108 調香師。
『お待たせ、石鹸の商品名か型番を良いかな』
「はい、マリオット38です」
『あぁ、ユーカリとラベンダーかな』
『ラベンダーを嗅ぎましたが違う気がします、ハーブ園で嗅ぎました』
『匂いって不思議でね、どんなに臭くても、薄めたり混ぜると良い匂いになったり変わるんだよ』
『アレが石鹸の匂いに変わりますか』
『うん、直ぐに出来るから、先ずは濃さを3段階に分けて嗅いでみてご覧』
『はい、そうします』
『そうだ、もうお茶はしたかい?』
『いいえ、直ぐにハーブ園に行って直ぐに出ました』
『そう、じゃあ僕のオススメのお店のティーセットを用意させるよ』
『はい』
裏に回って誰かに話して。
裏口から出たか。
つか本当、ヒナは上客扱いが慣れて。
いや、そもそもココの基本なのか?
《少し良いか》
『どうぞ、話しながらでも出来るから大丈夫だよ』
《お茶を出すのは定番なのか?》
『そうだね、親しかったり上客だと思えば出したり、店員の気紛れだったり。イスタンブールに行った事は?』
《いや、近くの南の島しか無いが》
『大きな市場が有ってね、僕はそこで育って、犯罪者になった』
《けど》
『ココでは何もしてないし、刑も終えた。9才の頃に観光客に道案内をして日銭を稼いでたんだ、けど逆上した客に殴られて刺した。家族は賠償金を払えないからって逃げて、僕は子供用の刑務所に居た、それから何度か審査が有って出たけど、ずっと地獄だった』
《あぁ、なら地震の》
『そう、良く知ってるね』
《親日国だろ》
『うん、だからアジア圏の客は止めろって言われてたんだけど、その理由を良く分かって無くて。逆上されて、刺した、怪我をさせた』
《その客はどうなったんだ》
『子供が持つ様なナイフだよ、軽症で済んだけど、身元引受人も居ないからそのまま6年入ってた』
《俺には経験が無いんだが、キツかったんじゃないのか》
『それがね、外の方がマシだったけど、結局は中の方がマシだった。雨風が凌げて寝る場所も有って、飲み水や食べ物も直ぐに手に入って。けど、やっぱり強いヤツが勝つ、だから暴力だとか陥れるだとかが平気で有った』
《出て、どうしたんだ》
『物乞いか観光案内か、で直ぐに捕まって地区を追い出されて、ふらふらと彷徨ってたら地震が有った』
《俺に記憶は、無いんだ》
『それもそれで良いかもね、本当に怖かったけど。コレで楽になれるかもと思うと、声を出す気になれなかった、救助の声が聞こえてても黙ってた。痛く無かったせいだろうね、それでココで起きて、何処だココはってなったってワケ』
《前世、なのか?》
『いや、この体のままだよ』
《顔が良いのに勿体無いな、ウチでなら直ぐに稼げたのに》
『ふふふ、本当に差別が無い国なんだね』
《いや、有るには有るぞ、その地域の言葉が喋れるかどうか。言葉と少しの作法を理解してたら、外国人じゃなくなる、異物じゃなく客扱いになる》
『内か外か、そう、ココと似てるんだね』
《あぁ、確かにな》
来訪者か、ココの者か。
そうだよな、ココはココの者の為の場所、地獄。
『あ、コッチに誰か来ます』
『大丈夫だとは思うけど、開けてあげて』
『はい』
《俺は詐欺師紛いの事をしてた、手引き書を売って、それを使われた被害者も出た》
『自慢?』
《何でそうなる》
『だって、勉強はココでだけだし、そんな頭が有ったら同じ事をしてたよ』
こんな風に、立ち直ったヤツらとは関わらなかった。
立ち直れたならそれで良い、もう犯罪を犯さないならそれで良いだろう、と。
『ピザ』
『僕の所ではピデ、それとアップルティーとロクムだよ、裏庭に頼むよ』
《はい》
『お先にどうぞ』
《行ってこいヒナ》
『はい』
《すまん、遥かに甘い環境だった、俺でもきっと同じ事をしてた》
『ありがとう、でも他はもっと酷いからね。生まれた地位から上にはいけない、だから学ぶ事も出来無いし、襲われる方が悪くなる。下を見ればキリが無いし、上を見ても同じ。言い訳をするつもりは無いけれど、あの時は、本当にそれしか道が無かったんだ』
《なまじ大人だったからこそ、そう言い切れない》
『なら、僕の方がまだマシかもね、少なくとも過去の事だから。はい、どうかな』
《あぁ、凄いな、くっきりしてる》
『どうしても石鹼だと香りが幾ばくかぼやけるからね、液体って凄いよね、もっと近くに感じる』
《この調合はアンタが》
