131 歴史家と悪魔。
昔々、地獄のど真ん中に歴史家がやって来ました。
「な、何なんだココは」
バロック建築にゴシック建築、ルネサンスにロココ、そしてロマネスク建築が入り乱れる場所に。
歴史家が現れ、混乱していました。
《あらあら、どうなさいました、学者さんかしら》
「ココは一体何処なんです、今は何年ですか」
《あぁ、来訪者様でしたか、今は西暦◯◯年ですよ》
「あぁ、そうか、夢か」
歴史家は混乱し、手元の鉛筆で勢い良く手を刺しました。
《まぁ、何て事を》
「痛いのに、何で目覚めないんだ」
《誰か、貴族の方を》
《もし良ければ、私でどうだろう》
《あぁ、ラウム様》
《さ、先ずは手当てをしようか》
歴史家はラウムに一目惚れをしました、歴史家は男しか愛せない者でした。
「ありがとうございます」
《いや貴族として当然の事をしただけだよ、さ、お茶をどうぞ》
歴史家は夢から覚めたがっていましたが、ラウムを目の前にして、すっかり心変わりをしていました。
「何から何までありがとうございます」
《ふふ、先ずは気を楽にして、ゆっくりお茶を味わっておくれ》
「はい」
歴史家は次に、夢から覚めない方法を考えました。
ですが、そんな事を考えるのは初めてです。
《お菓子はどうだい、口に合うかな》
「はい、あの、ずっとココに居る方法は有りますでしょうか」
《簡単な事だよ、何かを成せば良い》
歴史家は悩みました。
歴史を研究するのがお仕事です、ですがココの歴史は自身が知るモノとは全く違い、何をすれば良いのか見当もつきません。
「僕は、歴史しか分かりません、ですがココとは全く違う歴史。どうお役に立てば良いのか」
《なら、先ずはココを学んでみると良い、私が後援者になるよ》
歴史家は喜んで承諾し、毎日毎日学びました。
「凄い、胡椒もトマトも、平和に手に入ったのですね」
《勿論、争う理由が無いからね》
歴史家は驚きました。
先ずは精霊と悪魔が存在し、その末端で人種が生まれた、全く別の進化を辿った場所。
西暦は気候変動や火山の動きから計算され、自身の様な者の為に定められたに過ぎず。
主に使われているのは、シシュファス暦。
そして自然崇拝を基礎とし、緩やかに歴史をなぞりながらも、穏やかで平和な世界。
「なのに、工芸品が存在している」
《戦だけが技術を発展させるワケじゃないからね》
来訪者や宿星の存在は勿論、余裕が有るからこそ、人種は余暇を潰す為に様々な工夫を凝らした。
人種は歌い、踊り、楽器を作り出し音楽を作り出した。
そして糸を染め刺繍を施し、着飾り、家を飾った。
「ですが、あまりに似過ぎています」
《それは、悪魔が欲したから、精霊が懐かしさから欲したからだよ》
それは広めずとも勝手に広まり、更に改良が重ねられましたが。
古典、そうした名が付き原型を留め続けました。
「向こうが恋しいですか」
《いいや、けれど他の悪魔は、向こうが好きらしい》
ラウムに向こうの知識は有りますが、恋しいのは未来の想い人のみ。
いつの日か愛を知り、そのモノと共についえる。
歴史家は、その事実を知ってしまいました。
愛を伝える前で良かった、そう思いましたが。
ラウムの悲しみも知っています。
「今日もお出掛けで」
《勿論、愛を探しに行く為に》
愛を探すラウムは、物憂げで儚く、そしてとても美しい。
ですが、愛を知れば終わりを迎える事になる。
歴史家は何度も何度も、心の中で呟きました。
愛している、と。
「お帰りなさい」
《また今日も、居なかった、出会えなかったよ》
歴史家はこの抱擁を喜びながらも、悲しみました。
愛するラウムが悲しんでいる、その事がとても悲しいのに、喜んでしまっている。
今日も、他の誰かに取られず、今日もラウムは生き延びた。
歴史家は、喜びながらも悲しみました。
「そう、残念だったね」
残念ですが、嬉しい、でも悲しい。
抱き締められ嬉しい、でも愛していると言えない事が悲しい。
歴史家は勉強に逃げました。
自分さえ気持ちを閉じ込めれば良い、ラウムには長く生きて欲しい、そう思っていました。
《成したね、おめでとう》
