ある夏の日
いつまでも記憶に焼きついていて忘れられない情景がある。
情景というか、六年生の夏休みのとある一日で、視覚的な景色だけでなく、アスファルトから立ち上ってくる肌を剥ぐような熱気や、茹だった脳味噌をさらに掻き回そうとしてくるセミの声、青々とした匂い、土の匂い、プールの塩素の匂いに女子の匂い……そういう渾然一体となったものが僕の中にずっとあり、何かの拍子に記憶が刺激されるとは呼び起こされて、僕を不思議な気持ちにさせる。僕を遠い夏に誘う。
栂下小学校は夏休みの間プールが開放されていて、お昼から三時半過ぎぐらいまでの時間帯なら自由に遊ぶことができた。保護者が監視員をしており、専用のカードにスタンプを押してもらえたので、僕は毎日欠かさず泳ぎに行ったものだった。
帰りたくなったら帰ればいい。僕はいつも最後まで遊ばず、飽きて疲れたら帰っていた。その日は特に飽きるのが早くて、二時過ぎぐらいにはもう着替えを済ませて学校をあとにしていた。
メインの道路ではなく、田んぼの畦道や狭い路地を歩いて、わざわざ遠回りして帰った。日常的じゃないルートの方が、蒸し暑さも和らぐ気がした。
その日も主要道路を逸れ、勾配の急な坂道を下り、田畑に面する集落の手前を歩いていた。家々は並んでいるが、あんまり人の気配がしない変わった集落だ。浅い溜め池のようなものがあるけれど、水溜まり程度の水しかなく、しかも汚い。何に使うのかわからない。
不意に「哲生」と名前を呼ばれて、真剣に心臓が止まりかけた。僕は大袈裟にビクッと体を震わせたはずだ。
声のした方向を見遣ると、石垣の上に同級生の石原春香が屈んでいて、こちらを見ていた。別に仲良くない相手だった。栂下小学校が、というか、栂下町自体が人口の少ない規模の小さい町なので、僕達にクラス替えという概念はなく、一年生から六年生までずっとおんなじ顔触れで勉強しなくちゃならないんだけど、それにしても僕と春香に接点は皆無だった。呼ぶときは名前。これは栂下小学校の空気感がそう仕向けるからなのかなんなのかはよくわからないけれど、自然と、生徒達はお互いを名前で呼び合っていた。
僕はびっくりさせられてしまったことを悟られたくなくて、普段よりもちょっと気さくに振る舞った。余裕を見せつけたかったのだ。「春香やん。こんなとこで何しとるん?」
「ん? 遊んどる」
とは言っても、別に何かをして遊んでいる様子はなかった。
「プールは行かんだん? こんなとこにおらんとプール入りに行った方がいいんじゃねえ? 気持ちいいぞ」
「今日はちょっと体調が悪いんや」と春香は言った。でも少し微笑んでいて、辛そうではなく、熱があるとかではなさそうだった。
「そうなん? 大丈夫なん?」
「大丈夫や。プールに入れんだけ。ありがと」
ありがとうって……あ、僕が大丈夫?って気を遣ったからか。そんなことにもいちいち頭を働かせないと理解ができないほどに僕はバカで、理解ができたらできたで今度は照れ臭くなってしまった。春香と合わせていた目線を堪らず下へ逃がすと、春香のパンツがちょっと見えていて僕は余計に混乱した。春香は黒いキャミソールに白い薄手のロングスカートを穿いていた。ロングだったが、たくしあげるようにして屈んでいたので、普通に見えた。白いパンツで、栂下小学校の女子は申し合わせたようにパンツが白く、前々から制服の一部みたいだなと思っていた。
僕はあまり仲の良くない、好きでもない同級生のパンツを目撃させられ、気まずく、「春香、いっしょに遊ばん?」と苦し紛れに誘ってしまった。パンツなんか見てないよ?ということをアピールし、かつ、春香を立ち上がらせたかった。立ってくれればパンツは二度と見えなくなる。
「何して?」と訊かれた。
たしかに。「探検?」
「探検?」と春香も疑問系だった。「うちら、もう小六やよ?」
「たまにするくらいやったら楽しいんじゃねえの?」と僕は取り繕うようになんとか言った。「小六になったらあんまり出歩かんやろ?外」
僕の提案を疑問視したわりには「まあね」と春香は素直だった。「行くう?」
「行こうさ」
僕が言うと、ようやく春香は立ち上がり、石垣の上から降りてくる。なぜだかわからないけれど、僕は自然と春香に手を貸し、春香も僕をからかうことなく「ありがと」とまたお礼を言い、その手を取った。
