175 ヒナの書。
私は悲しくなかった。
辛くも無いし、寂しくも無かった。
コレが当たり前だから、何も思わなかった。
苦しくも無かった。
楽しくも無かった。
何も無かったから、何も無かった。
今思うと、羨ましいと思う事は有った。
良いなと思う事は有った。
でも、それだけ。
我儘を言った事も無い。
怒った事も泣いた事も笑った事も無い。
何をしても無視をされるから。
無視がいけない事だって何となく分かっていたけれど、何がどういけないのか分からなかった。
でも、私が悪い子だとも思わなかった。
でも良い子だとも思わなかった。
私は叱られなかった。
笑いかけられた事も、見て貰える事も無かった。
何をしても、何も無い。
けれどしつこくすると、家から居なくなってしまう。
居なくなってしまうと、私は困る。
喉が渇くしお腹が空く。
だから私は何もしなかった。
何もされなかった。
何も無かった。
最低限の世話をされただけマシだって、普通に暮らしてた子や、殴られたり蹴られた子が言っていたけれど。
私と同じ目に遭わせたら、泣いてた。
他に置いてけぼりにされた子は、一緒だねって遊んでくれた。
産まれなかった子や、直ぐに死んだ子はもう居ない。
殺された子は、早く死ねて良かったねって、一緒にご飯を食べてくれた。
可哀想って何ですか。
良い事ですか、悪い事ですか。
知って良いのでしょうか。
知らないとダメなのでしょうか。
分からない。
テレビは有ったけれど、アレは全て箱の中の事で、遠い何処かの事だから。
だから、ウチと同じじゃないから分からなかった。
食べないと死んじゃう事も、誰かに助けて貰う事も、遠い所の違う何か。
悲しくなかった。
辛くも無いし、寂しくも無かった。
コレが当たり前だから、何も思わなかった。
苦しくも無かった。
楽しくも無かった。
何も無かったから、何も無かった。
「ヒナ様」
ヒナ様に雇われ、暫くしての事でした。
『おはようございます』
「泣いてらっしゃいます、どうされましたか」
『悲しいを知りました、楽しいを知りました。可哀想も辛いも苦しいも、寂しいも嬉しいも知りました』
学園に通い、初めて問題と直面した直後でした。
「はい」
『まだ知らなくても良い事も知りました、でも私は幼い、段階を経るべきです』
「はい」
『私は良い大人になりたいです、手伝って下さい』
「はい、勿論です」
『眠ります、邪魔な記憶を消しておいて下さい』
「構いませんが、また、嫌な思いをしてしまうかも知れません」
『早過ぎる苦痛は、私には良い大人になるには邪魔です、今はその時では有りません』
ヒナ様は長い悪夢、若しくは真実をお知りになったのだと思います。
「分かりました、ではお休み下さい」
『優しく善意のみで寝かし付けて下さい、私には幸せな記憶が沢山必要です』
「はい、分かりました」
『お休みなさい』
「お休みなさいませ、ヒナ様」
ヒナに、記憶の抜けが有るとはな。
《そうか、けど急に、どうした》
「お伝えし忘れていた事に、気付きましたので」
《そうか、けどそれも、悪魔か精霊の仕業かもな》
《はい、そうですよ》
《シトリーか》
《いいえ、ですが我々の仕業です。彼女はあまりに情報に乏しく、そして吸収が早かった、制御が間に合わなかったのです》
《未来視か》
《はい》
《なら、アレは》
《既に至ってしまった事実、ですが潰しました、出会うには早過ぎますから》
《つまりは、今日から通う学園は、安全なワケだな》
《はい、ご安心を》
《そうか、だが事実を確かめたい向こうのヒナについて》
《では悲嘆の図書館へどうぞ》
《いつもありがとう》
《いえ、チョーカーお似合いですよ、では》
余計な事を。
「今日は僕が、送迎を申し出ようかと」
《いや、そこはヒナに任せよう、俺らも普通やいつも通りにしよう》
「はい」