歴史家は本を出しました。
それは向こうの歴史書、悲しみと戒めを伝える為、歴史家は向こうの歴史を伝える事にしました。
「ありがとうラウム」
《当然の事をしたまでだよ、さ、君に僕の大切なモノを紹介するよ》
その言葉に、歴史家は逃げ出しました。
新品のスーツで、真新しい革靴で、街の外へと逃げ出しました。
歴史家は気付いていました。
ラウムが良く着飾り出掛ける事を、贈り物を探していた事を、悲しまなくなった事を。
歴史家は、ずっと知らないフリをていました。
運命の相手が自分では無い事も。
胸が張り裂けそうに傷んだ事も。
歴史家は、知らないフリをしたかった。
平和で穏やかな日々を、手放したくは無かった。
ですが、別れの日がやってきた。
来てしまった。
歴史家は逃げ出しました。
どんなに服がボロボロになっても。
どんなに足がボロボロになっても。
ラウムから遠く離れる為、歴史家は逃げ出しました。
「ラウム」
《迎えに来たよ、帰ろう》
ラウムは宝を探すのが得意です。
歴史家は直ぐに見付かってしまいましたが。
「もう、君とは離れる」
《そう、元気でね》
歴史家は去られるのが嫌でした、だからこそ自ら去ったと言うのに。
歴史家は泣きました。
大声で叫び雄叫びを上げながら、泣きながら、いつしか眠りに付きました。
『あぁ、大丈夫ですか、道端で倒れていたのですよ』
歴史家を助けたのは、運河沿いに住む村娘でした。
「ありがとうございます」
『いいえ、当然の事をしたまでです、お気になさらないで下さい』
歴史家はそこに住む事にしました。
ラウムを忘れる為、愛を忘れる為に。
彼は勤勉に真面目に働き、家を持ちました。
そして孤児を養い、常に家には誰かが居る、賑やかな場所にしました。
ですが、歴史家の心から愛が消える事は有りませんでした。
似た姿を見れば涙が溢れ、似た声を聞くと心が締め付けられ。
似た匂いを嗅ぐと、ラウムに会いたくなってしまう。
それは何年経っても、色褪せる事は有りませんでした。
『お父さん、貴族のラウム男爵を知ってる?』
ある時、歴史家に子供が尋ねました。
「あぁ、そうだね、少しだけなら知っているよ」
『ずっと愛を探しているんだって、可哀想に、とうとうこの場所に探しに来たんだよ』
歴史家の居る村にラウムがやって来ました。
相変わらず、美しさは衰えぬまま、彼は以前の姿のまま。
寸分違わぬ美しい姿のままで、歴史家の家を尋ねました。
《あぁ、ココは君の家だったんだね》
「どうぞ、遠慮せずお入り下さい」
《ありがとう》
愛しくも恋しいラウムの声、匂い。
その全てが目の前に在りながらも、すっかり老いた歴史家は、もう愛しているとは言えませんでした。
「てっきり、アナタはもう添い遂げていたのかと」
《あぁ、アレは違ったんだ》
歴史家は悲しくて嬉しかった。
まだ運命の相手に出会っていない事を喜び、悲しんだ。
まだ出会えていない事を悲しみ、嬉しく思った。
「こんな僕だけれど、君を今でも愛してる。だからきっと、いつか出会える筈だよ」
歴史家の言葉はラウムの呪いを解きました。
ラウムは歴史家と同様に老いると、彼の前で膝を付き、手を取り涙を流しました。
《愛してる》
歴史家は狼狽えました。
無理も有りません、ラウムも男、歴史家も男です。
例え性別を変えられるとしても、自分では無いと歴史家は思っていたからです。
「そんな、僕だなんて」
《今なら分かる、僕の為に告げずにいた、僕を変わらず愛してくれた》
「死んで欲しくなかった、だから」
《僕は愛するモノの傍に居て、共に老い、共に死を賜りたい》
それはまるで誓いの言葉。
歴史家はそれに応えました。
「病める時も健やかなる時も、どうか傍に居てくれますか」
《勿論》
こうして2人は共に過ごし、共に老い、共に息を引き取りました。
ですがラウムは悪魔です。
喪が明ける3年後、以前の記憶を全く無くし、全く新しい容姿で目覚めます。
『あぁ、ラウム様、おはようございます』
《おはよう、良い天気ね》
今日もラウムは愛を探しに行きます。
いつか、愛を知る為に。