185 8日目。
『治るまで8日掛かりました』
《おう、心配掛けて悪かった》
『知恵熱でした、仕方無い事です、でも以降は健康に過ごして下さい』
《おう》
『それから拾い食いもダメです』
《アレは拾い食いじゃない》
『似た様なモノです』
《分かった、迂闊に食べ物を口にしない》
『お弁当を作って下さい』
《おう、任せろ》
『コチラがお見舞いの品です』
《こんなにか》
『はい、コレは妙さん、コレは……』
ダメだな、また涙腺が脆くなった。
《すまん》
『レンズはレンズが思ったより好かれてます』
《らしいな》
『コレはお祝いの品です、誰か分かりますか』
お祝い。
《シイラか》
『はい、知恵熱のお祝いです』
《あぁ、成程な》
『何か心配していました』
《多分、俺に何か言われると思ったんだろうな》
『何をしましたか』
《俺が見抜くのが、少し怖いらしい》
『ではそっとしておいてあげて下さい、悪魔の相手です、問題は有りません』
《で、俺にはヒナが居る》
『はい、私もレンズも大丈夫です、言わなくても問題有りません』
《良いのか、機会を逃すと言えなくなるかも知れない》
『構いません、レンズは神でも万能でも有りません、消化に時間が掛かっても問題は有りません』
多分もう、少しは気付いてはいるんだよな。
けれど、安全装置が働いて。
いや、何より俺を心配してるからか。
《ありがとう》
『レンズの元気が1番です』
少しずつ、成長してるんだよな。
周りを見て、学習して、消化器官を備え始めてる。
だが、まだだ。
《おう、よし、お礼状でも書くか》
『そう言うと思って紙漉き工房に行きました、レンズの名刺に近付けました、使って貰えると嬉しいです』
あぁ、ダメだ、涙腺がぶっ壊れてる。
《大丈夫、熱は出ていませんよ》
《すまん、玉響》
《いえ》
《俺より年長者なんだよな》
《はい》
《嬉し涙と、悔しさと、憤りなんだ。ヒナの以前の事実を知った、予想通りで、予想以上に酷かった》
ネネ様が仰っていたのは、放置され亡くなってしまったのだろう、と。
そして、その裏までもお知りになったのですね。
《さぞ、消化にお時間が掛かるかと》
《どう苦しめてやろうか、どう思い知らせてやろうか。何で、どうして、その理屈も何もかも分かってる筈なのに。どうしても憤りが先に来る、どうしても、悲しくなる》
《炎は近ければ近い程、熱を感じるかと》
《あぁ、遠くで良かった、このまま知らせないでくれないか》
《それは無理かと、同志であり、何よりお優しい方ですから》
《言えない》
《何故でしょう》
《また、ボロ泣きした姿を》
《そのご配慮は、誰が為のモノでしょうか》
《はぁ、俺の為だ》
お優しいからこそ、今の表情をお見せするだけでも十分なのですが。
お若いからこそ、まだ想いが有るからこそ、隠したいのでしょう。
《一言、冷静に話せるまで時間が掛かる、そう仰られるだけで十分かと》
《はぁ》
《レンズ様にも、猫や灰色兎が必要なのかも知れませんね》
《あぁ、確かにな、アレは本当に凄いからな》
《では気分を変える為にも、ご様子を伺いに行かれては》
《あぁ、だな。すまん、ぶり返しそうになって》
《いえ、ネネ様とて大人ですし、何より既に味方は大勢居りますから》
《そうか、そうだな》
《はい、最弱は寧ろレンズ様かと》
《確かにな》
《頼って下さいませ、藻掻き苦しまれる事を、ココの者は誰も望んではいないのですから》
《ありがとう。はぁ、もっと早くに頼るべきだったな》
《ふふふ、何事にも時期と言うモノが有るかと》
《あー、運な、運》
《運はお嫌いですか》
《と言うか、苦手、だな》
きっと、実力で全て変えられた方。
どうしようも無く、抗えない事に不慣れでらっしゃる方。
《慣れです、きっと慣れますよ》
《良いんだか悪いんだか》
《そうですね》
