111 調香師と悪魔。2
『やっぱり行くのか』
「はい、すみません、本当にありがとうございました」
《ええんよ、合う水が1番やし》
「本当にありがとうございました」
『あぁ』
《達者でね》
先生とお姉さんは、頑張ってコチラの言葉で話してくれてたんだけど、やっぱり安土桃山時代の言葉は違ってて。
ココで生きるには、かなり難しいと思った。
そんな時、既に大使館が有ったから話を聞きに行ったんだけど、英語が何でか聞き取れて。
だからもう、行くしか無いかなと思った。
お風呂は2日に1回で平気だし、トイレも汲み取り式だけど慣れれば平気だし。
食べ物は質素だけど美味しいし、浴衣も慣れたからそのウチ着物も着れたと思うけど。
診療所の外は、本当に聞き慣れない日本語で溢れてて。
何だか自分が異物に思えた。
そこは妖怪さんとか、精霊さんとかの力でどうにか出来るらしいけれど。
折角だし、最後の砦って事にして、西洋文化の国に行く事にした。
「そりゃ、コッチ来ちゃうよ」
最初の感想はソレだった。
綺麗なドレスに、可愛い帽子、ケーキにアイス。
《ふふふ、でも、ココだけなの》
「えっ、そうなんですか」
《だってココは、地獄だもの》
ココでは驚きませんでした。
だって既に予習復習してたから。
「悪魔さん達、こんなに甘やかして良いんですか?」
《ふふふ、良いの。さ、いらっしゃい》
見た目女性の悪魔さんの家で、先ずは外の西洋がどうなっているか、体験させて貰った。
パンは酸っぱくて硬い黒パンで、殆どが野菜のスープとパンだけ、お肉やお魚は稀。
それに着る物も、かなり簡素で質素で。
ブラらしいブラが無くて柔らかいコルセット。
「ココに居られる条件とか有りますか」
《有るわ、何か有益な事を成す事》
向こうでは、いつの間にか資質は問題無いとされてて、特に考える間も無かったんだけど。
何かを成すって、何を成せば良いんだ、と固まった。
本当に、頭が真っ白になった。
『意地の悪い事はそこまでにしておけ』
《あら、珍しい、アナタが来るなんて》
「あ、どうも」
『先ずはココを教えてやるべきだろう』
《はいはい》
そう言うと、その悪魔は名乗らず消えてった。
馴染みの有る顔と、素晴らしい体格と低い声がもう、完璧に好みだったから少し残念だった。
でも、色々と教えて貰うウチに、少しでも女悪魔さんが意地悪すると出て来る様になって。
益々惚れた。
でも、惚れたって言っても、嬉しいなってだけ。
だって、身を立て無いとココに居られないし、だから束の間のご褒美だと思って。
ずっと、何をすれば良いのか分からないまま。
また、私の心臓が悲鳴を上げた。
『お前が生きるには、どうやら男の姿の方が良いらしいが、どうする』
全然、楽そう、って思った。
お洒落は好きだけど、やっぱりコルセットだし、手伝いが無いと髪を結い上げる事だってまだ出来無いし。
だから、ココで生きられるなら、全然構わないなって。
「お願い、します」
私は悪魔にお願いした。
男にして下さい、って。
『どうだ』
「トイレにっ」
起きたら、やっぱり尿意が凄かったから、先ずは自分の声に驚いた。
それから手が違ったり、胸が無いのを確認した辺りで。
『やり方は分かるな』
「あ、はい、多分」
取り敢えずは座ってして、ちょんちょんと拭いて。
そこでやっと、鏡を見て驚いた。
意外とお母さんそっくりだった。
『大丈夫か』
「あ、はい、ありがとうございます」
もう、体は軽いし、良く考えれば生理も無いしで。
何だか嬉しかった。
『ココにも期限は無いんだ、落ち着いて考えれば良い』
当たり前なんだけど、忘れてた。
もう凄い焦ってて悩んでたのに、それからは余裕が出来た。
「一緒に出掛けて貰っても、良いですか」
『あぁ、分かった』
前なら、もう有るのか、コレはダメかなって。
そんな事ばっかり考えて、楽しいが殆ど無かったんだけど。
その日は何も考えないで、凄く楽しかった。
「ありがとうございました、思い詰めてました、すみませんでした」
『好きな事をすれば良い、悪魔の子飼いになる道も有る』
凄い魅力的な選択肢が出たのは分かるんだけど、自分の好きな事ってなんだろう、って思って。
ふとココに無いモノに気付いた。
「香水、無いですよね」
ハーブだとかポプリは有ったけど、香水が無かった。
『あぁ、抽出器が無いからな』
「そこ、どうにかなりませんかね?」
『どうして欲しい』
「香水を作ってみたいです」
そこからはもう早かった。