もちろん歩き始めたら手は別々だ。繋がない。繋ぐはずがない。僕は塚畑智沙のことが好きで、春香には微塵も興味がなかった。それを言うなら、どうして春香と探検なんかしようとしているんだろう?って感じだったが、始まってしまったものは止められないし、少なくとも気乗りしないし行きたくないし嫌だなとは思わなかった。誘って後悔はしていなかった。
僕と春香は田んぼのエリアへ行き、畦道を進んだ。僕の家とは逆方向、再び学校方面へと足が向いていた。
僕達が近づくと田んぼの水面に波紋を立てる生き物がいて、春香は「カエルや」と言った。「トノサマガエルやね」
「よく知っとるなあ」
僕が感心すると「なんでやって」と笑われた。「昔はよく捕まえたやろ? 私も生まれてからずっとここで暮らしとるんや。哲生とおんなじようにな。やからわかるよ、トノサマガエルくらい」
「それもそうやな」
僕は納得しながらも、何か今までに感じたことのない心持ちになった。春香がそんなふうに喋るだなんて、そういう言い回しをするだなんて、なんとも驚きだった。普段は仲のいい女子とキャアキャアよくわからない話をしていてうるさいだけなのに。
「トノサマガエルのオタマジャクシって見たことあるう?」と僕は訊いてみた。
「ない。っていうか、オタマジャクシは区別つかんわ。哲生はオタマジャクシも見分けつくん?」
「つかんよ。いや、春香は見たことあるんかなあって思っただけ。だって、オタマジャクシって捕まえてきて育てても、絶対トノサマガエルにならんやん?」
「ほやね。緑色のカエルになるな。アマガエル?」
「口元が黒っぽくないのはアオガエルや」
「あー……ほしたら私が捕まえとったのはアオガエルのオタマジャクシばっかりやったんやな」
「アオガエルの卵の方が見つけやすいしな」
って何を熱心にカエルの話なんてしているんだろうとアホらしく思ったが、久しぶりにそういう、小学校低学年がしそうな蘊蓄を語っていると懐かしくも楽しい気分だった。春香も笑っていて、つまらなそうではなかった。
畦道を抜けると主要道路に繋がり、ここをまっすぐ行くとまた小学校へ戻ってしまうし、同級生に見られても面白くないので方向を変えた。山側へと歩き、僕と春香は神社の鳥居をくぐった。町の小さな神社だ。
セミの声が霰のようにけたたましく降り注いできて、霰のようだったけど涼しさはなく、暑さが体に染み渡った。僕達の接近を察知したセミはトノサマガエルと同じく逃げようと飛び立つが、セミの場合はおしっこをかけてくるから脅威だった。春香ももちろんわかっていて「嫌あ」と体を仰け反らせると僕にぶつかり、「あ、ごめん」と笑った。
僕は内心照れたが「いいよ」と平静を装って言った。
すると春香が笑顔のまま、そのまま「ふふ」と声を出して笑った。
「なんや?」
「なんもないよ」
「ふうん? ほうか」
僕が追及をやめると、春香はまた「ふふっ」と笑い、「哲生、学校と雰囲気違うね!」と言った。
「はあ? んなことねえよ。俺はいつでも変わらんん」と返しつつ、また驚かされてしまった。僕が春香に感じていたことを、春香も僕に感じていたなんて。普段となんか違う。だけど僕は自分自身、学校で遊んでいるときと雰囲気が違うだなんてあんまり自覚がなかった。
「いいんじゃないい?」と春香。
「何が」
「雰囲気が違ったって、いいんじゃない?」
「違わんし」
「そか?」
町の神社の境内には建物がひとつしかないので、お参りをするならここだ。せっかく来たわけだから、鐘を鳴らして手を合わせておいた。特にお願い事は何もしなかった。ただ、手を合わせ終えて隣の春香を一瞥すると、まだ何か祈っているのはいいんだけど、よくよく見ると僕より背が高くて、僕は急に恥ずかしくなった。六年生になって身長を急激に伸ばしてくる女子がけっこうたくさんいて憂鬱だ。春香もその一人だったようだ。
「帰るう?」と僕は春香に確認をした。
「家に?」と春香。
「うん」と僕。
「いいよ」
「よっしゃ。行こう」帰るつもりだったのに、神社を出て道路まで来ると、僕はなんだかもったいなくなって「こっち歩かん?」と別ルートを指差した。もったいない? 春香と遊ぶのをやめるのが? いや、というより、今のこの気分をここで断ってしまうのが。なんだか僕は、なんともいえない高まった気分だったのだ。
