110 調香師と悪魔。
また、隣からドンドンと盛る音と声が聞こえ。
ついに私は目一杯、壁を殴った。
一瞬だけ静かになったけど。
今度は笑い声からの盛る声に私はキレた。
叫びながらひたすら壁を殴ってやった。
もうこんなアパート出てってやる。
浮気されてフラれるわレジ金が合わないのを私だけ責められるわ。
もう良い、我慢したって何も良い事が無い。
そう思って絶叫しながら壁を殴り続けてたら、急に胸が苦しくなって、全身からナメクジみたいに汗が噴き出て。
スマホに手を伸ばしたけど。
そこで記憶が途切れて。
「こ、ココ、何処ですか」
《大丈夫、安心して下さい》
少し目を覚ました時に、病院とは違う景色だったと後から思ったけれど。
その時はもう、怠くて怠くて。
あぁ、病院か。
そう思って再び記憶が途切れた。
それから少しして、尿意で目が覚めた。
本当に驚いた。
目の前には藍色の蚊帳、そして透けたその先の天井は、どう見ても木の板。
《あぁ、目を覚ましはったんですね》
どう見ても着物に白い割烹着を着て、頭にも白い布を被ってて、その奥には結い上げた髪が見えて。
何だ、何処だココ、と。
それと同時に、そう言えば少し目を覚ました時にも、関西弁だったなと。
って言うか点滴って、とか。
もう、一気にグルグルグルグルと、今までで1番頭が早く回ったと思う。
けど、尿意、尿意には勝てなくて。
「おしっこ、したいんですけど」
《あぁ、はいはい、ちょっと待っててね》
そう言ってお姉さんは、ベッドだと思っていた小上がりの下から、桶を出して。
終わったら教えてねって。
「えっ、いや」
《ココは診療所、あんさん病気やったんよ、ココから動かしたらあかんのよ》
「えっ、あ、はい」
《はい、じゃあ終わったら教えてね》
「はい」
尿意が先だった。
《はい、手を出して》
「はい」
《ええ子やね、手を洗うんよ》
「はい」
そうやって違う桶で垂らしてくれている水で手を洗って、手ぬぐいを渡されて。
それから今度は白湯を少しだけ飲ませて貰ってから、やっと、少しずつ説明して貰った。
因みに紙は、瓦版だった。
《あんね、もう分かってはるやろけど、ココは前と違うんよ》
「はい、みたいですが、何故」
《それね、ウチらも良う分からしまへんのよ。何でか分からへんけど、あんさんみたいなんが来るんよ》
「あーの、今は、何次代で」
《あぁ、安土桃山時代やー、言うたら伝わるって聞いてはるんやけど。どやろか?》
「あぁ」
《あ、因みにココは京の下鴨地区やね》
腕の点滴からして、何かの冗談だとか、ドッキリだとかは考えなかった。
だって、痛いし、刺さってるんだもの。
「こ、コレは」
《あぁ、コレね、内緒やからね。他に知られてしまうと悪用されたらアカンから》
「その、コレ、どう」
《この針は鳥の羽軸で、コレな、ゴム言う代物らしいね》
「ゴム、安土桃山時代に、ゴム」
《やっぱり向こうの人、なんやね》
「どうやら、その様で」
《ぽんぽん痛ない?》
「あ、はい、何処も痛く無いです」
《せやったら、先生呼んで来るさかい、暫く待っとってね》
「はい」
何でこの時代にゴムが有るの、と。
でも、それよりも、ココは時代を遡ったワケじゃないと分かった事は良かったなと思った。
ガチ安土桃山時代は、ちょっと帰りたくなりそうだったから。
『おう、無事そうだな』
「あぁ、関東弁」
《イヤやわ、関東弁やなんて、京の人やっても言わへんよ》
『江戸弁な』
「あぁ、失礼しました」
『俺はココの生まれだが、アンタみたいな者の為にココに居る、アンタは虚ろなる者と呼ばれる者だ』
《アレや、虚ろ船、知ってはるかしら》
「あぁ、はい」
『帰れる場合も有るし、帰れない場合も有るらしい、どっちにしろ何かを成した方が良いと助言もしろと言われている』
「あぁ、どうも」
《ウチはココ生まれココ育ちや、良う分からん事が多いやろし、お世話係やね》
「すみません、暫く御厄介になります」
《ええよええよ》
『点滴を外すが、絶対に外に漏らすなよ』
「はい」
無精髭で適当に髪を結ってるだけで、結構イケメンだったんだけど。
そこで気付いた。
多分、指輪の概念無いじゃんよ、と。
だから直ぐに諦めて、自分の事を考えた。
どうやって生きていくか、それと髪の毛、黒髪で良かったけど絶対に長さが足りないし。
着物、着た事が無い。
だから最初は、浴衣の着方から教えて貰った。
《そうそう、上手やね》
「すみません、ありがとうございます」