《いや、よし、行くか。玉響も来るか?》
《私、ですか》
《石と世話の礼に、いや、興味が無いなら休んでくれて構わないんだが》
《いえ、お受け致します》
《おう》
レンズ様が俺に会いに来る事は、何となく察していた。
ヒナ様の波動の乱れが、大きくはなくともかなり長く続いていたのは知っている。
誰かに問題が無い限り、そんな事は滅多に起こらない。
《お久し振りです》
《おう、コッチはネネのだ、ちょっと一緒に触りに来た》
《あぁ、はい、どうぞ》
《すまんな》
契約していなくとも、何処かに濁りが存在する事は分かる。
一体、何が有ったのか。
《何が有りましたか》
《酷い事実を知った、怒り狂うと言うより、悲しいわ憤りだでグチャグチャなんだ》
酷い事実とは、きっとヒナ様の事。
けれど、敢えてヒナ様の事だとは言わなかった。
《どう、なさりたいのでしょうか》
《それな。大人としての見本と、身内だからこそ憤りを解消したい面が、せめぎ合ってる》
《葛藤なさっている、と言う事でしょうか》
《その前だな、衝撃から知恵熱を出してたんだ》
《あぁ》
《やっぱり伝わってたか》
《はい、ですが要請は有りませんでした》
俺への命令は、自身と妻を優先する事。
だからこそ、どんなに波風が立っていても、会いに行く事は叶わなかった。
《中は、どんな感じなんだろうか》
《以前より豊かになりましたよ》
水場が出来、緑が増え、空には色が付く様になった。
けれども未だに立ち入れない場所が有り、その殆どは、色の無い砂漠が広がっている。
あの広大な真っ白い砂漠は、異常だ。
妻となった者の庭を知ったからこそ、あの広さの白い砂漠が、如何に異常かが良く分かった。
暑くも寒くも無い、風も音も無い、真っ白い空に真っ白い砂漠。
ただただ何も無い場所を示す、広大な無。
《どうしたら分からせられるか、どうしたら苦しめられるか。けど、大人として、冷静に対処すべきだとも思う》
《あまり人種と関わって来なかったので分かりませんでしたが、人は優し過ぎなのだと思います。叱り、怒り、罰して何が悪いのでしょうか。俺が理不尽な目に遭い、ヒナ様が怒ってくれたら、妻が何かしてくれたら俺は凄く嬉しいです》
構われない事は、とても悲しい。
それが恋焦がれる相手なら、構われたい相手なら特に。
けれど、ヒナ様は期待すら持てなかった。
毒霧も沼地も、だから何も無い。
腐り、煮えるモノが、何も無い。
《多分、俺は、加減が分からないんだと思う》
《それでも俺は嬉しいですよ、感情のままに流されてくれる姿も、反省する姿も》
それだけ、強い思いが有る。
抑える強さを知っているからこそ、その発露が嬉しい。
《はぁ、俺はカッコつけなんだろうな》
《それも良いと思います、俺には出来無い事ですから》
《何か問題か?》
《いえ、レンズ様が人にお詳しい事が羨ましい、その程度ですから》
《いや相談してくれた方が助かるんだ、それで知恵熱中は気を紛らわせてたんだ》
あまり聞かない対処法。
けれど、嘘は無い。
《何を贈れば良いのか、まだ良く分からないんです》
《自分が嬉しいモノは何だ?》
《撫でられる事と、同じ料理を食べる事位しか、無くて》
《一般的な贈り物だとしても、如何に吟味したか、良く考えたかだ。家計の負担にならない程度で、けれど少し特別で、喜んでくれるかどうかを良く考えたか。実際に喜べる品じゃないとしても、それだけ自分の事を長く深く考えてくれた、そこに喜びが有る》
《なら、ヒナ様もお喜びになるかと》
《あぁ、焦り過ぎだな、本当》
《ありがとうございます、良く考えてみます》
《おう、俺ももう少し考えてみる》
《ですが、もう少し先延ばしになさった方が良いかと、俺でも澱みが分かりましたから》
《すまん、暫く撫でさせてくれ》
《はい、どうぞ》
匂いがする。
水と土、それと少しの花の匂い。