春香も「いいよ」と言ってくれたので、ルート変更をおこなった。
「なんでも『いいよ』やな」と僕は春香の揚げ足を取る。帰るのも『いい』し、別の道へ行くのも『いい』し。
「探検のリーダーは哲生やから」と春香は澄まし顔をした。「リーダーの言うことは聞くよ」
「ふうん。ほしたら春香の好きな人教えて」
「なんでやって。探検と関係ないやろ」
「言うこと聞くんやろ?」
「探検のことならな」
「探検と関係あるし、好きな人教えれま」僕は春香の好きな人なんて知りたかったんだろうか? 謎だ。なんとなく。流れだ。
「嫌や」と春香も譲らなかった。「言い触らすやん、哲生」
「言い触らさんて」と言いながら、春香のその言い方だと、つまり春香の好きな人は僕じゃないんだなってことがはっきりわかった。悲しくないし、それを探りたかったわけでもなかったが、わかった。
「今の哲生やったら言い触らさんと思うけど、学校始まったら言い触らすやろうし嫌や」
「なんじゃそりゃ」
「哲生は好きな人おるん?」
「……おらんわ」嘘つき。
「私じゃないのはわかるわ。……智沙か小織やろ?」
「はああ?」バレてた。「勝手に決めるなや。おらんて言うとるやろ」
「いつもそっち見とるし」
「見とらん」
「見とるやん」
「見とらんわ」僕は追い詰められっぱなしなので嫌になり、「ほら、こっち行くぞ」と話を終わりにさせた。
「ふっ」と春香は勝ち誇ったように笑い、それから探検のことには従順で「いいよ」と素直について来た。
田畑に面する集落に限らず、夏の昼間の栂下町はどこも閑散としていて、しすぎていて、なんだか空気が籠っているようで息苦しい。
「暑いな」と僕はなんとなくつぶやいた。
「ここ、不気味やね」と春香が訴えた。
「そうけ?」
「なんか、静かで……変な人とか出てきそう」
「変質者ってことお?」
「いや、なんか、家の中から変な人出てきそうじゃない?」
「なんや?それ。まあ、ここってあんまり知っとる家ないしな。友達んちもないし、子供おる家もあんまないんじゃないけ? 不安になるのはなんとなくわかるわ」
「……戻らん?」
「いいよ」と今度は僕が『いいよ』と言った。「走って戻る?」
「走らんといて」
「わかったわかった」
僕と春香はゆっくり歩いてUターンした。春香に少しだけ先を歩かせ、僕が少しだけ後ろになるよう歩みを調整したけど、春香はそんなの気付かなかっただろう。
神社の前まで戻ってくる頃には僕も春香も汗だくになっていた。走ったわけでも、早歩きをしたわけでもないのに、春香は「はあ、はあ……」と耳で聞こえるくらいの大きな呼吸をしていた。
「飲み物買うか」と僕はプール道具を入れている袋から小銭を取り出した。何かのときのためにと母親が入れてくれた小銭だ。
「うん、どうぞ」と春香。
「アホか。春香の分やぞ」
「私は……いらんよ」
「のど渇いたやろ?」
「いらんいらん。もったいないし、買わんといて」
「ダメや。熱中症になるさけ」神社の近くに自販機があり、そこで僕はスポーツドリンクを一本買った。「はい、春香」
「あーあ」
「あーあじゃないわ。飲んで」
「家、すぐそこなのに」
「家帰る前に倒れるかもしれんやろ?」
「倒れんて」春香は目を細めて、あきらめたふうに言った。「倒れんのに……」
「倒れられたら困るさけ。はい、飲んで」
「はーい」春香は苦笑しながら受け取り、やはり喉が渇いていたんだろう、一気にたくさん飲んだ。「ありがとう」
「俺のお金じゃないさけ」
「今度返すわ」
「いらん。絶対にいらんしな?」
「そう言った以上、絶対に受け取らんな?哲生は」
「そうや。絶対に受け取らん」
「ふふ。じゃあ、わかった」
それから僕は春香を送って、田んぼの集落へ舞い戻った。石原家の住所も初めて知った。こんなところに春香の家はあったのか。
僕は今さら訊いた。「体調、大丈夫やった?」
「平気や」春香の頬は暑さで真っ赤だ。「楽しかったわ」
「うん」
「また学校でね」
「……プール来んの?」
「プールは行かんかも」
「ラジオ体操は?」
「ラジオ体操は、行く」
「うん。まあ、ほしたら」
「ん。バイバイ。ありがとう」
「ううん、じゃ」