香りを抽出する為の道具で、しかも悪用されないか、悪用されない様に何か規制する方法を考えて。
アレはダメ、コレなら良い。
それを何回も何回も繰り返して、やっと香水が作れる設備が揃ったんだけど。
私に、香水を作る知識、皆無。
『香水の歴史を教えてやろう』
「あ、はい」
似た物は既に有った。
香油とか香膏、薬用酒が有ったけど、ココには入浴の習慣が有るから発展しなかったって。
『それでもやるか』
「はい、欲しい匂いが有るので」
石鹼らしい石鹼の匂いがする石鹼、若しくは香水。
お母さんの匂い。
どうしてか、誰だって気に入るだろうって思ってた。
それに、もし香水が売れなくても、私が満足だって。
『出来たか』
「はい、出来ました」
もう、来てから1年は軽く過ぎてて。
やっとこさ出来たのは1つだけ。
でも全然、もう、満足だった。
『満足か』
そう言われて、コレで終わりだと思うと、何だか勿体無いと思ったんだよね。
でもっと作ってみたいなって。
「もう少し、他の匂いも作ってみたいです」
『分かった』
香水の事は詳しく無いけど、向こうで色んな香りを嗅いだから。
そのままの名前を付けて、お店に置いて、名前が分からなかったり自分で良いなと思った物には番号を付けて。
気が付くと、本当にお店っぽくなってて。
それなりにお金が稼げてた。
「意外と、商売になってる」
それは悪魔が手配してくれた者が居たから、なんだけど。
そのお金を払ってもお金が溜まってて、我ながら凄いなと思った。
『成したな、独り立ちだ』
で、ココですっかり忘れてた事を思い出した。
ココに住む為だったって。
「はい、ありがとうございます」
独り立ちして暫くして、不思議な注文が来た。
《あの、アクア・トファーナは有りませんか》
「あぁ、どうでしょう、どの様な香りでしょうか?」
《素晴らしい香りだそうで、4滴で天に登る程だそうですが、実際には嗅いだ事が無いんです》
「成程、似た香りが有るかも知れません、色々と嗅いでみて下さい」
《はい、ありがとうございます》
どんな香りだろう。
そう思いながら似た名前を辞書で探しつつ、女性を横目で見ていると。
どうして直ぐに出て行ってしまって、余計に気になった。
「何か変なお客さんが来たんだけど」
『男で接客に出たのか』
「違うよ、女で、相手もご婦人。アクア・トファーナって名前の香水、知らない?」
『いや、知っている』
悪魔が言うには、向こうのローマで流行った毒薬で。
離婚出来無い者の最後の切り札として、ジュリア・トファーナと言う女性が母親から引き継いだ知識で作った毒薬だ、って。
「何で、そんな」
『誰かを毒薬したいか、反省させたいか、だろう』
いきなり1適で死なないのは、偽装の為は勿論、その行いを後悔し反省させる為。
けど、600人が死んで、更に後を継ぐ者も現れたって。
「いや離縁じゃダメなの?ココは出来るでしょ?」
『ココはな、だが離縁が全てでは無いだろう。まだ情愛が残っているなら、反省してくれれば、それだろう』
ふと、腐れ外道の事を数年ぶりに思い出した。
浮気は論外だけど、もし、他の事を反省してくれてたらって。
けど、そんなクソ男より、新しい相手を探した方が良いのにとも思った。
だから悪魔にお願いして作った。
ココのアクア・トファーナを。
『あの』
「はい、何でしょう」
『アクア・トファーナは、ございますか』
「はい」
『あぁ』
「お売りするには1つだけ条件が有ります、2度と思い出せなくて良いのか、何が有ったのかをお聞かせ下さい」
『実は……』
私のアクア・トファーナは、記憶を消す香水。
4滴使うと、好きな相手の事を全て忘れられる。
殆どの女性は酷い男を好きになった後悔から、自らの記憶を消したがった。
でも、そうするとまた同じ男に引っ掛かる可能性が有るから、同じ間違いを犯さない様に本と共に渡した。
「ありがとう、流石」
《即興で書くのって大変なんだけどさぁ、やっぱり、材料を貰うんだからお返しはしないとね》
既に大半の本は有ったんだけど、カウンター下で聞いていた筆記の妖精に書いて貰って手渡す事も有った。
悲恋が対価。
アクア・トファーナでお金を貰う事は無い。
だって、悲しみを忘れられたら、次はきっと良いお客さんになれるだろうから。
『食事に行くぞ』
「あ、何でクソ男を全滅させないの?」
『免疫が付かないだろう』
「あぁ」
悪しき見本が無いと、どうしても分からない者も居る。
だからこそ、アクア・トファーナは永遠に作り続ける事になる。
私が死んでも、レシピ帳が残ってる限りは。