寝間着用の浴衣は簡単だったけど、もう、既に嫌だった。
ブラが無い、ほぼ褌。
で髪型は未婚なら唐輪髷、既婚なら玉結び、病人でも1つに束ねる。
下ろしたまんまは売春婦か、ヤバいヤツ。
で、良い年をして髪が短いのもヤバいヤツ。
《髪は神社さん行ったら宜しいわ、髪の神様を祀ってはる所で》
「行きます」
《ええの?向こうに戻っても、多分やけど今のまま、らしいよ?》
「戻りません」
全く戻る気は無かった。
メリットを聞いても。
《死んだ事になるらしいんよ?》
「全然、未練は無いです」
《んー、先生、他に何か有るんやろー?》
お姉さんが声を掛けると、外から先生が入って来た。
ずっと外で待っててくれたらしくて、マナーらしいマナーが有るんだなと驚いた。
『ちょっと出ててくれるか』
《はいはい、ほなまたね》
「はい」
『予防接種なるモノが無い、薬は青カビから出来たモノと、バルドの傷薬と呼ばれるモノだけだ』
「バルドの傷薬」
『グラム陽性細菌の黄色ブドウ球菌に効く塗り薬で、分かるか』
「少し、黄色ブドウ球菌は分かります」
『だけだ、地区を出れば破傷風菌やサルモネラ菌が居る、少し油断すると死ぬぞ』
「予防接種は既にしてるので破傷風菌は大丈夫ですが」
『結核だって有る、それにそうそう薬は出せない、何でか分かるか』
もう、どうやって作ってんだって事が気になって仕方無かったけど。
「耐性菌、ですかね」
『あぁ、そうだ、しかもアンタは向こうの者。既に耐性菌を持ってるかも知れない』
「あぁ」
ココで初めて、自分が隔離されてるかもって気付いたけど。
凄く真剣だったし、病気は怖いから、仕方無いかもと思った。
『で、本当に戻る気は無いのか、なら何でか聞かせてくれ』
「失恋して仕事でも毎日必ず嫌がらせが有って、家に帰れば隣が五月蠅い、お金も無い大した趣味も無い。何も、良い事が無いんです」
『親はどうした』
「母親が病死して直ぐに父が再婚、で直ぐに新しい子供が出来て、馴染めず直ぐに働きに出ました」
『だけか』
「まぁ、はい、別に凄い酷い事は無かったですけど。特に良い事も無かった、生きてる意味も分からないし、意味を探す気も有りませんでした。ダラダラと、適当に働いて、適当に結婚するつもりでした」
まさか、一緒に貯金してるつもりだったのに。
向こうは貯金せず浮気、詰め寄ったら面白くない女だからもう良い、とか言っていきなり立ち去られて音信不通。
友達は居たけど、結局生活習慣が合わずに疎遠になって。
どうやって生きようかと悩んでた所に、アレで。
『だが』
「あの、私は何か、病気だったんでしょうか」
『心の臓の血の管が詰まっていたらしい』
「あぁ」
それで納得しました。
旧式にしても程が有る点滴と、胸痛。
お母さんが死んだ病気と同じだった。
『祈禱師曰く』
「祈禱師」
『追々説明するが、まぁ、相当に何か嫌な事が有ったのだろう、と』
「もう、本当にそうなんですよ。ココがどうかは分かりませんが、向こうの住居は本来壁が厚いんです、なのに安い家を選んだせいでもう」
『落ち着け、また詰まったら俺には治せないんだ』
「あぁ、すみません」
『それで、何が有ったんだ』
「あんまりな時間に、私が寝ようとしている時間に、隣が夜の営みを遠慮無しに始めたんです。で。いい加減にしろと壁を叩いたら、笑い声の後にまた始めやがった。だから叫びながら壁を殴りまくってやったんです、そしたら、急に苦しくなって脂汗まみれになったんです」
『そうか』
「すみません、母も同じだったんです、ありがとうございました」
『いや、俺じゃない、祈禱師だ』
それからはもう、魔法の有る世界なんだ、とワクワクでしたよ。
なんせ魔法のお陰で、私は死なずにココに居られてるんですから。
けど、同時に思ったんですよ。
なら西洋はどうなってるんだろう、って。
「あの、西洋って」
『やっぱりか』
「あ、すみません」
『いや、子女には特にココは厳しいだろうとは聞いていた』
「まぁ、はい。ただ、向こうも必ず良いかは分かりませんし」
『いや、行くのも知るのも構わないんだが、問題はココを出られる資質が有るかだ』
「資質」
資質を示せば、好きに生きられる。
とだけしか聞いていない、と。
『何をどう示せば良いのか、何をするべきかは、俺は知らないんだ』
「あー」
『先ずはココを知ってくれ』
「あ、はい」
それからはもう、勉強勉強の日々で。
正直、外がどうなってるかは全然、気にならなかった。
だって、妖怪とか居るって言うんですもん。