「じゃあ。ありがとね」
「ううん」
「哲生、気をつけて帰ってね!」
「うん。お大事になあ」
で、僕と春香は別れて、翌日、ラジオ体操で顔を合わせても別に話さず、かといって新学期に教室で再会しても変わらず話さなかった。あの日の探検が何かに影響することなど一切なく、僕の友人関係や春香の友人関係はそのままで、それだけでなく、あらゆる事柄が夏休み前とおんなじだった。僕は気にしなかったし、春香も気にしなかったんだろう。僕と春香のあの一日は、ないも同然だった。
が、僕の中でだけ、思い出として、ずっと僕の記憶を揺さぶり続けていたのだ。もっと春香と遊びたかったとか、春香はなんであの日の話をしないんだろう?とか、そんなんじゃない。ただただ、あの日のことが……春香と歩いた道が、春香と話した内容が、春香と見たもの聞いたもの感じたものが、ときどき僕の意識の表層に浮かんでくるのだった。そうして僕は、そんなことがあったなあと思うのだった。
小学校を卒業してしまうと町内を出歩く頻度は激減するが、母親の運転する車に乗っていたりして、春香とぶらぶら歩いていた場所を遠くに目にするたび思い出す。夏が来るたび、カエルを見るたび、町の神社へ初詣に行くたび、スポーツドリンクを飲むたび……春香とのことを思い出した。春香という名前から、普通は当然『春』を連想するだろうけれど、僕は『夏』を思う。なんなら、『春』という言葉からすら、僕はあの夏の一日を想起する。
もともと僕と春香は少しも仲良くなんてなく、一切の言葉を交わさないことこそが平常だったのだ。中学校に上がっても僕と春香の間柄に変化はなく、そのまま別々の高校へ行き、僕は高三の夏休みを過ごしている。夏休みとはいっても高三の夏休みは休みなんかでは全然なく、受験勉強の重大な補強期間だ。授業がなくて先生がいないから、自主的に励まないといけない分、余計にしんどい。
閉塞感が高まってきたので、昼過ぎに、僕は勉強を中断して町を散歩する。潰れたスーパーの誰もいない駐車場に、自動車学校の送迎バスがやって来て停まる。栂下町の少子化は著しく、誰も乗り降りしないのかと思いきや、一人だけ降車してきて、それが春香だった。春香と並んで歩き、歩きながら面白いのか面白くないのかよくわからない会話をしてから六年が経っていたけれど、彼女が春香だとはっきりわかった。春香は春香で、そうそう見違えるものでもない。輪郭というか、雰囲気はずっと同じだ。ティーシャツにジャージズボン。
送迎バスが行ってしまい、それをなんとなく立ち止まって見送っていたらしい春香と目が合う。「あ」と春香が目を丸める。
僕も「あ」と言わされる。「あ、は……い、石原さん、元気?」
「『石原さん』やって」と笑われる。「私も桶谷くんって呼んだ方がいいんけ?」
「いや、なんでもいいんやけど……」
「元気やよ。哲生は?」
「ああ……俺は元気じゃねえ」ホントに。「受験勉強、辛いわ」
「おお、大学行くんか? 高校はどこ行ったんけ?」
「桃岡や」進学校。
「ほしたら大学行かないかんね」
「工業高校行けばよかったわ」
「ふふ。大学も楽しいよ、きっと」
「あの……は、春香は?」
「ん? 『石原さん』でいいよ」春香はニヤニヤする。
「うるせ。なんでもいいやん」
「はいはい。私は短大行くよ」
「……ほんで今は自動車学校か」
「うん。時間あるし免許取っとこうと思って」
「ほうか。頑張れ」
「うん。哲生は何しとるん?こんなところで。私に会いに来たわけじゃないんやろ?」
「アホか。勉強に疲れたし散歩しとったんや」
「へえ。メッチャ勉強しとる人みたいやん」
「メッチャしとるわ」散歩している間くらいは勉強に対して記憶喪失になりたいほどだ。「今から家帰るんやろ?」
「え? うん、帰るよ」
「ほしたら送ってくわ」
「えー? いいよ別に」
「気分転換じゃ。春香を送ったら俺も家帰って勉強するわ」
「ふうん。ほんならわかったよ。行こ」
「おう」
「懐かしいね」と春香が口ずさむ。「夏休み、いっしょに遊んだときのこと思い出すね」
「えっ」僕は立ち止まる。「覚えとるん?」
「覚えとるわ」と怪訝そうに見られる。「あんなん忘れんくない? 普通覚えとるやろ」