七つの大罪の分だけ、図書館が有るとして。
色欲は、一体どうなるんだ。
『ヒナです、宜しくお願いします』
「はい、では空いてる席へどうぞ」
座席に余裕が有るので、かなり席は空いているのですが。
手招きをする方が幾人か居ます、ですが分身はまだ出来ません。
『ありがとうございます、先ずは端の方から宜しくお願いします』
お断りした方は、其々に合図をくれました。
指で丸を作ったり、親指を上げサムズアップをしたり。
優しい者が多いのか、若しくは慣れているのかも知れません。
《シトリーから案内されたんだが、アンタか》
『まぁ、本の事だからねぇ』
もし、また何か試練が有ったら、そう警戒していたんだが。
本はすんなり、俺の手の中に収まったが。
《本人の書、とは》
『本人の書は、主観や状況だけ記載される、所謂日記や日誌だ。片や実際の書は、観察者の私見や主観が極力排除された、観察記録だよ』
《なら、そう思い込んでいた場合はどうなる》
『そうなると偽書に近くなるけど、結局は本人の書と同じだね』
《なら、コレはそう思い込んでいた、そうした記録になるんだな》
『だね。そもそも書物とは、滅多に更新や改訂がされないもの、その当時に書かれたモノを根幹とし発行されるモノだ。その時代の作法、と書かれた書物が有るとするよ、それが改訂され続けては寧ろ根幹が揺らぐだろう。それに、それらを間違いだ、と断ずる事は歴史の否定に繋がるからね』
《あぁ、マナーだ差別だか》
『そうだね』
《にしても、随分と薄いな》
『実際の書が本編、とも言えるからねぇ』
《ヒナに起きた事も、読めるか》
『あぁ、読めるよ。記憶が無い場所、だろ、貸してご覧』
《あぁ》
『はいはい、ココだよ、ココからだ』
切っ掛けは、純真無垢、と言う言葉について疑問を持った時から。
ヒナは愚か者と純真無垢の違いについて悩み、その先を求めた。
だが、いつ、何が発動したのか。
《コレは、いきなり能力が発動したのか?》
『あぁ、既に途中から、発動していたんだよ。繰り返しが起きてるだろう、ココだ、もうココで始まっていたんだよ』
だとしても、何処か違和感が。
《何か、違う気がするんだが》
『だろうねぇ、確かに今とは違う』
そう、今とは違う。
もっとヒナは。
《まさか思考力を、落としたのか》
『あぁ、本当に、勘の良いガキだねぇ』
《冗談を言ってる場合じゃ》
『あの子は頭が良かった、琴線も多い、だから幾ばくか幼くしたんだよ』
《先代は》
『どう考えたかは分からないよ、敢えてなのか、偶々なのかもね』
《はぁ》
『けれど、分かるだろう、幼さが強みとなった』
《けれど、本来のヒナは》
『本来とは、何だろうね』
今のヒナは、幼くなってコレだ。
けれど、もし、あのヒナのままなら。
《俺の都合としては、確かに有り難いが》
『あの子にとっても都合が良いなら、誰の損にもなってはいない、と思うけれどねぇ』
《しかも思考には、段階が必要》
『それに適切な速度もだ、あんまり早いと、止めるにはかなりの力が必要だよ』
《だから、境を無くし、無理矢理悪夢だとしたのか》
『そして、そのまま幼くした、だけだよ。あの子の何かを無にしたワケじゃない、だからこそ、アンタを求めスズランの君を求めたワケだ』
《そこまで、初期の事だったんだな》
『あぁ、直ぐにも学園を求め、直ぐにも理屈に辿り着いたんだよ』
《親が、愚かだと》
『けれど、子供には神で万能で、絶対的な存在だ。例え何も無くとも、原始の何かが、打ち砕かれたんだろうね』
《だから、まっさらなのか》
『けれど、いずれ同じ結論に辿り着く、けれどいつかは決まってはいないよ』
《出来るだけ、消化させてやりたい》
『あぁ、それが理解、だからね』
《正直、この実際の書が、少し怖いんだが》
『知るには対価が必要となる。まぁ、頑張るしか無いねぇ』