れた様子はなく小夜はほっとした。
「小夜。仕事が落ち着いたら、また一緒に出掛けよう。どこか行きたいところはあるか?」
食後のほうじ茶を飲みながら、だしぬけに言われ、小夜は言葉に詰まる。
「……特には。あ、先日のお出かけは楽しかったです。特にみつ豆が……」
惟明と出かけて、もっといろいろと楽しかったはずなのに、慌てた小夜の口から出たのはみつ豆の話しだった。
惟明が眉根を寄せる。
「……そうか。では今度は、牛鍋屋はどうだろう? 最近、仕事関係でよく行くなじみの店ができたんだ」
牛鍋屋はとても流行っていると聞く、小夜も一度は食べてみたいと思っていた。
「はい、ぜひ」
小夜が答えると惟明は満足そうに頷いた。
「もう一度聞くが、小夜はいってみたい場所はないのか?」
小夜は赤くなって下を向く。
実は一つだけ行きたいところというか、乗りたいものがあった。
「……一銭蒸気というものに乗ってみたいのです。船というものに乗ったことがなくて」
「わかった。休みが取れたら、行こう」
そう言って惟明は口の端をあげる。
多分微笑んでくれているのだろう。
小夜は嬉しくなって頷いた。
しとしとと雨がふり続き、いつの間にか庭の菖蒲は終わり、紫陽花が咲く。
惟明は相変わらず休みはとれない。
そんな折、半日だけでもと惟明は小夜を近場の茶店に連れて行ってくれた。
みたらし団子に、きんつば。おいしい菓子の味をたくさん知った。
お出かけはのんびりと、でもその後惟明は軍服に身を包みあわただしく出勤する。
小夜は惟明のことを、善良な人だと思う。
(でもあまり贅沢を覚えてしまうと、新しい奥様が来たら辛くなるのかもしれない……)
霧生本家の意向は絶対で、石女を娶れと命じられて惟明はそれに従った。
ならばいずれ小夜は離縁されるだろう。
小夜はかぶりを振って、慌てて自分の気持ちに蓋をする。
多くを望んではいけない。
今が小夜にとって一番幸せな時なのだから。
(やがて終わりが来ることはわかっていたとしても、今の生活を大切にしよう)
惟明とは床を共にしたこともないし、一緒に食事をするのは朝餉のみ。
夫婦とは呼べない間柄なのかもしれない。
最近の小夜は変だ。
とても幸せなはずなのに、妙に気持ちが揺れ動く。
以前はこんなことはなかった。
なぜなら、小夜の心はずっと深い水底に沈んだままだったから。
幸せを意識すると、それを失ったときの失望感が怖い。
それに、ここのところ小夜は母がいなくなった日を思い出し、最近どうにも気持ちが落ち着かないのだ。
◇
その晩、小夜は布団に入ると妙な胸騒ぎがして目が覚めた。どこかでゴトリと物音を聞いた気がする。
嫌な予感がして浴衣姿で起き上がると、ふすまを開けて廊下を伺った。
玄関に人の気配を感じる。
小夜は部屋に戻り行李からお守りを出すと部屋を出た。
廊下を進むと、洋燈にてらされた先に惟明と石本が立っている。
「旦那様、こんな遅くにお出かけですか」
そばに寄れば、惟明は軍服姿に日本刀を持っていた。
不安な思いに小夜の顔が曇る。
「小夜か、こんな夜更けにどうした」
「なんとなく目覚めてしまって」
小夜は上がり框から降り草履を履くと、いつものように惟明の右肩に切り火をした。
「小夜。そのような不安そうな顔をするな。夜半の出動などよくあることだ。風邪をひく、早く寝るといい」
惟明はいつも変わらない様子で、淡々と告げる。
「旦那様、こちらをお持ちください」
小夜が、朱色のお守り袋を差し出した。
「これはお前が作ったのか?」
「実家の神社ではご利益があると評判でした。気休めですが……」
どうにも嫌な予感がして、そわそわして落ち着かない。
(旦那様に行ってほしくない――)
「いや、もらっていこう。小夜、ありがとう」
惟明は束の間、嬉しそうな笑みを浮かべると、再び表情を引き締めて踵を返し玄関から出ていった。
深夜の庭は妙にしけっぽく、今にも雨が降り出しそうな予感した。
「さあ、奥様、お部屋の方へ」
石本に促されるように小夜は部屋に戻った。
いったんは床についたものの、胸のざわめきが鎮まることはなかった。
「母様が消えた時も、こんな夜だった……」
小夜の胸騒ぎはますます激しくなった。