「まあ普通はな……」心臓がなんだか速く動く。僕の頭の中を、またあの日のことが巡りだす。「春香は全然その話しせんさけ、すぐに忘れてもうたんかと思っとった」
「別に哲生だって一回もしとらんくない?あのときの話」
「まあ……」
「私、哲生と友達になったんかな?って思っとったんや、あのとき」
「…………」
「でも、そういう感じじゃなさそうやったし、まあ、あの日一日だけのことやったんやなって思いなおしたんやけど……」
「……ごめん?」
「ごめんじゃないよ」と春香は笑う。「別にいいんや、それならそれで。私が勝手に思っただけやし」
「……俺は、ずっとずっとずーっと、あの日のことを思い出すんやって。何かにつけては」
いろんな物やいろんなこと、いろんな動作が僕をあの夏に連れていこうとするのだ。
春香はぽかんとしてから「ずーっとか」とまた笑う。「楽しかったってこと? 楽しかったって思ってくれとるってこと?」
「わからん」としか僕は言えない。「なんやろう。あのときの感情っていうより、見た景色とか感じた暑さとか、うるさかったセミとか、そういうのを思い出すんや。春香の横顔とか背中とか、声とかもな」
「え~~……私、哲生の特別な女じゃない?」
「なんじゃそりゃ。……でも、かもな」
特別だろうな。そんなの、普通に遊んだ記憶だったら、そこまで鮮明に何度も浮かび上がってきたりしない。あのとき、春香と、ああいうふうに遊んだからこそ、僕はずっと覚えているんだと思う。
春香が訊いてくる。「哲生、あのとき私のこと好きやった?」
「え、ううん」僕は首を振る。「智沙が好きやった」
「やっぱりな」と春香は得意気だ。「私は、あのとき哲生のこと好きやったよ。違うわ。あの探検をしとる間に、哲生のこと好きになったんや。すぐにフラれたけど」
「フっとらんやん」と返しながら僕はドッキリしてしまう。そういう可能性については何も考えていなかった。僕は春香を狙っていたわけじゃなかったから、春香の恋愛感情に関しては気にも留めなかった。
「歩こう」と春香に言われ、僕達は立ち話をしてしまっていたんだと気付かされる。
僕は石原家の方角へ向けて足を進める。「春香」
「ん?」
「付き合わん?」
「っふ、あははは!」と爆笑される。「絶対好きじゃないやろ?私のことなんて。そんな話ししたからって急に思いついたみたいにして……。私だって、小六んときやよ?哲生が好きやったの。しかも一瞬だけ」
僕もいっしょに笑うが、別に可笑しくもなんともなく、ただ形式的に笑っているだけだ。「……でも、冗談抜きで春香は特別な人や。ずっと覚えとって、忘れられんかった」
「私じゃなくって、私と遊んだことが……やろ? 忘れれんのは」
「…………」そうだ。正確にはそう。
「あのとき哲生が好きって言ってくれたら、私メッチャ嬉しかったんやけどな」
「あのときは……」
「哲生、ガキやったもんな」
「……それは春香もやが」
僕が言葉を切ると、春香もしばらく黙り、お互い無言のまま歩く。五十メートルほど進んでから、「今は受験勉強を頑張りねや」と言われる。「私、哲生の勉強の邪魔したくないし」
「邪魔になんてならんよ」
「受験終わったら友達になろう」
「友達かいや……」
じゃあ今の僕達の関係はなんなんだよ?と思うが、たしかに今は友達ですらない。久しぶりに会って、昔の面影みたいなものにブーストされて勢いで喋っているだけなのだ。
「大学行っても、連休とかには帰ってくるんやろ? ほしたらまた探検しようよ」
「探検って、俺らもう大人……」
春香はふんわり微笑む。「探検したくないならせんでもいいよ。会って話ししようか」
「うん。したい」
「いいよ」
坂道を下り、田畑に面する集落へと入る。春香を送ったら僕はまた地獄の受験勉強に戻らなくちゃいけなくて、それがものすごく嫌で春香の手を握って歩みを止めたくなるけれど、何も始まらないのだ、受験が終わらないことには。
砂のようにさらさらと、僕の体から何かが剥がれ落ちていくのを感じる。僕の中で春香はずっと小六だったが、春香も春香で当たり前に年齢を重ねていて、僕も認識を更新しなくちゃいけないのだ。そしてできることなら、これから先、僕の思い出にいろんな春香がいてくれるようになるといい。
毎度毎度、浮かんでくるのがずっとおんなじ情景っていうのも、なかなか辛いものがあるのだ。