『ううん、コレは来訪者様の。僕もそうらしいけど、能力を貰って仕事をさせて貰ってるだけだから。嗅覚を良くして貰ったんだ、悪魔にね』
《俺も似た様なものなんだ》
『なら零れ者仲間だね、零れ落ちていた所を拾って貰った』
《あぁ》
『よし、行こうか』
《おう》
こうして偶に、来訪者や宿星が来る。
懐かしい匂いを探しに来て、調香料に落胆して帰る。
気に入らないヤツには、気に入らないなりの料金を吹っ掛けるからね。
『凄くリンゴの匂いがします』
『でしょう、乾燥させたリンゴと紅茶が入ってるからね』
『コレは、ザクロです』
『うん、ザクロのロクムだね』
《砂糖を付けるのか》
『あぁ、コレは僕流、ココのはそこまで甘くないから』
『丁度良いです』
『この方が良いのは分かるんだけど、故郷の味はコッチ。でも真似しない方が良いよ、あんまり食べると虫歯になるから』
『綺麗な歯と歯茎だと褒められました、レンズは控えた方が良いかも知れません』
『あぁ、もしかして行ったんだね、歯医者』
『はい、行きました』
《アレは本当、違和感しか無かったな》
『それで済んで良かったね本当、僕はもう、痒いんだか何だか分からないけど兎に角ムズムズして大変だったよ』
『赤ちゃんが泣くのも歯が痒くて泣く事が有るそうです』
『ね、生まれ変わったんだから大事に、って言われたよ』
《もう赤ちゃんじゃないですか》
『そうだね、でも大人だけど、まだ幼年部だと思う』
『ココはどうですか』
『僕には寧ろ天国だけれど、他のには地獄なんじゃないかな。でも、それで良いと思う、棲み分けだよ棲み分け。はい、石鹼と同じ濃度だよ』
『石鹼より濃い気がします』
『アレは乾物だからね、乾燥したままの紅茶より、こうして液体にした方が香りが分かるよね』
『はい、その違いですか』
『うん、コレは香水用の濃度』
『ギリギリ嗅げます、でも長くは嫌です』
『で、コレは原液』
《おぉ、また随分と悲壮な顔をするな》
『好きなのにコレは無理です』
『味と同じ、濃過ぎると不味くなるし、丁度良いと美味しい』
《そうそう、サービエもそんなもんだよ》
『アレは薄めてもダメです』
《濃いから良いんだよ》
『そうだね、濃い方が良い場合も有るよ、コレはどうかな』
『木の匂いがします、良い匂いです』
『コレは寧ろ濃縮した液体、メープルシロップと同じだよ』
『コレも良いです、レンズはコレにして下さい』
《いや、俺も同じのにするつもりだったんだが》
『なら練り香水も有るから、そうだね、香水の種類の説明をしようか』
『はい』
オーデコロン・オードトワレ・オードパルファム・パルファム。
この順に香りの持続時間や濃度が変わり、持続時間が長い程に香りが変化する。
『因みに練り香水はオーデコロンと同じ位、1~2時間で消える。後は付ける部位次第だね』
《上半身に付けるのは好きじゃないな、偶に良い匂いの方が良い》
『分かるよ、結局は鼻が麻痺しちゃうからね』
《本当に、しかも混ざると頭痛がする》
『僕もだよ、良い匂いは好きだけど、匂いにまみれたいワケじゃないし。本当、スパイス市場を知ってればね、あそこはもう本当に匂いしかしなかったから』
《あぁ、何となく想像は付く、服にまで匂いが染み込みそうだな》
『本当そう、あ、市場に行ったなって分かるからね』
《向こうの香水売り場もそうだな、アレで幾ら香りを嗅いだって碌に選べない、良さ半減だ》
『ラベンダー畑みたいですか』
『そうそう』
《しかも他の強い匂いも混ざる、お、悲壮感顔だな》
『コレ、悲壮感顔ですか』
『だね、困ってる顔と少し悲しそうな感じだね』
『不味い顔と少し違います』
《だな、臭い顔、だな》
『はいはい、眉間に皺は直ぐにお婆ちゃんになっちゃうよ、練り香水用の容器を案内するよ』
『はい、お願いします』
昔は恵まれた子が羨ましかった。
妬んで恨んで、ズルいとさえ思ってた。
けど、無いなりの悩みと同じ。
有り過ぎて困る事だって有る。
『この貝殻も、この大理石で出来たのも』
『全部、練り香水用ですか』
『うん』
選べない悩み。
選ばないといけない悩み。
どっちもどっち、多いか少ないか、有るか無いか。
『変更します、レンズに合うのと私に合うのと、それとスズランぽいのをお願いします』
『はい、承りました』
けど、もし僕の子供なら恵まれて欲しい。
有って選べる道。
誰かを困らせない道。